第6回 会津発見塾 会津街道~阿賀町探訪~ - 2014.11.14 Fri
思えば今年も4月から、昨年、一昨年と同様、山都公民館事業「会津発見塾」の講師を担当させていただいたのですが、G.T.イベントを優先して、一度も発見塾の報告をアップしていませんでした。
そのうち4月まで遡って書こうかなと思いますが、まずは直近、昨日の今年度最終回の模様を。
今回は「会津街道~阿賀町探訪~」というタイトルで行いました。
実は山都G.T.の越後街道探索ウォークシリーズで西会津や阿賀町の方々にご協力いただいた際、1回限りじゃもったいないな、特に山都の人たちにも体感してもらいたいな、と思ったので、当初イメージしていた内容を変更して、もう一度阿賀町の方々にご協力をいただいて、いいとこどりしようと企画したのでした。
今回の発見塾のメンバーはみなさんご高齢で、足が不自由な方もいらっしゃるので、ポイントを絞って車で移動する行程。
それぞれの詳しい解説は重複するので、7月に行った越後街道ウォークその2の2日目の模様をご覧ください→こちらをクリック

県境、鳥井の駐車場からスタート。
今回も阿賀町観光ガイドの渡部氏、川上氏という強力な助っ人に解説をお願いしました。


続いて福取の一里塚へ。


福取集落、明治初期に三方道路開削の際に道を平らにするためのローラーに使用した石と伝わる通称「ゴロ石」。

そして八木山集落へ。
かつての旅籠、「三条屋」。


すぐとなりの「本陣」、渡部家では、渡部一郎氏が、いろりに火を入れて我々を待っていてくださました。


そして越後街道ウォークのときと同様、渡部節炸裂!(笑)

ほんと話題は尽きず、半日くらいずっとお話をうかがっていたいのですが。。。。そうもいかず、次の目的地へ。

平堀の地蔵尊に行く前に、高齢者ふれあい会館で昼食。

昼食後、平堀地蔵尊へ。
南北朝時代以前の作といわれる、新潟県指定重要文化財の3体の仏像を拝観。


地蔵菩薩像(延命地蔵様)。

閻魔天倚像(ジジ)。

倶生神坐像(バサ)。

その後、津川市街の新善光寺へ。

今回は、30年以上、観音堂を守り続けてくださっている寺久保氏からじきじきに貴重なお話をうかがいました。

福海観音菩薩像。


阿賀町観光ガイドの佐藤氏からもこの新善光寺がどれだけ権威があるか、様々な興味深いお話をしていただきました。

佐藤氏のお話の中には、越後街道ウォークのときには聞けなかった白虎隊士藤森八太郎の臨終のエピソードなどもありました。

そしてここから、阿賀町観光ガイドの会長、犬飼氏にご登場いただき、ユーモアたっぷりのお話を。

ちょっと風は強かったのですが、たまたま雨はあがり、明治時代以降の津川新港にてお話をうかがいました。


最後は諏訪峠入口、石畳の前で渡部氏からレクチャーを。

一応、私、「講師」という立場でしたが、実際はほとんど阿賀町観光ガイドさんに丸投げで(笑)、「コーディネーター」に徹しさせていただきました。
ほんと阿賀町の方々は知識が深く、話題も豊富で、話も面白くて、素晴らしいです。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。

帰りはあがの温泉まんじゅう、そして阿賀町の地酒屋に寄り、参加者みなさん、いっぱいお土産購入されていました。


これで今年度の会津発見塾も終了。
肩の荷が降り、ほっとしております。
会津の人と、越後の人の交流する機会はこれからもなんらかの形で設けていきたいと思う次第です。
そのうち4月まで遡って書こうかなと思いますが、まずは直近、昨日の今年度最終回の模様を。
今回は「会津街道~阿賀町探訪~」というタイトルで行いました。
実は山都G.T.の越後街道探索ウォークシリーズで西会津や阿賀町の方々にご協力いただいた際、1回限りじゃもったいないな、特に山都の人たちにも体感してもらいたいな、と思ったので、当初イメージしていた内容を変更して、もう一度阿賀町の方々にご協力をいただいて、いいとこどりしようと企画したのでした。
今回の発見塾のメンバーはみなさんご高齢で、足が不自由な方もいらっしゃるので、ポイントを絞って車で移動する行程。
それぞれの詳しい解説は重複するので、7月に行った越後街道ウォークその2の2日目の模様をご覧ください→こちらをクリック

県境、鳥井の駐車場からスタート。
今回も阿賀町観光ガイドの渡部氏、川上氏という強力な助っ人に解説をお願いしました。


続いて福取の一里塚へ。


福取集落、明治初期に三方道路開削の際に道を平らにするためのローラーに使用した石と伝わる通称「ゴロ石」。

そして八木山集落へ。
かつての旅籠、「三条屋」。


すぐとなりの「本陣」、渡部家では、渡部一郎氏が、いろりに火を入れて我々を待っていてくださました。


そして越後街道ウォークのときと同様、渡部節炸裂!(笑)

ほんと話題は尽きず、半日くらいずっとお話をうかがっていたいのですが。。。。そうもいかず、次の目的地へ。

平堀の地蔵尊に行く前に、高齢者ふれあい会館で昼食。

昼食後、平堀地蔵尊へ。
南北朝時代以前の作といわれる、新潟県指定重要文化財の3体の仏像を拝観。


地蔵菩薩像(延命地蔵様)。

閻魔天倚像(ジジ)。

倶生神坐像(バサ)。

その後、津川市街の新善光寺へ。

今回は、30年以上、観音堂を守り続けてくださっている寺久保氏からじきじきに貴重なお話をうかがいました。

福海観音菩薩像。


阿賀町観光ガイドの佐藤氏からもこの新善光寺がどれだけ権威があるか、様々な興味深いお話をしていただきました。

佐藤氏のお話の中には、越後街道ウォークのときには聞けなかった白虎隊士藤森八太郎の臨終のエピソードなどもありました。

そしてここから、阿賀町観光ガイドの会長、犬飼氏にご登場いただき、ユーモアたっぷりのお話を。

ちょっと風は強かったのですが、たまたま雨はあがり、明治時代以降の津川新港にてお話をうかがいました。


最後は諏訪峠入口、石畳の前で渡部氏からレクチャーを。

一応、私、「講師」という立場でしたが、実際はほとんど阿賀町観光ガイドさんに丸投げで(笑)、「コーディネーター」に徹しさせていただきました。
ほんと阿賀町の方々は知識が深く、話題も豊富で、話も面白くて、素晴らしいです。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。

帰りはあがの温泉まんじゅう、そして阿賀町の地酒屋に寄り、参加者みなさん、いっぱいお土産購入されていました。


これで今年度の会津発見塾も終了。
肩の荷が降り、ほっとしております。
会津の人と、越後の人の交流する機会はこれからもなんらかの形で設けていきたいと思う次第です。
第6回会津発見塾 ふくしまの近代化産業遺産を訪ねて - 2013.11.20 Wed
先週14日にとうとう今年の最終回を迎えた会津発見塾。
また私が講師を担当することになったので、今回は「近代化産業遺産」に注目して企画してみました。
近代化産業遺産とは、幕末から昭和初期にかけて地域の産業近代化や技術発展に貢献した工場や炭鉱などの施設を経済産業省が認定したものです。
現在全国で66件の遺産群、1115件の個々の遺産が認定されています。
喜多方市では一の戸橋梁、山都駅油庫、旧国鉄日中線熱塩駅、三津谷の登り窯などが認定されています。
国宝や重要文化財と違いなまじメチャクチャ古いわけではないので逆に「ちょい古」の時代遅れのものとして破棄されやすく、それを保存するのは重要で、最近はそれを巡るツアー「ヘリテージツーリズム」など新たな地域観光資源としても注目を集めています。
今回は郡山・猪苗代方面の国道49号沿い
・安積疏水
・沼尻鉱山・沼尻軽便鉄道
・猪苗代発電所
の、3つのゆかりの地を訪ねることにしました。
まずは安積疏水。
滋賀・京都の琵琶湖疏水、栃木の那須疏水と並んで「日本三大疏水」と称される「安積疏水(あさかそすい)」は、米作りのために猪苗代湖の水を郡山を中心とする安積地方へ引くため、1879年から3年という短期間で開通した水路です。
県の役人だった中条政恒という人が、当時700軒ぐらいしか家がない小さな宿場町だった郡山を生糸の特産地にしようと、開拓して桑の木を植える事業を始めたのが安積疎水事業につながる第一歩となりました。
中条政恒
中条の呼び掛けに応え、地元の商人たちが結成したのが「開成社」で、この後の安積開拓の中心を成していく「福島県開拓掛」の事務所が置かれた「開成館」は今も残っていて資料館として公開しているので、まずはそこを見学しました。

この開成館の建物は明治7年建築、当時地方には洋風の建築法が伝わっておらず、地元の大工が苦労の末建てた擬洋風建築の建物で、県の重要文化財に指定されています。
そして2009年に近代化産業遺産に認定。



ちゃんとした記録が残っているわけではありませんが、筆跡鑑定の結果?この表札の字はあの木戸孝充の書という説があるそうです。

この石は建設当初のオリジナルかな、と思ったり。

これが完成から2年後、明治9年当時の写真。正面奥が開成館、写真右端の安積開拓官舎も現存しています。


オリジナルに執着心のある私は、この手すりもそうかな、と思ったり。

疏水建設当初、送水に使われた管も展示されていました。なんと木製。
太い木の中をくりぬいてつくったものです。すごい。

安積疏水と猪苗代湖の位置関係がわかる航空写真。写真上、奥の湖が猪苗代湖、写真手前下が郡山。
猪苗代湖は日本で4番目に大きい湖。108㎢、貯水量38億6000万トン。
猪苗代湖と郡山の標高差264m。
水量豊富、落差で送水しやすい。これに着目した人、すごい!って話ですね(笑)。

そして、明治9年(1876年)明治天皇の東北行幸の下調べのため郡山へやってきたあの大久保利通に、開成社の人々はこれまでやってきた開拓の実績をもって「もっと開拓を大きなものにするため、猪苗代湖の水を郡山へ引く水路をつくりたい」と相談。
大久保も、「全国の職を失った侍たちに仕事を与えられ、日本の農業も安定するに違いない」と、この計画にGOサインを出したのでした。
大久保利通
そして政府の役人である奈良原繁という人が中心となり、猪苗代湖の水量の変化を調べたり、安積平野の土地の高低などを測量したり、念入りに計画をたてました。
全体設計は南一郎平、詳細設計は山田寅吉などの日本人技術者達が担当しました。

当時の高低差を記した図面。
また、奈良原らによる設計図がほぼ出来上がっても、それが正しいかどうか自信が持てないでいるなか、一人のオランダ人技師が郡山にやってきました。
名前はファン・ドールン。
明治政府に頼まれ利根川堤防、淀川改修、大阪港などの工事を手掛けた一流の技術者でした。
ファン・ドールンはたった6日の滞在の間、精力的に現場を調査し、奈良原らの設計図が正しいことを多くの意見で証明したそうです。
ドールンの銅像は戊辰の役の攻防で有名な十六橋の近くにあります。このドールンの銅像には興味深いエピソードがあるのですが、それはまたの機会に~。

奈良原繁 ファンドールン

そしてここ開成館は明治天皇の2度の東北巡幸の際に、明治9年には「宿泊所」として、明治14年には「昼食会場」として使用されました。
実際にお泊りになった開成館3階には「明治天皇行幸記録」をもとに当時の行在所の玉座部分の様子が再現されています。


開成館敷地内には、安積開拓入植者住宅が2棟移築されていますが、そのほか安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)は上の明治9年当時の写真にあるように、開成館と同じく建設当時からそのままの位置に現存しています。

「官舎」の名の通り、職員用の家で、明治12年には視察に訪れたあの伊藤博文も泊まった記録が残っています。


釘隠しは当時のものかな? 形も変わっていて興味深くみました。
安積疏水の設計図の完成を待っていた明治政府が、明治12年10月に工事開始を認め、工事がはじまりました。
様々な苦労を乗り越え、明治15年8月、わずか3年間で幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所、受益面積が約3千ヘクタールという安積疏水が完成しました。
工事に従事した人数は延べ85万人、総経費は40万7千円(現在の貨幣価値に換算すると約400億円)でした。
明治はじめにはほとんど原野で、700軒、2000人ほどの小さな宿場町でしかなかった郡山が、この安積疏水のおかげで今では38万8000人の福島県下一の大都市へ発展しています。
その陰には様々な人の苦労と頑張りがあったんですよね。
郡山というとみなさん開成山公園は知っていますが、実は今回の参加者のほとんどはそのとなりにあるこの開成館の存在を知りませんでした。
ここへ来れば安積疏水のことがとてもよくわかるので、ぜひおすすめしたいスポットです。
アクセス等、開成館の詳細は→こちらをクリック
そして、開成館をあとにし、一路猪苗代へ。途中、磐梯熱海で昼食タイム。

歴史のあるとんかつやさん「うえの」。

いつもなら300gある「特製とんかつ定食」を食べるのですが(ジャンボとんかつはなんと400g!)、この日は年配の方も多いので、事前に量もそこそこでリーズナブルな「とんかつ弁当」をチョイス。
20年ぶりにきたとおっしゃってる参加者もいました。
とんかつうえの
福島県郡山市熱海町熱海5丁目124
024-984-3303
そして猪苗代へ。
沼尻鉱山、軽便鉄道の勉強です。

解説案内をお願いした「沼尻鉱山と軽便鉄道を語り継ぐ会」事務局長の安部なかさん。
実は以前、個人的に猪苗代の郷土史本を探していたときにお世話になった関係で、今回お願いしました。
地元出身で軽便とともに育ち、沼尻鉱山と軽便鉄道を後世に語り継ぐことに心血を注いでいる、とても郷土愛にあふれた方です。
実は沼尻軽便資料展示室は震災前までは会津下館駅があった場所に設けられた「村の停車場」2階にあったのですが、震災で建物がダメージを受けたため、今は緑の村・淡水魚館の中に移動して展示されています。

沼尻鉱山は猪苗代町の安達太良山の西斜面標高1000m以上のところにありました。
付近は会津領と二本松領の境界があり、その一帯にある硫黄の採掘権、湯脈権をめぐって紛争が絶えなかったそうです。
また、硫黄は、近代日本の重要な輸出産品でした。
「黄色いダイヤ」とも呼ばれた硫黄は、医薬品やマッチ、セロファンなど貴重な原料として高値で取引されました。明治に入って民間資本が投入されてから活気づき、一時は2000人以上の鉱夫が働いていて、最盛期には年間17000トンもの採掘量があったそうです。
しかし戦後は石油の副産物として硫黄が安く生産できるようになって価格が急落し、昭和43年に閉山となりました。

館内には鉱山の資料がいっぱいで、鉱山の当時の状況、厳しさ、悲しいエピソードなど貴重な話の数々を安部さんは涙ながらに我々に語ってくれました。
そして私が一番楽しみにしていたコーナーへ。

当時の資料や写真、記憶などをもとに、沼尻軽便鉄道の全ての駅の雰囲気を忠実に再現したNゲージ模型。

沼尻軽便鉄道は、沼尻鉱山で採れた硫黄を運ぶために、大正2(1913)年から磐越西線(当時は岩越鉄道)の川桁駅までの約16㎞の区間で運行されていました。
また、硫黄の運搬だけでなく、旅客営業も行っていて住民や温泉客を運んでいたので、「マッチ箱」「豆汽車」とも呼ばれ住民に親しまれていました。
しかし沼尻軽便鉄道も、沼尻鉱山と同じ昭和43年にその56年の歴史に幕が降ろされました。
私の生まれたときにはすでになかったんですね。。。

ここのすごいところは、ガラスケースとかで覆われていなくて、ほんとにすぐ近くまで顔を近づけて観れるんです。
そして、子供の目線でもみれるよう、高さを低くしてあります。
触れるということは壊されちゃうんじゃないかという心配ありますが、逆に今までいたづらされたり壊されたことはないそうです。





私は特に鉄道マニアではないですが、その昔、小学生にあがる前くらいの時、東京・秋葉原にある交通博物館で、閉館時間になってもNゲージ模型の前から離れず親を困らせたことがあるとか(苦笑)。
いやー、大好きですね、こういうの。
時間あれば1日でも見てられるかもしれません(笑)。

いよいよあと4話を残す限りとなった大河ドラマ八重の桜。
毎月違うオープニングで楽しませてもらってきましたが、ずっと変わらず放映されている最後の部分、磐梯山を背景に子供たちが和傘を開いていくシーンが撮影されたのが、近くの町営磐梯山牧場。
そのロケ撮影を記念して寄贈されたドラマ出演者のメッセージを添えた記念パネルが展示されています。


中央に「Smile」綾瀬さんの直筆サイン。

緑の村、外には以前からずっと展示されている沼尻軽便鉄道の車両。
今回の参加者の中には、小さいころこの沼尻軽便鉄道、それもトロッコに乗った記憶がしっかり残っている方がいました。
そして、この日のラスト、猪苗代発電所へ。

まず猪苗代第二発電所。

第二発電所の建物は猪苗代の発電所群の中で最も古く、大正7年(1918)に完成した当時の姿のまま残っています。
鉄骨レンガ造りの建屋の設計はあの東京駅や日本銀行本店と同じ辰野金吾の監修によるものです。
本来ならこの第二発電所の内部も見学させていただくはずでしたが、震災後、耐震性の問題で内部見学は中止となっているので、今回は近くにある第一発電所の方を見学しました。


こちらが猪苗代第一発電所。
「第一」とつくだけあって、第二発電所よりも4年ほど前、大正3年(1914)に完成した発電所。当時東洋一、世界でも3位の発電、送電設備を有していました(37,500 kW)。
第二と違い、この第一発電所の建物はその後改修され、新しいものとなっています。

猪苗代発電所郡は東電の管轄。
東電の方々から現在の発電概要、世界のダムの話などのレクチャーがありました。
私ももちろん東電に対しては複雑で割り切れない感情をいまだ持っていますが、この日冒頭に担当者から丁重なお詫びのご挨拶があったこと、4名もの方にきていただき丁寧な施設案内をしていただいたこと、これだけは書き添えておきます。

現在はこの猪苗代第一発電所は普段は無人で、若松の事務所ですべて遠隔管理しているとのこと。
ここでつくられた電気は那須の方で使われているそうです。

内部の見学へ。

作業の人が映っているので大きさがわかりますね。



第一発電所建設当時のレンガが一部だけ残されていました。
このレンガは東京駅と同時期に同じ埼玉県深谷市で製造されたものだそうです。

建設当時東洋一だった発電量はアメリカ製の送電線により225㎞離れた東京・田端変電所に送られ、王子電車などを動かしました。
これが日本で最初に成功した高電圧による長距離送電ということで、送電発祥の地の記念碑が敷地内にありました。

ちょっと駆け足で回った1日でしたが、普段は入れない発電所、存在があまり知られていない開成館や沼尻軽便資料館などを見学できて有意義でした。
会津発見塾。。。来年は???まだ全然未定です(笑)。
また私が講師を担当することになったので、今回は「近代化産業遺産」に注目して企画してみました。
近代化産業遺産とは、幕末から昭和初期にかけて地域の産業近代化や技術発展に貢献した工場や炭鉱などの施設を経済産業省が認定したものです。
現在全国で66件の遺産群、1115件の個々の遺産が認定されています。
喜多方市では一の戸橋梁、山都駅油庫、旧国鉄日中線熱塩駅、三津谷の登り窯などが認定されています。
国宝や重要文化財と違いなまじメチャクチャ古いわけではないので逆に「ちょい古」の時代遅れのものとして破棄されやすく、それを保存するのは重要で、最近はそれを巡るツアー「ヘリテージツーリズム」など新たな地域観光資源としても注目を集めています。
今回は郡山・猪苗代方面の国道49号沿い
・安積疏水
・沼尻鉱山・沼尻軽便鉄道
・猪苗代発電所
の、3つのゆかりの地を訪ねることにしました。
まずは安積疏水。
滋賀・京都の琵琶湖疏水、栃木の那須疏水と並んで「日本三大疏水」と称される「安積疏水(あさかそすい)」は、米作りのために猪苗代湖の水を郡山を中心とする安積地方へ引くため、1879年から3年という短期間で開通した水路です。
県の役人だった中条政恒という人が、当時700軒ぐらいしか家がない小さな宿場町だった郡山を生糸の特産地にしようと、開拓して桑の木を植える事業を始めたのが安積疎水事業につながる第一歩となりました。

中条の呼び掛けに応え、地元の商人たちが結成したのが「開成社」で、この後の安積開拓の中心を成していく「福島県開拓掛」の事務所が置かれた「開成館」は今も残っていて資料館として公開しているので、まずはそこを見学しました。

この開成館の建物は明治7年建築、当時地方には洋風の建築法が伝わっておらず、地元の大工が苦労の末建てた擬洋風建築の建物で、県の重要文化財に指定されています。
そして2009年に近代化産業遺産に認定。



ちゃんとした記録が残っているわけではありませんが、筆跡鑑定の結果?この表札の字はあの木戸孝充の書という説があるそうです。

この石は建設当初のオリジナルかな、と思ったり。

これが完成から2年後、明治9年当時の写真。正面奥が開成館、写真右端の安積開拓官舎も現存しています。


オリジナルに執着心のある私は、この手すりもそうかな、と思ったり。

疏水建設当初、送水に使われた管も展示されていました。なんと木製。
太い木の中をくりぬいてつくったものです。すごい。

安積疏水と猪苗代湖の位置関係がわかる航空写真。写真上、奥の湖が猪苗代湖、写真手前下が郡山。
猪苗代湖は日本で4番目に大きい湖。108㎢、貯水量38億6000万トン。
猪苗代湖と郡山の標高差264m。
水量豊富、落差で送水しやすい。これに着目した人、すごい!って話ですね(笑)。

そして、明治9年(1876年)明治天皇の東北行幸の下調べのため郡山へやってきたあの大久保利通に、開成社の人々はこれまでやってきた開拓の実績をもって「もっと開拓を大きなものにするため、猪苗代湖の水を郡山へ引く水路をつくりたい」と相談。
大久保も、「全国の職を失った侍たちに仕事を与えられ、日本の農業も安定するに違いない」と、この計画にGOサインを出したのでした。

そして政府の役人である奈良原繁という人が中心となり、猪苗代湖の水量の変化を調べたり、安積平野の土地の高低などを測量したり、念入りに計画をたてました。
全体設計は南一郎平、詳細設計は山田寅吉などの日本人技術者達が担当しました。

当時の高低差を記した図面。
また、奈良原らによる設計図がほぼ出来上がっても、それが正しいかどうか自信が持てないでいるなか、一人のオランダ人技師が郡山にやってきました。
名前はファン・ドールン。
明治政府に頼まれ利根川堤防、淀川改修、大阪港などの工事を手掛けた一流の技術者でした。
ファン・ドールンはたった6日の滞在の間、精力的に現場を調査し、奈良原らの設計図が正しいことを多くの意見で証明したそうです。
ドールンの銅像は戊辰の役の攻防で有名な十六橋の近くにあります。このドールンの銅像には興味深いエピソードがあるのですが、それはまたの機会に~。


奈良原繁 ファンドールン

そしてここ開成館は明治天皇の2度の東北巡幸の際に、明治9年には「宿泊所」として、明治14年には「昼食会場」として使用されました。
実際にお泊りになった開成館3階には「明治天皇行幸記録」をもとに当時の行在所の玉座部分の様子が再現されています。


開成館敷地内には、安積開拓入植者住宅が2棟移築されていますが、そのほか安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)は上の明治9年当時の写真にあるように、開成館と同じく建設当時からそのままの位置に現存しています。

「官舎」の名の通り、職員用の家で、明治12年には視察に訪れたあの伊藤博文も泊まった記録が残っています。


釘隠しは当時のものかな? 形も変わっていて興味深くみました。
安積疏水の設計図の完成を待っていた明治政府が、明治12年10月に工事開始を認め、工事がはじまりました。
様々な苦労を乗り越え、明治15年8月、わずか3年間で幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所、受益面積が約3千ヘクタールという安積疏水が完成しました。
工事に従事した人数は延べ85万人、総経費は40万7千円(現在の貨幣価値に換算すると約400億円)でした。
明治はじめにはほとんど原野で、700軒、2000人ほどの小さな宿場町でしかなかった郡山が、この安積疏水のおかげで今では38万8000人の福島県下一の大都市へ発展しています。
その陰には様々な人の苦労と頑張りがあったんですよね。
郡山というとみなさん開成山公園は知っていますが、実は今回の参加者のほとんどはそのとなりにあるこの開成館の存在を知りませんでした。
ここへ来れば安積疏水のことがとてもよくわかるので、ぜひおすすめしたいスポットです。
アクセス等、開成館の詳細は→こちらをクリック
そして、開成館をあとにし、一路猪苗代へ。途中、磐梯熱海で昼食タイム。

歴史のあるとんかつやさん「うえの」。

いつもなら300gある「特製とんかつ定食」を食べるのですが(ジャンボとんかつはなんと400g!)、この日は年配の方も多いので、事前に量もそこそこでリーズナブルな「とんかつ弁当」をチョイス。
20年ぶりにきたとおっしゃってる参加者もいました。
とんかつうえの
福島県郡山市熱海町熱海5丁目124
024-984-3303
そして猪苗代へ。
沼尻鉱山、軽便鉄道の勉強です。

解説案内をお願いした「沼尻鉱山と軽便鉄道を語り継ぐ会」事務局長の安部なかさん。
実は以前、個人的に猪苗代の郷土史本を探していたときにお世話になった関係で、今回お願いしました。
地元出身で軽便とともに育ち、沼尻鉱山と軽便鉄道を後世に語り継ぐことに心血を注いでいる、とても郷土愛にあふれた方です。
実は沼尻軽便資料展示室は震災前までは会津下館駅があった場所に設けられた「村の停車場」2階にあったのですが、震災で建物がダメージを受けたため、今は緑の村・淡水魚館の中に移動して展示されています。

沼尻鉱山は猪苗代町の安達太良山の西斜面標高1000m以上のところにありました。
付近は会津領と二本松領の境界があり、その一帯にある硫黄の採掘権、湯脈権をめぐって紛争が絶えなかったそうです。
また、硫黄は、近代日本の重要な輸出産品でした。
「黄色いダイヤ」とも呼ばれた硫黄は、医薬品やマッチ、セロファンなど貴重な原料として高値で取引されました。明治に入って民間資本が投入されてから活気づき、一時は2000人以上の鉱夫が働いていて、最盛期には年間17000トンもの採掘量があったそうです。
しかし戦後は石油の副産物として硫黄が安く生産できるようになって価格が急落し、昭和43年に閉山となりました。

館内には鉱山の資料がいっぱいで、鉱山の当時の状況、厳しさ、悲しいエピソードなど貴重な話の数々を安部さんは涙ながらに我々に語ってくれました。
そして私が一番楽しみにしていたコーナーへ。

当時の資料や写真、記憶などをもとに、沼尻軽便鉄道の全ての駅の雰囲気を忠実に再現したNゲージ模型。

沼尻軽便鉄道は、沼尻鉱山で採れた硫黄を運ぶために、大正2(1913)年から磐越西線(当時は岩越鉄道)の川桁駅までの約16㎞の区間で運行されていました。
また、硫黄の運搬だけでなく、旅客営業も行っていて住民や温泉客を運んでいたので、「マッチ箱」「豆汽車」とも呼ばれ住民に親しまれていました。
しかし沼尻軽便鉄道も、沼尻鉱山と同じ昭和43年にその56年の歴史に幕が降ろされました。
私の生まれたときにはすでになかったんですね。。。

ここのすごいところは、ガラスケースとかで覆われていなくて、ほんとにすぐ近くまで顔を近づけて観れるんです。
そして、子供の目線でもみれるよう、高さを低くしてあります。
触れるということは壊されちゃうんじゃないかという心配ありますが、逆に今までいたづらされたり壊されたことはないそうです。





私は特に鉄道マニアではないですが、その昔、小学生にあがる前くらいの時、東京・秋葉原にある交通博物館で、閉館時間になってもNゲージ模型の前から離れず親を困らせたことがあるとか(苦笑)。
いやー、大好きですね、こういうの。
時間あれば1日でも見てられるかもしれません(笑)。

いよいよあと4話を残す限りとなった大河ドラマ八重の桜。
毎月違うオープニングで楽しませてもらってきましたが、ずっと変わらず放映されている最後の部分、磐梯山を背景に子供たちが和傘を開いていくシーンが撮影されたのが、近くの町営磐梯山牧場。
そのロケ撮影を記念して寄贈されたドラマ出演者のメッセージを添えた記念パネルが展示されています。


中央に「Smile」綾瀬さんの直筆サイン。

緑の村、外には以前からずっと展示されている沼尻軽便鉄道の車両。
今回の参加者の中には、小さいころこの沼尻軽便鉄道、それもトロッコに乗った記憶がしっかり残っている方がいました。
そして、この日のラスト、猪苗代発電所へ。

まず猪苗代第二発電所。

第二発電所の建物は猪苗代の発電所群の中で最も古く、大正7年(1918)に完成した当時の姿のまま残っています。
鉄骨レンガ造りの建屋の設計はあの東京駅や日本銀行本店と同じ辰野金吾の監修によるものです。
本来ならこの第二発電所の内部も見学させていただくはずでしたが、震災後、耐震性の問題で内部見学は中止となっているので、今回は近くにある第一発電所の方を見学しました。


こちらが猪苗代第一発電所。
「第一」とつくだけあって、第二発電所よりも4年ほど前、大正3年(1914)に完成した発電所。当時東洋一、世界でも3位の発電、送電設備を有していました(37,500 kW)。
第二と違い、この第一発電所の建物はその後改修され、新しいものとなっています。

猪苗代発電所郡は東電の管轄。
東電の方々から現在の発電概要、世界のダムの話などのレクチャーがありました。
私ももちろん東電に対しては複雑で割り切れない感情をいまだ持っていますが、この日冒頭に担当者から丁重なお詫びのご挨拶があったこと、4名もの方にきていただき丁寧な施設案内をしていただいたこと、これだけは書き添えておきます。

現在はこの猪苗代第一発電所は普段は無人で、若松の事務所ですべて遠隔管理しているとのこと。
ここでつくられた電気は那須の方で使われているそうです。

内部の見学へ。

作業の人が映っているので大きさがわかりますね。



第一発電所建設当時のレンガが一部だけ残されていました。
このレンガは東京駅と同時期に同じ埼玉県深谷市で製造されたものだそうです。

建設当時東洋一だった発電量はアメリカ製の送電線により225㎞離れた東京・田端変電所に送られ、王子電車などを動かしました。
これが日本で最初に成功した高電圧による長距離送電ということで、送電発祥の地の記念碑が敷地内にありました。

ちょっと駆け足で回った1日でしたが、普段は入れない発電所、存在があまり知られていない開成館や沼尻軽便資料館などを見学できて有意義でした。
会津発見塾。。。来年は???まだ全然未定です(笑)。
第4回会津発見塾 古代ロマン 勿来~五浦文学散歩 - 2013.09.20 Fri
話は前後しますが、先週の木曜、9月12日に今年4回目の会津発見塾で勿来方面へ行ってきました。

おそらく山都から日帰りでやるイベントとしてはこれが限界の遠さ(苦笑)。
福島県の一番南、有名な「勿来(なこそ)の関」へ。

写真真ん中やや右に切断されて根っこだけ残ってるのが「弓掛の松」。
八幡太郎義家公がこの地で休息したときに弓を掛けたと伝わる松でしたが、1997年についに枯死して切断されてしまいました。
おそらくこれから「八重の桜」にも登場してくるであろう徳富蘆花(すでに登場している徳富蘇峰の弟)が明治43年この地を訪れた時、「老大な赤松黒松が14,5本太平洋の風に吹かれて、翠の梢に颯々の音を立てている。5、6百年のものではない」と書き残しています。



入り口横にある義家公の騎馬銅像。

「来る勿(なか)れ」という意味から「勿来(なこそ)の関」と呼ばれる有名な地ですが、実はこれは文学上の呼称でしかなく、歴史資料的には「菊多関」が正しかったりします。
しかも、遺構や出土品はまったくみつかってなくて、ここにあったかどうかも疑問で、名のみの観光上の関跡といってもいい状態です。
「菊多関」が歴史上あったことは間違いないそうですが、地形的にみてももっと海側にあったんじゃないかというのが定説となってます(869年の貞観大地震で海に沈んだんじゃないかという説も)。

とはいえ、現在の勿来の関は、関ゆかりの歌を残している義家公、斉藤茂吉、松尾芭蕉、泉式部、小野小町など、そうそうたる偉人たちの歌碑が立ち並ぶいい散歩道コースとなっています。


「なこそとは 誰かは云いし いはねとも
心にすうる 関とこそみれ 泉式部」
意味:「来ないでなんて誰が言ったの?いいえ言ってないわ。あなたが勿来関みたいな心の壁をつくって私に会いに来ないだけでしょう。」


そして。。。勿来の関に行っただけでもうお昼の時間(苦笑)。美術館の前にある地魚料理の店「なぶら」で昼食タイム。

海鮮丼をいただく前に、今回のもうひとつのテーマ、「安寿と厨子王」について、森鴎外の「山椒大夫」の朗読をしていただきました。

こちらはカレイの煮魚定食。

そしてほとんどの人が頼んだ海鮮丼。1680円でボリュームたっぷりでした。


そして昼食後、茨城県天心記念五浦美術館へ。
ここは1997年開館という比較的新しい、あの岡倉天心や横山大観などの業績の説明や作品を鑑賞できる美術館です。
岡倉天心については美術館のHP→こちらをクリック

しかし、、、この日はじっくり見る時間がなく、あらためてゆっくり訪れたいですね。

その後、美術館の近くにある茨城大学五浦美術文化研究所へ。
ここは岡倉天心の最後の住居が保存されています。

我々29名に対して8名ものボランティアガイドさんがついてくださり、数班に分かれて詳しい説明をしていただきました。

まずは道路はさんだ向かいにある天心の墓へ。
天心の没年に辞世の句に基づいて染井霊園(東京都)から分骨・埋葬されたとか。墓石はなく、珍しい形でした。



ラングドン・ウォーナー像。天心のお弟子さんで、一説には太平洋戦争のとき、この人が日本の文化財の大切さを説き、京都に原爆が落とされるのを阻止したとか。

先端に突き出た感じで建てられている「六角堂」。
天心は「波」に永遠性と絶え間ない変化を同時に認め、宇宙の本質と考えていたそうで、この六角堂で波を眺めながら瞑想に耽り、時に海に釣り糸を垂らし釣りをしていたそうです。
瞑想して、釣り糸垂れる生活。。。。私の理想ですね(笑)。


この六角堂は、3.11の津波で消失してしまったのですが、地域の復興のシンボルとして、素早い動きがあって、1年後の2012年4月に見事再建されました。

その際、以前の修復ではやらなかった、岡山の「ベンガラ」塗料を使用したとのこと。


天心の住居も当時の面影そのままに保存されています。
それもそのはず、天心の没後も子孫の方々が長く住んでらしたとか。

津波はここまで来ました。住居が無事だったのは不幸中の幸いですね。
家自体も礎石の上に乗っかってるだけの構造で、揺れの力がうまく逃げ、ほぼ無傷だったとか。

いよいよ11月に公開が迫っている映画「天心」のロケがここで行われたそうで、天心役の竹中直人さん、横山大観役の中村獅童さんらの直筆サインがありました。
映画「天心」、ハーメルンと同じくらい私は楽しみにしています(笑)。


住居のわきにはかつて外人のお客さん用のお風呂があったという場所が。

残っているタイルからなんだかイメージが膨らみました。

有名な天心の言葉「亜細亜ハ一な里(ひとつなり)」の碑。
天心は純粋にアジアのルーツはひとつだ、と言いたかったと思うのですが、後の戦争で大東亜共栄圏という戦争遂行の理念のひとつとして利用されてしまいました。
天心はどう思ったでしょうか。。。

最後に今回のもうひとつのテーマ、安寿と厨子王の像へ。
いわき市金山町にあります。


安寿と厨子王が別れる時、ゴボウシの葉に谷の水を汲み、水杯を交わして別れた、という言い伝えがあります。
こんな葉だったのでしょうか。
というわけで、また遠路山都へ戻り、第4回無事終了しました。
次回は10月10日、しっかり原点の会津に戻り、美里町の寺巡りの予定です。

おそらく山都から日帰りでやるイベントとしてはこれが限界の遠さ(苦笑)。
福島県の一番南、有名な「勿来(なこそ)の関」へ。

写真真ん中やや右に切断されて根っこだけ残ってるのが「弓掛の松」。
八幡太郎義家公がこの地で休息したときに弓を掛けたと伝わる松でしたが、1997年についに枯死して切断されてしまいました。
おそらくこれから「八重の桜」にも登場してくるであろう徳富蘆花(すでに登場している徳富蘇峰の弟)が明治43年この地を訪れた時、「老大な赤松黒松が14,5本太平洋の風に吹かれて、翠の梢に颯々の音を立てている。5、6百年のものではない」と書き残しています。



入り口横にある義家公の騎馬銅像。

「来る勿(なか)れ」という意味から「勿来(なこそ)の関」と呼ばれる有名な地ですが、実はこれは文学上の呼称でしかなく、歴史資料的には「菊多関」が正しかったりします。
しかも、遺構や出土品はまったくみつかってなくて、ここにあったかどうかも疑問で、名のみの観光上の関跡といってもいい状態です。
「菊多関」が歴史上あったことは間違いないそうですが、地形的にみてももっと海側にあったんじゃないかというのが定説となってます(869年の貞観大地震で海に沈んだんじゃないかという説も)。

とはいえ、現在の勿来の関は、関ゆかりの歌を残している義家公、斉藤茂吉、松尾芭蕉、泉式部、小野小町など、そうそうたる偉人たちの歌碑が立ち並ぶいい散歩道コースとなっています。


「なこそとは 誰かは云いし いはねとも
心にすうる 関とこそみれ 泉式部」
意味:「来ないでなんて誰が言ったの?いいえ言ってないわ。あなたが勿来関みたいな心の壁をつくって私に会いに来ないだけでしょう。」


そして。。。勿来の関に行っただけでもうお昼の時間(苦笑)。美術館の前にある地魚料理の店「なぶら」で昼食タイム。

海鮮丼をいただく前に、今回のもうひとつのテーマ、「安寿と厨子王」について、森鴎外の「山椒大夫」の朗読をしていただきました。

こちらはカレイの煮魚定食。

そしてほとんどの人が頼んだ海鮮丼。1680円でボリュームたっぷりでした。


そして昼食後、茨城県天心記念五浦美術館へ。
ここは1997年開館という比較的新しい、あの岡倉天心や横山大観などの業績の説明や作品を鑑賞できる美術館です。
岡倉天心については美術館のHP→こちらをクリック

しかし、、、この日はじっくり見る時間がなく、あらためてゆっくり訪れたいですね。

その後、美術館の近くにある茨城大学五浦美術文化研究所へ。
ここは岡倉天心の最後の住居が保存されています。

我々29名に対して8名ものボランティアガイドさんがついてくださり、数班に分かれて詳しい説明をしていただきました。

まずは道路はさんだ向かいにある天心の墓へ。
天心の没年に辞世の句に基づいて染井霊園(東京都)から分骨・埋葬されたとか。墓石はなく、珍しい形でした。



ラングドン・ウォーナー像。天心のお弟子さんで、一説には太平洋戦争のとき、この人が日本の文化財の大切さを説き、京都に原爆が落とされるのを阻止したとか。

先端に突き出た感じで建てられている「六角堂」。
天心は「波」に永遠性と絶え間ない変化を同時に認め、宇宙の本質と考えていたそうで、この六角堂で波を眺めながら瞑想に耽り、時に海に釣り糸を垂らし釣りをしていたそうです。
瞑想して、釣り糸垂れる生活。。。。私の理想ですね(笑)。


この六角堂は、3.11の津波で消失してしまったのですが、地域の復興のシンボルとして、素早い動きがあって、1年後の2012年4月に見事再建されました。

その際、以前の修復ではやらなかった、岡山の「ベンガラ」塗料を使用したとのこと。


天心の住居も当時の面影そのままに保存されています。
それもそのはず、天心の没後も子孫の方々が長く住んでらしたとか。

津波はここまで来ました。住居が無事だったのは不幸中の幸いですね。
家自体も礎石の上に乗っかってるだけの構造で、揺れの力がうまく逃げ、ほぼ無傷だったとか。

いよいよ11月に公開が迫っている映画「天心」のロケがここで行われたそうで、天心役の竹中直人さん、横山大観役の中村獅童さんらの直筆サインがありました。
映画「天心」、ハーメルンと同じくらい私は楽しみにしています(笑)。


住居のわきにはかつて外人のお客さん用のお風呂があったという場所が。

残っているタイルからなんだかイメージが膨らみました。

有名な天心の言葉「亜細亜ハ一な里(ひとつなり)」の碑。
天心は純粋にアジアのルーツはひとつだ、と言いたかったと思うのですが、後の戦争で大東亜共栄圏という戦争遂行の理念のひとつとして利用されてしまいました。
天心はどう思ったでしょうか。。。

最後に今回のもうひとつのテーマ、安寿と厨子王の像へ。
いわき市金山町にあります。


安寿と厨子王が別れる時、ゴボウシの葉に谷の水を汲み、水杯を交わして別れた、という言い伝えがあります。
こんな葉だったのでしょうか。
というわけで、また遠路山都へ戻り、第4回無事終了しました。
次回は10月10日、しっかり原点の会津に戻り、美里町の寺巡りの予定です。
第3回会津発見塾 中世東北地方の攻防~奥州合戦~ - 2013.07.25 Thu
実は書きたいんだけど時間がなくて後回しになり、のびのびになってしまっている記事がたくさんあるのですが(苦笑)、古い順に書いていると常に遅れて書くことになっちゃうし、すぐお伝えしないといけないこともあるので、やはり時系列メチャクチャとなっても自分の中で優先順位をつけて書くことにしています。(優先順位には「気分」も入っているかもしれませんが。(苦笑))
そんなわけで、今日は7月11日に行われた第3回会津発見塾です。
今回の発見塾は以前書いた会津史学会の春の巡検で行った場所を元に組んであるので、ほとんど同じ内容となっています。
そんなわけで後回しにしていたというのもあるのですが(苦笑)、細かい説明は重複するので、史学会巡検のときの記事をご参照ください↓
こちらをクリック




前回来たときと違うのは、下二重堀地区の防塁近くのハスの花が見ごろを迎えていたこと。


私はなにげにハスは花よりも葉っぱが好きだったりします。それもこの日みたいに水がたまった葉っぱが好きです。



ハスの葉は表面にあるミクロの無数の凹凸によって超撥水性があり、そのおかげで水が玉のように乗ってとても美しいんですよね。


こんなとき、私はやっぱり賢治を意識します。
ダイヤモンドにも負けない「水の宝石」の輝き。
宮沢賢治の作品でハスの葉についての記述があったか私には覚えがありませんでしたが、このときは「注文の多い料理店」の序文を思い浮かべました。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、
きれいにすきとほつた風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
この「ハスの葉の宝石水」も間違いなく「ごちそう」ですね(笑)。


飯坂・医王寺にも行きました。


薬師堂近くの木立を眺めていたら、こんな光景が。

カナブン、アオカナブン、クロカナブン。。。。日本のカナブン全種揃い踏みといった感じでした。
これも「森の宝石」と言っていいくらいきれいですね(笑)。
というわけで、今回は発見塾の報告になってなくてすみません(苦笑)。
次回の発見塾は8月はお休みし、9月12日の予定です。
来週、下見に行ってきます。
そんなわけで、今日は7月11日に行われた第3回会津発見塾です。
今回の発見塾は以前書いた会津史学会の春の巡検で行った場所を元に組んであるので、ほとんど同じ内容となっています。
そんなわけで後回しにしていたというのもあるのですが(苦笑)、細かい説明は重複するので、史学会巡検のときの記事をご参照ください↓
こちらをクリック




前回来たときと違うのは、下二重堀地区の防塁近くのハスの花が見ごろを迎えていたこと。


私はなにげにハスは花よりも葉っぱが好きだったりします。それもこの日みたいに水がたまった葉っぱが好きです。



ハスの葉は表面にあるミクロの無数の凹凸によって超撥水性があり、そのおかげで水が玉のように乗ってとても美しいんですよね。


こんなとき、私はやっぱり賢治を意識します。
ダイヤモンドにも負けない「水の宝石」の輝き。
宮沢賢治の作品でハスの葉についての記述があったか私には覚えがありませんでしたが、このときは「注文の多い料理店」の序文を思い浮かべました。
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、
きれいにすきとほつた風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
この「ハスの葉の宝石水」も間違いなく「ごちそう」ですね(笑)。


飯坂・医王寺にも行きました。


薬師堂近くの木立を眺めていたら、こんな光景が。

カナブン、アオカナブン、クロカナブン。。。。日本のカナブン全種揃い踏みといった感じでした。
これも「森の宝石」と言っていいくらいきれいですね(笑)。
というわけで、今回は発見塾の報告になってなくてすみません(苦笑)。
次回の発見塾は8月はお休みし、9月12日の予定です。
来週、下見に行ってきます。
会津史学会 春の巡検に参加してきました - 2013.06.13 Thu
来月の第3回会津発見塾の講師予定の佐藤先生からのお誘いで、先生の所属する会津史学会の春の文化財巡り奥州合戦の地「阿津賀志山の防塁と佐藤氏縁の寺を訪ねる」に、会津発見塾の下見を兼ねて参加してきました。
高速に乗って、福島県中通りの一番北、宮城県境にある国見町へ。

まずは防塁跡へ。
文治5年(1189年)、源頼朝率いる鎌倉軍は奥州藤原氏を攻めるため古代の奥州街道を北上、それを迎え撃つ藤原国衡率いる平泉軍が侵攻を阻止するためにここ国見町に長大な防塁を築きました。
その遺構が今も残っています。

まずは石母田地区に残る防塁跡へ。
写真中央奥の阿津賀志山中腹から、南は阿武隈川まで、総延長3.2㎞もの長大な防塁です。

実際はもっと深かったようですが、今でもしっかりみてとれる800年以上前の遺構がこんなにきれいにそれも長~く残ってるのは驚きでした。
平泉軍はこの長大な防塁をほんの数か月でつくってしまった、というのも二重の驚きです。

文治5年(1189)8月、源頼朝が国見に着き、防塁をめぐる激しい戦いが始まりました。
この阿津賀志山防塁陥落後は、奥州藤原氏滅亡までこれに匹敵する戦いはなく、この国見での戦いが奥州合戦最大の「天下分け目」の戦いだったといえます。

防塁の近くにある「義経の腰掛松」。
義経が平泉に行く途中、この松の木に腰掛けて休んだと伝わる赤松の名木です。
すでに何代か変わってるようで、過去の枯れた木は建屋の中に置かれていました。現在の木も樹勢の衰えが激しいようでちょっと心配です。

旧奥州道中は線路や高速で寸断されていますが、険阻な山坂として知られている国見峠の長坂跡への道は往時の雰囲気が残ってました。

ここは芭蕉も通っていて、「奥の細道」に記した「気力聊かとり直し、路縦横に踏んで伊達の大木戸をこす」と刻んだ文学碑がありました。

その後、防塁の南のはじっこ側の下二重堀地区へ。ちょっと写真ではわかりづらいかもしれませんが、二重の防塁がきれいに残っていました。写真右奥が阿津賀志山です。あの山からここまでずっと防塁が続いていたんですね。

断片的に確認されている防塁は、一番南の方では直線でつながらず、県道320号あたりでカーブしていることが予想され、その確認のため何箇所かで発掘調査中でした。
国見町の方の解説で見学させていただきました。


奥に阿津賀志山。ここで写真右方向へ防塁がカーブしているんじゃないかと予測しての発掘です。
しかし、結果は。。。。

なんと防塁ではなく、出てきたのは縄文時代の住居跡とのこと。


素人の私にはどのあたりが「縄文時代住居跡」なのかさっぱりわかりませんでしたが(苦笑)、解説によると土の色が赤くなっている箇所が火をたいた跡だそうで、その辺からわかるそうです。
ただ、縄文時代の遺跡が残っているということは、同時に防塁の位置はここじゃないということの証明でもあるわけですね。
また、この巡検は6月6日に行ったのですが、その時は秘密だったのかその後みつかったのか、今日付(6/13)
の新聞に「防塁発見」の記事が出ていました。
福島民報の「阿津賀志山防塁に新たな堀跡 国見町教委発表」記事は→こちらをクリック
福島民友の「土塁つなぐルート確認 国見・阿津賀志山防塁を調査」記事は→こちらをクリック

その後、観音寺へ。

ここには、会津藩士の墓がありました。


大竹喜三郎有雄氏。
会津藩校で神道学を教えていた師範で、戊辰の役後は仙台→函館へ移り再起を目指したけれど、望郷の念、そして会津の人々のその後を案じ、会津へ戻ることを決意。
しかしその途中、この国見のあたりで行き倒れ、この寺の和尚に助けられてそのままこの地で村塾を開いて神道学を説きながら天寿をまっとうしたとのことです。
私も線香をあげさせていただきました。

国指定史跡、「石母田供養石塔」。


1308年作と彫られている東北でも初期の板碑だそうで、梵字だけはみてとれましたが、実際はさらに漢字で功徳文が書かれているとか。
元の帰化僧・一山一寧が書いたもので、鎌倉時代における禅宗と密教の関係を知るうえで貴重なものとされているそうです。

そして阿津賀志山の展望台へ。
ほとんど頂上付近まで車で行けて、少しだけ歩くと立派な展望台がありました。

まさに「つわものどもが夢の跡」。
「国見」という地名の意味がわかる気がします。


そして国見町をあとにし、飯坂にある医王寺へ。

ここは前述の阿津賀志山合戦で戦死した佐藤基治、そしてその息子の有名な佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺です。

巨木マニアの私の目にすぐはいってきたのは、門右側のシラカシの巨木。
樹齢は約400年、本堂再建時に植えられた、とあります。
関東以南ではシラカシの巨木・老木は結構ありますが、寒い東北ではこれほどの大きなシラカシは珍しいですね。

本堂内には佐藤一族の位牌殿が。

右側には継信の奥方「若桜」の人形。

一族の位牌を祀る内殿。

左側には忠信の奥方「楓」の人形。
なぜ奥方たちが武将の恰好を?
ご存知の方も多いかと思いますが、兄継信は屋島の合戦で義経の盾となって戦死、弟忠信は追われる身となった義経を逃がすため身代わりとなって戦死。
わが子二人を失った母乙和御前の悲しみはとても大きなもので、継信忠信の奥方たちは兄弟の武将の装いをして姑を激励したそうです。
その姿を称えた人形が本堂にまつられているというわけです。

本堂の奥は普段立ち入り禁止となっていますが、この日は特別に。
義経お手植えと伝わる「虎尾の松」。
残念ながら樹勢の衰え著しく、切り倒されてしまっていますが、相当な巨木ですね。


これはその「虎尾の松」の枝だそうですが、枝で年輪が225年!

まつぼっくりもデカいです。

芭蕉も奥の細道の行脚で当寺を訪れていて、
「笈(おい)も太刀(たち)も 五月(さつき)にかざれ 紙幟(かみのぼり)」
と詠んでいます。

杉の巨木の参道も含めた「医王寺の緑」は「ふくしま緑の百景」にも選ばれています。

その杉の道を進んでいくと奥の院薬師堂。
「鯖野のお薬師さま」と呼ばれ親しまれているようです。

薬師堂の奥にある「乙和の椿」。
この椿の古木は、前述の乙和御前の悲しみ、母情が乗り移ったのか、つぼみのままで咲かずに落ちてしまうそうです。
咲かで落つ 椿よ西の 空かなし 黙翁

佐藤忠信・継信兄弟の墓。


大きくえぐれているのは、「粉にして飲むと体が強くなる」という言い伝えにより、皆が削って薬として利用したからとか。
そういえば磐梯町の徳一の墓も同様ですね。
また、撮影禁止だったので写真はありませんが、医王寺には宝物殿があり、武蔵坊弁慶の「笈」(県重要文化財)とされるものや、伝継信所用とされる「鞍」(市重要文化財)、屋島の戦いで継信をつらぬいた矢じりなど、興味深い品々でいっぱいでした。
7月の会津発見塾では佐藤先生と相談して、この日のルートを少しアレンジして名水や羽州街道の宿場とかを入れたいですね、と話しました。
会津史学会の方々には大変お世話になりました。
今回私も史学会に入会し、末席に加えていただくことになりました。さらに深い会津史を勉強できること、とても楽しみです。
高速に乗って、福島県中通りの一番北、宮城県境にある国見町へ。

まずは防塁跡へ。
文治5年(1189年)、源頼朝率いる鎌倉軍は奥州藤原氏を攻めるため古代の奥州街道を北上、それを迎え撃つ藤原国衡率いる平泉軍が侵攻を阻止するためにここ国見町に長大な防塁を築きました。
その遺構が今も残っています。

まずは石母田地区に残る防塁跡へ。
写真中央奥の阿津賀志山中腹から、南は阿武隈川まで、総延長3.2㎞もの長大な防塁です。

実際はもっと深かったようですが、今でもしっかりみてとれる800年以上前の遺構がこんなにきれいにそれも長~く残ってるのは驚きでした。
平泉軍はこの長大な防塁をほんの数か月でつくってしまった、というのも二重の驚きです。

文治5年(1189)8月、源頼朝が国見に着き、防塁をめぐる激しい戦いが始まりました。
この阿津賀志山防塁陥落後は、奥州藤原氏滅亡までこれに匹敵する戦いはなく、この国見での戦いが奥州合戦最大の「天下分け目」の戦いだったといえます。

防塁の近くにある「義経の腰掛松」。
義経が平泉に行く途中、この松の木に腰掛けて休んだと伝わる赤松の名木です。
すでに何代か変わってるようで、過去の枯れた木は建屋の中に置かれていました。現在の木も樹勢の衰えが激しいようでちょっと心配です。

旧奥州道中は線路や高速で寸断されていますが、険阻な山坂として知られている国見峠の長坂跡への道は往時の雰囲気が残ってました。

ここは芭蕉も通っていて、「奥の細道」に記した「気力聊かとり直し、路縦横に踏んで伊達の大木戸をこす」と刻んだ文学碑がありました。

その後、防塁の南のはじっこ側の下二重堀地区へ。ちょっと写真ではわかりづらいかもしれませんが、二重の防塁がきれいに残っていました。写真右奥が阿津賀志山です。あの山からここまでずっと防塁が続いていたんですね。

断片的に確認されている防塁は、一番南の方では直線でつながらず、県道320号あたりでカーブしていることが予想され、その確認のため何箇所かで発掘調査中でした。
国見町の方の解説で見学させていただきました。


奥に阿津賀志山。ここで写真右方向へ防塁がカーブしているんじゃないかと予測しての発掘です。
しかし、結果は。。。。

なんと防塁ではなく、出てきたのは縄文時代の住居跡とのこと。


素人の私にはどのあたりが「縄文時代住居跡」なのかさっぱりわかりませんでしたが(苦笑)、解説によると土の色が赤くなっている箇所が火をたいた跡だそうで、その辺からわかるそうです。
ただ、縄文時代の遺跡が残っているということは、同時に防塁の位置はここじゃないということの証明でもあるわけですね。
また、この巡検は6月6日に行ったのですが、その時は秘密だったのかその後みつかったのか、今日付(6/13)
の新聞に「防塁発見」の記事が出ていました。
福島民報の「阿津賀志山防塁に新たな堀跡 国見町教委発表」記事は→こちらをクリック
福島民友の「土塁つなぐルート確認 国見・阿津賀志山防塁を調査」記事は→こちらをクリック

その後、観音寺へ。

ここには、会津藩士の墓がありました。


大竹喜三郎有雄氏。
会津藩校で神道学を教えていた師範で、戊辰の役後は仙台→函館へ移り再起を目指したけれど、望郷の念、そして会津の人々のその後を案じ、会津へ戻ることを決意。
しかしその途中、この国見のあたりで行き倒れ、この寺の和尚に助けられてそのままこの地で村塾を開いて神道学を説きながら天寿をまっとうしたとのことです。
私も線香をあげさせていただきました。

国指定史跡、「石母田供養石塔」。


1308年作と彫られている東北でも初期の板碑だそうで、梵字だけはみてとれましたが、実際はさらに漢字で功徳文が書かれているとか。
元の帰化僧・一山一寧が書いたもので、鎌倉時代における禅宗と密教の関係を知るうえで貴重なものとされているそうです。

そして阿津賀志山の展望台へ。
ほとんど頂上付近まで車で行けて、少しだけ歩くと立派な展望台がありました。

まさに「つわものどもが夢の跡」。
「国見」という地名の意味がわかる気がします。


そして国見町をあとにし、飯坂にある医王寺へ。

ここは前述の阿津賀志山合戦で戦死した佐藤基治、そしてその息子の有名な佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺です。

巨木マニアの私の目にすぐはいってきたのは、門右側のシラカシの巨木。
樹齢は約400年、本堂再建時に植えられた、とあります。
関東以南ではシラカシの巨木・老木は結構ありますが、寒い東北ではこれほどの大きなシラカシは珍しいですね。

本堂内には佐藤一族の位牌殿が。

右側には継信の奥方「若桜」の人形。

一族の位牌を祀る内殿。

左側には忠信の奥方「楓」の人形。
なぜ奥方たちが武将の恰好を?
ご存知の方も多いかと思いますが、兄継信は屋島の合戦で義経の盾となって戦死、弟忠信は追われる身となった義経を逃がすため身代わりとなって戦死。
わが子二人を失った母乙和御前の悲しみはとても大きなもので、継信忠信の奥方たちは兄弟の武将の装いをして姑を激励したそうです。
その姿を称えた人形が本堂にまつられているというわけです。

本堂の奥は普段立ち入り禁止となっていますが、この日は特別に。
義経お手植えと伝わる「虎尾の松」。
残念ながら樹勢の衰え著しく、切り倒されてしまっていますが、相当な巨木ですね。


これはその「虎尾の松」の枝だそうですが、枝で年輪が225年!

まつぼっくりもデカいです。

芭蕉も奥の細道の行脚で当寺を訪れていて、
「笈(おい)も太刀(たち)も 五月(さつき)にかざれ 紙幟(かみのぼり)」
と詠んでいます。

杉の巨木の参道も含めた「医王寺の緑」は「ふくしま緑の百景」にも選ばれています。

その杉の道を進んでいくと奥の院薬師堂。
「鯖野のお薬師さま」と呼ばれ親しまれているようです。

薬師堂の奥にある「乙和の椿」。
この椿の古木は、前述の乙和御前の悲しみ、母情が乗り移ったのか、つぼみのままで咲かずに落ちてしまうそうです。
咲かで落つ 椿よ西の 空かなし 黙翁

佐藤忠信・継信兄弟の墓。


大きくえぐれているのは、「粉にして飲むと体が強くなる」という言い伝えにより、皆が削って薬として利用したからとか。
そういえば磐梯町の徳一の墓も同様ですね。
また、撮影禁止だったので写真はありませんが、医王寺には宝物殿があり、武蔵坊弁慶の「笈」(県重要文化財)とされるものや、伝継信所用とされる「鞍」(市重要文化財)、屋島の戦いで継信をつらぬいた矢じりなど、興味深い品々でいっぱいでした。
7月の会津発見塾では佐藤先生と相談して、この日のルートを少しアレンジして名水や羽州街道の宿場とかを入れたいですね、と話しました。
会津史学会の方々には大変お世話になりました。
今回私も史学会に入会し、末席に加えていただくことになりました。さらに深い会津史を勉強できること、とても楽しみです。
平成25年度第1回会津発見塾 ~現在の鶴ヶ城の赤瓦のふるさとへ~ - 2013.05.14 Tue
次回イベントの準備の合間に少し時間ができましたので、ブログ書きを。
でも雙座松峠ウォークの報告へ行く前に、先週5月9日に今年度の第1回会津発見塾が行われたのでその時の模様を。
(ちなみに昨年同様、山都公民館主催の「会津発見塾」に僭越ながら私も今年1年間また企画&講師として参加させていただくことになりました。)
第1回はいきなり会津を出ておとなり新潟県へ~。
ちょっと長くなりますが、前段を。
今、「八重の桜」で盛り上がっている会津若松の鶴ヶ城。
2年前、震災直前にかつての赤瓦に葺き替えられたのをご存知の方は結構いらっしゃるかと思います。
「新編会津風土記」によると、戦国時代末期に、時の領主蒲生氏郷公が鶴ヶ城の大改修を手がけた記述があります。氏郷公は播磨国(現在の兵庫県)から瓦職人を呼び寄せて瓦をつくらせたそうですが、そのときの瓦は黒く、品質的にもあまり良質なものではなかったようです。
黒瓦は冬の寒さで凍ると割れてしまうことから改良が求められ、氏郷公から約半世紀後、藩主が保科正之公の時代に、瓦に釉薬をかけて焼くと寒さに強くなることがわかり、以降赤瓦として使用されたそうです。
もちろん当時は2011年のように一気に全部葺き替えたわけではなく、文献では、承応2年(1653)に太鼓門が初めて赤瓦によって葺き替えられたのを皮切りに、城内の屋根瓦が順次赤瓦に変わっていったようです。
城跡の発掘調査では、出土する瓦の約8割が釉薬を施された赤瓦という結果が出ています。また江戸時代後期の城下絵図では、屋根が赤系統の色で描かれていることを確認できます。
そんな結果に基づいて2年前の葺き替え工事においては、赤瓦で復元することとなったのでした。
前置きが長くなりましたが、2年前に瓦を葺き替えることになったとき、会津ではそれに対応できる瓦屋さんは少なく、寒冷地に強い、いい赤瓦をつくれる新潟県阿賀野市にある「安田瓦」さんに白羽の矢が立ったのでした。
そこで、現在の鶴ヶ城の赤瓦を葺き替えた「安田瓦産業協業組合」さん(詳しくはこちらをクリック)の瓦工場見学に行くことになりました。
下見のとき、実際の鶴ヶ城の赤瓦をいただいたときの模様は→こちらをクリック

まずは「安田瓦」をはじめ、全国の瓦について教えていただきました。
全国にはその焼き方において大きく分けて3種類の瓦があるそうで、すなわち
釉薬を用いず、焼成の最後の段階で蒸し焼きにして炭素の被膜をつくる「いぶし瓦」、
釉薬を用いず、素焼きのままで仕上げる「無釉瓦」、
生地成型・乾燥後、ガラス質の釉薬(うわ薬)を施して焼く「釉薬瓦」
があり、ここの安田瓦は生釉を使って酸化焼成から還元焼成まで時間をかけて焼成する「還元瓦」と呼ばれる釉薬瓦の一種とのことです。
ちなみに東北、上信越、北陸などの積雪寒冷地では、凍害防止のため高温焼成して強度をあげ、吸水率を低く抑える工夫がなされ、釉薬の両面がけや還元瓦が多く用いられ、
比較的温暖な、太平洋側の関東、東海、近畿地方などでは、いぶし瓦の照りや冴えなどの表現方法が発達しているという特徴が見られます。


実際に今、鶴ヶ城に葺かれている赤瓦を用いて、本物と同じ組み方を再現して詳しく解説していただきました。




これも、実際に今鶴ヶ城に葺かれている鬼瓦。大きさといい迫力満点ですね。

これは通常の安田瓦の完成品。ひとつ5kg弱ととても重く、逆に重いと建物が倒壊しやすいんじゃないかと素人は思ってしまいますが、重いからこそしっかり安定して強度が増すとのこと。


そして工場内部へ。瓦粘土のもととなる原土がここから搬入されます。

原土には木片だどいろんなものが混ざっているので、それを取り除いて練る処理。



練られてなんかチョコレートかキャラメルのように一本になってでてきた瓦の粘土。



まだ焼く前なので、このとおりクニャクニャです。





乾燥させたあと、釉薬をつける工程。


さすがに焼くところはみれませんでしたが、それぞれの工程で厳しい選別が行われており、品質管理はさすがだなあ、と思いました。
なんだか、小さい頃の社会科見学を彷彿とさせるような、とても楽しい見学のひとときでした。
その後、旧村松藩3万石の城下町へ。

屋敷などはほとんど残っていませんが、区割りなどは往時の面影が少し残っており、こうやってしっかり説明看板だけでも設置してあると本当にありがたいですね。
あまり時間がなく、さわりだけになってしまいましたが、今度個人的にじっくり歩いてみようと思います。

安田瓦の社長さんの話によると、鬼瓦の数で予算が決まるとのことで、一見無意味に見えるような屋根ですが、鬼瓦の数をわざと増やし、格をアピールしていたのかな、なんて思いました。
そして最後に新津市にある新潟県立植物園(こちらをクリック)へ。

樹木医の田中さんの解説案内で館内を見学しました。



バナナの花が咲いていました。

オクナ セルラタ。
南アフリカ原産。赤い花床に黒い石果がついてかわいらしく、それがミッキーマウスにも見えるので、別名「ミッキーマウスノキ」とも呼ばれているとか。

ベニヒモノキ。
西インド諸島原産で、小さな花が密になって、まるでふさふさの赤いしっぽのようだな、なんて思っていると、なるほど英名で「フォックステール」というとか。考えることは同じですね(笑)。


ルリゴクラクチョウカ。
南アフリカ原産。なんかヤシの実を細く割ったとこから花が咲いているような、不思議な形ですね。

これもなんでこんな形の花なの?って直接本人に聞いてみたい不思議な形、トケイソウの花。
花の珍しい形にしては結構平凡な名前がついてるな、と(笑)。

これは見慣れたウツボカズラ。

これは人工?それとも自然にこんなにきれいに編まれた?
名前がわからなかったので、「ネジリドーナツノキ」と名付けました。

フィリピンに自生するヒスイカズラ。
その名のとおり、ヒスイ色の美しい花をつけていました。
現地ではオオコウモリがこの花の蜜を吸いにくるとのことですが、今絶滅の危機に瀕している希少種とか。


この植物園のウリであるボタンの時期には少し早かったようですが、それでも何種類かは咲いていました。
次回の発見塾は6月18日、林道飯豊桧枝岐線の開通にあわせて、山都の向こう側、山形県飯豊町を巡ります。
早く下見にいかなくちゃ(笑)。
でも雙座松峠ウォークの報告へ行く前に、先週5月9日に今年度の第1回会津発見塾が行われたのでその時の模様を。
(ちなみに昨年同様、山都公民館主催の「会津発見塾」に僭越ながら私も今年1年間また企画&講師として参加させていただくことになりました。)
第1回はいきなり会津を出ておとなり新潟県へ~。
ちょっと長くなりますが、前段を。
今、「八重の桜」で盛り上がっている会津若松の鶴ヶ城。
2年前、震災直前にかつての赤瓦に葺き替えられたのをご存知の方は結構いらっしゃるかと思います。
「新編会津風土記」によると、戦国時代末期に、時の領主蒲生氏郷公が鶴ヶ城の大改修を手がけた記述があります。氏郷公は播磨国(現在の兵庫県)から瓦職人を呼び寄せて瓦をつくらせたそうですが、そのときの瓦は黒く、品質的にもあまり良質なものではなかったようです。
黒瓦は冬の寒さで凍ると割れてしまうことから改良が求められ、氏郷公から約半世紀後、藩主が保科正之公の時代に、瓦に釉薬をかけて焼くと寒さに強くなることがわかり、以降赤瓦として使用されたそうです。
もちろん当時は2011年のように一気に全部葺き替えたわけではなく、文献では、承応2年(1653)に太鼓門が初めて赤瓦によって葺き替えられたのを皮切りに、城内の屋根瓦が順次赤瓦に変わっていったようです。
城跡の発掘調査では、出土する瓦の約8割が釉薬を施された赤瓦という結果が出ています。また江戸時代後期の城下絵図では、屋根が赤系統の色で描かれていることを確認できます。
そんな結果に基づいて2年前の葺き替え工事においては、赤瓦で復元することとなったのでした。
前置きが長くなりましたが、2年前に瓦を葺き替えることになったとき、会津ではそれに対応できる瓦屋さんは少なく、寒冷地に強い、いい赤瓦をつくれる新潟県阿賀野市にある「安田瓦」さんに白羽の矢が立ったのでした。
そこで、現在の鶴ヶ城の赤瓦を葺き替えた「安田瓦産業協業組合」さん(詳しくはこちらをクリック)の瓦工場見学に行くことになりました。
下見のとき、実際の鶴ヶ城の赤瓦をいただいたときの模様は→こちらをクリック

まずは「安田瓦」をはじめ、全国の瓦について教えていただきました。
全国にはその焼き方において大きく分けて3種類の瓦があるそうで、すなわち
釉薬を用いず、焼成の最後の段階で蒸し焼きにして炭素の被膜をつくる「いぶし瓦」、
釉薬を用いず、素焼きのままで仕上げる「無釉瓦」、
生地成型・乾燥後、ガラス質の釉薬(うわ薬)を施して焼く「釉薬瓦」
があり、ここの安田瓦は生釉を使って酸化焼成から還元焼成まで時間をかけて焼成する「還元瓦」と呼ばれる釉薬瓦の一種とのことです。
ちなみに東北、上信越、北陸などの積雪寒冷地では、凍害防止のため高温焼成して強度をあげ、吸水率を低く抑える工夫がなされ、釉薬の両面がけや還元瓦が多く用いられ、
比較的温暖な、太平洋側の関東、東海、近畿地方などでは、いぶし瓦の照りや冴えなどの表現方法が発達しているという特徴が見られます。


実際に今、鶴ヶ城に葺かれている赤瓦を用いて、本物と同じ組み方を再現して詳しく解説していただきました。




これも、実際に今鶴ヶ城に葺かれている鬼瓦。大きさといい迫力満点ですね。

これは通常の安田瓦の完成品。ひとつ5kg弱ととても重く、逆に重いと建物が倒壊しやすいんじゃないかと素人は思ってしまいますが、重いからこそしっかり安定して強度が増すとのこと。


そして工場内部へ。瓦粘土のもととなる原土がここから搬入されます。

原土には木片だどいろんなものが混ざっているので、それを取り除いて練る処理。



練られてなんかチョコレートかキャラメルのように一本になってでてきた瓦の粘土。



まだ焼く前なので、このとおりクニャクニャです。





乾燥させたあと、釉薬をつける工程。


さすがに焼くところはみれませんでしたが、それぞれの工程で厳しい選別が行われており、品質管理はさすがだなあ、と思いました。
なんだか、小さい頃の社会科見学を彷彿とさせるような、とても楽しい見学のひとときでした。
その後、旧村松藩3万石の城下町へ。

屋敷などはほとんど残っていませんが、区割りなどは往時の面影が少し残っており、こうやってしっかり説明看板だけでも設置してあると本当にありがたいですね。
あまり時間がなく、さわりだけになってしまいましたが、今度個人的にじっくり歩いてみようと思います。

安田瓦の社長さんの話によると、鬼瓦の数で予算が決まるとのことで、一見無意味に見えるような屋根ですが、鬼瓦の数をわざと増やし、格をアピールしていたのかな、なんて思いました。
そして最後に新津市にある新潟県立植物園(こちらをクリック)へ。

樹木医の田中さんの解説案内で館内を見学しました。



バナナの花が咲いていました。

オクナ セルラタ。
南アフリカ原産。赤い花床に黒い石果がついてかわいらしく、それがミッキーマウスにも見えるので、別名「ミッキーマウスノキ」とも呼ばれているとか。

ベニヒモノキ。
西インド諸島原産で、小さな花が密になって、まるでふさふさの赤いしっぽのようだな、なんて思っていると、なるほど英名で「フォックステール」というとか。考えることは同じですね(笑)。


ルリゴクラクチョウカ。
南アフリカ原産。なんかヤシの実を細く割ったとこから花が咲いているような、不思議な形ですね。

これもなんでこんな形の花なの?って直接本人に聞いてみたい不思議な形、トケイソウの花。
花の珍しい形にしては結構平凡な名前がついてるな、と(笑)。

これは見慣れたウツボカズラ。

これは人工?それとも自然にこんなにきれいに編まれた?
名前がわからなかったので、「ネジリドーナツノキ」と名付けました。

フィリピンに自生するヒスイカズラ。
その名のとおり、ヒスイ色の美しい花をつけていました。
現地ではオオコウモリがこの花の蜜を吸いにくるとのことですが、今絶滅の危機に瀕している希少種とか。


この植物園のウリであるボタンの時期には少し早かったようですが、それでも何種類かは咲いていました。
次回の発見塾は6月18日、林道飯豊桧枝岐線の開通にあわせて、山都の向こう側、山形県飯豊町を巡ります。
早く下見にいかなくちゃ(笑)。
お城好きな私にとってたまらない「お宝」をいただきました。 - 2013.04.16 Tue
おとといの「八重の桜」ごらんになりましたか?
悲劇の会津戦争へ、風雲急を告げ、毎週目が離せない展開ですよね~。
龍馬がちょろっと登場したの、わかりました?(後ろ姿だけでしたが、家紋がばっちり)
来週はいよいよ待ちに待った中野竹子女史の登場ですね!(八重さんの影がさらに薄くなりそうですけど(苦笑)。)
と、話は変わって(少し関連)、昨日、5月開催予定の今年度一回目の会津発見塾の下見に行ってきました。
新潟は今桜満開。やっぱり会津より暖かいですね。
いくつかまわったのですが、メインは阿賀野市保田にある「安田瓦産業協業組合」さん。

鶴ヶ城は会津戦争ののち、1874年(明治7年)にいったん全て解体されたのですが、1965年(昭和40年)に再建されました。
そのときは黒瓦で再建されたものの、その後江戸時代には赤瓦で葺かれていたことがわかり、震災直前の2011年に「赤」に葺き替えられました。
表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強く、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようで、鶴ヶ城の大きな特徴のひとつとも言えますね(現在、赤瓦の城は日本で唯一)。
その2年前に鶴ヶ城の瓦を葺き替えたとき使用されたのがこの「安田瓦」なのです。
代表理事の星野さんから、そのときの赤瓦の製作、納入にまつわる苦労話、秘話など、とても興味深い話を伺いました。


一枚一枚の瓦すべてに製作年が刻まれています。


お話を伺っている間もとなりに置かれていた赤瓦の現物が気になっていて(苦笑)、帰り際に写真に撮らせていただこうと申し出たら、なんと!
「よかったらお持ちください」、と(笑)。
「え~っ!!い、いいんですか?」(私)

3つの形の瓦でワンセットなのですが、全部をいただいて帰ってきました。大きさも大きさですが、すごい重量感です。
実際に今、鶴ヶ城に葺かれている本物の赤瓦。
手に入れたくたって入れられるものでありません。
今後はこれを飾った部屋で、幕末の会津の人々を偲びながら、毎週、厳かな気持ちで「八重の桜」を鑑賞したいと思います(笑)。
悲劇の会津戦争へ、風雲急を告げ、毎週目が離せない展開ですよね~。
龍馬がちょろっと登場したの、わかりました?(後ろ姿だけでしたが、家紋がばっちり)
来週はいよいよ待ちに待った中野竹子女史の登場ですね!(八重さんの影がさらに薄くなりそうですけど(苦笑)。)
と、話は変わって(少し関連)、昨日、5月開催予定の今年度一回目の会津発見塾の下見に行ってきました。
新潟は今桜満開。やっぱり会津より暖かいですね。
いくつかまわったのですが、メインは阿賀野市保田にある「安田瓦産業協業組合」さん。

鶴ヶ城は会津戦争ののち、1874年(明治7年)にいったん全て解体されたのですが、1965年(昭和40年)に再建されました。
そのときは黒瓦で再建されたものの、その後江戸時代には赤瓦で葺かれていたことがわかり、震災直前の2011年に「赤」に葺き替えられました。
表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強く、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようで、鶴ヶ城の大きな特徴のひとつとも言えますね(現在、赤瓦の城は日本で唯一)。
その2年前に鶴ヶ城の瓦を葺き替えたとき使用されたのがこの「安田瓦」なのです。
代表理事の星野さんから、そのときの赤瓦の製作、納入にまつわる苦労話、秘話など、とても興味深い話を伺いました。


一枚一枚の瓦すべてに製作年が刻まれています。


お話を伺っている間もとなりに置かれていた赤瓦の現物が気になっていて(苦笑)、帰り際に写真に撮らせていただこうと申し出たら、なんと!
「よかったらお持ちください」、と(笑)。
「え~っ!!い、いいんですか?」(私)

3つの形の瓦でワンセットなのですが、全部をいただいて帰ってきました。大きさも大きさですが、すごい重量感です。
実際に今、鶴ヶ城に葺かれている本物の赤瓦。
手に入れたくたって入れられるものでありません。
今後はこれを飾った部屋で、幕末の会津の人々を偲びながら、毎週、厳かな気持ちで「八重の桜」を鑑賞したいと思います(笑)。
第7回(今年度最終回) 会津発見塾~白河街道・湖南方面の寺・神社を中心に~ - 2012.11.14 Wed
11月7日、先日下見にも参加した、第7回会津発見塾(今年度最終回)に行ってきました。
これまでの発見塾の模様は→こちらをクリック
今回のテーマは白河街道の湖南パート。街道沿いにある神社仏閣を中心に巡ります。
まずは郡山市湖南町福良にある千手院・伏竜寺へ。

境内にある大きなカエデが紅葉見頃をむかえていて、のっけから感嘆の声が。


観音堂への石段の両脇には、山門のように一対のモミの巨木があります。
樹齢400年以上、郡山市の天然記念物に指定されています。
完全な対でなく、微妙に斜めに前後してるのが興味深いですね。

幹の太さもですが、根の張り方が迫力満点。巨木好きの私としてはもうほんとうっとりです(笑)。

写真左の方のモミは平成2年に落雷の被害があり、その後修復が行われたとのこと。
伏竜寺の名の起源には興味深い伝説があります。
その昔、猪苗代湖から大蛇が出て山を荒らしまわり、谷や沢に死気を撒き散らしていたため、里には悪疫がはびこり、暗雲が天を覆って作物も実らず、村人は苦しんでいました。
そこへ弘法大師が通りかかり、村人を哀れに思って大蛇のいる山に登り、大蛇の根城である大岩の上を箒で掃き清めると、大蛇は退散し麓山の裾の洞窟に這って逃げ込みました。
しかし、頭隠して尻隠さず、もがいているところを里人に見つかり、切り殺されてしまったそうです。
山に逃げた大蛇の尾が竜の臥せた姿に似ていたことから「伏竜寺」と名づけた、と伝わります。
ちなみに現在薬師堂だけが残る、大蛇が逃げた洞窟のあった付近は穴尾という地名が、大蛇の根城を掃いたところを岩掃山という名が今も残っています。
また、ここ伏竜寺は、戊辰戦争時には新撰組の野戦病院となっていたことも知られています。

千手院観音堂には県の重要文化財に指定されている秘仏があります。
それは毎年7月17日の例大祭の日、1日のみしか公開されないのですが、今回特別に拝観させていただきました。



「福良千手千眼観世音立像菩薩」。
ヒノキ材の一木彫、像高1.73mもある大きな仏像で、鎌倉時代よりも前、藤原末期の仏教文化を伝える貴重なものといわれています。
縁起書によれば大同年間(807年)に弘法大師自らの彫刻と伝わります。

足元はみれませんでしたが、いただいたパンフの写真ではこのようなお姿であられます。木目がとても美しい造りでした。

また、伏竜寺境内には「おたか不動尊」があります。

となりには秩父宮勢津子妃殿下の参拝記念碑が。

この御地蔵様として祀られているのは、「おたかさん」の愛称で親しまれている高橋たか刀自。
おたかさんは勢津子妃殿下が4歳の時からお興入れされるまで乳母として一身を投げ打って養育に努めた人なのでした。
女性で御地蔵様にまでなっている人は稀でしょうし、私は今回はじめて知りましたが、まだまだ会津にはあまり知られていない素晴らしい女性がいるのですね。




観音堂に向かって左手の奥のほうに、おたかさんのお墓があります。
日露戦争で戦死した夫・高橋誠二郎氏とともに眠っています。

脇には妻「ムツ」と。
そう、おたかさんの本名は「高橋ムツ」というそうです。
しかし、乳母をつとめた勢津子様が皇族へ嫁ぐ際、明治天皇の幼名が「睦仁(むつひと)」であるため、恐れ多いということで、「タカ」と改名したそうです。

そして伏竜寺をあとにし、隠津島(おきつしま)神社へ。
創祀年代は不明ですが、三世紀に大和朝廷の東北平定の際に遠く九州から勧進されたとも伝えられており、かなり古そうです。

猪苗代の大山祇神社社叢と同様、この隠津島神社の社叢も、数百年もの間神域として斧を入れられることもなく、原生林の形をそのまま残しており、森自体が県の天然記念物に指定されています。
例えばあの伊勢神宮もそうですが、ここも凛とした空気が全体に漂っていて、普段それほど信心深いわけでもない私でも、ひとたび「神域」に踏み込めばとても厳かな気持ちになります。
「対人」でもなく「唯物」でもない自然発生的なもの。
やっぱり自分は日本人なんだな、と。

「菅谷地」と呼ばれる神域。
新編会津風土記によると、「社の前に多く菅の生する所あり。早魃の時神職桑名氏潔斎して菅を採れば雨必ず降る」と伝えられております。
江戸時代にはこの隠津島神社は「菅明神」と呼ばれていたとか。


本殿は入母屋造で銅板葺。祭神は宗像三女神。九州から海の神ではなく農耕の神として遷されたものと考えられています。

本殿のある神域は背後にある巨岩に見てとれるように磐座(いわぐら)であって、風穴もあり、山・岩そのものを神の依り代として信仰した古代人がここに神域を見出した理由がとてもよくわかります。


本殿の左手にさらに少し登っていく道があります。
別宮である風月堂、「蛇神様」へ向かう道です。



風穴のある巨岩の上にお堂が建っています。

蛇は水辺や湿地に多く生息するので、水の神の姿またはその使者とみて蛇に雨乞いをしたり、五穀豊穣を祈ったりと、この土地の重要な信仰の対象となってきたと思われます。


この風穴には神である蛇が棲んでいると言われ、生卵をお供えするのが習わしです。





また、この森は、ミズナラの下生植物が日本海型と太平洋型とが混生しているそうで、この地域が両洋気候の接点地帯であることを示す注目すべき場所であるとのことです。



そして、隠津島神社の近くを流れる沢に下りてみると。。。

これが「菅滝」です。
高さ7mほどの小さな滝ですが、かつてはここで雨乞いの儀式が行われていたという伝説が残る由緒ある滝です。


滝のそばの木の根元には、こんな穴が。
以前私の家の脇の杉も全く同じようにやられたことあったのでわかるのですが、おそらくクマが掘った痕ではないかと。木の洞に蜂が巣をつくると蜂蜜欲しさにクマが掘っちゃうんですよね。

そして隠津島神社を後にし、昼食へ行く前にちょっと寄り道。
郡山市の重要文化財に指定されている「磨崖供養塔」。
古代から中世にかけての白川郡から会津に抜ける唯一の街道はこのへんを通っていたそうで、隠津島神社もその街道沿いにありました。

一番上に阿弥陀如来を表す梵字、その下に永仁2年(1294年)蓮阿と書いてあるらしいですが、蓮阿という人物は会津の歴史には登場せず、不明だそうです。

そして、湖南町中野にある東光寺へ。
まず境内入り口にそびえる巨木、「大仏の大ケヤキ」。
福島県の天然記念物および緑の文化財に指定されていて、県内では若松の神指城跡にある高瀬の大ケヤキに次ぐ大樹です。

なぜ「大仏の」ケヤキというかというと。。。

東光寺阿弥陀堂内には通称「中地大仏」、県の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像が安置されているからです。
(普段は扉が閉められていて、大仏様を拝観するには事前予約が必要です。)
前九年の役(1053年頃)でこの地を踏んだ源義家公が、戦勝を祈願して中地村堂ノ窪にお堂を建て、大仏を安置したのが始まりといわれ、鎌倉時代以降、安積伊東氏が管理していたものの、伊東氏が没落すると東光寺も廃れましたが、寛文年間(1661~1672年)にかの保科正之公が西に3kmほど移動した現在の位置に遷座し、以来大仏殿は藩公の祈願所として江戸からも参詣者が来るほど栄えたそうです。


この中地大仏は座高3.31m。座高が2.41mの喜多方の会津大仏よりも大きいです。
しかし、肩幅が頭部の大きさにくらべて狭く、細身の大仏様だなあ、と思っているとなんと!
肩には削った跡があり、保科正之に保護される前の荒廃していた時期に雨ざらしに遭って腐食したためその部分を削ったためとも、お堂が火災に遭った際に燃えてしまったぶんを削ったためこのような肩幅になったともいわれています。




写真ではわかりませんが、大仏様は大仏動座の際に使用した木車の上に今も安置されていて、もしお堂が火事になったら正面の壁が取り払われ、台座ごと引っ張り出せるようになっているそうです。



お堂の中には江戸時代につくられた木彫りのおみくじ原版も展示されていました。
ちなみに義家軍は東征を続けるにあたり、その場所場所で兵士を半ば土着させ、地元の娘達と結婚させて支配を強めていったそうですが、ここではその結婚式場にあてられたのがこの大仏殿だったそうです。
そこで後世、「中地大仏縁結び」と謳われるようになり、今もってカップルのお参りが絶えないとか(笑)。

東光寺をあとにし、猪苗代湖方面へ。
舟津にある代官所跡の碑。
江戸時代、会津藩の廻米は、笹山原からここを経由して江戸へ送られていました。
米だけでなくいろんな物資が運ばれ、ここ舟津は大変にぎわっていたそうです。

舟津浜から青松浜への途中(湖南から西へ時計回り)、猪苗代湖が入江のようになっている地形の美しいところがあります。それが鬼沼です。
中世には港として使われていたとか。
はやくも白鳥の姿が見られました。

青松浜の手前にある「藩領境の碑」。
大永三年(1523年)、舟津村(二本松領)と福良村(会津領)との間に境界争いが起きて、葦名氏による裁決の結果、ここが境と定められたとのこと。
本当はその時目印に植えられた大松があったそうですが、今は枯れて、根の部分だけが残っています。

これがその大松の根っこです。

猪苗代湖。風があって波高く、一見すると海ですね(笑)。


対岸に磐梯山。

帰り道、少し時間が余ったので、私の知ってる湧き水をみなさんに飲んでもらおうと寄り道しました。
西田面(にしたづら)集落のはずれにある「馬洗い清水」。
ここは旧白河街道沿いで、おそらく宿場に入る前に馬を洗ったからこういう名前が付いているのではないかと。
と、いう感じで今年度の会津発見塾は無事全日程終了しました。
ひょんなことで4月から関わることになった「会津発見塾」。
私自身、下見や下調べの段階からいろんな出会いや発見があって、とても有意義な時間でした。
活性化って、きっと「再発見」からスタートするのかな、と。
地元の人すら知らないマニアックないろんな自然、歴史、文化を来年も掘り起こしていけたらいいな、と思います。
これまでの発見塾の模様は→こちらをクリック
今回のテーマは白河街道の湖南パート。街道沿いにある神社仏閣を中心に巡ります。
まずは郡山市湖南町福良にある千手院・伏竜寺へ。

境内にある大きなカエデが紅葉見頃をむかえていて、のっけから感嘆の声が。


観音堂への石段の両脇には、山門のように一対のモミの巨木があります。
樹齢400年以上、郡山市の天然記念物に指定されています。
完全な対でなく、微妙に斜めに前後してるのが興味深いですね。

幹の太さもですが、根の張り方が迫力満点。巨木好きの私としてはもうほんとうっとりです(笑)。

写真左の方のモミは平成2年に落雷の被害があり、その後修復が行われたとのこと。
伏竜寺の名の起源には興味深い伝説があります。
その昔、猪苗代湖から大蛇が出て山を荒らしまわり、谷や沢に死気を撒き散らしていたため、里には悪疫がはびこり、暗雲が天を覆って作物も実らず、村人は苦しんでいました。
そこへ弘法大師が通りかかり、村人を哀れに思って大蛇のいる山に登り、大蛇の根城である大岩の上を箒で掃き清めると、大蛇は退散し麓山の裾の洞窟に這って逃げ込みました。
しかし、頭隠して尻隠さず、もがいているところを里人に見つかり、切り殺されてしまったそうです。
山に逃げた大蛇の尾が竜の臥せた姿に似ていたことから「伏竜寺」と名づけた、と伝わります。
ちなみに現在薬師堂だけが残る、大蛇が逃げた洞窟のあった付近は穴尾という地名が、大蛇の根城を掃いたところを岩掃山という名が今も残っています。
また、ここ伏竜寺は、戊辰戦争時には新撰組の野戦病院となっていたことも知られています。

千手院観音堂には県の重要文化財に指定されている秘仏があります。
それは毎年7月17日の例大祭の日、1日のみしか公開されないのですが、今回特別に拝観させていただきました。



「福良千手千眼観世音立像菩薩」。
ヒノキ材の一木彫、像高1.73mもある大きな仏像で、鎌倉時代よりも前、藤原末期の仏教文化を伝える貴重なものといわれています。
縁起書によれば大同年間(807年)に弘法大師自らの彫刻と伝わります。

足元はみれませんでしたが、いただいたパンフの写真ではこのようなお姿であられます。木目がとても美しい造りでした。

また、伏竜寺境内には「おたか不動尊」があります。

となりには秩父宮勢津子妃殿下の参拝記念碑が。

この御地蔵様として祀られているのは、「おたかさん」の愛称で親しまれている高橋たか刀自。
おたかさんは勢津子妃殿下が4歳の時からお興入れされるまで乳母として一身を投げ打って養育に努めた人なのでした。
女性で御地蔵様にまでなっている人は稀でしょうし、私は今回はじめて知りましたが、まだまだ会津にはあまり知られていない素晴らしい女性がいるのですね。




観音堂に向かって左手の奥のほうに、おたかさんのお墓があります。
日露戦争で戦死した夫・高橋誠二郎氏とともに眠っています。

脇には妻「ムツ」と。
そう、おたかさんの本名は「高橋ムツ」というそうです。
しかし、乳母をつとめた勢津子様が皇族へ嫁ぐ際、明治天皇の幼名が「睦仁(むつひと)」であるため、恐れ多いということで、「タカ」と改名したそうです。

そして伏竜寺をあとにし、隠津島(おきつしま)神社へ。
創祀年代は不明ですが、三世紀に大和朝廷の東北平定の際に遠く九州から勧進されたとも伝えられており、かなり古そうです。

猪苗代の大山祇神社社叢と同様、この隠津島神社の社叢も、数百年もの間神域として斧を入れられることもなく、原生林の形をそのまま残しており、森自体が県の天然記念物に指定されています。
例えばあの伊勢神宮もそうですが、ここも凛とした空気が全体に漂っていて、普段それほど信心深いわけでもない私でも、ひとたび「神域」に踏み込めばとても厳かな気持ちになります。
「対人」でもなく「唯物」でもない自然発生的なもの。
やっぱり自分は日本人なんだな、と。

「菅谷地」と呼ばれる神域。
新編会津風土記によると、「社の前に多く菅の生する所あり。早魃の時神職桑名氏潔斎して菅を採れば雨必ず降る」と伝えられております。
江戸時代にはこの隠津島神社は「菅明神」と呼ばれていたとか。


本殿は入母屋造で銅板葺。祭神は宗像三女神。九州から海の神ではなく農耕の神として遷されたものと考えられています。

本殿のある神域は背後にある巨岩に見てとれるように磐座(いわぐら)であって、風穴もあり、山・岩そのものを神の依り代として信仰した古代人がここに神域を見出した理由がとてもよくわかります。


本殿の左手にさらに少し登っていく道があります。
別宮である風月堂、「蛇神様」へ向かう道です。



風穴のある巨岩の上にお堂が建っています。

蛇は水辺や湿地に多く生息するので、水の神の姿またはその使者とみて蛇に雨乞いをしたり、五穀豊穣を祈ったりと、この土地の重要な信仰の対象となってきたと思われます。


この風穴には神である蛇が棲んでいると言われ、生卵をお供えするのが習わしです。





また、この森は、ミズナラの下生植物が日本海型と太平洋型とが混生しているそうで、この地域が両洋気候の接点地帯であることを示す注目すべき場所であるとのことです。



そして、隠津島神社の近くを流れる沢に下りてみると。。。

これが「菅滝」です。
高さ7mほどの小さな滝ですが、かつてはここで雨乞いの儀式が行われていたという伝説が残る由緒ある滝です。


滝のそばの木の根元には、こんな穴が。
以前私の家の脇の杉も全く同じようにやられたことあったのでわかるのですが、おそらくクマが掘った痕ではないかと。木の洞に蜂が巣をつくると蜂蜜欲しさにクマが掘っちゃうんですよね。

そして隠津島神社を後にし、昼食へ行く前にちょっと寄り道。
郡山市の重要文化財に指定されている「磨崖供養塔」。
古代から中世にかけての白川郡から会津に抜ける唯一の街道はこのへんを通っていたそうで、隠津島神社もその街道沿いにありました。

一番上に阿弥陀如来を表す梵字、その下に永仁2年(1294年)蓮阿と書いてあるらしいですが、蓮阿という人物は会津の歴史には登場せず、不明だそうです。

そして、湖南町中野にある東光寺へ。
まず境内入り口にそびえる巨木、「大仏の大ケヤキ」。
福島県の天然記念物および緑の文化財に指定されていて、県内では若松の神指城跡にある高瀬の大ケヤキに次ぐ大樹です。

なぜ「大仏の」ケヤキというかというと。。。

東光寺阿弥陀堂内には通称「中地大仏」、県の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像が安置されているからです。
(普段は扉が閉められていて、大仏様を拝観するには事前予約が必要です。)
前九年の役(1053年頃)でこの地を踏んだ源義家公が、戦勝を祈願して中地村堂ノ窪にお堂を建て、大仏を安置したのが始まりといわれ、鎌倉時代以降、安積伊東氏が管理していたものの、伊東氏が没落すると東光寺も廃れましたが、寛文年間(1661~1672年)にかの保科正之公が西に3kmほど移動した現在の位置に遷座し、以来大仏殿は藩公の祈願所として江戸からも参詣者が来るほど栄えたそうです。


この中地大仏は座高3.31m。座高が2.41mの喜多方の会津大仏よりも大きいです。
しかし、肩幅が頭部の大きさにくらべて狭く、細身の大仏様だなあ、と思っているとなんと!
肩には削った跡があり、保科正之に保護される前の荒廃していた時期に雨ざらしに遭って腐食したためその部分を削ったためとも、お堂が火災に遭った際に燃えてしまったぶんを削ったためこのような肩幅になったともいわれています。




写真ではわかりませんが、大仏様は大仏動座の際に使用した木車の上に今も安置されていて、もしお堂が火事になったら正面の壁が取り払われ、台座ごと引っ張り出せるようになっているそうです。



お堂の中には江戸時代につくられた木彫りのおみくじ原版も展示されていました。
ちなみに義家軍は東征を続けるにあたり、その場所場所で兵士を半ば土着させ、地元の娘達と結婚させて支配を強めていったそうですが、ここではその結婚式場にあてられたのがこの大仏殿だったそうです。
そこで後世、「中地大仏縁結び」と謳われるようになり、今もってカップルのお参りが絶えないとか(笑)。

東光寺をあとにし、猪苗代湖方面へ。
舟津にある代官所跡の碑。
江戸時代、会津藩の廻米は、笹山原からここを経由して江戸へ送られていました。
米だけでなくいろんな物資が運ばれ、ここ舟津は大変にぎわっていたそうです。

舟津浜から青松浜への途中(湖南から西へ時計回り)、猪苗代湖が入江のようになっている地形の美しいところがあります。それが鬼沼です。
中世には港として使われていたとか。
はやくも白鳥の姿が見られました。

青松浜の手前にある「藩領境の碑」。
大永三年(1523年)、舟津村(二本松領)と福良村(会津領)との間に境界争いが起きて、葦名氏による裁決の結果、ここが境と定められたとのこと。
本当はその時目印に植えられた大松があったそうですが、今は枯れて、根の部分だけが残っています。

これがその大松の根っこです。

猪苗代湖。風があって波高く、一見すると海ですね(笑)。


対岸に磐梯山。

帰り道、少し時間が余ったので、私の知ってる湧き水をみなさんに飲んでもらおうと寄り道しました。
西田面(にしたづら)集落のはずれにある「馬洗い清水」。
ここは旧白河街道沿いで、おそらく宿場に入る前に馬を洗ったからこういう名前が付いているのではないかと。
と、いう感じで今年度の会津発見塾は無事全日程終了しました。
ひょんなことで4月から関わることになった「会津発見塾」。
私自身、下見や下調べの段階からいろんな出会いや発見があって、とても有意義な時間でした。
活性化って、きっと「再発見」からスタートするのかな、と。
地元の人すら知らないマニアックないろんな自然、歴史、文化を来年も掘り起こしていけたらいいな、と思います。
第6回 会津発見塾~関柴町の寺宝と郷土史など~ - 2012.10.25 Thu
先週の亘理中学校の農業体験、週末の特産品交流事業と、書くことはたくさんあるのですが。。。。
まず、その前に10月11日に行われた会津発見塾について報告したいと思います。
第3回発見塾はこちらをクリック
第5回発見塾はこちらをクリック
今回は第3回のときのように私が講師を担当させていただて、私の集落周辺の寺や旧跡、清水や棚田などをご案内しました。

まずは喜多方市関柴町上勝(かみすぐれ)にある勝福寺観音堂へ。

勝福寺は廃寺となっていますが、寄せ棟造りで萱葺きの観音堂だけは残っていて、会津三十三観音第六札所となってます。
室町時代末ごろの手法が見られる和様・唐様折衷建築で、1558年葦名氏によって再建、国の重要文化財に指定されています。


勝福寺の前にはかつて熊倉街道が通ってました。

観音堂は昔、「勝(すぐれ)の前」という京から来た高貴な女性が松島への旅の途中この地で没し、勝前の父、中将政保がその冥福を願って建立したと伝え、古くから「勝の観音堂」と呼ばれてきました。それまでこの周辺の村は「原」という名前だったそうですが、それと関連して「勝(すぐれ)村」となったそうです。


観音堂のご本尊である観音菩薩は正月(1/17)、島八千日(7/10)、お盆(8/17)の年3回しか御開帳されず、内部の拝観も事前予約が必要です。


向かって左が、毘沙門天立像で、本尊の観音菩薩の脇侍として安置されています。福島県指定重要文化財です。

右が、不動明王立像。毘沙門天と同じく、県の重要文化財です。

観音堂のむかって右側の鐘楼にある「永禄七(1564)年」銘の銅鐘は、芦名盛氏・守興父子の寄進であり、会津の刀工として名高い古川兼定の作によるものとのことです。

観音堂の道をはさんだ反対側には堂ノ上古墳があり(遺構の時代、性格は不明)、その上に「勝の前の墓」があります。

「勝の前」の墓。
また、この地で病に伏し松島にいけなくなったことを嘆いた勝の前のために、村の人がここに松島の景勝を模したものをつくったという伝聞もあり、この墓の東側にはその名残と思われる堀に囲まれた宗像神社があります。


そして勝福寺観音堂をあとにし、知る人ぞ知る関柴の誇る秘仏がある中善寺へ。
中善寺は今年130周年を迎える「喜多方事件」の発端となった場所でして、まずはそのことから。
1882年(明治15年)、福島県令となった三島通庸は、着任早々会津三方道路に開削を計画しました。
しかしその内容は民意を無視し、工事費の過重な負担を住民に強いるものであったそうです。
これに反対する農民たちは、地元豪農層の自由民権家たちと力を合わせて、道路工事の不当性を法廷に提訴すると同時に、正夫服役と代夫賃上納の拒否などをもって抵抗しました。
県内外の自由党員たちの応援を得るなかで反対運動の指導者たちが次々と逮捕される状況下、近在の村人たちがこの中善寺に集まって、同盟の結束と訴訟の継続を話し合い、逮捕者の見舞いのため2日後の喜多方集合が決められました。
こうしてこの寺の会合は、喜多方事件の直接の発端となったのでした。
会合があったのが、まさに上の写真の本堂です。

開基の年月は不詳ですが、新編会津風土記によると、中善寺の開基はご本尊の修理木札に記された延慶3年(1310年)かもしれないとのことです。
もともとは曹洞宗の寺だったようですが、その後荒廃。慶長年間(1596~1615年)に会津若松より弥勒寺(真言宗)の僧が来て再興、それ以来弥勒寺の末寺となったとのこと。
境内には保科公入府の際植樹されたと伝えられる杉の老木7本のうち4本が健在。あと福島県緑の文化財に指定されている樹齢250年のカリンの大木2本があります。

本堂の奥、階段を登ったところに薬師堂。そのさらに奥に日光・月光両菩薩や12神将、ご本尊薬師如来像が安置されている新しい薬師堂があります。

中善寺薬師如来像の拝観も事前予約が必要で、私も今回はじめて拝観できる機会に恵まれました。

ご本尊の薬師如来坐像は平安時代後期、藤原文化の面影を伝える傑作で、京都でつくられて運ばれてきたと考えられており、国の重要文化財に指定されています。



とてもおだやかでやさしいお顔をされてました。


金箔の名残がみられ、かつては金色に輝いていたのだろうと想像できます。
(後背が輝いていますが、これは後世のもの)



そして、入柴にある舘跡へ。
上の写真の道路をまたいだ両側に「関柴館」があったといわれています。
戦国時代、葦名氏の家臣、松本備中がここ関柴町入柴に館をかまえていました。松本備中は関柴の領主ということで「関柴備中」とも呼ばれていました。
◎松本備中と北方合戦
天正13年(1585年)5月、松本備中は葦名氏を裏切り、伊達政宗に内応し、入田付の山道を切り開いて伊達勢を引き入れたため、関柴のあたりで戦いが繰りひろげられました。この戦いは「檜原軍物語」では「北方合戦」、「会津合戦記」では「関柴合戦」と記されています。
この時の激戦地には「打入」や「火付沢」などの地名が今も残っています。
この戦いで伊達勢は敗北し、松本備中は姥堂川のほとりで沼沢出雲に討ち取られ、備中の父長門は捕らえられ、若松の天寧寺河原で串刺しの刑に処されたと伝わります。

今は館の痕跡はありませんが、館があったといわれる場所の南西の端には当時松本備中の飲用に供したという清水が今も湧いていて、「御台所清水」と呼ばれています。

松本氏の勢力は姥堂川が形成する小扇状地に及んでいたようで、この関柴館が扇の要にあたり、扇央に高橋館、北畑館、赤坂館の3つの支城の跡が確認されています。

また、関柴館跡から見て姥堂川対岸約400mの山腹に「物見の松」と呼ばれる老木があって、さらにその山頂部には山城の遺構が確認されています(小松山城跡)。
関柴館の南、丘陵の端には「平石」という地名があり、現在は舗装されてしまっていますが、少し前までは道が石敷きになっていたそうで、地元の伝承では、万一敵方が騎馬で侵入すれば居館にあってもその音を聞き取ることができるようになっていた、とのことです。

龍泉寺。
開基は長徳4年(998)。天正13年(1585)の伊達政宗の会津侵攻の際、この一帯は戦場となり、この寺も炎に包まれましたが、龍が出てきて消し止めた、という伝説があります。


龍泉寺の境内にはオンバ様の像があります。

そしていよいよウチの集落へ。
途中、週末には水汲みの人で混み合う「大仏清水」に。
しかし、この夏の異常渇水で、完全に枯れてしまっていて、みなさんに味わっていただけませんでした。

さらに関柴ダムの脇を道沿いに登っていくと、姥堂川にかけられた橋に出ます。橋を渡るとすぐ分かれ道になっていて、右の急坂を行けば小楚々木、左は大楚々木へ行きます。
今の橋や新しい道のなかった昔は、旧道が姥堂川沿いにあったそうで、それをのぼってくるとこの分かれ道に出たそうです。
ここで村人は必ず一休みしてから家路へ急いだとのことですが、ここには「三匹猿」の石碑があり、この分かれの辺りを今でも楚々木の人は「ちょっこびろ」と呼んでいます。
これは「ちょっと見ろ」が訛った名前らしく、猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹です。
この分かれから小楚々木へ通じる道は険しい山道で、鬱蒼とした樹木が両側から覆っていました(今現在もそうですが(苦笑))。それだけに化け物が住み、通る人をかどわかすことがたびたびあったそうで、「ちょっこびろ」という地名も、化け物がいるかどうか見て確かめ、急いで通れということでついたとのこと。

ある日、村人は化け物を追い払ういい方法はないかと相談し、三匹猿を石に刻んで「ちょっこびろ」に安置しました。それからというもの、化け物は再び村人の前には姿を現さなくなったとのことです。


大楚々木にまわると、カモシカの歓迎。
このへんには数家族「常駐」していて、私は見慣れてるし、畑を荒らすやっかいな友でしかないのですが、山都のみなさんにとっては珍しいらしく、歓声があがってました。

私のウチの水道は、この「愛宕清水」。

前述の大仏清水と違って、この清水は全く枯れることなく安定しています。みなさん天然の岩清水でのどを潤していました。

そして棚田周辺をしばらく散策したのち。。

グリーンツーの稲刈りイベントでも活躍していただいた、長老・渡部翁にまたまたお願いして、いろいろお話していただきました。

楚々木の歴史から戦争に行った話まで、おじいちゃんの話はほんと面白くて、みなさん興味深く聞き入っていました。
意外と山を隔てると近くても交流がなかったりするので、こういう機会をどんどん設けていくのも活性化につながるかな、と思いました。
発見塾も次回11月7日が今年度最終回。
先週下見に行ってきたのですが、次回も興味深い内容となりそうです。
まず、その前に10月11日に行われた会津発見塾について報告したいと思います。
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今回は第3回のときのように私が講師を担当させていただて、私の集落周辺の寺や旧跡、清水や棚田などをご案内しました。

まずは喜多方市関柴町上勝(かみすぐれ)にある勝福寺観音堂へ。

勝福寺は廃寺となっていますが、寄せ棟造りで萱葺きの観音堂だけは残っていて、会津三十三観音第六札所となってます。
室町時代末ごろの手法が見られる和様・唐様折衷建築で、1558年葦名氏によって再建、国の重要文化財に指定されています。


勝福寺の前にはかつて熊倉街道が通ってました。

観音堂は昔、「勝(すぐれ)の前」という京から来た高貴な女性が松島への旅の途中この地で没し、勝前の父、中将政保がその冥福を願って建立したと伝え、古くから「勝の観音堂」と呼ばれてきました。それまでこの周辺の村は「原」という名前だったそうですが、それと関連して「勝(すぐれ)村」となったそうです。


観音堂のご本尊である観音菩薩は正月(1/17)、島八千日(7/10)、お盆(8/17)の年3回しか御開帳されず、内部の拝観も事前予約が必要です。


向かって左が、毘沙門天立像で、本尊の観音菩薩の脇侍として安置されています。福島県指定重要文化財です。

右が、不動明王立像。毘沙門天と同じく、県の重要文化財です。

観音堂のむかって右側の鐘楼にある「永禄七(1564)年」銘の銅鐘は、芦名盛氏・守興父子の寄進であり、会津の刀工として名高い古川兼定の作によるものとのことです。

観音堂の道をはさんだ反対側には堂ノ上古墳があり(遺構の時代、性格は不明)、その上に「勝の前の墓」があります。

「勝の前」の墓。
また、この地で病に伏し松島にいけなくなったことを嘆いた勝の前のために、村の人がここに松島の景勝を模したものをつくったという伝聞もあり、この墓の東側にはその名残と思われる堀に囲まれた宗像神社があります。


そして勝福寺観音堂をあとにし、知る人ぞ知る関柴の誇る秘仏がある中善寺へ。
中善寺は今年130周年を迎える「喜多方事件」の発端となった場所でして、まずはそのことから。
1882年(明治15年)、福島県令となった三島通庸は、着任早々会津三方道路に開削を計画しました。
しかしその内容は民意を無視し、工事費の過重な負担を住民に強いるものであったそうです。
これに反対する農民たちは、地元豪農層の自由民権家たちと力を合わせて、道路工事の不当性を法廷に提訴すると同時に、正夫服役と代夫賃上納の拒否などをもって抵抗しました。
県内外の自由党員たちの応援を得るなかで反対運動の指導者たちが次々と逮捕される状況下、近在の村人たちがこの中善寺に集まって、同盟の結束と訴訟の継続を話し合い、逮捕者の見舞いのため2日後の喜多方集合が決められました。
こうしてこの寺の会合は、喜多方事件の直接の発端となったのでした。
会合があったのが、まさに上の写真の本堂です。

開基の年月は不詳ですが、新編会津風土記によると、中善寺の開基はご本尊の修理木札に記された延慶3年(1310年)かもしれないとのことです。
もともとは曹洞宗の寺だったようですが、その後荒廃。慶長年間(1596~1615年)に会津若松より弥勒寺(真言宗)の僧が来て再興、それ以来弥勒寺の末寺となったとのこと。
境内には保科公入府の際植樹されたと伝えられる杉の老木7本のうち4本が健在。あと福島県緑の文化財に指定されている樹齢250年のカリンの大木2本があります。

本堂の奥、階段を登ったところに薬師堂。そのさらに奥に日光・月光両菩薩や12神将、ご本尊薬師如来像が安置されている新しい薬師堂があります。

中善寺薬師如来像の拝観も事前予約が必要で、私も今回はじめて拝観できる機会に恵まれました。

ご本尊の薬師如来坐像は平安時代後期、藤原文化の面影を伝える傑作で、京都でつくられて運ばれてきたと考えられており、国の重要文化財に指定されています。



とてもおだやかでやさしいお顔をされてました。


金箔の名残がみられ、かつては金色に輝いていたのだろうと想像できます。
(後背が輝いていますが、これは後世のもの)



そして、入柴にある舘跡へ。
上の写真の道路をまたいだ両側に「関柴館」があったといわれています。
戦国時代、葦名氏の家臣、松本備中がここ関柴町入柴に館をかまえていました。松本備中は関柴の領主ということで「関柴備中」とも呼ばれていました。
◎松本備中と北方合戦
天正13年(1585年)5月、松本備中は葦名氏を裏切り、伊達政宗に内応し、入田付の山道を切り開いて伊達勢を引き入れたため、関柴のあたりで戦いが繰りひろげられました。この戦いは「檜原軍物語」では「北方合戦」、「会津合戦記」では「関柴合戦」と記されています。
この時の激戦地には「打入」や「火付沢」などの地名が今も残っています。
この戦いで伊達勢は敗北し、松本備中は姥堂川のほとりで沼沢出雲に討ち取られ、備中の父長門は捕らえられ、若松の天寧寺河原で串刺しの刑に処されたと伝わります。

今は館の痕跡はありませんが、館があったといわれる場所の南西の端には当時松本備中の飲用に供したという清水が今も湧いていて、「御台所清水」と呼ばれています。

松本氏の勢力は姥堂川が形成する小扇状地に及んでいたようで、この関柴館が扇の要にあたり、扇央に高橋館、北畑館、赤坂館の3つの支城の跡が確認されています。

また、関柴館跡から見て姥堂川対岸約400mの山腹に「物見の松」と呼ばれる老木があって、さらにその山頂部には山城の遺構が確認されています(小松山城跡)。
関柴館の南、丘陵の端には「平石」という地名があり、現在は舗装されてしまっていますが、少し前までは道が石敷きになっていたそうで、地元の伝承では、万一敵方が騎馬で侵入すれば居館にあってもその音を聞き取ることができるようになっていた、とのことです。

龍泉寺。
開基は長徳4年(998)。天正13年(1585)の伊達政宗の会津侵攻の際、この一帯は戦場となり、この寺も炎に包まれましたが、龍が出てきて消し止めた、という伝説があります。


龍泉寺の境内にはオンバ様の像があります。

そしていよいよウチの集落へ。
途中、週末には水汲みの人で混み合う「大仏清水」に。
しかし、この夏の異常渇水で、完全に枯れてしまっていて、みなさんに味わっていただけませんでした。

さらに関柴ダムの脇を道沿いに登っていくと、姥堂川にかけられた橋に出ます。橋を渡るとすぐ分かれ道になっていて、右の急坂を行けば小楚々木、左は大楚々木へ行きます。
今の橋や新しい道のなかった昔は、旧道が姥堂川沿いにあったそうで、それをのぼってくるとこの分かれ道に出たそうです。
ここで村人は必ず一休みしてから家路へ急いだとのことですが、ここには「三匹猿」の石碑があり、この分かれの辺りを今でも楚々木の人は「ちょっこびろ」と呼んでいます。
これは「ちょっと見ろ」が訛った名前らしく、猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹です。
この分かれから小楚々木へ通じる道は険しい山道で、鬱蒼とした樹木が両側から覆っていました(今現在もそうですが(苦笑))。それだけに化け物が住み、通る人をかどわかすことがたびたびあったそうで、「ちょっこびろ」という地名も、化け物がいるかどうか見て確かめ、急いで通れということでついたとのこと。

ある日、村人は化け物を追い払ういい方法はないかと相談し、三匹猿を石に刻んで「ちょっこびろ」に安置しました。それからというもの、化け物は再び村人の前には姿を現さなくなったとのことです。


大楚々木にまわると、カモシカの歓迎。
このへんには数家族「常駐」していて、私は見慣れてるし、畑を荒らすやっかいな友でしかないのですが、山都のみなさんにとっては珍しいらしく、歓声があがってました。

私のウチの水道は、この「愛宕清水」。

前述の大仏清水と違って、この清水は全く枯れることなく安定しています。みなさん天然の岩清水でのどを潤していました。

そして棚田周辺をしばらく散策したのち。。

グリーンツーの稲刈りイベントでも活躍していただいた、長老・渡部翁にまたまたお願いして、いろいろお話していただきました。

楚々木の歴史から戦争に行った話まで、おじいちゃんの話はほんと面白くて、みなさん興味深く聞き入っていました。
意外と山を隔てると近くても交流がなかったりするので、こういう機会をどんどん設けていくのも活性化につながるかな、と思いました。
発見塾も次回11月7日が今年度最終回。
先週下見に行ってきたのですが、次回も興味深い内容となりそうです。
第5回会津発見塾~明治を生きた会津の女性達の足跡を訪ねて~ - 2012.09.20 Thu
本来なら16日のイベント報告を「稲刈り体験無事終了しました!」って、真っ先に書きたいのですが。。。。
その前に書きたいものがふたつほどありまして。。。(苦笑)
稲刈り報告まだか、という御叱りをいくつか受けましたが、もうしばらくお待ちください(笑)。
というわけで、まずは先週13日に行った「第5回会津発見塾」のことを。
前々回、講師をやらせていただいた会津発見塾。
こちらをクリック
前回の7月はグリーンツーのイベントとかちあっていたため欠席しましたが、今回の第5回はまた参加させていただきました。
今回のテーマは「明治を生きた会津の女性達」。
来年の大河ドラマ「八重の桜」の予習編です。

今回の講師は会津史学会の佐藤紀子先生。
私の知らなかった様々な興味深い会津史のディープな話を伺えました。

出発前に30分ほど座学。
会津の女性といえば、中野竹子、おけい、若松賤子、瓜生岩子、新島八重子、山川捨松、海老名リンなどとてもたくさんの偉人がいますが、今回は新島八重子、中野竹子、山川捨松、海老名リンの4名に絞っての解説。
しかしそれでも時間は全然足りません(笑)。

まずは私の中で会津の女性といえばこの人!の憧れナンバー1、中野竹子女史のお墓がある会津坂下町・法界寺へ。

まずはみんなで御線香上げさせていただきました。


中野竹子の墓。
中野竹子は藩邸生まれの江戸育ち。容姿端麗で頭も良く、武芸にも優れていたというスーパーウーマン。
戊辰戦争が始まると会津に戻ります。
自分も戦に参加したいと申し出ると、家老に「婦女子まで戦争に出したと見られては会津武士の名折れ」と一度は断られますが、「ならばこの場で自刃します」と決死の覚悟で再度直訴。
脱籍浪人で組織された「衝鋒隊(しょうほうたい)」に参加を許され、薙刀で長州・大垣藩と戦い奮戦するも、敵の銃撃に遭い、壮絶な戦死を遂げたのでした。


竹子辞世の句。
武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば
数に入らぬ わが身ながらも
竹子はこの句を詠んだ短冊を薙刀に結びつけ、敵と互角以上に斬り結んだそうです。
この句を読むたびに私は胸が熱くなります。
竹子は女子に生まれたわが身を呪ったかもしれませんが、「中野竹子」は間違いなく男子以上の「会津魂」を持った「もののふ」だったんですよね。




お寺の中に中野竹子の遺品が展示されています。



上の薙刀が、竹子の使ったものとのことです。
これに短冊を結んでいたんですね。
下にあるのは竹子愛用の硯。


そして井上住職に、実に心あたたまるお話を伺いました。
(住職は昨日(19日)に放送されたNHK歴史秘話ヒストリアの番組の中でもご登場されていましたね)
かいつまんでご紹介すると、
・人間どのように散るかが大事。
・便利な時代なのに、世はいじめ、親殺し、子殺し、自殺、、、昔より不満多く何かが狂っている。やはり心の充実がすべて。
・人の一生は一本のろうそくに火をつけたのと同じ。
・明日の命はわからない。生きている今を一生懸命生きるとともに、「おかげさま」の精神、感謝の気持ちを常に忘れずに。

そして法界寺を後にし、中野竹子殉節の地へ。
実際はもう少し東とのことですが、この周辺で1868年8月25日に竹子を含む会津藩兵と長州・大垣藩兵の激しい戦いが展開され、男達に混じって奮戦した中野竹子は敵の銃弾に倒れ、22歳の若すぎる命をここで散らしたのでした。


続いて、今も続いている、海老名リンのつくった若松第一幼稚園へ。

海老名リンは会津の幼稚園、女学校の創立者、熱心なキリスト教信者として知られています。
戊辰の役の際は、父の見舞いに行っていたため籠城には間に合わず、一時は自刃を考えたものの踏みとどまり、落城後は斗南に入植、極貧生活に耐え続けます。
夫の季昌(すえまさ)が警視庁課長に就任して一緒に上京してからはキリスト教の熱心な信者となり、社会活動家として成長していったそうです。
そして夫が職を辞し会津に戻ってからは、故郷に幼稚園そして女学校を設立するために奔走するのです。
生き残った者の使命として故郷に何かをしないではいられない、それが海老名リンの場合、教育事業だったのでしょうね。

そして、いよいよ来年の大河の主役、「新島八重」の登場です。
新島(山本)八重は会津藩砲術師範を務める山本家の三女として生まれ、小さい頃から男勝りの気性、60kgの俵を上げ下げ出来るほどの怪力で、お堀で石投げをするとどの男にも負けなかったといいます。
今の世なら、レスリングか砲丸投げで金メダリストになってたかもしれませんね(笑)。
そんな八重が戦ったという、鶴ケ城北出丸へ。
藩の砲術師範であった父や兄から射撃・砲術を学んだ八重は、戊辰の役の際、断髪、戦死した弟の服をまとい、新式のスペンサー銃と刀を手にとって果敢に戦ったとのことです。
西軍が怒涛のごとく城下に押し寄せてきたとき、八重の一家も自刃しようと思ったそうですが、八重は先の鳥羽伏見の戦いで戦死した弟三郎を思い、「私は弟の仇を討たねばならぬ。一は主君のため、二は弟のため、命の限り戦う!」と家族を説得して入城したそうです。

北出丸の東のこの角には、かつて櫓があったそうで、八重はここで戦ったと伝えられてます。


籠城戦最大の激戦区だったといわれる北出丸東の追手門付近。
八重はここから鉄砲や大砲を放ったといわれ、ほんとかどうかわかりませんが、一説には35人以上もの敵兵を倒したとか。

そして城をあとにし、八重の生家跡へ。
もちろん建物はすでになく、写真奥、バスの停まっている駐車場付近が山本家屋敷があったあたり。

来年に向けて、こんな看板が立ってました。

近くには白虎隊士であった伊藤悌次郎の家があり、八重は悌次郎はじめ、他の白虎隊士にゲベール銃の撃ち方を教えていたとか。

そして山本家の菩提寺である大龍寺へ。
会津にはいわゆる「お供寺」といって、保科正之公が最上から会津に移封されたとき、一緒に移ってきた寺がいっぱいあり、大龍寺もそのひとつです。
ここは戊辰の役でも焼き討ちにあわなかったので(その理由はこの後書きます)、370年前の建物がそのまま残っています。


境内に入ってすぐ左にあるのが小笠原長時の墓。
よく「小笠原流」とか聞いたことあると思うのですが、礼儀作法の流派として名高い小笠原流の祖です。
長時はもともと信濃領主でしたが、武田信玄に破れ、上杉謙信を頼って越後に落ち、謙信死後は葦名氏を頼って会津に落ちのびました。
しかしこの地で家臣に殺されたとのことです。跡目相続争いのせいとも、家臣の個人的な恨みのせいとも言われています。
小笠原家はその後、子孫が徳川家康に協力し、小倉の大名に任ぜられます。
佐賀藩ではこの寺が小笠原氏ゆかりの寺であったことを知っていたため、戊辰の役の際、市内の多くの寺が焼かれたものの、この寺は焼かれなかったのでした。


山本家の墓は境内奥にあります。これまた来年用にこんな看板ができていました。

八重自身の墓はここではなく京都にあるのですが、八重は亡くなる前年の昭和6年、それまで点在していた山本家の墓をここにまとめ、墓標を建立します。

この「山本家之墓」の文字は八重自身が書いたといわれています。裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれています。

さらに大龍寺には、今私の中で静かなるブームの(笑)、安藤有益の墓もあります。
安藤有益は会津藩の勘定役や普請奉行だった人で、あの関孝和と並ぶ和算家、安井算哲に並ぶ暦学者として有名です。
先週から公開されている映画「天地明察」の中にも登場してきます。(劇中出番が少なかったのが私は少し不満でしたが。(苦笑))
面白いエピソードとして次のような話があります。
1688年、有益が政争に巻き込まれ所領を没収され今の西会津町極入に幽閉されたとき、有益はこれ幸いと数学、特に魔方陣の研究に没頭し、ついには日本最初の魔方陣の解説書である『奇偶方数』を完成させたとのことです。
いや~、謹慎どころか有益にとってはやりたいことをやれる時間をもらったぐらいにしか感じなかったんでしょうかねえ(笑)。

そして大龍寺の中へ。
さすが築370年。重厚感が違います。

中野竹子らが慕った、照姫(松平容保公の姉)が使った輿がありました。



ひときわ異彩を放っていた人形。
「あまかっつぁま」と呼ばれている前述の小笠原長時の娘が小さいときに遊んでいたからくり人形の一部と伝えられています。つまり400年前の人形。今は頭部と手しか残っていないそうです。
小笠原長時が殺されたとき、妻も子も一緒に殺されたとか。
寺の奥さんは「供養の意味もこめてみなさんにはなでていただいてます」と。

そ、そんな古い貴重なものを、素手で触っていいのかな~、と少し思いましたが、私も手にさせていただきました。




さらに。。。。こんな張り紙発見。
なになに?ゆうれいの足跡???

ありました(笑)。土踏まずばっちりの運動神経よさそうなゆうれいですね~(笑)。

足跡にあやかってこんなお守りも売られていました。


壁にはこんな会津藩の旗が。私は不勉強でわかりませんが、「靂」という難しい字にはどんな意味があるのかな。。。辞書ひくと激しい雷の意のようですが、、、二という数字があるので「隊」とか「陣」とかと同じ意味でしょうかね?

また、大龍寺には。。。それほど手入れの行き届いてない(笑)庭があります。
しかし、この庭は有名な作庭家、目黒浄定という人がつくったもので、実はあの御薬園を造る前の試作として造ったものだそうです。

大龍寺の正門右手にある長命不動尊へ。

立派な御不動さまですね。
みんなの健康を祈りました。

最後に、善龍寺へ。
寺の伽藍は戊辰の役でことごとく焼失しましたが、この白亜総塗籠の山門は幸運にも焼け残ったのだそうです。
白壁と、その上に乗っている母屋造りの屋根が見事に調和しています。
楼上には西国三十三観音が安置されているそうです。

本堂北側に「奈興竹(なよたけ)の碑」。
戊辰の役で犠牲になった会津藩婦女子の霊をなぐさめる慰霊碑です。

碑の後ろ側には犠牲となった233人一人一人の名前と続柄が刻まれています。

なよたけの碑の名前のもととなった西郷千重子(家老西郷頼母の妻)の辞世の句。
なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節の ありとこそ聞け
この句も読むたびに熱いものがこみあげてきます。
「たわまぬ節」に、強烈な、高い、高い誇りを感じます。
千重子は籠城戦に参加しても自分は足手まといになる、しかし城外で敵の辱めを受けるわけにはいかない、と、自邸で娘達と自刃しました。
戦って死んだ中野竹子同様、高き誇りを持ち続けた立派な会津人だったと思います。

「なよたけの碑」の裏山に会津藩の代々家老をつとめた西郷家の墓所があります。

その中に西郷頼母と妻千重子の墓も。

署名はあの「飯沼貞吉」とありました。白虎隊唯一の生存者飯沼氏はなんと西郷家の血筋だったのですね。
実は善龍寺の裏山は、全体が巨大な墓地のようで、会津藩の武士が無数に眠っており、その数は把握できないとのこと。
飯森山は白虎隊があまりに有名なため、参拝者は後をたたないけど、こちらはいつ行っても閑散としています。

少し登ったところに、前述の西郷千重子はじめそのとき自刃した21人の墓があります。

会津降伏後、親族が屋敷の焼跡より遺骨を一つ一つ拾い出して善龍寺に埋葬したそうです。
背負って行くその途中、籠の中の骨がこすれあって、21人の人々がまるで自分に話しかけているようであったと伝えられています。

とても充実した発見塾でした。
時代を精一杯生きた人たち。
今の時代を生きる我々にとっては考えられないようなことばかりですが、、でも。。。
いつの時代であれ、絶対に忘れちゃいけない日本人としての志、誇りはしっかり受け継いで残していくべきだと思うし、それが色濃く残っているのが、ここ会津だと思うのです。
NHKが来年の大河ドラマに会津を取り上げてくれるのはありがたいし、それによって風評被害にあえぐこの地が少しでも浮上できることを私も切に願ってます。
ただ、これをいいことに集客一辺倒に偏って浮わついたまま来年を過ごすことになったりすると、その先にある「会津」が少し不安になります。
きっと来年は多くの方が会津を訪れてくださることでしょう。
そこでその人たちに
一過性でなく、
ブームでもなく、
決して時代による変節を受けたりしない、
「REAL DEAL」な「会津」を発信できたらいいな、なんて思います。
それにはまだまだ勉強しなきゃならないですね。
さあ、明日は稲刈りの模様をレポートします~。遅れてすみません。。。
その前に書きたいものがふたつほどありまして。。。(苦笑)
稲刈り報告まだか、という御叱りをいくつか受けましたが、もうしばらくお待ちください(笑)。
というわけで、まずは先週13日に行った「第5回会津発見塾」のことを。
前々回、講師をやらせていただいた会津発見塾。
こちらをクリック
前回の7月はグリーンツーのイベントとかちあっていたため欠席しましたが、今回の第5回はまた参加させていただきました。
今回のテーマは「明治を生きた会津の女性達」。
来年の大河ドラマ「八重の桜」の予習編です。

今回の講師は会津史学会の佐藤紀子先生。
私の知らなかった様々な興味深い会津史のディープな話を伺えました。

出発前に30分ほど座学。
会津の女性といえば、中野竹子、おけい、若松賤子、瓜生岩子、新島八重子、山川捨松、海老名リンなどとてもたくさんの偉人がいますが、今回は新島八重子、中野竹子、山川捨松、海老名リンの4名に絞っての解説。
しかしそれでも時間は全然足りません(笑)。

まずは私の中で会津の女性といえばこの人!の憧れナンバー1、中野竹子女史のお墓がある会津坂下町・法界寺へ。

まずはみんなで御線香上げさせていただきました。


中野竹子の墓。
中野竹子は藩邸生まれの江戸育ち。容姿端麗で頭も良く、武芸にも優れていたというスーパーウーマン。
戊辰戦争が始まると会津に戻ります。
自分も戦に参加したいと申し出ると、家老に「婦女子まで戦争に出したと見られては会津武士の名折れ」と一度は断られますが、「ならばこの場で自刃します」と決死の覚悟で再度直訴。
脱籍浪人で組織された「衝鋒隊(しょうほうたい)」に参加を許され、薙刀で長州・大垣藩と戦い奮戦するも、敵の銃撃に遭い、壮絶な戦死を遂げたのでした。


竹子辞世の句。
武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば
数に入らぬ わが身ながらも
竹子はこの句を詠んだ短冊を薙刀に結びつけ、敵と互角以上に斬り結んだそうです。
この句を読むたびに私は胸が熱くなります。
竹子は女子に生まれたわが身を呪ったかもしれませんが、「中野竹子」は間違いなく男子以上の「会津魂」を持った「もののふ」だったんですよね。




お寺の中に中野竹子の遺品が展示されています。



上の薙刀が、竹子の使ったものとのことです。
これに短冊を結んでいたんですね。
下にあるのは竹子愛用の硯。


そして井上住職に、実に心あたたまるお話を伺いました。
(住職は昨日(19日)に放送されたNHK歴史秘話ヒストリアの番組の中でもご登場されていましたね)
かいつまんでご紹介すると、
・人間どのように散るかが大事。
・便利な時代なのに、世はいじめ、親殺し、子殺し、自殺、、、昔より不満多く何かが狂っている。やはり心の充実がすべて。
・人の一生は一本のろうそくに火をつけたのと同じ。
・明日の命はわからない。生きている今を一生懸命生きるとともに、「おかげさま」の精神、感謝の気持ちを常に忘れずに。

そして法界寺を後にし、中野竹子殉節の地へ。
実際はもう少し東とのことですが、この周辺で1868年8月25日に竹子を含む会津藩兵と長州・大垣藩兵の激しい戦いが展開され、男達に混じって奮戦した中野竹子は敵の銃弾に倒れ、22歳の若すぎる命をここで散らしたのでした。


続いて、今も続いている、海老名リンのつくった若松第一幼稚園へ。

海老名リンは会津の幼稚園、女学校の創立者、熱心なキリスト教信者として知られています。
戊辰の役の際は、父の見舞いに行っていたため籠城には間に合わず、一時は自刃を考えたものの踏みとどまり、落城後は斗南に入植、極貧生活に耐え続けます。
夫の季昌(すえまさ)が警視庁課長に就任して一緒に上京してからはキリスト教の熱心な信者となり、社会活動家として成長していったそうです。
そして夫が職を辞し会津に戻ってからは、故郷に幼稚園そして女学校を設立するために奔走するのです。
生き残った者の使命として故郷に何かをしないではいられない、それが海老名リンの場合、教育事業だったのでしょうね。

そして、いよいよ来年の大河の主役、「新島八重」の登場です。
新島(山本)八重は会津藩砲術師範を務める山本家の三女として生まれ、小さい頃から男勝りの気性、60kgの俵を上げ下げ出来るほどの怪力で、お堀で石投げをするとどの男にも負けなかったといいます。
今の世なら、レスリングか砲丸投げで金メダリストになってたかもしれませんね(笑)。
そんな八重が戦ったという、鶴ケ城北出丸へ。
藩の砲術師範であった父や兄から射撃・砲術を学んだ八重は、戊辰の役の際、断髪、戦死した弟の服をまとい、新式のスペンサー銃と刀を手にとって果敢に戦ったとのことです。
西軍が怒涛のごとく城下に押し寄せてきたとき、八重の一家も自刃しようと思ったそうですが、八重は先の鳥羽伏見の戦いで戦死した弟三郎を思い、「私は弟の仇を討たねばならぬ。一は主君のため、二は弟のため、命の限り戦う!」と家族を説得して入城したそうです。

北出丸の東のこの角には、かつて櫓があったそうで、八重はここで戦ったと伝えられてます。


籠城戦最大の激戦区だったといわれる北出丸東の追手門付近。
八重はここから鉄砲や大砲を放ったといわれ、ほんとかどうかわかりませんが、一説には35人以上もの敵兵を倒したとか。

そして城をあとにし、八重の生家跡へ。
もちろん建物はすでになく、写真奥、バスの停まっている駐車場付近が山本家屋敷があったあたり。

来年に向けて、こんな看板が立ってました。

近くには白虎隊士であった伊藤悌次郎の家があり、八重は悌次郎はじめ、他の白虎隊士にゲベール銃の撃ち方を教えていたとか。

そして山本家の菩提寺である大龍寺へ。
会津にはいわゆる「お供寺」といって、保科正之公が最上から会津に移封されたとき、一緒に移ってきた寺がいっぱいあり、大龍寺もそのひとつです。
ここは戊辰の役でも焼き討ちにあわなかったので(その理由はこの後書きます)、370年前の建物がそのまま残っています。


境内に入ってすぐ左にあるのが小笠原長時の墓。
よく「小笠原流」とか聞いたことあると思うのですが、礼儀作法の流派として名高い小笠原流の祖です。
長時はもともと信濃領主でしたが、武田信玄に破れ、上杉謙信を頼って越後に落ち、謙信死後は葦名氏を頼って会津に落ちのびました。
しかしこの地で家臣に殺されたとのことです。跡目相続争いのせいとも、家臣の個人的な恨みのせいとも言われています。
小笠原家はその後、子孫が徳川家康に協力し、小倉の大名に任ぜられます。
佐賀藩ではこの寺が小笠原氏ゆかりの寺であったことを知っていたため、戊辰の役の際、市内の多くの寺が焼かれたものの、この寺は焼かれなかったのでした。


山本家の墓は境内奥にあります。これまた来年用にこんな看板ができていました。

八重自身の墓はここではなく京都にあるのですが、八重は亡くなる前年の昭和6年、それまで点在していた山本家の墓をここにまとめ、墓標を建立します。

この「山本家之墓」の文字は八重自身が書いたといわれています。裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれています。

さらに大龍寺には、今私の中で静かなるブームの(笑)、安藤有益の墓もあります。
安藤有益は会津藩の勘定役や普請奉行だった人で、あの関孝和と並ぶ和算家、安井算哲に並ぶ暦学者として有名です。
先週から公開されている映画「天地明察」の中にも登場してきます。(劇中出番が少なかったのが私は少し不満でしたが。(苦笑))
面白いエピソードとして次のような話があります。
1688年、有益が政争に巻き込まれ所領を没収され今の西会津町極入に幽閉されたとき、有益はこれ幸いと数学、特に魔方陣の研究に没頭し、ついには日本最初の魔方陣の解説書である『奇偶方数』を完成させたとのことです。
いや~、謹慎どころか有益にとってはやりたいことをやれる時間をもらったぐらいにしか感じなかったんでしょうかねえ(笑)。

そして大龍寺の中へ。
さすが築370年。重厚感が違います。

中野竹子らが慕った、照姫(松平容保公の姉)が使った輿がありました。



ひときわ異彩を放っていた人形。
「あまかっつぁま」と呼ばれている前述の小笠原長時の娘が小さいときに遊んでいたからくり人形の一部と伝えられています。つまり400年前の人形。今は頭部と手しか残っていないそうです。
小笠原長時が殺されたとき、妻も子も一緒に殺されたとか。
寺の奥さんは「供養の意味もこめてみなさんにはなでていただいてます」と。

そ、そんな古い貴重なものを、素手で触っていいのかな~、と少し思いましたが、私も手にさせていただきました。




さらに。。。。こんな張り紙発見。
なになに?ゆうれいの足跡???

ありました(笑)。土踏まずばっちりの運動神経よさそうなゆうれいですね~(笑)。

足跡にあやかってこんなお守りも売られていました。


壁にはこんな会津藩の旗が。私は不勉強でわかりませんが、「靂」という難しい字にはどんな意味があるのかな。。。辞書ひくと激しい雷の意のようですが、、、二という数字があるので「隊」とか「陣」とかと同じ意味でしょうかね?

また、大龍寺には。。。それほど手入れの行き届いてない(笑)庭があります。
しかし、この庭は有名な作庭家、目黒浄定という人がつくったもので、実はあの御薬園を造る前の試作として造ったものだそうです。

大龍寺の正門右手にある長命不動尊へ。

立派な御不動さまですね。
みんなの健康を祈りました。

最後に、善龍寺へ。
寺の伽藍は戊辰の役でことごとく焼失しましたが、この白亜総塗籠の山門は幸運にも焼け残ったのだそうです。
白壁と、その上に乗っている母屋造りの屋根が見事に調和しています。
楼上には西国三十三観音が安置されているそうです。

本堂北側に「奈興竹(なよたけ)の碑」。
戊辰の役で犠牲になった会津藩婦女子の霊をなぐさめる慰霊碑です。

碑の後ろ側には犠牲となった233人一人一人の名前と続柄が刻まれています。

なよたけの碑の名前のもととなった西郷千重子(家老西郷頼母の妻)の辞世の句。
なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節の ありとこそ聞け
この句も読むたびに熱いものがこみあげてきます。
「たわまぬ節」に、強烈な、高い、高い誇りを感じます。
千重子は籠城戦に参加しても自分は足手まといになる、しかし城外で敵の辱めを受けるわけにはいかない、と、自邸で娘達と自刃しました。
戦って死んだ中野竹子同様、高き誇りを持ち続けた立派な会津人だったと思います。

「なよたけの碑」の裏山に会津藩の代々家老をつとめた西郷家の墓所があります。

その中に西郷頼母と妻千重子の墓も。

署名はあの「飯沼貞吉」とありました。白虎隊唯一の生存者飯沼氏はなんと西郷家の血筋だったのですね。
実は善龍寺の裏山は、全体が巨大な墓地のようで、会津藩の武士が無数に眠っており、その数は把握できないとのこと。
飯森山は白虎隊があまりに有名なため、参拝者は後をたたないけど、こちらはいつ行っても閑散としています。

少し登ったところに、前述の西郷千重子はじめそのとき自刃した21人の墓があります。

会津降伏後、親族が屋敷の焼跡より遺骨を一つ一つ拾い出して善龍寺に埋葬したそうです。
背負って行くその途中、籠の中の骨がこすれあって、21人の人々がまるで自分に話しかけているようであったと伝えられています。

とても充実した発見塾でした。
時代を精一杯生きた人たち。
今の時代を生きる我々にとっては考えられないようなことばかりですが、、でも。。。
いつの時代であれ、絶対に忘れちゃいけない日本人としての志、誇りはしっかり受け継いで残していくべきだと思うし、それが色濃く残っているのが、ここ会津だと思うのです。
NHKが来年の大河ドラマに会津を取り上げてくれるのはありがたいし、それによって風評被害にあえぐこの地が少しでも浮上できることを私も切に願ってます。
ただ、これをいいことに集客一辺倒に偏って浮わついたまま来年を過ごすことになったりすると、その先にある「会津」が少し不安になります。
きっと来年は多くの方が会津を訪れてくださることでしょう。
そこでその人たちに
一過性でなく、
ブームでもなく、
決して時代による変節を受けたりしない、
「REAL DEAL」な「会津」を発信できたらいいな、なんて思います。
それにはまだまだ勉強しなきゃならないですね。
さあ、明日は稲刈りの模様をレポートします~。遅れてすみません。。。