ヤマネ 続き - 2012.09.27 Thu
インターネットって凄いですね。
ヤマネの話は昨夜アップしたばかりだったのですが、すぐにヤマネの生息調査を行っている方から書き込みがありました。
全国のヤマネ発見事例を収集してヤマネの生息分布図を作製してらっしゃるそうで、私の昨夜の例もそのデータのひとつになれば幸いです。
その方、筑波大学農林技術センター八ケ岳演習林の杉山様のブログはヤマネについてとてもわかりやすくまとめてらっしゃるので、ここに紹介しておきたいと思います。
こちらをクリック
杉山様の作成されているヤマネ生息域マップ(こちらをクリック)を見ると、ウチの山ひとつ向こうの桧原湖周辺に報告例が集中しているようですが、きっと国立公園内だから、自然愛好家による発見例が多いということなのでしょう。
喜多方市内ではほとんど発見報告例がないようですが、これを機にみんなで少し「ヤマネ」について興味持ってみませんか?
もしみつかったら、私にでもかまいませんし、直接上記ブログの方から報告してみてください。
以下、杉山様から、、昨日私の前で見せたヤマネクンの行動が、典型的なヤマネの行動だとわかる興味深いメール返信をいただいたので転載します。
いやーほんとファニーな生き物ですね。
私がこの珍獣に会えたこともラッキーでしたが、ほとんど無傷でいてくれたこともラッキーです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これまでヤマネの目撃情報を650例ほど収集いたしましたがヤマネ発見事例はとても少なく、貴重な事例をご教示頂けた事を大変嬉しく思います。
ヤマネの目撃事例で、幾つか面白い事例を紹介させていただきます。
ヤマネはネズミより(人への)警戒心が薄く、野外での発見時には人を樹と思うのか人の体に這い上がって来ます。
http://oltozan.blog77.fc2.com/blog-entry-156.html#more
また眠くなったらどこでも寝てしまうみたいです。
http://cyaribone.exblog.jp/5609112
トイレのトイレットペーパーの芯なんかも利用します。
http://oze-hidamari.blog.so-net.ne.jp/2010-01-05
牛乳瓶なんかも利用します。
http://akanezumi.exblog.jp/12481271/
ヤマネは他のネズミと違い警戒心が足りないと思われるところがあります。
のんびりと生きているのがいいのか、他のネズミよりも長寿です(オスで5年メスで3年ほど)。
ヤマネが人目に付くということは天敵の目にも付くと思われますが、絶滅することなく太古の昔から生きながらえている動物みたいです。
しかしヤマネがネコのターゲットになる事例も多々あります。
http://togetter.com/li/206854
今回堀口様が無傷でヤマネを保護されたとのことで、奇跡的な事例とも思えます。
ヤマネを昔から林業に携わる人々は守り神として大切にしてきたと聞きますが、その守り神とされているヤマネは普通に見たくても簡単に見られない「正に珍獣」であり、夜行性のヤマネを見かけることは、一部の選ばれた人のみ見ることが出来る幸運かもしれません。

ヤマネの話は昨夜アップしたばかりだったのですが、すぐにヤマネの生息調査を行っている方から書き込みがありました。
全国のヤマネ発見事例を収集してヤマネの生息分布図を作製してらっしゃるそうで、私の昨夜の例もそのデータのひとつになれば幸いです。
その方、筑波大学農林技術センター八ケ岳演習林の杉山様のブログはヤマネについてとてもわかりやすくまとめてらっしゃるので、ここに紹介しておきたいと思います。
こちらをクリック
杉山様の作成されているヤマネ生息域マップ(こちらをクリック)を見ると、ウチの山ひとつ向こうの桧原湖周辺に報告例が集中しているようですが、きっと国立公園内だから、自然愛好家による発見例が多いということなのでしょう。
喜多方市内ではほとんど発見報告例がないようですが、これを機にみんなで少し「ヤマネ」について興味持ってみませんか?
もしみつかったら、私にでもかまいませんし、直接上記ブログの方から報告してみてください。
以下、杉山様から、、昨日私の前で見せたヤマネクンの行動が、典型的なヤマネの行動だとわかる興味深いメール返信をいただいたので転載します。
いやーほんとファニーな生き物ですね。
私がこの珍獣に会えたこともラッキーでしたが、ほとんど無傷でいてくれたこともラッキーです。
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これまでヤマネの目撃情報を650例ほど収集いたしましたがヤマネ発見事例はとても少なく、貴重な事例をご教示頂けた事を大変嬉しく思います。
ヤマネの目撃事例で、幾つか面白い事例を紹介させていただきます。
ヤマネはネズミより(人への)警戒心が薄く、野外での発見時には人を樹と思うのか人の体に這い上がって来ます。
http://oltozan.blog77.fc2.com/blog-entry-156.html#more
また眠くなったらどこでも寝てしまうみたいです。
http://cyaribone.exblog.jp/5609112
トイレのトイレットペーパーの芯なんかも利用します。
http://oze-hidamari.blog.so-net.ne.jp/2010-01-05
牛乳瓶なんかも利用します。
http://akanezumi.exblog.jp/12481271/
ヤマネは他のネズミと違い警戒心が足りないと思われるところがあります。
のんびりと生きているのがいいのか、他のネズミよりも長寿です(オスで5年メスで3年ほど)。
ヤマネが人目に付くということは天敵の目にも付くと思われますが、絶滅することなく太古の昔から生きながらえている動物みたいです。
しかしヤマネがネコのターゲットになる事例も多々あります。
http://togetter.com/li/206854
今回堀口様が無傷でヤマネを保護されたとのことで、奇跡的な事例とも思えます。
ヤマネを昔から林業に携わる人々は守り神として大切にしてきたと聞きますが、その守り神とされているヤマネは普通に見たくても簡単に見られない「正に珍獣」であり、夜行性のヤマネを見かけることは、一部の選ばれた人のみ見ることが出来る幸運かもしれません。

珍客 ヤマネくん - 2012.09.26 Wed
私事ですが、ウチには3匹のネコたちがいます。
みんなそれなりに優秀なハンターで、ネズミ、モグラはもちろん、野鳥のヒナ、蝶や蛾、トンボ、バッタ、カエル、時にはヘビまでくわえては「ドヤ顔」して持ってきます(苦笑)。
そして今日もまた。
いつものようにネズミかな、と思ってたらちょっと違いました。
背中に一本の黒いスジ。尻尾にも毛があります。
なんと、国の天然記念物、「ヤマネ」でした。(動物園以外でナマで野生のを見るのは私もはじめて)
これはさすがにまずい。
と、ネコから没収して保護することに。



ネコに手荒に扱われてショックを受けたのか、あまり動きません。幸い外傷はほとんどないようです。









しばらくして元気になりモゾモゾ動いていたかと思ったら、今度はピタッと動かなくなりました。

なんと!安心したのか、寝ちゃってました(笑)。

小さい小さい歯がかわいいですね(笑)。






もちろん、天然記念物であるヤマネを飼うことはできないので、ウチの子がしでかした責任として、怪我やダメージがないか数日様子を見たのち、森へ返す予定です。
みんなそれなりに優秀なハンターで、ネズミ、モグラはもちろん、野鳥のヒナ、蝶や蛾、トンボ、バッタ、カエル、時にはヘビまでくわえては「ドヤ顔」して持ってきます(苦笑)。
そして今日もまた。
いつものようにネズミかな、と思ってたらちょっと違いました。
背中に一本の黒いスジ。尻尾にも毛があります。
なんと、国の天然記念物、「ヤマネ」でした。(動物園以外でナマで野生のを見るのは私もはじめて)
これはさすがにまずい。
と、ネコから没収して保護することに。



ネコに手荒に扱われてショックを受けたのか、あまり動きません。幸い外傷はほとんどないようです。









しばらくして元気になりモゾモゾ動いていたかと思ったら、今度はピタッと動かなくなりました。

なんと!安心したのか、寝ちゃってました(笑)。

小さい小さい歯がかわいいですね(笑)。






もちろん、天然記念物であるヤマネを飼うことはできないので、ウチの子がしでかした責任として、怪我やダメージがないか数日様子を見たのち、森へ返す予定です。
会津藩公行列 - 2012.09.26 Wed
9月23日、昨年に引き続き、今年も会津まつり藩公行列に行ってきました。
会津まつりって、もともとは会津の先人に感謝するとともに、戊辰の役で亡くなった会津藩士や戦火に巻き込まれた方の慰霊と鎮魂のため式典であり、厳粛なものです。

しかし今年は終日雨。。。。
みなさん甲冑や着物が濡れないようにビニールをかぶったりしてとても苦労しているようでした。

雨だと傘をさしている人が多く、とても前がみずらかったです(苦笑)。
カメラもずっと出しているわけにいかず。。。。今回はあまりいい写真がなくてすみません。。。
いっそのこと昨年の写真を載せようかとも思いましたが、それじゃ意味がないとも思うのでどうかお許しください。



だいたい殿様クラスの方は馬に乗って進むのですが、蒲生氏郷公は昨年も今年もなぜか徒歩(笑)。
これは私の不勉強で、何か氏郷公が馬に乗らなかったとか、馬が嫌いだとかいった文献があるのでしょうか?それとも氏郷公に扮してる方の都合でしょうか?(笑)

会津藩祖、保科正之公に扮するは、昨年に引き続き室井現会津若松市長。
名君の誉れ高く、また明暦の大火の後江戸の復興に尽力された正之公が今の時代にいてくれたら、と思ってる人は多いですよね。

新撰組に扮するは土方歳三の生誕地日野市の方々。

土方っぽいこのかっこいい方は昨年も来られてましたね。


松平容大公。容保の側室の子で、松平家再興をゆるされ斗南藩藩主に。その後斗南県県知事→陸軍大尉。

ドラマ「ハンチョウ」とかの原作者で作家の今野敏氏扮するは会津藩家老、西郷頼母。
観光名所のひとつになっている東山温泉手前の武家屋敷は頼母の屋敷を再現したもの。
常に恭順派だったので腰抜けとも伝わってますが、私はむしろ当時現実を一番わかっていて最後まで藩の行く末を案じていた人だったと思います。
来年の大河ドラマでは西田敏行さんが演じるということで、楽しみです。

家老、佐川官兵衛。数々の武勇伝を持つ猛将で、薩長からは「鬼官兵衛」と恐れられ、名前を聞くと逃げ出す兵もいたとか。
酒による失敗のエピソードもたくさん伝えられていますが(苦笑)、直情的で人情に厚かったともいわれ、人としてきっと魅力的な方だったんだろうな、と。
大河ドラマではあの中村獅童さんが演じるとのことで、これは間違いなくハマリ役となりそうですね(笑)。

日光口隊総督、山川大蔵。
後の陸軍少将山川浩で、大山捨松の兄です。
「智将」と言われた人で、下野街道に攻め寄せる板垣退助や谷干城などの精鋭部隊と互角以上に渡り合い、ついに西軍をしてこの方面からの会津領突入を断念させたのでした。
その後窮地に立たされた鶴ヶ城に合流する際、すでに取り囲んでいる西軍諸藩を突破して入城するために、彼岸獅子の笛や太鼓を先頭に立てて堂々と行進してくるという奇策を用いた、というのが有名なエピソードです。

そして本陣到着。

松平容保公に扮するは、「本物」松平家第14代当主、松平保久氏。そういった目でみるせいか、どことなく容保公の面影があるように感じますよね。

容保公の義姉、照姫。美人だなあと思ったら、やはりタレントさんだそうです(笑)。

スネルとおけい。
ヘンリースネルはオランダ公使館勤務のプロシア人で、会津藩砲術指南、つまり軍事顧問。
あまりよく知らないときは、グラバーのような武器商人かな、なんて私は思ってましたが、最近いろいろ読んでみると、会津に対して強い思い入れを持ち、平松武兵衛と名乗って完全に武士として行動を共にしていたんですよね。今はラストサムライの中のトムクルーズのようなイメージになりました。
そのスネルの会津への思いは戊辰戦争後も続き、会津人が中心となってのアメリカ移民入植地、「若松コロニー」への移民を実行したといわれています。どこまでもかっこいい!
おけいはスネルについてアメリカへ行った、アメリカ移民女性第一号と言われている人で、行って1年後に19歳の若さで病死。カリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルの丘におけいの墓があるそうで、いつか行ってみたいと思ってます。
ちなみにスネル扮するは地元外国語教師、おけいは地元中学生とか。

中野竹子女史。竹子さんについては先日の会津発見塾の回で詳しく書いたので、ここでは割愛させていただきますが、扮するは地元商業高校の生徒会長さんだそうで、なるほど、凛々しい感じが中野竹子とダブり、いい感じです(笑)。

竹子が率いた娘子隊。
照姫が会津坂下に立ち退いたことを耳にした中野竹子らが、最初は照姫を護衛するために隊を組織、しかし、その後は護衛でなく最前線へ。。。


今年のゲスト、国広富之さん(来年の大河ドラマでは 家老 横山主税役)。

もうひとりのゲスト、白羽ゆりさん(来年の大河では山川登勢役)

これは大河ドラマ放送記念ということで、会津ゆかりの偉人女性シリーズ。
前から、瓜生岩子、海老名りん、山川捨松、若松賤子、井深八重。

これも大河記念、八重一家。
前から兄覚馬、弟三郎、八重、母佐久、父権八。

そして!私の大好きな、長岡藩軍事総督、河井継之助見参!!

これが継之助みずから打ちまくったガトリング砲。当時日本に3つしかない最新鋭の武器でしたが、そのうち2つを継之助が保持していたんですよね。

そして城内に戻り、今月初めから活動を開始した大河ドラマのPRチーム、「ふくしま八重隊」のパフォーマンスステージを鑑賞しました。

ミュージカル形式のリズミカルなダンスを交えたパフォーマンスによって、八重や八重の家族、また同じ時代を生きた仲間たちを紹介していきます。
慣れないステージである上、あいにくの悪天候でかなり大変そうでしたが、完成度はともかく、八重の桜を、福島を盛り上げていこうという「一生懸命さ」がひしひしと伝わってきて、感動しました。
今後もがんばって欲しいと思います。
応援してます!
ふくしま八重隊の詳細についてはこちらをクリック
会津まつりって、もともとは会津の先人に感謝するとともに、戊辰の役で亡くなった会津藩士や戦火に巻き込まれた方の慰霊と鎮魂のため式典であり、厳粛なものです。

しかし今年は終日雨。。。。
みなさん甲冑や着物が濡れないようにビニールをかぶったりしてとても苦労しているようでした。

雨だと傘をさしている人が多く、とても前がみずらかったです(苦笑)。
カメラもずっと出しているわけにいかず。。。。今回はあまりいい写真がなくてすみません。。。
いっそのこと昨年の写真を載せようかとも思いましたが、それじゃ意味がないとも思うのでどうかお許しください。



だいたい殿様クラスの方は馬に乗って進むのですが、蒲生氏郷公は昨年も今年もなぜか徒歩(笑)。
これは私の不勉強で、何か氏郷公が馬に乗らなかったとか、馬が嫌いだとかいった文献があるのでしょうか?それとも氏郷公に扮してる方の都合でしょうか?(笑)

会津藩祖、保科正之公に扮するは、昨年に引き続き室井現会津若松市長。
名君の誉れ高く、また明暦の大火の後江戸の復興に尽力された正之公が今の時代にいてくれたら、と思ってる人は多いですよね。

新撰組に扮するは土方歳三の生誕地日野市の方々。

土方っぽいこのかっこいい方は昨年も来られてましたね。


松平容大公。容保の側室の子で、松平家再興をゆるされ斗南藩藩主に。その後斗南県県知事→陸軍大尉。

ドラマ「ハンチョウ」とかの原作者で作家の今野敏氏扮するは会津藩家老、西郷頼母。
観光名所のひとつになっている東山温泉手前の武家屋敷は頼母の屋敷を再現したもの。
常に恭順派だったので腰抜けとも伝わってますが、私はむしろ当時現実を一番わかっていて最後まで藩の行く末を案じていた人だったと思います。
来年の大河ドラマでは西田敏行さんが演じるということで、楽しみです。

家老、佐川官兵衛。数々の武勇伝を持つ猛将で、薩長からは「鬼官兵衛」と恐れられ、名前を聞くと逃げ出す兵もいたとか。
酒による失敗のエピソードもたくさん伝えられていますが(苦笑)、直情的で人情に厚かったともいわれ、人としてきっと魅力的な方だったんだろうな、と。
大河ドラマではあの中村獅童さんが演じるとのことで、これは間違いなくハマリ役となりそうですね(笑)。

日光口隊総督、山川大蔵。
後の陸軍少将山川浩で、大山捨松の兄です。
「智将」と言われた人で、下野街道に攻め寄せる板垣退助や谷干城などの精鋭部隊と互角以上に渡り合い、ついに西軍をしてこの方面からの会津領突入を断念させたのでした。
その後窮地に立たされた鶴ヶ城に合流する際、すでに取り囲んでいる西軍諸藩を突破して入城するために、彼岸獅子の笛や太鼓を先頭に立てて堂々と行進してくるという奇策を用いた、というのが有名なエピソードです。

そして本陣到着。

松平容保公に扮するは、「本物」松平家第14代当主、松平保久氏。そういった目でみるせいか、どことなく容保公の面影があるように感じますよね。

容保公の義姉、照姫。美人だなあと思ったら、やはりタレントさんだそうです(笑)。

スネルとおけい。
ヘンリースネルはオランダ公使館勤務のプロシア人で、会津藩砲術指南、つまり軍事顧問。
あまりよく知らないときは、グラバーのような武器商人かな、なんて私は思ってましたが、最近いろいろ読んでみると、会津に対して強い思い入れを持ち、平松武兵衛と名乗って完全に武士として行動を共にしていたんですよね。今はラストサムライの中のトムクルーズのようなイメージになりました。
そのスネルの会津への思いは戊辰戦争後も続き、会津人が中心となってのアメリカ移民入植地、「若松コロニー」への移民を実行したといわれています。どこまでもかっこいい!
おけいはスネルについてアメリカへ行った、アメリカ移民女性第一号と言われている人で、行って1年後に19歳の若さで病死。カリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルの丘におけいの墓があるそうで、いつか行ってみたいと思ってます。
ちなみにスネル扮するは地元外国語教師、おけいは地元中学生とか。

中野竹子女史。竹子さんについては先日の会津発見塾の回で詳しく書いたので、ここでは割愛させていただきますが、扮するは地元商業高校の生徒会長さんだそうで、なるほど、凛々しい感じが中野竹子とダブり、いい感じです(笑)。

竹子が率いた娘子隊。
照姫が会津坂下に立ち退いたことを耳にした中野竹子らが、最初は照姫を護衛するために隊を組織、しかし、その後は護衛でなく最前線へ。。。


今年のゲスト、国広富之さん(来年の大河ドラマでは 家老 横山主税役)。

もうひとりのゲスト、白羽ゆりさん(来年の大河では山川登勢役)

これは大河ドラマ放送記念ということで、会津ゆかりの偉人女性シリーズ。
前から、瓜生岩子、海老名りん、山川捨松、若松賤子、井深八重。

これも大河記念、八重一家。
前から兄覚馬、弟三郎、八重、母佐久、父権八。

そして!私の大好きな、長岡藩軍事総督、河井継之助見参!!

これが継之助みずから打ちまくったガトリング砲。当時日本に3つしかない最新鋭の武器でしたが、そのうち2つを継之助が保持していたんですよね。

そして城内に戻り、今月初めから活動を開始した大河ドラマのPRチーム、「ふくしま八重隊」のパフォーマンスステージを鑑賞しました。

ミュージカル形式のリズミカルなダンスを交えたパフォーマンスによって、八重や八重の家族、また同じ時代を生きた仲間たちを紹介していきます。
慣れないステージである上、あいにくの悪天候でかなり大変そうでしたが、完成度はともかく、八重の桜を、福島を盛り上げていこうという「一生懸命さ」がひしひしと伝わってきて、感動しました。
今後もがんばって欲しいと思います。
応援してます!
ふくしま八重隊の詳細についてはこちらをクリック
福島民報9/23 日曜論壇より - 2012.09.25 Tue
ツイッターでもツイートしましたが、おとといの日曜日、福島民報にあの「アブラクサスの祭」の玄侑宗久さんによる、普段から私がモヤモヤしていることを見事に代弁してくださってる記事が載ったのでご紹介します。
記事はこちらをクリック
まったくもってその通りだと私も思うのです。
記事はこちらをクリック
まったくもってその通りだと私も思うのです。
檜枝岐歌舞伎伝承館「千葉之家」落成記念公演 - 2012.09.24 Mon
南会津檜枝岐村に伝わる桧枝岐歌舞伎は、江戸時代に村人がお伊勢参りに行った折、上方や江戸で見聞きした歌舞伎を村の娯楽に取り入れたのが始まりと言われています。
檜枝岐歌舞伎は、時世の変遷や役者の個性などの影響をあまり受けず、古典そのままの振りがしっかりと受け継がれてきているのが特徴で、歌舞伎は県の重要無形民俗文化財、舞台は国の重要有形文化財に指定されています。
こちらをクリック
檜枝岐歌舞伎は1度ナマで鑑賞してみたいと思ってたのですが、結構ウチから遠いのと年数回しかやっておらず、なかなか日程があわなくて実現できずにいました。
が、今回、歌舞伎の舞台のとなりに「檜枝岐歌舞伎伝承館」が完成し、その落成記念公演が特別に行われるとのことだったので、思い切って行ってみることにしたのでした。

ちょっとはやく着いたので、村内をしばらく散策しました。これは国道沿いにある六地蔵。
山深いこの地、凶作の年には多くの餓死者がでるほど食糧不足になるため、赤ん坊が間引きされることがあり、この六地蔵はその霊を弔うために建立されたとのことです。悲しい話ですね。。。

セイロウ造り板倉。
板倉は火事から大切な穀物を守るため、家から少し離れた畑の中に建てられました。板をセイロウのように組み合わせ、窓はなく釘や柱もいっさい使用されておらず、建築の年代は定かではありませんが、この様式は奈良の正倉院と同じだそうです。

橋場のバンバ。本来は子供を水難から守ってくれる水神様だそうですが、ここではそれ以上に「縁結び・縁切り」の神様として有名です。
手前左右のでっかいはさみわかりますか?左は新しいはさみで、右は錆びたはさみです。悪縁を断ち切りたい場合は左側へ新しいはさみを、良縁で切りたくないときは右側に錆びたはさみを供えるそうです。

これが9月1日にオープンした檜枝岐歌舞伎の概要や歴史を紹介する檜枝岐歌舞伎伝承館「千葉之家」。



国の重要文化財である舞台。「舞殿(まいでん)」と呼ばれています。

観客席は石段なんですね。




15:30いよいよ開演。

地元檜枝岐中学校の生徒さんによる「寿式三番叟」。
その日の舞台清めと公演の無事を祈るために毎回最初に必ず舞うそうですが、学校の授業のひとつとしてこれがあるそうで、伝統を守る村としては素晴らしいことですよね。


続いて特別ゲスト、善養寺恵介氏による尺八と、遠藤千晶氏による箏の演奏がありました。

その後17時からいよいよ檜枝岐歌舞伎。
数ある演目の中で、この日は「義経千本桜」が披露されました。


ストーリーとしては、頼朝と不和になった義経が、都を落ちる際、静御前と別れるシーンの話。
本来の重臣佐藤忠信が、歌舞伎では狐の化身として登場してきます。
実は私は高校時代以来の歌舞伎鑑賞で、当時私の高校では芸能鑑賞会というのがあり、皇居の近くにある国立劇場で鑑賞したのですが、どんな演目でどんな内容だったか全く覚えておらず(苦笑)。
何言ってるかもわからずに全然面白くなくて、おそらく私を含めた生徒の8割は寝ていたのではないかと。。。
ところが!
今回はストーリーや登場人物をよく知っていることもあり、セリフもよくわかり、とても楽しめました。
時は流れ、人間、成長するのだな、と(笑)。











他に娯楽もなく、村民唯一の慰安して伝承されてきたと言われている檜枝岐歌舞伎。
それが、いろんな娯楽が溢れている現代において、私には逆に最も光を放っているように感じられる、というのが興味深いですよね。
これもまた会津の宝として、ずっとずっと伝承されていくことを切に願います。
来年は定期公演を鑑賞しに、再び檜枝岐村を訪れてみようと思います。
檜枝岐歌舞伎は、時世の変遷や役者の個性などの影響をあまり受けず、古典そのままの振りがしっかりと受け継がれてきているのが特徴で、歌舞伎は県の重要無形民俗文化財、舞台は国の重要有形文化財に指定されています。
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檜枝岐歌舞伎は1度ナマで鑑賞してみたいと思ってたのですが、結構ウチから遠いのと年数回しかやっておらず、なかなか日程があわなくて実現できずにいました。
が、今回、歌舞伎の舞台のとなりに「檜枝岐歌舞伎伝承館」が完成し、その落成記念公演が特別に行われるとのことだったので、思い切って行ってみることにしたのでした。

ちょっとはやく着いたので、村内をしばらく散策しました。これは国道沿いにある六地蔵。
山深いこの地、凶作の年には多くの餓死者がでるほど食糧不足になるため、赤ん坊が間引きされることがあり、この六地蔵はその霊を弔うために建立されたとのことです。悲しい話ですね。。。

セイロウ造り板倉。
板倉は火事から大切な穀物を守るため、家から少し離れた畑の中に建てられました。板をセイロウのように組み合わせ、窓はなく釘や柱もいっさい使用されておらず、建築の年代は定かではありませんが、この様式は奈良の正倉院と同じだそうです。

橋場のバンバ。本来は子供を水難から守ってくれる水神様だそうですが、ここではそれ以上に「縁結び・縁切り」の神様として有名です。
手前左右のでっかいはさみわかりますか?左は新しいはさみで、右は錆びたはさみです。悪縁を断ち切りたい場合は左側へ新しいはさみを、良縁で切りたくないときは右側に錆びたはさみを供えるそうです。

これが9月1日にオープンした檜枝岐歌舞伎の概要や歴史を紹介する檜枝岐歌舞伎伝承館「千葉之家」。



国の重要文化財である舞台。「舞殿(まいでん)」と呼ばれています。

観客席は石段なんですね。




15:30いよいよ開演。

地元檜枝岐中学校の生徒さんによる「寿式三番叟」。
その日の舞台清めと公演の無事を祈るために毎回最初に必ず舞うそうですが、学校の授業のひとつとしてこれがあるそうで、伝統を守る村としては素晴らしいことですよね。


続いて特別ゲスト、善養寺恵介氏による尺八と、遠藤千晶氏による箏の演奏がありました。

その後17時からいよいよ檜枝岐歌舞伎。
数ある演目の中で、この日は「義経千本桜」が披露されました。


ストーリーとしては、頼朝と不和になった義経が、都を落ちる際、静御前と別れるシーンの話。
本来の重臣佐藤忠信が、歌舞伎では狐の化身として登場してきます。
実は私は高校時代以来の歌舞伎鑑賞で、当時私の高校では芸能鑑賞会というのがあり、皇居の近くにある国立劇場で鑑賞したのですが、どんな演目でどんな内容だったか全く覚えておらず(苦笑)。
何言ってるかもわからずに全然面白くなくて、おそらく私を含めた生徒の8割は寝ていたのではないかと。。。
ところが!
今回はストーリーや登場人物をよく知っていることもあり、セリフもよくわかり、とても楽しめました。
時は流れ、人間、成長するのだな、と(笑)。











他に娯楽もなく、村民唯一の慰安して伝承されてきたと言われている檜枝岐歌舞伎。
それが、いろんな娯楽が溢れている現代において、私には逆に最も光を放っているように感じられる、というのが興味深いですよね。
これもまた会津の宝として、ずっとずっと伝承されていくことを切に願います。
来年は定期公演を鑑賞しに、再び檜枝岐村を訪れてみようと思います。
稲作体験その3 稲刈り体験&収穫を祝う会 無事終了しました! - 2012.09.21 Fri
9月16日、稲作体験最終回・稲刈り体験が山都町堰沢地区で行われました。

午前中は現代の方法を体験しました。
まずは平野講師の家へ。

前日に刈って乾燥機にかけてあったモミを籾摺り機にかけて袋詰めにする工程を見学。

籾摺りは籾から籾殻(もみがら)を除去して玄米にする作業です。写真左側が籾摺り機、右側が30kgに計量して袋へいれる機械です。







今年からの新しいもの。こうして1袋1袋すべて識別できるバーコードが貼られます。福島県ではすべての米袋で放射能検査が行われるのです。
これについてはまた後日しっかりレポートしたいと思いますが、昨年の反省にたち、今年福島から出るお米は全て安全なんだ、というアピールです。


そして田んぼへ移動、コンバインによる機械稲刈りの体験です。
春に苦労して田植えを行った田んぼもご覧の通り実りの秋を迎えました。



カバーを空けてもらい、コンバインの部位と働きを平野講師に教えていただきました。


稲刈りから脱穀、さらにワラを裁断して田んぼに戻すまで一連の工程がコンバイン一機でできてしまいます。
田植え機を見させてもらった時もそうですが、技術の進歩ってすごいですねえ。

今回は首都圏からの参加者が多かったのですが、みんな稲を間近で見る経験も乏しく、実際の稲はこんなに背が高いんだ!という声もあがってました。

稲の熟し具合というか刈りごろについての説明。 ん?刈るにはまだ早いのでは?(笑)

参加者ひとりひとり交代でコンバインを運転させてもらいました。



脱穀の終わったワラは裁断されて田んぼに戻します。これがまた来年の肥やしになるのですね。






コンバインの中に脱穀したモミがたまったら、軽トラのタンクへ移し、家の乾燥機へ運びます。








午前中作業終了。公民館に戻って昼食。ここで、午後からのスペシャル講師をお願いしていた御歳92となられる私の集落の長老・渡部翁が合流。

昔ながらの手で刈る方法をご説明いただきました。

「出羽三山参拝」の笠がひかります。


新潟寄りの西会津地方は「はぜがけ」といって木で組んだものに掛けて乾燥させるのですが、会津北東部は主に違うやり方をずっと行ってきたそうで、そのやり方を見せていただきました。

おじいちゃんの手にかかると、あら不思議、パララ~と稲の傘ができました。

安定感抜群。見事ですね。




見ているときは簡単そうに見えたけど。。。実際はうまく立たせるのは結構難しく、みんな苦戦(笑)。



手作業の大変さをみんな身をもって体感。

続いて、先日このブログでもご紹介した、おじいちゃん所有の足踏み式脱穀機による脱穀体験。
本来は干して乾燥させた後に行う作業ですが、今回は時間の都合で刈ってすぐにこの作業を体験しました。


おじいちゃんは、昔やりながら歌ったという歌を披露してくださいました。






ドラムを安定して回すことは意外に難しく、かつては夜なべして一晩中これをやっていたと聞くと、一堂感嘆。


脱穀したモミはまず粗ごみを取り除いて、

何度も篩いにかけて、モミだけにしていきます。

家畜の冬のエサにとっておく用のワラの結び方も教えてもらいました。

「わらまるき」といってワラを束ねて立てるやり方も教わりました。

来るべき?注連縄やワラジ作りイベントで使うためのワラをキープ。うまく乾燥できるかな?

作業終了後、みんな近くの温泉へ行って汗を流し、地元の方々も合流して「収穫を祝う宴」開始。
会津自体初めてという参加者が複数いたので、まずは会津の郷土料理「こづゆ」を味わいました。

最後に宴会の楽しい模様を。。。
と思ったら、あれ????と。
なんと宴会の写真がこの1枚しかありませんでした(苦笑)。
私自身、久々に痛飲してしまいまして。。。。
いや~おいしい酒の差し入れもあり、飲みました、飲みました。
宴は午前2時ころまで続きました。
4月からこのグリーンツーのイベント運営を担当させていただいて、月イチかニくらいのペースでイベントを開催してきましたが、今回のが一番よかったんじゃないかな、と一人悦に入ってます。
というのも、地元の方々との交流、そして講師としていろんな経験豊富な長老を招くなど、今までと少し違う試みをやった結果、参加者はもちろん、おじいちゃんも元気になって、みんなのほんといい笑顔をみれたからです。
「地域活性化」って一言でいうにはいろんな要素があり、かつ難しいですが、要するに「みんな笑顔で元気になりましょう」ってことですよね。
小さいながらも地道にそれに向かってやっていけたらいいな、と思った次第でした。
貴重なお話をたくさんしてくださったおじいちゃん、体験田んぼを提供していただきかつ機械作業のいろんなことを教えてくださった平野氏はじめ、今回も本イベントに関わった全てのみなさんに感謝です!

午前中は現代の方法を体験しました。
まずは平野講師の家へ。

前日に刈って乾燥機にかけてあったモミを籾摺り機にかけて袋詰めにする工程を見学。

籾摺りは籾から籾殻(もみがら)を除去して玄米にする作業です。写真左側が籾摺り機、右側が30kgに計量して袋へいれる機械です。







今年からの新しいもの。こうして1袋1袋すべて識別できるバーコードが貼られます。福島県ではすべての米袋で放射能検査が行われるのです。
これについてはまた後日しっかりレポートしたいと思いますが、昨年の反省にたち、今年福島から出るお米は全て安全なんだ、というアピールです。


そして田んぼへ移動、コンバインによる機械稲刈りの体験です。
春に苦労して田植えを行った田んぼもご覧の通り実りの秋を迎えました。



カバーを空けてもらい、コンバインの部位と働きを平野講師に教えていただきました。


稲刈りから脱穀、さらにワラを裁断して田んぼに戻すまで一連の工程がコンバイン一機でできてしまいます。
田植え機を見させてもらった時もそうですが、技術の進歩ってすごいですねえ。

今回は首都圏からの参加者が多かったのですが、みんな稲を間近で見る経験も乏しく、実際の稲はこんなに背が高いんだ!という声もあがってました。

稲の熟し具合というか刈りごろについての説明。 ん?刈るにはまだ早いのでは?(笑)

参加者ひとりひとり交代でコンバインを運転させてもらいました。



脱穀の終わったワラは裁断されて田んぼに戻します。これがまた来年の肥やしになるのですね。






コンバインの中に脱穀したモミがたまったら、軽トラのタンクへ移し、家の乾燥機へ運びます。








午前中作業終了。公民館に戻って昼食。ここで、午後からのスペシャル講師をお願いしていた御歳92となられる私の集落の長老・渡部翁が合流。

昔ながらの手で刈る方法をご説明いただきました。

「出羽三山参拝」の笠がひかります。


新潟寄りの西会津地方は「はぜがけ」といって木で組んだものに掛けて乾燥させるのですが、会津北東部は主に違うやり方をずっと行ってきたそうで、そのやり方を見せていただきました。

おじいちゃんの手にかかると、あら不思議、パララ~と稲の傘ができました。

安定感抜群。見事ですね。




見ているときは簡単そうに見えたけど。。。実際はうまく立たせるのは結構難しく、みんな苦戦(笑)。



手作業の大変さをみんな身をもって体感。

続いて、先日このブログでもご紹介した、おじいちゃん所有の足踏み式脱穀機による脱穀体験。
本来は干して乾燥させた後に行う作業ですが、今回は時間の都合で刈ってすぐにこの作業を体験しました。


おじいちゃんは、昔やりながら歌ったという歌を披露してくださいました。






ドラムを安定して回すことは意外に難しく、かつては夜なべして一晩中これをやっていたと聞くと、一堂感嘆。


脱穀したモミはまず粗ごみを取り除いて、

何度も篩いにかけて、モミだけにしていきます。

家畜の冬のエサにとっておく用のワラの結び方も教えてもらいました。

「わらまるき」といってワラを束ねて立てるやり方も教わりました。

来るべき?注連縄やワラジ作りイベントで使うためのワラをキープ。うまく乾燥できるかな?

作業終了後、みんな近くの温泉へ行って汗を流し、地元の方々も合流して「収穫を祝う宴」開始。
会津自体初めてという参加者が複数いたので、まずは会津の郷土料理「こづゆ」を味わいました。

最後に宴会の楽しい模様を。。。
と思ったら、あれ????と。
なんと宴会の写真がこの1枚しかありませんでした(苦笑)。
私自身、久々に痛飲してしまいまして。。。。
いや~おいしい酒の差し入れもあり、飲みました、飲みました。
宴は午前2時ころまで続きました。
4月からこのグリーンツーのイベント運営を担当させていただいて、月イチかニくらいのペースでイベントを開催してきましたが、今回のが一番よかったんじゃないかな、と一人悦に入ってます。
というのも、地元の方々との交流、そして講師としていろんな経験豊富な長老を招くなど、今までと少し違う試みをやった結果、参加者はもちろん、おじいちゃんも元気になって、みんなのほんといい笑顔をみれたからです。
「地域活性化」って一言でいうにはいろんな要素があり、かつ難しいですが、要するに「みんな笑顔で元気になりましょう」ってことですよね。
小さいながらも地道にそれに向かってやっていけたらいいな、と思った次第でした。
貴重なお話をたくさんしてくださったおじいちゃん、体験田んぼを提供していただきかつ機械作業のいろんなことを教えてくださった平野氏はじめ、今回も本イベントに関わった全てのみなさんに感謝です!
第6回 全会津民話祭り~語りから学ぶ会津の心~ - 2012.09.21 Fri
9月15日、会津若松市文化センターにて「第6回 全会津民話祭り」が行われました。
私は10時から15時まですべての語りを鑑賞させていただきました。
「幽霊清水」「立岩の背くらべ」「茶碗塚地蔵」などの地元の岩や湧き水の由来やエピソードの話、「ねずみのお経」「間抜け翁さま」など笑いがとまらないくらい楽しいお話、「小豆まんまの歌」などの思わずホロリとしてしまう悲しいお話。
なにより関東育ちの私にとっては、会津の言葉が耳に心地よく、こちらの言葉で紡ぎ出される独特の雰囲気というか世界にしばし浸りました。
どの語り部さんもプロのように上手で、歌も交える方もいたり、ほんとすばらしかったです。
私にとって民話とは小さいころよく見た「まんが日本昔ばなし」の世界。
アニメの「むかあし、むかし、あるところに」というはじまりは、今日は
「むかしあったとよ」
「ざっとむかし」
「むかしあったとー」
でした。
そして終わりの決め台詞(?)は
「ざっとむかしさけました」
「こんにひとつ さげもうした」
「いっちょうさげもした」
(私の耳にそう届いただけでもしかしたら間違ってるかもしれません(笑))





館内が笑いの渦につつまれた、「ねずみのお経」。
喜多方昔話伝承館の石川氏の独特の語りがあったからこそ面白かったのかもしれませんが、一応こんなストーリー、というのを動画でみつけたので貼っておきます。
今後もこういうイベントをみつけたら積極的に聴きにいってみたいですね。
私は10時から15時まですべての語りを鑑賞させていただきました。
「幽霊清水」「立岩の背くらべ」「茶碗塚地蔵」などの地元の岩や湧き水の由来やエピソードの話、「ねずみのお経」「間抜け翁さま」など笑いがとまらないくらい楽しいお話、「小豆まんまの歌」などの思わずホロリとしてしまう悲しいお話。
なにより関東育ちの私にとっては、会津の言葉が耳に心地よく、こちらの言葉で紡ぎ出される独特の雰囲気というか世界にしばし浸りました。
どの語り部さんもプロのように上手で、歌も交える方もいたり、ほんとすばらしかったです。
私にとって民話とは小さいころよく見た「まんが日本昔ばなし」の世界。
アニメの「むかあし、むかし、あるところに」というはじまりは、今日は
「むかしあったとよ」
「ざっとむかし」
「むかしあったとー」
でした。
そして終わりの決め台詞(?)は
「ざっとむかしさけました」
「こんにひとつ さげもうした」
「いっちょうさげもした」
(私の耳にそう届いただけでもしかしたら間違ってるかもしれません(笑))





館内が笑いの渦につつまれた、「ねずみのお経」。
喜多方昔話伝承館の石川氏の独特の語りがあったからこそ面白かったのかもしれませんが、一応こんなストーリー、というのを動画でみつけたので貼っておきます。
今後もこういうイベントをみつけたら積極的に聴きにいってみたいですね。
第5回会津発見塾~明治を生きた会津の女性達の足跡を訪ねて~ - 2012.09.20 Thu
本来なら16日のイベント報告を「稲刈り体験無事終了しました!」って、真っ先に書きたいのですが。。。。
その前に書きたいものがふたつほどありまして。。。(苦笑)
稲刈り報告まだか、という御叱りをいくつか受けましたが、もうしばらくお待ちください(笑)。
というわけで、まずは先週13日に行った「第5回会津発見塾」のことを。
前々回、講師をやらせていただいた会津発見塾。
こちらをクリック
前回の7月はグリーンツーのイベントとかちあっていたため欠席しましたが、今回の第5回はまた参加させていただきました。
今回のテーマは「明治を生きた会津の女性達」。
来年の大河ドラマ「八重の桜」の予習編です。

今回の講師は会津史学会の佐藤紀子先生。
私の知らなかった様々な興味深い会津史のディープな話を伺えました。

出発前に30分ほど座学。
会津の女性といえば、中野竹子、おけい、若松賤子、瓜生岩子、新島八重子、山川捨松、海老名リンなどとてもたくさんの偉人がいますが、今回は新島八重子、中野竹子、山川捨松、海老名リンの4名に絞っての解説。
しかしそれでも時間は全然足りません(笑)。

まずは私の中で会津の女性といえばこの人!の憧れナンバー1、中野竹子女史のお墓がある会津坂下町・法界寺へ。

まずはみんなで御線香上げさせていただきました。


中野竹子の墓。
中野竹子は藩邸生まれの江戸育ち。容姿端麗で頭も良く、武芸にも優れていたというスーパーウーマン。
戊辰戦争が始まると会津に戻ります。
自分も戦に参加したいと申し出ると、家老に「婦女子まで戦争に出したと見られては会津武士の名折れ」と一度は断られますが、「ならばこの場で自刃します」と決死の覚悟で再度直訴。
脱籍浪人で組織された「衝鋒隊(しょうほうたい)」に参加を許され、薙刀で長州・大垣藩と戦い奮戦するも、敵の銃撃に遭い、壮絶な戦死を遂げたのでした。


竹子辞世の句。
武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば
数に入らぬ わが身ながらも
竹子はこの句を詠んだ短冊を薙刀に結びつけ、敵と互角以上に斬り結んだそうです。
この句を読むたびに私は胸が熱くなります。
竹子は女子に生まれたわが身を呪ったかもしれませんが、「中野竹子」は間違いなく男子以上の「会津魂」を持った「もののふ」だったんですよね。




お寺の中に中野竹子の遺品が展示されています。



上の薙刀が、竹子の使ったものとのことです。
これに短冊を結んでいたんですね。
下にあるのは竹子愛用の硯。


そして井上住職に、実に心あたたまるお話を伺いました。
(住職は昨日(19日)に放送されたNHK歴史秘話ヒストリアの番組の中でもご登場されていましたね)
かいつまんでご紹介すると、
・人間どのように散るかが大事。
・便利な時代なのに、世はいじめ、親殺し、子殺し、自殺、、、昔より不満多く何かが狂っている。やはり心の充実がすべて。
・人の一生は一本のろうそくに火をつけたのと同じ。
・明日の命はわからない。生きている今を一生懸命生きるとともに、「おかげさま」の精神、感謝の気持ちを常に忘れずに。

そして法界寺を後にし、中野竹子殉節の地へ。
実際はもう少し東とのことですが、この周辺で1868年8月25日に竹子を含む会津藩兵と長州・大垣藩兵の激しい戦いが展開され、男達に混じって奮戦した中野竹子は敵の銃弾に倒れ、22歳の若すぎる命をここで散らしたのでした。


続いて、今も続いている、海老名リンのつくった若松第一幼稚園へ。

海老名リンは会津の幼稚園、女学校の創立者、熱心なキリスト教信者として知られています。
戊辰の役の際は、父の見舞いに行っていたため籠城には間に合わず、一時は自刃を考えたものの踏みとどまり、落城後は斗南に入植、極貧生活に耐え続けます。
夫の季昌(すえまさ)が警視庁課長に就任して一緒に上京してからはキリスト教の熱心な信者となり、社会活動家として成長していったそうです。
そして夫が職を辞し会津に戻ってからは、故郷に幼稚園そして女学校を設立するために奔走するのです。
生き残った者の使命として故郷に何かをしないではいられない、それが海老名リンの場合、教育事業だったのでしょうね。

そして、いよいよ来年の大河の主役、「新島八重」の登場です。
新島(山本)八重は会津藩砲術師範を務める山本家の三女として生まれ、小さい頃から男勝りの気性、60kgの俵を上げ下げ出来るほどの怪力で、お堀で石投げをするとどの男にも負けなかったといいます。
今の世なら、レスリングか砲丸投げで金メダリストになってたかもしれませんね(笑)。
そんな八重が戦ったという、鶴ケ城北出丸へ。
藩の砲術師範であった父や兄から射撃・砲術を学んだ八重は、戊辰の役の際、断髪、戦死した弟の服をまとい、新式のスペンサー銃と刀を手にとって果敢に戦ったとのことです。
西軍が怒涛のごとく城下に押し寄せてきたとき、八重の一家も自刃しようと思ったそうですが、八重は先の鳥羽伏見の戦いで戦死した弟三郎を思い、「私は弟の仇を討たねばならぬ。一は主君のため、二は弟のため、命の限り戦う!」と家族を説得して入城したそうです。

北出丸の東のこの角には、かつて櫓があったそうで、八重はここで戦ったと伝えられてます。


籠城戦最大の激戦区だったといわれる北出丸東の追手門付近。
八重はここから鉄砲や大砲を放ったといわれ、ほんとかどうかわかりませんが、一説には35人以上もの敵兵を倒したとか。

そして城をあとにし、八重の生家跡へ。
もちろん建物はすでになく、写真奥、バスの停まっている駐車場付近が山本家屋敷があったあたり。

来年に向けて、こんな看板が立ってました。

近くには白虎隊士であった伊藤悌次郎の家があり、八重は悌次郎はじめ、他の白虎隊士にゲベール銃の撃ち方を教えていたとか。

そして山本家の菩提寺である大龍寺へ。
会津にはいわゆる「お供寺」といって、保科正之公が最上から会津に移封されたとき、一緒に移ってきた寺がいっぱいあり、大龍寺もそのひとつです。
ここは戊辰の役でも焼き討ちにあわなかったので(その理由はこの後書きます)、370年前の建物がそのまま残っています。


境内に入ってすぐ左にあるのが小笠原長時の墓。
よく「小笠原流」とか聞いたことあると思うのですが、礼儀作法の流派として名高い小笠原流の祖です。
長時はもともと信濃領主でしたが、武田信玄に破れ、上杉謙信を頼って越後に落ち、謙信死後は葦名氏を頼って会津に落ちのびました。
しかしこの地で家臣に殺されたとのことです。跡目相続争いのせいとも、家臣の個人的な恨みのせいとも言われています。
小笠原家はその後、子孫が徳川家康に協力し、小倉の大名に任ぜられます。
佐賀藩ではこの寺が小笠原氏ゆかりの寺であったことを知っていたため、戊辰の役の際、市内の多くの寺が焼かれたものの、この寺は焼かれなかったのでした。


山本家の墓は境内奥にあります。これまた来年用にこんな看板ができていました。

八重自身の墓はここではなく京都にあるのですが、八重は亡くなる前年の昭和6年、それまで点在していた山本家の墓をここにまとめ、墓標を建立します。

この「山本家之墓」の文字は八重自身が書いたといわれています。裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれています。

さらに大龍寺には、今私の中で静かなるブームの(笑)、安藤有益の墓もあります。
安藤有益は会津藩の勘定役や普請奉行だった人で、あの関孝和と並ぶ和算家、安井算哲に並ぶ暦学者として有名です。
先週から公開されている映画「天地明察」の中にも登場してきます。(劇中出番が少なかったのが私は少し不満でしたが。(苦笑))
面白いエピソードとして次のような話があります。
1688年、有益が政争に巻き込まれ所領を没収され今の西会津町極入に幽閉されたとき、有益はこれ幸いと数学、特に魔方陣の研究に没頭し、ついには日本最初の魔方陣の解説書である『奇偶方数』を完成させたとのことです。
いや~、謹慎どころか有益にとってはやりたいことをやれる時間をもらったぐらいにしか感じなかったんでしょうかねえ(笑)。

そして大龍寺の中へ。
さすが築370年。重厚感が違います。

中野竹子らが慕った、照姫(松平容保公の姉)が使った輿がありました。



ひときわ異彩を放っていた人形。
「あまかっつぁま」と呼ばれている前述の小笠原長時の娘が小さいときに遊んでいたからくり人形の一部と伝えられています。つまり400年前の人形。今は頭部と手しか残っていないそうです。
小笠原長時が殺されたとき、妻も子も一緒に殺されたとか。
寺の奥さんは「供養の意味もこめてみなさんにはなでていただいてます」と。

そ、そんな古い貴重なものを、素手で触っていいのかな~、と少し思いましたが、私も手にさせていただきました。




さらに。。。。こんな張り紙発見。
なになに?ゆうれいの足跡???

ありました(笑)。土踏まずばっちりの運動神経よさそうなゆうれいですね~(笑)。

足跡にあやかってこんなお守りも売られていました。


壁にはこんな会津藩の旗が。私は不勉強でわかりませんが、「靂」という難しい字にはどんな意味があるのかな。。。辞書ひくと激しい雷の意のようですが、、、二という数字があるので「隊」とか「陣」とかと同じ意味でしょうかね?

また、大龍寺には。。。それほど手入れの行き届いてない(笑)庭があります。
しかし、この庭は有名な作庭家、目黒浄定という人がつくったもので、実はあの御薬園を造る前の試作として造ったものだそうです。

大龍寺の正門右手にある長命不動尊へ。

立派な御不動さまですね。
みんなの健康を祈りました。

最後に、善龍寺へ。
寺の伽藍は戊辰の役でことごとく焼失しましたが、この白亜総塗籠の山門は幸運にも焼け残ったのだそうです。
白壁と、その上に乗っている母屋造りの屋根が見事に調和しています。
楼上には西国三十三観音が安置されているそうです。

本堂北側に「奈興竹(なよたけ)の碑」。
戊辰の役で犠牲になった会津藩婦女子の霊をなぐさめる慰霊碑です。

碑の後ろ側には犠牲となった233人一人一人の名前と続柄が刻まれています。

なよたけの碑の名前のもととなった西郷千重子(家老西郷頼母の妻)の辞世の句。
なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節の ありとこそ聞け
この句も読むたびに熱いものがこみあげてきます。
「たわまぬ節」に、強烈な、高い、高い誇りを感じます。
千重子は籠城戦に参加しても自分は足手まといになる、しかし城外で敵の辱めを受けるわけにはいかない、と、自邸で娘達と自刃しました。
戦って死んだ中野竹子同様、高き誇りを持ち続けた立派な会津人だったと思います。

「なよたけの碑」の裏山に会津藩の代々家老をつとめた西郷家の墓所があります。

その中に西郷頼母と妻千重子の墓も。

署名はあの「飯沼貞吉」とありました。白虎隊唯一の生存者飯沼氏はなんと西郷家の血筋だったのですね。
実は善龍寺の裏山は、全体が巨大な墓地のようで、会津藩の武士が無数に眠っており、その数は把握できないとのこと。
飯森山は白虎隊があまりに有名なため、参拝者は後をたたないけど、こちらはいつ行っても閑散としています。

少し登ったところに、前述の西郷千重子はじめそのとき自刃した21人の墓があります。

会津降伏後、親族が屋敷の焼跡より遺骨を一つ一つ拾い出して善龍寺に埋葬したそうです。
背負って行くその途中、籠の中の骨がこすれあって、21人の人々がまるで自分に話しかけているようであったと伝えられています。

とても充実した発見塾でした。
時代を精一杯生きた人たち。
今の時代を生きる我々にとっては考えられないようなことばかりですが、、でも。。。
いつの時代であれ、絶対に忘れちゃいけない日本人としての志、誇りはしっかり受け継いで残していくべきだと思うし、それが色濃く残っているのが、ここ会津だと思うのです。
NHKが来年の大河ドラマに会津を取り上げてくれるのはありがたいし、それによって風評被害にあえぐこの地が少しでも浮上できることを私も切に願ってます。
ただ、これをいいことに集客一辺倒に偏って浮わついたまま来年を過ごすことになったりすると、その先にある「会津」が少し不安になります。
きっと来年は多くの方が会津を訪れてくださることでしょう。
そこでその人たちに
一過性でなく、
ブームでもなく、
決して時代による変節を受けたりしない、
「REAL DEAL」な「会津」を発信できたらいいな、なんて思います。
それにはまだまだ勉強しなきゃならないですね。
さあ、明日は稲刈りの模様をレポートします~。遅れてすみません。。。
その前に書きたいものがふたつほどありまして。。。(苦笑)
稲刈り報告まだか、という御叱りをいくつか受けましたが、もうしばらくお待ちください(笑)。
というわけで、まずは先週13日に行った「第5回会津発見塾」のことを。
前々回、講師をやらせていただいた会津発見塾。
こちらをクリック
前回の7月はグリーンツーのイベントとかちあっていたため欠席しましたが、今回の第5回はまた参加させていただきました。
今回のテーマは「明治を生きた会津の女性達」。
来年の大河ドラマ「八重の桜」の予習編です。

今回の講師は会津史学会の佐藤紀子先生。
私の知らなかった様々な興味深い会津史のディープな話を伺えました。

出発前に30分ほど座学。
会津の女性といえば、中野竹子、おけい、若松賤子、瓜生岩子、新島八重子、山川捨松、海老名リンなどとてもたくさんの偉人がいますが、今回は新島八重子、中野竹子、山川捨松、海老名リンの4名に絞っての解説。
しかしそれでも時間は全然足りません(笑)。

まずは私の中で会津の女性といえばこの人!の憧れナンバー1、中野竹子女史のお墓がある会津坂下町・法界寺へ。

まずはみんなで御線香上げさせていただきました。


中野竹子の墓。
中野竹子は藩邸生まれの江戸育ち。容姿端麗で頭も良く、武芸にも優れていたというスーパーウーマン。
戊辰戦争が始まると会津に戻ります。
自分も戦に参加したいと申し出ると、家老に「婦女子まで戦争に出したと見られては会津武士の名折れ」と一度は断られますが、「ならばこの場で自刃します」と決死の覚悟で再度直訴。
脱籍浪人で組織された「衝鋒隊(しょうほうたい)」に参加を許され、薙刀で長州・大垣藩と戦い奮戦するも、敵の銃撃に遭い、壮絶な戦死を遂げたのでした。


竹子辞世の句。
武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば
数に入らぬ わが身ながらも
竹子はこの句を詠んだ短冊を薙刀に結びつけ、敵と互角以上に斬り結んだそうです。
この句を読むたびに私は胸が熱くなります。
竹子は女子に生まれたわが身を呪ったかもしれませんが、「中野竹子」は間違いなく男子以上の「会津魂」を持った「もののふ」だったんですよね。




お寺の中に中野竹子の遺品が展示されています。



上の薙刀が、竹子の使ったものとのことです。
これに短冊を結んでいたんですね。
下にあるのは竹子愛用の硯。


そして井上住職に、実に心あたたまるお話を伺いました。
(住職は昨日(19日)に放送されたNHK歴史秘話ヒストリアの番組の中でもご登場されていましたね)
かいつまんでご紹介すると、
・人間どのように散るかが大事。
・便利な時代なのに、世はいじめ、親殺し、子殺し、自殺、、、昔より不満多く何かが狂っている。やはり心の充実がすべて。
・人の一生は一本のろうそくに火をつけたのと同じ。
・明日の命はわからない。生きている今を一生懸命生きるとともに、「おかげさま」の精神、感謝の気持ちを常に忘れずに。

そして法界寺を後にし、中野竹子殉節の地へ。
実際はもう少し東とのことですが、この周辺で1868年8月25日に竹子を含む会津藩兵と長州・大垣藩兵の激しい戦いが展開され、男達に混じって奮戦した中野竹子は敵の銃弾に倒れ、22歳の若すぎる命をここで散らしたのでした。


続いて、今も続いている、海老名リンのつくった若松第一幼稚園へ。

海老名リンは会津の幼稚園、女学校の創立者、熱心なキリスト教信者として知られています。
戊辰の役の際は、父の見舞いに行っていたため籠城には間に合わず、一時は自刃を考えたものの踏みとどまり、落城後は斗南に入植、極貧生活に耐え続けます。
夫の季昌(すえまさ)が警視庁課長に就任して一緒に上京してからはキリスト教の熱心な信者となり、社会活動家として成長していったそうです。
そして夫が職を辞し会津に戻ってからは、故郷に幼稚園そして女学校を設立するために奔走するのです。
生き残った者の使命として故郷に何かをしないではいられない、それが海老名リンの場合、教育事業だったのでしょうね。

そして、いよいよ来年の大河の主役、「新島八重」の登場です。
新島(山本)八重は会津藩砲術師範を務める山本家の三女として生まれ、小さい頃から男勝りの気性、60kgの俵を上げ下げ出来るほどの怪力で、お堀で石投げをするとどの男にも負けなかったといいます。
今の世なら、レスリングか砲丸投げで金メダリストになってたかもしれませんね(笑)。
そんな八重が戦ったという、鶴ケ城北出丸へ。
藩の砲術師範であった父や兄から射撃・砲術を学んだ八重は、戊辰の役の際、断髪、戦死した弟の服をまとい、新式のスペンサー銃と刀を手にとって果敢に戦ったとのことです。
西軍が怒涛のごとく城下に押し寄せてきたとき、八重の一家も自刃しようと思ったそうですが、八重は先の鳥羽伏見の戦いで戦死した弟三郎を思い、「私は弟の仇を討たねばならぬ。一は主君のため、二は弟のため、命の限り戦う!」と家族を説得して入城したそうです。

北出丸の東のこの角には、かつて櫓があったそうで、八重はここで戦ったと伝えられてます。


籠城戦最大の激戦区だったといわれる北出丸東の追手門付近。
八重はここから鉄砲や大砲を放ったといわれ、ほんとかどうかわかりませんが、一説には35人以上もの敵兵を倒したとか。

そして城をあとにし、八重の生家跡へ。
もちろん建物はすでになく、写真奥、バスの停まっている駐車場付近が山本家屋敷があったあたり。

来年に向けて、こんな看板が立ってました。

近くには白虎隊士であった伊藤悌次郎の家があり、八重は悌次郎はじめ、他の白虎隊士にゲベール銃の撃ち方を教えていたとか。

そして山本家の菩提寺である大龍寺へ。
会津にはいわゆる「お供寺」といって、保科正之公が最上から会津に移封されたとき、一緒に移ってきた寺がいっぱいあり、大龍寺もそのひとつです。
ここは戊辰の役でも焼き討ちにあわなかったので(その理由はこの後書きます)、370年前の建物がそのまま残っています。


境内に入ってすぐ左にあるのが小笠原長時の墓。
よく「小笠原流」とか聞いたことあると思うのですが、礼儀作法の流派として名高い小笠原流の祖です。
長時はもともと信濃領主でしたが、武田信玄に破れ、上杉謙信を頼って越後に落ち、謙信死後は葦名氏を頼って会津に落ちのびました。
しかしこの地で家臣に殺されたとのことです。跡目相続争いのせいとも、家臣の個人的な恨みのせいとも言われています。
小笠原家はその後、子孫が徳川家康に協力し、小倉の大名に任ぜられます。
佐賀藩ではこの寺が小笠原氏ゆかりの寺であったことを知っていたため、戊辰の役の際、市内の多くの寺が焼かれたものの、この寺は焼かれなかったのでした。


山本家の墓は境内奥にあります。これまた来年用にこんな看板ができていました。

八重自身の墓はここではなく京都にあるのですが、八重は亡くなる前年の昭和6年、それまで点在していた山本家の墓をここにまとめ、墓標を建立します。

この「山本家之墓」の文字は八重自身が書いたといわれています。裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれています。

さらに大龍寺には、今私の中で静かなるブームの(笑)、安藤有益の墓もあります。
安藤有益は会津藩の勘定役や普請奉行だった人で、あの関孝和と並ぶ和算家、安井算哲に並ぶ暦学者として有名です。
先週から公開されている映画「天地明察」の中にも登場してきます。(劇中出番が少なかったのが私は少し不満でしたが。(苦笑))
面白いエピソードとして次のような話があります。
1688年、有益が政争に巻き込まれ所領を没収され今の西会津町極入に幽閉されたとき、有益はこれ幸いと数学、特に魔方陣の研究に没頭し、ついには日本最初の魔方陣の解説書である『奇偶方数』を完成させたとのことです。
いや~、謹慎どころか有益にとってはやりたいことをやれる時間をもらったぐらいにしか感じなかったんでしょうかねえ(笑)。

そして大龍寺の中へ。
さすが築370年。重厚感が違います。

中野竹子らが慕った、照姫(松平容保公の姉)が使った輿がありました。



ひときわ異彩を放っていた人形。
「あまかっつぁま」と呼ばれている前述の小笠原長時の娘が小さいときに遊んでいたからくり人形の一部と伝えられています。つまり400年前の人形。今は頭部と手しか残っていないそうです。
小笠原長時が殺されたとき、妻も子も一緒に殺されたとか。
寺の奥さんは「供養の意味もこめてみなさんにはなでていただいてます」と。

そ、そんな古い貴重なものを、素手で触っていいのかな~、と少し思いましたが、私も手にさせていただきました。




さらに。。。。こんな張り紙発見。
なになに?ゆうれいの足跡???

ありました(笑)。土踏まずばっちりの運動神経よさそうなゆうれいですね~(笑)。

足跡にあやかってこんなお守りも売られていました。


壁にはこんな会津藩の旗が。私は不勉強でわかりませんが、「靂」という難しい字にはどんな意味があるのかな。。。辞書ひくと激しい雷の意のようですが、、、二という数字があるので「隊」とか「陣」とかと同じ意味でしょうかね?

また、大龍寺には。。。それほど手入れの行き届いてない(笑)庭があります。
しかし、この庭は有名な作庭家、目黒浄定という人がつくったもので、実はあの御薬園を造る前の試作として造ったものだそうです。

大龍寺の正門右手にある長命不動尊へ。

立派な御不動さまですね。
みんなの健康を祈りました。

最後に、善龍寺へ。
寺の伽藍は戊辰の役でことごとく焼失しましたが、この白亜総塗籠の山門は幸運にも焼け残ったのだそうです。
白壁と、その上に乗っている母屋造りの屋根が見事に調和しています。
楼上には西国三十三観音が安置されているそうです。

本堂北側に「奈興竹(なよたけ)の碑」。
戊辰の役で犠牲になった会津藩婦女子の霊をなぐさめる慰霊碑です。

碑の後ろ側には犠牲となった233人一人一人の名前と続柄が刻まれています。

なよたけの碑の名前のもととなった西郷千重子(家老西郷頼母の妻)の辞世の句。
なよ竹の 風にまかする身ながらも
たわまぬ節の ありとこそ聞け
この句も読むたびに熱いものがこみあげてきます。
「たわまぬ節」に、強烈な、高い、高い誇りを感じます。
千重子は籠城戦に参加しても自分は足手まといになる、しかし城外で敵の辱めを受けるわけにはいかない、と、自邸で娘達と自刃しました。
戦って死んだ中野竹子同様、高き誇りを持ち続けた立派な会津人だったと思います。

「なよたけの碑」の裏山に会津藩の代々家老をつとめた西郷家の墓所があります。

その中に西郷頼母と妻千重子の墓も。

署名はあの「飯沼貞吉」とありました。白虎隊唯一の生存者飯沼氏はなんと西郷家の血筋だったのですね。
実は善龍寺の裏山は、全体が巨大な墓地のようで、会津藩の武士が無数に眠っており、その数は把握できないとのこと。
飯森山は白虎隊があまりに有名なため、参拝者は後をたたないけど、こちらはいつ行っても閑散としています。

少し登ったところに、前述の西郷千重子はじめそのとき自刃した21人の墓があります。

会津降伏後、親族が屋敷の焼跡より遺骨を一つ一つ拾い出して善龍寺に埋葬したそうです。
背負って行くその途中、籠の中の骨がこすれあって、21人の人々がまるで自分に話しかけているようであったと伝えられています。

とても充実した発見塾でした。
時代を精一杯生きた人たち。
今の時代を生きる我々にとっては考えられないようなことばかりですが、、でも。。。
いつの時代であれ、絶対に忘れちゃいけない日本人としての志、誇りはしっかり受け継いで残していくべきだと思うし、それが色濃く残っているのが、ここ会津だと思うのです。
NHKが来年の大河ドラマに会津を取り上げてくれるのはありがたいし、それによって風評被害にあえぐこの地が少しでも浮上できることを私も切に願ってます。
ただ、これをいいことに集客一辺倒に偏って浮わついたまま来年を過ごすことになったりすると、その先にある「会津」が少し不安になります。
きっと来年は多くの方が会津を訪れてくださることでしょう。
そこでその人たちに
一過性でなく、
ブームでもなく、
決して時代による変節を受けたりしない、
「REAL DEAL」な「会津」を発信できたらいいな、なんて思います。
それにはまだまだ勉強しなきゃならないですね。
さあ、明日は稲刈りの模様をレポートします~。遅れてすみません。。。
足踏み式脱穀機 - 2012.09.12 Wed
今週末に稲刈りを控える稲作体験。
こちらをクリック
稲作体験イベントは、5月の田植え、6月の草取りときて今回3回目最終回となります。
稲作シリーズのコンセプトのひとつとして、機械による現代農法と昔ながらの古式農法の両方を体験して違いを学ぶ、というのがありまして。
普通グリーン・ツーリズムイベントだと手作業が主体だと思いますが、私はむしろ今はここまで発展している、という現代農法の体験を重視してきました。手作業はその凄さを体感する物差しのひとつって感じで(笑)。
今回も午前中は機械による籾摺りとコンバインによる機械刈り体験、午後は手刈り、脱穀体験という予定でいます。
先週末、籾摺り機や乾燥機など機械の方の準備をしてきました。

これは籾摺り機。ちょうど大事な部分であるゴムロールの交換時期でした。

色が違うのは固さの違いだそうです。ふたつセットです。

こんな感じでゴムロールをセット。ロール同士のすきまの設定はかなり繊細です。
そして現代のものに対して、昔ながらのやり方のものには。。。
私の集落の長老の家に、足踏み式脱穀機がありました。

いや~、博物館でしか見れないと思ってましたが。。。
足踏みして動かしてみましたが、バリバリ現役(笑)。
なんと!
全国農具共進会「金牌」受領です!
「農林省」「御推奨」です!
「ダイヤモンド」です!
しっかりと残っていて、しっかりと動くなんて。。。これだけで感動ですね。


歴史を生きた重厚感。実際ひとりで持つにはかなり厳しい重さです。
しかしおじいちゃんによると、昔はこれをひとりで担いで田んぼまで持っていって脱穀していたとのこと。
すごすぎます。

この貴重な足踏み式脱穀機をお借りして、当日午後はおじいちゃんを講師に招き、手刈りしたのちに手作業脱穀を体験します。

あとは。。。当日に雨が降らないことを祈るのみですね。
(今のところ曇りの予報)
こちらをクリック
稲作体験イベントは、5月の田植え、6月の草取りときて今回3回目最終回となります。
稲作シリーズのコンセプトのひとつとして、機械による現代農法と昔ながらの古式農法の両方を体験して違いを学ぶ、というのがありまして。
普通グリーン・ツーリズムイベントだと手作業が主体だと思いますが、私はむしろ今はここまで発展している、という現代農法の体験を重視してきました。手作業はその凄さを体感する物差しのひとつって感じで(笑)。
今回も午前中は機械による籾摺りとコンバインによる機械刈り体験、午後は手刈り、脱穀体験という予定でいます。
先週末、籾摺り機や乾燥機など機械の方の準備をしてきました。

これは籾摺り機。ちょうど大事な部分であるゴムロールの交換時期でした。

色が違うのは固さの違いだそうです。ふたつセットです。

こんな感じでゴムロールをセット。ロール同士のすきまの設定はかなり繊細です。
そして現代のものに対して、昔ながらのやり方のものには。。。
私の集落の長老の家に、足踏み式脱穀機がありました。

いや~、博物館でしか見れないと思ってましたが。。。
足踏みして動かしてみましたが、バリバリ現役(笑)。
なんと!
全国農具共進会「金牌」受領です!
「農林省」「御推奨」です!
「ダイヤモンド」です!
しっかりと残っていて、しっかりと動くなんて。。。これだけで感動ですね。


歴史を生きた重厚感。実際ひとりで持つにはかなり厳しい重さです。
しかしおじいちゃんによると、昔はこれをひとりで担いで田んぼまで持っていって脱穀していたとのこと。
すごすぎます。

この貴重な足踏み式脱穀機をお借りして、当日午後はおじいちゃんを講師に招き、手刈りしたのちに手作業脱穀を体験します。

あとは。。。当日に雨が降らないことを祈るのみですね。
(今のところ曇りの予報)
喜多方・三島神社太々神楽 - 2012.09.11 Tue
おとといの日曜日9月9日に三島神社で行われた太々神楽(だいだいかぐら)を鑑賞してきました。
三島神社太々神楽は元和7年(1621年)に、同社の宮司が京都吉田神社の卜部家から習得したものと伝えられている出雲流神楽です。
福島県の重要無形民俗文化財にも指定されています。
以前この神社を訪れた際に鳥居の横にある神楽の説明看板を読んで以来、一度ナマで鑑賞してみたいとずっと思っていました。
出雲流神楽は福島県中通りに多く。会津では珍しいとのことで、その系統は中通りよりも新潟方面のそれと共通点が多く、新潟とのつながりの深さを示唆しているそうです。
舞は
1.ご神前の舞
2.左右の舞
3.御幣の舞
4.御玉の舞
5.御鏡の舞
6.御榊の舞
7.岩戸の舞
8.巫女の舞
9.鉾の舞
10.稲荷の舞
11.釣の舞
12.剣の舞
の12の演目で構成されていて、「古事記」や「日本書紀」という日本古来の神話の神様がたくさん登場してきました。

私が三島神社に着いたときは開始時間の19:30を少しまわっていたので、「神前の舞」は終わり、「左右の舞」が行われていました。




「左右の舞」は神話の最初に出てくる伊邪那岐命と伊邪那美命(イザナギとイザナミ)による舞い。

続いて巫女の舞


そして「御幣の舞」。
3つめのこの演目でなんとなくパターンがつかめてきました。まずは独特の歩み方(思わず真似したくなりそうな(笑))で舞台をぐるっと巡り、その後神前にお参り、その後舞いを舞う、といった形。


「御玉の舞」。
三種の神器の一つであるやさかにの勾玉を作った玉祖命(たまのやみこと)の舞。

有名な天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸に隠れた際に、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が天照に出てきてもらうために舞った舞。

そしていよいよ「岩戸の舞」。

そしてもう一度巫女舞。
真剣そのものですごくかわいかったです(笑)。


「鉾の舞」。個性的な足踏みといい、勇壮なこの舞いが私は一番興味深かったです。

「稲荷の舞」。
五穀豊穣の神、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)の使いとされる白狐が、種籾を蒔くという舞。

このとき子供たちが舞台の前に出てきたので、何かなあと思っていたら。。。。

種まき=お菓子を蒔きはじめ、納得(笑)。


「釣の舞」。ひょっとこの人たちの動きがユーモラスで掛け合いが面白かったです。


そして最後を飾る「剱の舞」。


そして終演を迎えました。
19:30からはじまり、終わったのは22:00。
しかし、ひとつひとつの演題がそれほど長くなく、舞いがどんどん変わっていくため、全然退屈せずあっという間に過ぎました。



御田植え祭りにしろ、下柴彼岸獅子にしろ、この太々神楽にしろ、いつも鑑賞して思うのはこの喜多方には非常に興味深い、歴史のある貴重な伝統芸能がちゃんと残っているんだな、ということです。
今回のブログはちょっとくどいかなと思いつつも、しっかり記録として残しておきたかったので、動画をたっぷり載せてみました。
地元の方々の苦労は大変なものだと思いますが、どうかこれからもこの伝統芸能がずっとずっと後世に受け継がれていくことを願いつつ。。。。
三島神社太々神楽は元和7年(1621年)に、同社の宮司が京都吉田神社の卜部家から習得したものと伝えられている出雲流神楽です。
福島県の重要無形民俗文化財にも指定されています。
以前この神社を訪れた際に鳥居の横にある神楽の説明看板を読んで以来、一度ナマで鑑賞してみたいとずっと思っていました。
出雲流神楽は福島県中通りに多く。会津では珍しいとのことで、その系統は中通りよりも新潟方面のそれと共通点が多く、新潟とのつながりの深さを示唆しているそうです。
舞は
1.ご神前の舞
2.左右の舞
3.御幣の舞
4.御玉の舞
5.御鏡の舞
6.御榊の舞
7.岩戸の舞
8.巫女の舞
9.鉾の舞
10.稲荷の舞
11.釣の舞
12.剣の舞
の12の演目で構成されていて、「古事記」や「日本書紀」という日本古来の神話の神様がたくさん登場してきました。

私が三島神社に着いたときは開始時間の19:30を少しまわっていたので、「神前の舞」は終わり、「左右の舞」が行われていました。




「左右の舞」は神話の最初に出てくる伊邪那岐命と伊邪那美命(イザナギとイザナミ)による舞い。

続いて巫女の舞


そして「御幣の舞」。
3つめのこの演目でなんとなくパターンがつかめてきました。まずは独特の歩み方(思わず真似したくなりそうな(笑))で舞台をぐるっと巡り、その後神前にお参り、その後舞いを舞う、といった形。


「御玉の舞」。
三種の神器の一つであるやさかにの勾玉を作った玉祖命(たまのやみこと)の舞。

有名な天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸に隠れた際に、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が天照に出てきてもらうために舞った舞。

そしていよいよ「岩戸の舞」。

そしてもう一度巫女舞。
真剣そのものですごくかわいかったです(笑)。


「鉾の舞」。個性的な足踏みといい、勇壮なこの舞いが私は一番興味深かったです。

「稲荷の舞」。
五穀豊穣の神、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)の使いとされる白狐が、種籾を蒔くという舞。

このとき子供たちが舞台の前に出てきたので、何かなあと思っていたら。。。。

種まき=お菓子を蒔きはじめ、納得(笑)。


「釣の舞」。ひょっとこの人たちの動きがユーモラスで掛け合いが面白かったです。


そして最後を飾る「剱の舞」。


そして終演を迎えました。
19:30からはじまり、終わったのは22:00。
しかし、ひとつひとつの演題がそれほど長くなく、舞いがどんどん変わっていくため、全然退屈せずあっという間に過ぎました。



御田植え祭りにしろ、下柴彼岸獅子にしろ、この太々神楽にしろ、いつも鑑賞して思うのはこの喜多方には非常に興味深い、歴史のある貴重な伝統芸能がちゃんと残っているんだな、ということです。
今回のブログはちょっとくどいかなと思いつつも、しっかり記録として残しておきたかったので、動画をたっぷり載せてみました。
地元の方々の苦労は大変なものだと思いますが、どうかこれからもこの伝統芸能がずっとずっと後世に受け継がれていくことを願いつつ。。。。
今年もクマ出没 - 2012.09.10 Mon
第6回 全会津民話祭り - 2012.09.07 Fri
11月のそばぶち体験イベントの際に民話の語り部をお願いしている「山都民話の会」の方々から、来週土曜15日に会津若松で行われる上記イベントの招待状をいただきました。
稲刈りイベントの前日ですが、せっかくですから山都の方々の語りだけでなく、10時から15時まで全て鑑賞してこようと思います。
キャッチコピーの「語りから学ぶ 会津の心!」。いいですね~。
今、私は貴重な古書「会津・山都の民話」を入手し読んでいるのですが、民話の中には自然に対する畏怖の心、戒め、善行の勧めなど、いろんな教訓が含まれているので非常に興味深いです。
それ自体が農村文化・思想を学ぶ良質なテキストのような気がしてます。
15日はどっぷり1日民話の世界に浸かってきます。
ご興味ある方、よかったらいかがですか?

稲刈りイベントの前日ですが、せっかくですから山都の方々の語りだけでなく、10時から15時まで全て鑑賞してこようと思います。
キャッチコピーの「語りから学ぶ 会津の心!」。いいですね~。
今、私は貴重な古書「会津・山都の民話」を入手し読んでいるのですが、民話の中には自然に対する畏怖の心、戒め、善行の勧めなど、いろんな教訓が含まれているので非常に興味深いです。
それ自体が農村文化・思想を学ぶ良質なテキストのような気がしてます。
15日はどっぷり1日民話の世界に浸かってきます。
ご興味ある方、よかったらいかがですか?

第4回 山都かあちゃんたちのそば祭り - 2012.09.06 Thu
きたかた喜楽里博協賛事業
第4回 山都かあちゃんたちのそば祭り
とき 平成24年9月15日(土)・16日(日)
午前10時~午後5時(16日は午後4時まで)
場所 山都みちくさ広場
おそばには雪室で熟成した山都産そば粉を使用します。
山都そばをはじめ、新鮮野菜、花、クッキー、手工芸品、飲み物、キムチ、チヂミ、ソフトクリーム、焼き鳥、プリン、山都グッズなど商品がどっさり!
当日のイベント情報
その1 来場者抽選会! 景品多数!
その2 「瀬ノ内まり」歌謡ショー(16日)
その3 一の戸橋梁ライトアップ 午後6時~8時30分
お問い合わせ先
山都町スタンプ事業協同組合
電話0241-38-2254(商工会内)
第4回 山都かあちゃんたちのそば祭り
とき 平成24年9月15日(土)・16日(日)
午前10時~午後5時(16日は午後4時まで)
場所 山都みちくさ広場
おそばには雪室で熟成した山都産そば粉を使用します。
山都そばをはじめ、新鮮野菜、花、クッキー、手工芸品、飲み物、キムチ、チヂミ、ソフトクリーム、焼き鳥、プリン、山都グッズなど商品がどっさり!
当日のイベント情報
その1 来場者抽選会! 景品多数!
その2 「瀬ノ内まり」歌謡ショー(16日)
その3 一の戸橋梁ライトアップ 午後6時~8時30分
お問い合わせ先
山都町スタンプ事業協同組合
電話0241-38-2254(商工会内)
そばぶち体験&山都昔語り 参加者募集 - 2012.09.05 Wed
11月24日開催
そばぶち体験&山都昔語り 参加者募集
まだ2ヵ月以上先のイベントですが、山都らしさ満点のイベント開催決定、募集開始します!
山都といえばもちろん蕎麦!
会津では、そばを「打つ」ことを「ぶつ」といいます。
山都産のそば粉でつなぎを一切使わないいわゆる「十割そば」の、本場「そばぶち」を体験してみませんか?
また、そばぶち体験だけでなく、雪室や資料館の詳しい解説付き見学や、山都民話の会の語り部の方々の昔語りを鑑賞したり、山都の歴史や文化、そばのウンチクや山都のそばのうまさの秘密を学びます。
◎実施日時・場所
平成24年11月24日(土)午前8時30分~9時00分(集合・受付)
喜多方市山都町字沢田3077-1 飯豊とそばの里センター
◎募集人員
20名(要予約、先着順。)
◎参加料金
3,000円 (そば打ち体験料、入館料、保険料、語り部鑑賞料含む)
◎日程
8:30 受付開始
9:00~10:30 雪室&資料館 解説つき見学
10:30~11:00 そば名人によるそば打ち実演
11:00~12:00 そばぶち体験(1人あたり4食分がつくれます)
12:00~13:00 実食、食べ比べ
13:00~14:00 語り部さんによる山都民話昔語り
14:00~ 解散後 館内自由見学

今年の山都は記録的な少雨で、湿気を嫌うそばにもさすがに水が少なすぎて影響を与えているようで、例年育ちのいい水はけ良好の場所は育ちが悪く、逆に例年育ちの悪い水はけがよくない場所が逆に生育がよいようです。

今回のイベント会場となる飯豊とそばの里センターには、雪を利用する冷温貯蔵施設「雪室(ゆきむろ)」があります。

貯蔵庫は室温5度に保たれ、雪室の特徴として通常の冷蔵庫と違って湿度を70%に保てるので乾燥を防げる利点があります。
しかもいたって簡単なシステムで稼動し、電気エネルギーをほとんど使わない環境にやさしい施設なんですよね。

そば乾燥調整加工施設も見学します。

飯豊とそばの里センターは、「そば資料館」「ふれあい館」「ふるさと館」「そば伝承館」の4つからなります。
そのうちのひとつ、「そば資料館」ではそばに関する様々な事柄を詳しく学べます。
山都のそばがなぜおいしいか、その秘密もここでばっちりわかっちゃいます!(笑)


「ふれあい館」では山都の人々の暮らしの根底に流れる飯豊山信仰を中心に、山都の歴史や文化・飯豊山の壮大な自然について学ぶことができます。また、ふれあい館には「ふれあい座」と呼ばれるコーナーがありまして。。。

イベント当日は、この写真の中央の場所に山都民話の会の語り部さんが座って、参加者は車座になって興味深い山都の民話を聞かせていただきます。

で、山都の誇るそば名人による「匠の技」実演。


いや~、写真だけでもおいしそうでよだれ出てきますね(笑)。こんなに上手に打てればいいのですが。。。。

初めての人でもご安心を。そば打ちのベテランが付いて、つなぎを使わないそば粉100%の手打ちそばの作り方を、こねからそば切り、そば茹でまでばっちり体験します。
さあ、参加してみたくなっていただけましたか?(笑)
恥ずかしながら私自身そばぶち初体験なのですごく楽しみです。
◎申し込み・問合せ先
山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会
福島県喜多方市山都町字蔵ノ後954-1
喜多方市山都総合支所 産業課内
TEL 0241-38-3831
FAX 0241-38-3899
E-mail info@yamato-gt.whitesnow.jp
ご予約は、電話にてご連絡いただくか、FAX、Eメール、またはこのページの左のメールフォームより、参加者住所・氏名・年齢・電話番号を記入の上、お申し込み下さい。
(後援 喜多方地方広域市町村圏組合(喜多方地方ふるさと市町村圏推進事業))
そばぶち体験&山都昔語り 参加者募集
まだ2ヵ月以上先のイベントですが、山都らしさ満点のイベント開催決定、募集開始します!
山都といえばもちろん蕎麦!
会津では、そばを「打つ」ことを「ぶつ」といいます。
山都産のそば粉でつなぎを一切使わないいわゆる「十割そば」の、本場「そばぶち」を体験してみませんか?
また、そばぶち体験だけでなく、雪室や資料館の詳しい解説付き見学や、山都民話の会の語り部の方々の昔語りを鑑賞したり、山都の歴史や文化、そばのウンチクや山都のそばのうまさの秘密を学びます。
◎実施日時・場所
平成24年11月24日(土)午前8時30分~9時00分(集合・受付)
喜多方市山都町字沢田3077-1 飯豊とそばの里センター
◎募集人員
20名(要予約、先着順。)
◎参加料金
3,000円 (そば打ち体験料、入館料、保険料、語り部鑑賞料含む)
◎日程
8:30 受付開始
9:00~10:30 雪室&資料館 解説つき見学
10:30~11:00 そば名人によるそば打ち実演
11:00~12:00 そばぶち体験(1人あたり4食分がつくれます)
12:00~13:00 実食、食べ比べ
13:00~14:00 語り部さんによる山都民話昔語り
14:00~ 解散後 館内自由見学

今年の山都は記録的な少雨で、湿気を嫌うそばにもさすがに水が少なすぎて影響を与えているようで、例年育ちのいい水はけ良好の場所は育ちが悪く、逆に例年育ちの悪い水はけがよくない場所が逆に生育がよいようです。

今回のイベント会場となる飯豊とそばの里センターには、雪を利用する冷温貯蔵施設「雪室(ゆきむろ)」があります。

貯蔵庫は室温5度に保たれ、雪室の特徴として通常の冷蔵庫と違って湿度を70%に保てるので乾燥を防げる利点があります。
しかもいたって簡単なシステムで稼動し、電気エネルギーをほとんど使わない環境にやさしい施設なんですよね。

そば乾燥調整加工施設も見学します。

飯豊とそばの里センターは、「そば資料館」「ふれあい館」「ふるさと館」「そば伝承館」の4つからなります。
そのうちのひとつ、「そば資料館」ではそばに関する様々な事柄を詳しく学べます。
山都のそばがなぜおいしいか、その秘密もここでばっちりわかっちゃいます!(笑)


「ふれあい館」では山都の人々の暮らしの根底に流れる飯豊山信仰を中心に、山都の歴史や文化・飯豊山の壮大な自然について学ぶことができます。また、ふれあい館には「ふれあい座」と呼ばれるコーナーがありまして。。。

イベント当日は、この写真の中央の場所に山都民話の会の語り部さんが座って、参加者は車座になって興味深い山都の民話を聞かせていただきます。

で、山都の誇るそば名人による「匠の技」実演。


いや~、写真だけでもおいしそうでよだれ出てきますね(笑)。こんなに上手に打てればいいのですが。。。。

初めての人でもご安心を。そば打ちのベテランが付いて、つなぎを使わないそば粉100%の手打ちそばの作り方を、こねからそば切り、そば茹でまでばっちり体験します。
さあ、参加してみたくなっていただけましたか?(笑)
恥ずかしながら私自身そばぶち初体験なのですごく楽しみです。
◎申し込み・問合せ先
山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会
福島県喜多方市山都町字蔵ノ後954-1
喜多方市山都総合支所 産業課内
TEL 0241-38-3831
FAX 0241-38-3899
E-mail info@yamato-gt.whitesnow.jp
ご予約は、電話にてご連絡いただくか、FAX、Eメール、またはこのページの左のメールフォームより、参加者住所・氏名・年齢・電話番号を記入の上、お申し込み下さい。
(後援 喜多方地方広域市町村圏組合(喜多方地方ふるさと市町村圏推進事業))
一ノ木地区 飯豊山神社・出雲神社 例大祭 - 2012.09.04 Tue
9月1日、一ノ木地区の例大祭が行われました。
まずは10時から飯豊山神社拝殿にて神事。


先日つくった注連縄はこのとおり鳥居にかかりました。

細いほうの注連縄もこんな感じでかけられていました。



最初は外で取材しようと思ってたのですが、注連縄づくりから参加していたので、中に呼ばれ、御神酒も頂戴しました(笑)。
ここ一ノ木集落はかつて一ノ戸村と呼ばれ、会津藩から米沢藩へ抜ける間道の会津側の最終の村で、飯豊山への信仰登拝者の宿や土産物店が並ぶ宿場として栄えていました。

今は民宿は一軒もありませんが、壁や看板のそこここに当時の姿を偲ぶことができる文字が残っています。↑↓



そして11時半、今度は集落の北のはずれの丘にある出雲神社で神事がはじまります。

こちらにも新しい注連縄が。


祝詞奏上や玉串奉奠など神事が厳かに執り行なわれたのち、ここから飯豊山神社に向けて神輿が出発します。

再びお清めの御神酒。もちろん私も(笑)。







動画。

出雲神社から飯豊山神社に向かうことのみを「のぼる」というそうです。あとはすべて「下る」というとか。





写真左に見えるのは「旧一ノ戸村制札場」。

前述のように、一ノ木はかつての米沢に抜ける間道の最後の村であったため、人の移動が厳しく制限され、この制札場のある肝煎・田中家が番所の性格も兼ねていました。
この制札場は1830年頃に建てられたもので、現存する県内唯一の貴重なものです。

無事、飯豊山神社に到着。
この後、行列は主要な家々を廻り、15時頃まで練り歩きました。
小さく、決して華やかではないお祭りでしたが、だからこそ厳かで、一ノ木集落の人々による、集落の人々のためのお祭りといった感じで、とてもよかったです。
ワラすぐりから注連縄づくり、そして祭りと、一連の流れを見させていただいて、私にとって新しい、新鮮な事がいっぱいでした。
「来年は神輿も担いでみたら」の言葉にすっかりその気になっている私です(笑)。

オマケショット、蕎麦畑を走るSL。
まずは10時から飯豊山神社拝殿にて神事。


先日つくった注連縄はこのとおり鳥居にかかりました。

細いほうの注連縄もこんな感じでかけられていました。



最初は外で取材しようと思ってたのですが、注連縄づくりから参加していたので、中に呼ばれ、御神酒も頂戴しました(笑)。
ここ一ノ木集落はかつて一ノ戸村と呼ばれ、会津藩から米沢藩へ抜ける間道の会津側の最終の村で、飯豊山への信仰登拝者の宿や土産物店が並ぶ宿場として栄えていました。

今は民宿は一軒もありませんが、壁や看板のそこここに当時の姿を偲ぶことができる文字が残っています。↑↓



そして11時半、今度は集落の北のはずれの丘にある出雲神社で神事がはじまります。

こちらにも新しい注連縄が。


祝詞奏上や玉串奉奠など神事が厳かに執り行なわれたのち、ここから飯豊山神社に向けて神輿が出発します。

再びお清めの御神酒。もちろん私も(笑)。







動画。

出雲神社から飯豊山神社に向かうことのみを「のぼる」というそうです。あとはすべて「下る」というとか。





写真左に見えるのは「旧一ノ戸村制札場」。

前述のように、一ノ木はかつての米沢に抜ける間道の最後の村であったため、人の移動が厳しく制限され、この制札場のある肝煎・田中家が番所の性格も兼ねていました。
この制札場は1830年頃に建てられたもので、現存する県内唯一の貴重なものです。

無事、飯豊山神社に到着。
この後、行列は主要な家々を廻り、15時頃まで練り歩きました。
小さく、決して華やかではないお祭りでしたが、だからこそ厳かで、一ノ木集落の人々による、集落の人々のためのお祭りといった感じで、とてもよかったです。
ワラすぐりから注連縄づくり、そして祭りと、一連の流れを見させていただいて、私にとって新しい、新鮮な事がいっぱいでした。
「来年は神輿も担いでみたら」の言葉にすっかりその気になっている私です(笑)。

オマケショット、蕎麦畑を走るSL。
三ノ倉のヒマワリ - 2012.09.03 Mon
9月1日の山都町一ノ木地区の例大祭の模様を載せる前に。。。
みなさんに是非行っていただきたいタイムリーな話題を先にお届けします。
熱塩加納の三ノ倉スキー場のヒマワリが見ごろを迎えていると聞いたので行ってきました。
これは今年からの試みで、三ノ倉スキー場山小屋くららの下部斜面に試験的にヒマワリの種が植えられました。
今50万以上のヒマワリが咲き乱れています。
詳しくは喜多方市HPこちらをクリック






意外とヒマワリの後ろ側から「金色の絨毯」を眺めるのもオツなものですね。
ヒマワリ畑へのアプローチ地図はこちらをクリック
このヒマワリ畑は今週いっぱい楽しめるそうです。
みなさんもよかったら行ってみてください~。
なお、飯豊山神社 例大祭は明日アップする予定です。
みなさんに是非行っていただきたいタイムリーな話題を先にお届けします。
熱塩加納の三ノ倉スキー場のヒマワリが見ごろを迎えていると聞いたので行ってきました。
これは今年からの試みで、三ノ倉スキー場山小屋くららの下部斜面に試験的にヒマワリの種が植えられました。
今50万以上のヒマワリが咲き乱れています。
詳しくは喜多方市HPこちらをクリック






意外とヒマワリの後ろ側から「金色の絨毯」を眺めるのもオツなものですね。
ヒマワリ畑へのアプローチ地図はこちらをクリック
このヒマワリ畑は今週いっぱい楽しめるそうです。
みなさんもよかったら行ってみてください~。
なお、飯豊山神社 例大祭は明日アップする予定です。