そばぶち体験&山都昔語り 無事終了しました! - 2012.11.28 Wed
11月24日に「そばぶち体験&山都昔語り」と銘打って、山都にある「飯豊とそばの里センター」にて1日まるごと山都の魅力を堪能するイベントを行いました。

まずは、普段は公開していない雪室(ゆきむろ)の見学。

雪室には、冷やすための雪を貯蔵する室、そばを貯蔵する室(5℃設定)、野菜等を貯蔵する低温室(0℃設定)、外気に出した時の結露を防ぐため徐々に室温を上げていく温度調整室などがあります。

雪室と普通の冷蔵庫との大きな違いは、冷蔵庫は乾燥が進んでしまうのに対し、雪室は湿度を常に70%あたりで保つことが出来るため、変質を抑えて収穫期のそばに近い風味を保てる利点があります。

実際に品質劣化の指標となる遊離脂肪酸度の増加を比較した実験の結果において、雪室は極めて高い貯蔵効果があることが証明されています。

この室に3月上旬ごろに500トンの雪を投入し、送風機によって雪の冷温を各室に送って冷やします。
施設はいたって簡単なシステムで稼動し、電気エネルギーはほとんど使わないため、地球環境にやさしい施設といえますね。

そして次に、おとなりのそば乾燥調整加工施設の見学。写真はとりませんでしたが、外に巨大な乾燥と貯蔵を一括してできる設備があります。そして↑は原料に含まれている粗ごみを取り除く装置。



粗ごみをとった玄そば。


丸抜きしてそばがらを取り除いた後のそばの実。
そのまま食べてみましたが、香ばしくてビールのつまみに最適です(笑)。

そして製粉機へ。

機械でありながら、原理はまさに昔ながらの石臼挽き。
ゆっくりじっくり丁寧に挽いていきます。
そのため1日に85kgしか製粉できないそうです。


これが山都のそば粉。
山都ではそばの製粉歩留まりを70%以内と定めているため、色のついた甘皮の部分が含まれず、そば粉が白いのが特徴です。

続いてそば資料館にて、館長の解説付きで山都のそばについて学びます。

そばの構造、栽培方法、そばの栄養バランスから、全国の郷土そばについて、はたまた世界のそば料理、食膳、道具類まで、そばに関する様々な展示があって、知る人ぞ知る素晴らしいそば博物館です。

写真下の絵がそばの実の図なのですが、製粉段階、つまり取れる実の中の部位によって呼び名が違います。内側の一番粉側のほうが歯ごたえがあって、のどごしがいいものになり、外側の三番粉のほうが、そば特有の風味が強いと言われています。
このブレンド具合がそのそばの特徴が出るポイントで、いわゆる「田舎そば」と呼ばれるものは2番粉3番粉中心で香りや味が強いものの食感は荒々しさが残り、ここ山都のそばは1番粉2番粉中心で、細くコシのあるのどごしのいいそばが特徴となっています。

そしてそば名人によるそば打ちの実演。
あまりに鮮やかで、結構簡単そうに見えますが、この後実際やってみると。。。(苦笑)


実は我々の前に飛び込みでそば打ち体験をしている方々がいました。
ちょっと見ると、山都には似つかわしくない(笑)美女軍団。

私も行ったのですが、この前日に会津大学で行われた全会津文化祭「会津エンジン007」に講師として招かれていたプロのモデルさんたちでした(一人は今年のミスワールド日本代表の方でした)。
綺麗なはずですよね(笑)。

そしていよいよそばぶち体験開始。私は恥ずかしながら初めてのそばぶち。デビュー戦です。

使うはもちろん山都のそば粉100%。つなぎは一切使いません。右のは「打ち粉」と呼ばれるもので、生地どうしや生地と道具がくっつのを防ぐため随時ふりまくものです。

まずは熱湯でそばのデンプン質を結びつけ、続いて水を入れてそばのタンパク質を溶かし込みます。

そしてそばの味の八割方を決めると言われる地味ながら重要な「水回し」。
そば粉全体に水分をいきわたらせるために、なるべくそば粉を動かします。

だまになったやつは軽く手のひらですりつぶします。

水がなじんだそば粉をまとめ、続いて「練り」に入ります。
手のひらで押し込むように練っていきます。
で、どんな感じになればいいかの例えは。。。こういう粉系の必殺の決まり文句、「耳たぶくらいの柔らかさ」(笑)。

こんな団子にしたあと、手で軽くおしつぶし、鏡餅のような形に。

前述の打ち粉をまぶし、手のひらでさらにならしていきます。

そしていよいよ麺棒を使った「のし」という作業。


均一に薄くのばしていくのはかなり難しく、さらに名人は最終的に四角くのばすようですが、私は「アフリカ大陸」のようないびつな形に(苦笑)。
そして切るために生地をたたんでいきます。

でました、そば切り包丁。
私は左利きなんですが、そば資料館にはしっかりサウスポー用の包丁も常備されています。


切ったあとに包丁を少し傾けて、こま板をずらして切っていくのですが。。。。みんなかなり太くなってしまって。。。
頭でずらすって考えるとすでにそれはずらし過ぎのようです。


左がやり始め、右が後半。
あきらかに上手になってますね(笑)。


で、さっそくゆでます。

ほんと1分もかけず、ゆらめいたらさっと取り上げます。


流水でしめるとともに、ぬるぬるしてる打ち粉を洗っておとします。




私のうったそばも無事完成。初めてにしては上出来では?(笑)

いざ実食!


右が名人作。やはりそばの細さが全然違いますね(苦笑)。


みなさんの感想。「おいしすぎ~!」(笑)
やはり、うちたて、ゆでたて、山都のそば粉100%、先生の上手な指導、いろんな条件が揃うと初心者でもこんなにおいしいそばが打てるのか、とびっくりしました。
そしておなかがいっぱいになったところで、午後は山都民話の会の方々による、山都昔語り。
そば資料館の奥の「ふるさと館」には、「ふれあい座」という、車座になって昔語りを鑑賞できる素晴らしい場所があります。



今回、語り部の方々に語っていただいた民話は
1.そばがき
2.和尚山
3.会津の三おんば様
4.雪の中の命
5.お杉地蔵
6.人を助けた熊
7.親孝行息子
8.そば口上
の8つの演目。
どれも興味深く、ホロっとくる話あり、思わず笑ってしまう話あり、1時間ちょっとの時間があっという間に過ぎました。





いつも思うのですが、とにかく山都民話の会のみなさんは語りがとても上手で、語りを聞くと会津の方言とあいまって独特のあたたかい空気に包まれます。
今回も本当にありがとうございました。
民話は今、私の中で「ブーム」でして、来年は実際に山都町内の民話にまつわる現地へ行って、その場所場所で民話を語ってもらうイベントをやれたらいいな、なんて思ってます。
そしてそば打ち体験とともに、1日会場を提供してくださった「飯豊とそばの里センター」はそばについて何でもわかる「そば資料館」、飯豊山信仰を中心に山都の歴史や文化・飯豊山の自然に触れられる「ふるさと館」と、民俗博物館としてもとても充実した施設です。
今回やったそば打ち体験もいつでも1人から対応してくれるので(基本は要予約ですが、空いていれば当日飛び込みでも可能です)、手軽に山都のそば打ちを体験、賞味できるようになってます。
みなさんのお越しを心からお待ちしてます。
飯豊とそばの里センター
〒969-4143 福島県喜多方市山都町字沢田3077-1
TEL 0241-38-3000
開館時間 9:00~16:30
そば伝承館 10:00~16:00
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
詳しくは→こちらをクリック

まずは、普段は公開していない雪室(ゆきむろ)の見学。

雪室には、冷やすための雪を貯蔵する室、そばを貯蔵する室(5℃設定)、野菜等を貯蔵する低温室(0℃設定)、外気に出した時の結露を防ぐため徐々に室温を上げていく温度調整室などがあります。

雪室と普通の冷蔵庫との大きな違いは、冷蔵庫は乾燥が進んでしまうのに対し、雪室は湿度を常に70%あたりで保つことが出来るため、変質を抑えて収穫期のそばに近い風味を保てる利点があります。

実際に品質劣化の指標となる遊離脂肪酸度の増加を比較した実験の結果において、雪室は極めて高い貯蔵効果があることが証明されています。

この室に3月上旬ごろに500トンの雪を投入し、送風機によって雪の冷温を各室に送って冷やします。
施設はいたって簡単なシステムで稼動し、電気エネルギーはほとんど使わないため、地球環境にやさしい施設といえますね。

そして次に、おとなりのそば乾燥調整加工施設の見学。写真はとりませんでしたが、外に巨大な乾燥と貯蔵を一括してできる設備があります。そして↑は原料に含まれている粗ごみを取り除く装置。



粗ごみをとった玄そば。


丸抜きしてそばがらを取り除いた後のそばの実。
そのまま食べてみましたが、香ばしくてビールのつまみに最適です(笑)。

そして製粉機へ。

機械でありながら、原理はまさに昔ながらの石臼挽き。
ゆっくりじっくり丁寧に挽いていきます。
そのため1日に85kgしか製粉できないそうです。


これが山都のそば粉。
山都ではそばの製粉歩留まりを70%以内と定めているため、色のついた甘皮の部分が含まれず、そば粉が白いのが特徴です。

続いてそば資料館にて、館長の解説付きで山都のそばについて学びます。

そばの構造、栽培方法、そばの栄養バランスから、全国の郷土そばについて、はたまた世界のそば料理、食膳、道具類まで、そばに関する様々な展示があって、知る人ぞ知る素晴らしいそば博物館です。

写真下の絵がそばの実の図なのですが、製粉段階、つまり取れる実の中の部位によって呼び名が違います。内側の一番粉側のほうが歯ごたえがあって、のどごしがいいものになり、外側の三番粉のほうが、そば特有の風味が強いと言われています。
このブレンド具合がそのそばの特徴が出るポイントで、いわゆる「田舎そば」と呼ばれるものは2番粉3番粉中心で香りや味が強いものの食感は荒々しさが残り、ここ山都のそばは1番粉2番粉中心で、細くコシのあるのどごしのいいそばが特徴となっています。

そしてそば名人によるそば打ちの実演。
あまりに鮮やかで、結構簡単そうに見えますが、この後実際やってみると。。。(苦笑)


実は我々の前に飛び込みでそば打ち体験をしている方々がいました。
ちょっと見ると、山都には似つかわしくない(笑)美女軍団。

私も行ったのですが、この前日に会津大学で行われた全会津文化祭「会津エンジン007」に講師として招かれていたプロのモデルさんたちでした(一人は今年のミスワールド日本代表の方でした)。
綺麗なはずですよね(笑)。

そしていよいよそばぶち体験開始。私は恥ずかしながら初めてのそばぶち。デビュー戦です。

使うはもちろん山都のそば粉100%。つなぎは一切使いません。右のは「打ち粉」と呼ばれるもので、生地どうしや生地と道具がくっつのを防ぐため随時ふりまくものです。

まずは熱湯でそばのデンプン質を結びつけ、続いて水を入れてそばのタンパク質を溶かし込みます。

そしてそばの味の八割方を決めると言われる地味ながら重要な「水回し」。
そば粉全体に水分をいきわたらせるために、なるべくそば粉を動かします。

だまになったやつは軽く手のひらですりつぶします。

水がなじんだそば粉をまとめ、続いて「練り」に入ります。
手のひらで押し込むように練っていきます。
で、どんな感じになればいいかの例えは。。。こういう粉系の必殺の決まり文句、「耳たぶくらいの柔らかさ」(笑)。

こんな団子にしたあと、手で軽くおしつぶし、鏡餅のような形に。

前述の打ち粉をまぶし、手のひらでさらにならしていきます。

そしていよいよ麺棒を使った「のし」という作業。


均一に薄くのばしていくのはかなり難しく、さらに名人は最終的に四角くのばすようですが、私は「アフリカ大陸」のようないびつな形に(苦笑)。
そして切るために生地をたたんでいきます。

でました、そば切り包丁。
私は左利きなんですが、そば資料館にはしっかりサウスポー用の包丁も常備されています。


切ったあとに包丁を少し傾けて、こま板をずらして切っていくのですが。。。。みんなかなり太くなってしまって。。。
頭でずらすって考えるとすでにそれはずらし過ぎのようです。


左がやり始め、右が後半。
あきらかに上手になってますね(笑)。


で、さっそくゆでます。

ほんと1分もかけず、ゆらめいたらさっと取り上げます。


流水でしめるとともに、ぬるぬるしてる打ち粉を洗っておとします。




私のうったそばも無事完成。初めてにしては上出来では?(笑)

いざ実食!


右が名人作。やはりそばの細さが全然違いますね(苦笑)。


みなさんの感想。「おいしすぎ~!」(笑)
やはり、うちたて、ゆでたて、山都のそば粉100%、先生の上手な指導、いろんな条件が揃うと初心者でもこんなにおいしいそばが打てるのか、とびっくりしました。
そしておなかがいっぱいになったところで、午後は山都民話の会の方々による、山都昔語り。
そば資料館の奥の「ふるさと館」には、「ふれあい座」という、車座になって昔語りを鑑賞できる素晴らしい場所があります。



今回、語り部の方々に語っていただいた民話は
1.そばがき
2.和尚山
3.会津の三おんば様
4.雪の中の命
5.お杉地蔵
6.人を助けた熊
7.親孝行息子
8.そば口上
の8つの演目。
どれも興味深く、ホロっとくる話あり、思わず笑ってしまう話あり、1時間ちょっとの時間があっという間に過ぎました。





いつも思うのですが、とにかく山都民話の会のみなさんは語りがとても上手で、語りを聞くと会津の方言とあいまって独特のあたたかい空気に包まれます。
今回も本当にありがとうございました。
民話は今、私の中で「ブーム」でして、来年は実際に山都町内の民話にまつわる現地へ行って、その場所場所で民話を語ってもらうイベントをやれたらいいな、なんて思ってます。
そしてそば打ち体験とともに、1日会場を提供してくださった「飯豊とそばの里センター」はそばについて何でもわかる「そば資料館」、飯豊山信仰を中心に山都の歴史や文化・飯豊山の自然に触れられる「ふるさと館」と、民俗博物館としてもとても充実した施設です。
今回やったそば打ち体験もいつでも1人から対応してくれるので(基本は要予約ですが、空いていれば当日飛び込みでも可能です)、手軽に山都のそば打ちを体験、賞味できるようになってます。
みなさんのお越しを心からお待ちしてます。
飯豊とそばの里センター
〒969-4143 福島県喜多方市山都町字沢田3077-1
TEL 0241-38-3000
開館時間 9:00~16:30
そば伝承館 10:00~16:00
休館日 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
詳しくは→こちらをクリック
新しい除雪車 - 2012.11.21 Wed
これなんだかわかりますか? - 2012.11.19 Mon
今朝の飯豊 - 2012.11.19 Mon
飯豊連峰の雪 - 2012.11.19 Mon
山都の民話 昔語り - 2012.11.16 Fri
一週間後に開催予定のイベント「そばぶち体験&山都昔語り」→こちらをクリック
午後に行われる山都民話の会の方々による昔語りの演目が決まりました。
プログラム
1.そばがき 五十嵐征子さん
2.和尚山 真部トミ子さん
3.会津の三おんば様 永島陽子さん
4.雪の中の命 佐藤敏子さん
5.お杉地蔵 五十嵐征子さん
6.人を助けた熊 佐藤敏子さん
7.親孝行息子 真部トミ子さん
8.そば口上 永島陽子さん
笑いあり、涙あり、どれも本当に興味深い話ばかりで、なおかつ民話の会の方々はほとんどプロのような素晴らしい語り部です。
そこで、昔語りの鑑賞のみの参加も可能にさせていただきました。
参加費は無料、そば資料館のご厚意で、昔語り鑑賞のみの方のそば資料館入場料も特別に無料としていただきました。
語り部さんによるナマの昔語りを聞く機会はあまりないと思いますので、よかったらご参加ください。
昔語りはそば資料館にて 11月24日 13時からです。
また、午前中のそばぶち体験もまだ参加者募集してますので、昔語りとともによかったら1日山都で楽しんでみませんか?
ご参加お待ちしてます。

午後に行われる山都民話の会の方々による昔語りの演目が決まりました。
プログラム
1.そばがき 五十嵐征子さん
2.和尚山 真部トミ子さん
3.会津の三おんば様 永島陽子さん
4.雪の中の命 佐藤敏子さん
5.お杉地蔵 五十嵐征子さん
6.人を助けた熊 佐藤敏子さん
7.親孝行息子 真部トミ子さん
8.そば口上 永島陽子さん
笑いあり、涙あり、どれも本当に興味深い話ばかりで、なおかつ民話の会の方々はほとんどプロのような素晴らしい語り部です。
そこで、昔語りの鑑賞のみの参加も可能にさせていただきました。
参加費は無料、そば資料館のご厚意で、昔語り鑑賞のみの方のそば資料館入場料も特別に無料としていただきました。
語り部さんによるナマの昔語りを聞く機会はあまりないと思いますので、よかったらご参加ください。
昔語りはそば資料館にて 11月24日 13時からです。
また、午前中のそばぶち体験もまだ参加者募集してますので、昔語りとともによかったら1日山都で楽しんでみませんか?
ご参加お待ちしてます。

分析データでもおいしいお米と出ました! - 2012.11.15 Thu
今年、3回に渡り稲作体験イベントを行い、参加者のみなさんと現代農法と昔ながらの農法を同時に学んできました。→こちらをクリック
参加された方にはそれぞれ新米を送らせていただきましたが、一部の方から「おいしい!」とのメールをいただき、一同喜んでおります。
先日、体験をやらせていただいた平野さんの田んぼでとれた今年の新米を、食味分析で定評のある静岡製機㈱社製の分析機器こちらをクリックで測定していただきました。
その結果は。。。
の前に、お米の成分・特性と品質について少しご紹介したいと思います。
※以下の内容はすべて静岡製機㈱様の許可を得て資料から引用しました。
食味につながる分析項目は5つあって、
1.水分
食味の観点からはあまり乾燥しているものは食味が劣るとされてますが、貯蔵の観点からは水分が低いほうが好都合で、総合的にみると玄米だと14.5~16%が適正といえます。
2.タンパク質
栄養摂取的にいえばタンパク質は多いほうがいいですが、お米のタンパク質はご飯を炊くときにデンプンの膨潤を抑えてしまう働きがあり、日本人の好きな「粘り」を弱めてしまいますので、タンパク質含量はできるだけ低いほうがおいしい、ということになります。
数値的には玄米で8%以下が「良い」、9%以上は「劣る」、とされています。
3.アミロース
デンプンはだ液でアミロース、アミロペクチンという二つの成分に分解されるとその昔学校の授業で習ったと思いますが、このアミロースの比率が低いほど、炊いたお米の粘りが強い、つまりおいしいということになります。
数値的には18%以下が「良い」、22%以上が「劣る」とされています。
4.脂肪酸度
玄米には約3%の脂肪が含まれていますが、玄米は貯蔵してるとこれも学校でかつて学んだ、脂肪→脂肪酸とグリセリンに加水分解されて、遊離の脂肪酸が増加していき、これが古米化現象に関与していきます。
この遊離脂肪酸の割合=脂肪酸度が低いほど、良いということになります。
数値的には16%以下だと「良い」、20%以上だと「劣る」とされています。
5.スコア
ご飯の食味官能試験は一般に「概観」「香り」「味」「硬さ」「粘り」「総合評価」という各項目において「標準米」との相対評価で行われますが、静岡製機㈱さんの食味分析計では「総合評価」を目的変数に検量線を作成し、「スコア」として表示しています。
これが一番の指標となりますね。
数値的には、50以下が「劣る」、50~60が「やや劣る」、60~70が「普通」、70~80が「やや良い」、80以上が「良い」です。
そして。
注目の平野さんの田んぼの今年のお米の分析結果は。。。なんと!


スコア「89」
すごい! おいしいはずですよね(笑)。
平野さんのお米がおいしいのはもちろんですが、平野さんのだけが突出しておいしいのではなく、これは会津の米全体にいえることだと思ってます。
もちろん今年の全袋検査(こちらをクリック)により、放射能は基準値以下であることを確認しています。
みなさん、よかったら是非一度、会津のお米を試していただけたらと思います。
参加された方にはそれぞれ新米を送らせていただきましたが、一部の方から「おいしい!」とのメールをいただき、一同喜んでおります。
先日、体験をやらせていただいた平野さんの田んぼでとれた今年の新米を、食味分析で定評のある静岡製機㈱社製の分析機器こちらをクリックで測定していただきました。
その結果は。。。
の前に、お米の成分・特性と品質について少しご紹介したいと思います。
※以下の内容はすべて静岡製機㈱様の許可を得て資料から引用しました。
食味につながる分析項目は5つあって、
1.水分
食味の観点からはあまり乾燥しているものは食味が劣るとされてますが、貯蔵の観点からは水分が低いほうが好都合で、総合的にみると玄米だと14.5~16%が適正といえます。
2.タンパク質
栄養摂取的にいえばタンパク質は多いほうがいいですが、お米のタンパク質はご飯を炊くときにデンプンの膨潤を抑えてしまう働きがあり、日本人の好きな「粘り」を弱めてしまいますので、タンパク質含量はできるだけ低いほうがおいしい、ということになります。
数値的には玄米で8%以下が「良い」、9%以上は「劣る」、とされています。
3.アミロース
デンプンはだ液でアミロース、アミロペクチンという二つの成分に分解されるとその昔学校の授業で習ったと思いますが、このアミロースの比率が低いほど、炊いたお米の粘りが強い、つまりおいしいということになります。
数値的には18%以下が「良い」、22%以上が「劣る」とされています。
4.脂肪酸度
玄米には約3%の脂肪が含まれていますが、玄米は貯蔵してるとこれも学校でかつて学んだ、脂肪→脂肪酸とグリセリンに加水分解されて、遊離の脂肪酸が増加していき、これが古米化現象に関与していきます。
この遊離脂肪酸の割合=脂肪酸度が低いほど、良いということになります。
数値的には16%以下だと「良い」、20%以上だと「劣る」とされています。
5.スコア
ご飯の食味官能試験は一般に「概観」「香り」「味」「硬さ」「粘り」「総合評価」という各項目において「標準米」との相対評価で行われますが、静岡製機㈱さんの食味分析計では「総合評価」を目的変数に検量線を作成し、「スコア」として表示しています。
これが一番の指標となりますね。
数値的には、50以下が「劣る」、50~60が「やや劣る」、60~70が「普通」、70~80が「やや良い」、80以上が「良い」です。
そして。
注目の平野さんの田んぼの今年のお米の分析結果は。。。なんと!


スコア「89」
すごい! おいしいはずですよね(笑)。
平野さんのお米がおいしいのはもちろんですが、平野さんのだけが突出しておいしいのではなく、これは会津の米全体にいえることだと思ってます。
もちろん今年の全袋検査(こちらをクリック)により、放射能は基準値以下であることを確認しています。
みなさん、よかったら是非一度、会津のお米を試していただけたらと思います。
第7回(今年度最終回) 会津発見塾~白河街道・湖南方面の寺・神社を中心に~ - 2012.11.14 Wed
11月7日、先日下見にも参加した、第7回会津発見塾(今年度最終回)に行ってきました。
これまでの発見塾の模様は→こちらをクリック
今回のテーマは白河街道の湖南パート。街道沿いにある神社仏閣を中心に巡ります。
まずは郡山市湖南町福良にある千手院・伏竜寺へ。

境内にある大きなカエデが紅葉見頃をむかえていて、のっけから感嘆の声が。


観音堂への石段の両脇には、山門のように一対のモミの巨木があります。
樹齢400年以上、郡山市の天然記念物に指定されています。
完全な対でなく、微妙に斜めに前後してるのが興味深いですね。

幹の太さもですが、根の張り方が迫力満点。巨木好きの私としてはもうほんとうっとりです(笑)。

写真左の方のモミは平成2年に落雷の被害があり、その後修復が行われたとのこと。
伏竜寺の名の起源には興味深い伝説があります。
その昔、猪苗代湖から大蛇が出て山を荒らしまわり、谷や沢に死気を撒き散らしていたため、里には悪疫がはびこり、暗雲が天を覆って作物も実らず、村人は苦しんでいました。
そこへ弘法大師が通りかかり、村人を哀れに思って大蛇のいる山に登り、大蛇の根城である大岩の上を箒で掃き清めると、大蛇は退散し麓山の裾の洞窟に這って逃げ込みました。
しかし、頭隠して尻隠さず、もがいているところを里人に見つかり、切り殺されてしまったそうです。
山に逃げた大蛇の尾が竜の臥せた姿に似ていたことから「伏竜寺」と名づけた、と伝わります。
ちなみに現在薬師堂だけが残る、大蛇が逃げた洞窟のあった付近は穴尾という地名が、大蛇の根城を掃いたところを岩掃山という名が今も残っています。
また、ここ伏竜寺は、戊辰戦争時には新撰組の野戦病院となっていたことも知られています。

千手院観音堂には県の重要文化財に指定されている秘仏があります。
それは毎年7月17日の例大祭の日、1日のみしか公開されないのですが、今回特別に拝観させていただきました。



「福良千手千眼観世音立像菩薩」。
ヒノキ材の一木彫、像高1.73mもある大きな仏像で、鎌倉時代よりも前、藤原末期の仏教文化を伝える貴重なものといわれています。
縁起書によれば大同年間(807年)に弘法大師自らの彫刻と伝わります。

足元はみれませんでしたが、いただいたパンフの写真ではこのようなお姿であられます。木目がとても美しい造りでした。

また、伏竜寺境内には「おたか不動尊」があります。

となりには秩父宮勢津子妃殿下の参拝記念碑が。

この御地蔵様として祀られているのは、「おたかさん」の愛称で親しまれている高橋たか刀自。
おたかさんは勢津子妃殿下が4歳の時からお興入れされるまで乳母として一身を投げ打って養育に努めた人なのでした。
女性で御地蔵様にまでなっている人は稀でしょうし、私は今回はじめて知りましたが、まだまだ会津にはあまり知られていない素晴らしい女性がいるのですね。




観音堂に向かって左手の奥のほうに、おたかさんのお墓があります。
日露戦争で戦死した夫・高橋誠二郎氏とともに眠っています。

脇には妻「ムツ」と。
そう、おたかさんの本名は「高橋ムツ」というそうです。
しかし、乳母をつとめた勢津子様が皇族へ嫁ぐ際、明治天皇の幼名が「睦仁(むつひと)」であるため、恐れ多いということで、「タカ」と改名したそうです。

そして伏竜寺をあとにし、隠津島(おきつしま)神社へ。
創祀年代は不明ですが、三世紀に大和朝廷の東北平定の際に遠く九州から勧進されたとも伝えられており、かなり古そうです。

猪苗代の大山祇神社社叢と同様、この隠津島神社の社叢も、数百年もの間神域として斧を入れられることもなく、原生林の形をそのまま残しており、森自体が県の天然記念物に指定されています。
例えばあの伊勢神宮もそうですが、ここも凛とした空気が全体に漂っていて、普段それほど信心深いわけでもない私でも、ひとたび「神域」に踏み込めばとても厳かな気持ちになります。
「対人」でもなく「唯物」でもない自然発生的なもの。
やっぱり自分は日本人なんだな、と。

「菅谷地」と呼ばれる神域。
新編会津風土記によると、「社の前に多く菅の生する所あり。早魃の時神職桑名氏潔斎して菅を採れば雨必ず降る」と伝えられております。
江戸時代にはこの隠津島神社は「菅明神」と呼ばれていたとか。


本殿は入母屋造で銅板葺。祭神は宗像三女神。九州から海の神ではなく農耕の神として遷されたものと考えられています。

本殿のある神域は背後にある巨岩に見てとれるように磐座(いわぐら)であって、風穴もあり、山・岩そのものを神の依り代として信仰した古代人がここに神域を見出した理由がとてもよくわかります。


本殿の左手にさらに少し登っていく道があります。
別宮である風月堂、「蛇神様」へ向かう道です。



風穴のある巨岩の上にお堂が建っています。

蛇は水辺や湿地に多く生息するので、水の神の姿またはその使者とみて蛇に雨乞いをしたり、五穀豊穣を祈ったりと、この土地の重要な信仰の対象となってきたと思われます。


この風穴には神である蛇が棲んでいると言われ、生卵をお供えするのが習わしです。





また、この森は、ミズナラの下生植物が日本海型と太平洋型とが混生しているそうで、この地域が両洋気候の接点地帯であることを示す注目すべき場所であるとのことです。



そして、隠津島神社の近くを流れる沢に下りてみると。。。

これが「菅滝」です。
高さ7mほどの小さな滝ですが、かつてはここで雨乞いの儀式が行われていたという伝説が残る由緒ある滝です。


滝のそばの木の根元には、こんな穴が。
以前私の家の脇の杉も全く同じようにやられたことあったのでわかるのですが、おそらくクマが掘った痕ではないかと。木の洞に蜂が巣をつくると蜂蜜欲しさにクマが掘っちゃうんですよね。

そして隠津島神社を後にし、昼食へ行く前にちょっと寄り道。
郡山市の重要文化財に指定されている「磨崖供養塔」。
古代から中世にかけての白川郡から会津に抜ける唯一の街道はこのへんを通っていたそうで、隠津島神社もその街道沿いにありました。

一番上に阿弥陀如来を表す梵字、その下に永仁2年(1294年)蓮阿と書いてあるらしいですが、蓮阿という人物は会津の歴史には登場せず、不明だそうです。

そして、湖南町中野にある東光寺へ。
まず境内入り口にそびえる巨木、「大仏の大ケヤキ」。
福島県の天然記念物および緑の文化財に指定されていて、県内では若松の神指城跡にある高瀬の大ケヤキに次ぐ大樹です。

なぜ「大仏の」ケヤキというかというと。。。

東光寺阿弥陀堂内には通称「中地大仏」、県の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像が安置されているからです。
(普段は扉が閉められていて、大仏様を拝観するには事前予約が必要です。)
前九年の役(1053年頃)でこの地を踏んだ源義家公が、戦勝を祈願して中地村堂ノ窪にお堂を建て、大仏を安置したのが始まりといわれ、鎌倉時代以降、安積伊東氏が管理していたものの、伊東氏が没落すると東光寺も廃れましたが、寛文年間(1661~1672年)にかの保科正之公が西に3kmほど移動した現在の位置に遷座し、以来大仏殿は藩公の祈願所として江戸からも参詣者が来るほど栄えたそうです。


この中地大仏は座高3.31m。座高が2.41mの喜多方の会津大仏よりも大きいです。
しかし、肩幅が頭部の大きさにくらべて狭く、細身の大仏様だなあ、と思っているとなんと!
肩には削った跡があり、保科正之に保護される前の荒廃していた時期に雨ざらしに遭って腐食したためその部分を削ったためとも、お堂が火災に遭った際に燃えてしまったぶんを削ったためこのような肩幅になったともいわれています。




写真ではわかりませんが、大仏様は大仏動座の際に使用した木車の上に今も安置されていて、もしお堂が火事になったら正面の壁が取り払われ、台座ごと引っ張り出せるようになっているそうです。



お堂の中には江戸時代につくられた木彫りのおみくじ原版も展示されていました。
ちなみに義家軍は東征を続けるにあたり、その場所場所で兵士を半ば土着させ、地元の娘達と結婚させて支配を強めていったそうですが、ここではその結婚式場にあてられたのがこの大仏殿だったそうです。
そこで後世、「中地大仏縁結び」と謳われるようになり、今もってカップルのお参りが絶えないとか(笑)。

東光寺をあとにし、猪苗代湖方面へ。
舟津にある代官所跡の碑。
江戸時代、会津藩の廻米は、笹山原からここを経由して江戸へ送られていました。
米だけでなくいろんな物資が運ばれ、ここ舟津は大変にぎわっていたそうです。

舟津浜から青松浜への途中(湖南から西へ時計回り)、猪苗代湖が入江のようになっている地形の美しいところがあります。それが鬼沼です。
中世には港として使われていたとか。
はやくも白鳥の姿が見られました。

青松浜の手前にある「藩領境の碑」。
大永三年(1523年)、舟津村(二本松領)と福良村(会津領)との間に境界争いが起きて、葦名氏による裁決の結果、ここが境と定められたとのこと。
本当はその時目印に植えられた大松があったそうですが、今は枯れて、根の部分だけが残っています。

これがその大松の根っこです。

猪苗代湖。風があって波高く、一見すると海ですね(笑)。


対岸に磐梯山。

帰り道、少し時間が余ったので、私の知ってる湧き水をみなさんに飲んでもらおうと寄り道しました。
西田面(にしたづら)集落のはずれにある「馬洗い清水」。
ここは旧白河街道沿いで、おそらく宿場に入る前に馬を洗ったからこういう名前が付いているのではないかと。
と、いう感じで今年度の会津発見塾は無事全日程終了しました。
ひょんなことで4月から関わることになった「会津発見塾」。
私自身、下見や下調べの段階からいろんな出会いや発見があって、とても有意義な時間でした。
活性化って、きっと「再発見」からスタートするのかな、と。
地元の人すら知らないマニアックないろんな自然、歴史、文化を来年も掘り起こしていけたらいいな、と思います。
これまでの発見塾の模様は→こちらをクリック
今回のテーマは白河街道の湖南パート。街道沿いにある神社仏閣を中心に巡ります。
まずは郡山市湖南町福良にある千手院・伏竜寺へ。

境内にある大きなカエデが紅葉見頃をむかえていて、のっけから感嘆の声が。


観音堂への石段の両脇には、山門のように一対のモミの巨木があります。
樹齢400年以上、郡山市の天然記念物に指定されています。
完全な対でなく、微妙に斜めに前後してるのが興味深いですね。

幹の太さもですが、根の張り方が迫力満点。巨木好きの私としてはもうほんとうっとりです(笑)。

写真左の方のモミは平成2年に落雷の被害があり、その後修復が行われたとのこと。
伏竜寺の名の起源には興味深い伝説があります。
その昔、猪苗代湖から大蛇が出て山を荒らしまわり、谷や沢に死気を撒き散らしていたため、里には悪疫がはびこり、暗雲が天を覆って作物も実らず、村人は苦しんでいました。
そこへ弘法大師が通りかかり、村人を哀れに思って大蛇のいる山に登り、大蛇の根城である大岩の上を箒で掃き清めると、大蛇は退散し麓山の裾の洞窟に這って逃げ込みました。
しかし、頭隠して尻隠さず、もがいているところを里人に見つかり、切り殺されてしまったそうです。
山に逃げた大蛇の尾が竜の臥せた姿に似ていたことから「伏竜寺」と名づけた、と伝わります。
ちなみに現在薬師堂だけが残る、大蛇が逃げた洞窟のあった付近は穴尾という地名が、大蛇の根城を掃いたところを岩掃山という名が今も残っています。
また、ここ伏竜寺は、戊辰戦争時には新撰組の野戦病院となっていたことも知られています。

千手院観音堂には県の重要文化財に指定されている秘仏があります。
それは毎年7月17日の例大祭の日、1日のみしか公開されないのですが、今回特別に拝観させていただきました。



「福良千手千眼観世音立像菩薩」。
ヒノキ材の一木彫、像高1.73mもある大きな仏像で、鎌倉時代よりも前、藤原末期の仏教文化を伝える貴重なものといわれています。
縁起書によれば大同年間(807年)に弘法大師自らの彫刻と伝わります。

足元はみれませんでしたが、いただいたパンフの写真ではこのようなお姿であられます。木目がとても美しい造りでした。

また、伏竜寺境内には「おたか不動尊」があります。

となりには秩父宮勢津子妃殿下の参拝記念碑が。

この御地蔵様として祀られているのは、「おたかさん」の愛称で親しまれている高橋たか刀自。
おたかさんは勢津子妃殿下が4歳の時からお興入れされるまで乳母として一身を投げ打って養育に努めた人なのでした。
女性で御地蔵様にまでなっている人は稀でしょうし、私は今回はじめて知りましたが、まだまだ会津にはあまり知られていない素晴らしい女性がいるのですね。




観音堂に向かって左手の奥のほうに、おたかさんのお墓があります。
日露戦争で戦死した夫・高橋誠二郎氏とともに眠っています。

脇には妻「ムツ」と。
そう、おたかさんの本名は「高橋ムツ」というそうです。
しかし、乳母をつとめた勢津子様が皇族へ嫁ぐ際、明治天皇の幼名が「睦仁(むつひと)」であるため、恐れ多いということで、「タカ」と改名したそうです。

そして伏竜寺をあとにし、隠津島(おきつしま)神社へ。
創祀年代は不明ですが、三世紀に大和朝廷の東北平定の際に遠く九州から勧進されたとも伝えられており、かなり古そうです。

猪苗代の大山祇神社社叢と同様、この隠津島神社の社叢も、数百年もの間神域として斧を入れられることもなく、原生林の形をそのまま残しており、森自体が県の天然記念物に指定されています。
例えばあの伊勢神宮もそうですが、ここも凛とした空気が全体に漂っていて、普段それほど信心深いわけでもない私でも、ひとたび「神域」に踏み込めばとても厳かな気持ちになります。
「対人」でもなく「唯物」でもない自然発生的なもの。
やっぱり自分は日本人なんだな、と。

「菅谷地」と呼ばれる神域。
新編会津風土記によると、「社の前に多く菅の生する所あり。早魃の時神職桑名氏潔斎して菅を採れば雨必ず降る」と伝えられております。
江戸時代にはこの隠津島神社は「菅明神」と呼ばれていたとか。


本殿は入母屋造で銅板葺。祭神は宗像三女神。九州から海の神ではなく農耕の神として遷されたものと考えられています。

本殿のある神域は背後にある巨岩に見てとれるように磐座(いわぐら)であって、風穴もあり、山・岩そのものを神の依り代として信仰した古代人がここに神域を見出した理由がとてもよくわかります。


本殿の左手にさらに少し登っていく道があります。
別宮である風月堂、「蛇神様」へ向かう道です。



風穴のある巨岩の上にお堂が建っています。

蛇は水辺や湿地に多く生息するので、水の神の姿またはその使者とみて蛇に雨乞いをしたり、五穀豊穣を祈ったりと、この土地の重要な信仰の対象となってきたと思われます。


この風穴には神である蛇が棲んでいると言われ、生卵をお供えするのが習わしです。





また、この森は、ミズナラの下生植物が日本海型と太平洋型とが混生しているそうで、この地域が両洋気候の接点地帯であることを示す注目すべき場所であるとのことです。



そして、隠津島神社の近くを流れる沢に下りてみると。。。

これが「菅滝」です。
高さ7mほどの小さな滝ですが、かつてはここで雨乞いの儀式が行われていたという伝説が残る由緒ある滝です。


滝のそばの木の根元には、こんな穴が。
以前私の家の脇の杉も全く同じようにやられたことあったのでわかるのですが、おそらくクマが掘った痕ではないかと。木の洞に蜂が巣をつくると蜂蜜欲しさにクマが掘っちゃうんですよね。

そして隠津島神社を後にし、昼食へ行く前にちょっと寄り道。
郡山市の重要文化財に指定されている「磨崖供養塔」。
古代から中世にかけての白川郡から会津に抜ける唯一の街道はこのへんを通っていたそうで、隠津島神社もその街道沿いにありました。

一番上に阿弥陀如来を表す梵字、その下に永仁2年(1294年)蓮阿と書いてあるらしいですが、蓮阿という人物は会津の歴史には登場せず、不明だそうです。

そして、湖南町中野にある東光寺へ。
まず境内入り口にそびえる巨木、「大仏の大ケヤキ」。
福島県の天然記念物および緑の文化財に指定されていて、県内では若松の神指城跡にある高瀬の大ケヤキに次ぐ大樹です。

なぜ「大仏の」ケヤキというかというと。。。

東光寺阿弥陀堂内には通称「中地大仏」、県の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像が安置されているからです。
(普段は扉が閉められていて、大仏様を拝観するには事前予約が必要です。)
前九年の役(1053年頃)でこの地を踏んだ源義家公が、戦勝を祈願して中地村堂ノ窪にお堂を建て、大仏を安置したのが始まりといわれ、鎌倉時代以降、安積伊東氏が管理していたものの、伊東氏が没落すると東光寺も廃れましたが、寛文年間(1661~1672年)にかの保科正之公が西に3kmほど移動した現在の位置に遷座し、以来大仏殿は藩公の祈願所として江戸からも参詣者が来るほど栄えたそうです。


この中地大仏は座高3.31m。座高が2.41mの喜多方の会津大仏よりも大きいです。
しかし、肩幅が頭部の大きさにくらべて狭く、細身の大仏様だなあ、と思っているとなんと!
肩には削った跡があり、保科正之に保護される前の荒廃していた時期に雨ざらしに遭って腐食したためその部分を削ったためとも、お堂が火災に遭った際に燃えてしまったぶんを削ったためこのような肩幅になったともいわれています。




写真ではわかりませんが、大仏様は大仏動座の際に使用した木車の上に今も安置されていて、もしお堂が火事になったら正面の壁が取り払われ、台座ごと引っ張り出せるようになっているそうです。



お堂の中には江戸時代につくられた木彫りのおみくじ原版も展示されていました。
ちなみに義家軍は東征を続けるにあたり、その場所場所で兵士を半ば土着させ、地元の娘達と結婚させて支配を強めていったそうですが、ここではその結婚式場にあてられたのがこの大仏殿だったそうです。
そこで後世、「中地大仏縁結び」と謳われるようになり、今もってカップルのお参りが絶えないとか(笑)。

東光寺をあとにし、猪苗代湖方面へ。
舟津にある代官所跡の碑。
江戸時代、会津藩の廻米は、笹山原からここを経由して江戸へ送られていました。
米だけでなくいろんな物資が運ばれ、ここ舟津は大変にぎわっていたそうです。

舟津浜から青松浜への途中(湖南から西へ時計回り)、猪苗代湖が入江のようになっている地形の美しいところがあります。それが鬼沼です。
中世には港として使われていたとか。
はやくも白鳥の姿が見られました。

青松浜の手前にある「藩領境の碑」。
大永三年(1523年)、舟津村(二本松領)と福良村(会津領)との間に境界争いが起きて、葦名氏による裁決の結果、ここが境と定められたとのこと。
本当はその時目印に植えられた大松があったそうですが、今は枯れて、根の部分だけが残っています。

これがその大松の根っこです。

猪苗代湖。風があって波高く、一見すると海ですね(笑)。


対岸に磐梯山。

帰り道、少し時間が余ったので、私の知ってる湧き水をみなさんに飲んでもらおうと寄り道しました。
西田面(にしたづら)集落のはずれにある「馬洗い清水」。
ここは旧白河街道沿いで、おそらく宿場に入る前に馬を洗ったからこういう名前が付いているのではないかと。
と、いう感じで今年度の会津発見塾は無事全日程終了しました。
ひょんなことで4月から関わることになった「会津発見塾」。
私自身、下見や下調べの段階からいろんな出会いや発見があって、とても有意義な時間でした。
活性化って、きっと「再発見」からスタートするのかな、と。
地元の人すら知らないマニアックないろんな自然、歴史、文化を来年も掘り起こしていけたらいいな、と思います。
初雪 - 2012.11.14 Wed
「いいでのゆ」休館のお知らせ - 2012.11.13 Tue
給湯ボイラーの交換工事のため、下記の期間休館いたします。
ご不便をおかけして申し訳ありません。
平成24年11月26日(月)から
平成24年11月30日(金)までの5日間
問合せ先
いいでのゆ 0241-39-2360
山都総合支所産業課 0241-38-3841
ご不便をおかけして申し訳ありません。
平成24年11月26日(月)から
平成24年11月30日(金)までの5日間
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いいでのゆ 0241-39-2360
山都総合支所産業課 0241-38-3841
飯豊の幸「やまとのみそ」づくり体験 参加者募集 - 2012.11.09 Fri
12月2日開催
飯豊の幸「やまとのみそ」づくり体験 参加者募集
以前、このブログでもご紹介させていただいた、山都で無添加でおいしい昔ながらのみそづくりをいまなお続けている「相原麹店」。→こちらをクリック
添加物、保存料一切なし!
店主の相原さんが伝統を守り続けている山都の「ホンモノ」のみそ。
そのこだわりのみそづくりを相原さんに教えていただきます。
本来のみそのおいしさを味わい、その背景にある田舎文化の一端をみなさんと一緒に学べたらと思います。
この機会に我が家のオリジナル、究極の「手前みそ」をつくってみませんか?
なお、午後には今流行りの「塩麹づくり」のコツも教えていただけます。
◎実施日時・場所
平成24年12月2日(日)午前9時30分~10時00分(集合・受付)
喜多方市山都町相川字東向甲1490 相原麹店 地図は→こちらをクリック
◎募集人員
20名(要予約、先着順。)
◎参加料金
4,000円 (みそづくり体験料、昼食代、保険料、当日つくった無添加味噌5kg(4,000円相当)、樽代、手袋、大ビニール袋など作業に必要なものすべて含む)
◎日程
9:30 受付開始
10:00 資料、実際の機器をもとに、味噌ができる一連の工程の解説
10:30 体験(豆をつぶし、麹と塩と水をまぜてこねる作業など)
12:00 昼食(山都みそを生かした昔ながらの料理を予定してます)
13:00 薪割り体験、塩麹づくり実演
14:30 終了解散
・イベント終了後、できた味噌5kgをお持ち帰りいただきますが、郵送希望の方は送料実費で承ります。
・この体験で使用する材料はすべて相原麹店で通常使用しているこだわりの材料と同じものです。
・もちろん添加物、保存料は一切なし!です。
・この日つくった味噌は翌年(25年)の秋に食べることができます。
◎申し込み・問合せ先
山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会
福島県喜多方市山都町字蔵ノ後954-1
喜多方市山都総合支所 産業課内
TEL 0241-38-3831
FAX 0241-38-3899
E-mail info@yamato-gt.whitesnow.jp
ご予約は、電話にてご連絡いただくか、FAX、Eメール、またはこのページの左のメールフォームより、参加者住所・氏名・年齢・電話番号を記入の上、お申し込み下さい。
(後援 喜多方地方広域市町村圏組合(喜多方地方ふるさと市町村圏推進事業))

飯豊の幸「やまとのみそ」づくり体験 参加者募集
以前、このブログでもご紹介させていただいた、山都で無添加でおいしい昔ながらのみそづくりをいまなお続けている「相原麹店」。→こちらをクリック
添加物、保存料一切なし!
店主の相原さんが伝統を守り続けている山都の「ホンモノ」のみそ。
そのこだわりのみそづくりを相原さんに教えていただきます。
本来のみそのおいしさを味わい、その背景にある田舎文化の一端をみなさんと一緒に学べたらと思います。
この機会に我が家のオリジナル、究極の「手前みそ」をつくってみませんか?
なお、午後には今流行りの「塩麹づくり」のコツも教えていただけます。
◎実施日時・場所
平成24年12月2日(日)午前9時30分~10時00分(集合・受付)
喜多方市山都町相川字東向甲1490 相原麹店 地図は→こちらをクリック
◎募集人員
20名(要予約、先着順。)
◎参加料金
4,000円 (みそづくり体験料、昼食代、保険料、当日つくった無添加味噌5kg(4,000円相当)、樽代、手袋、大ビニール袋など作業に必要なものすべて含む)
◎日程
9:30 受付開始
10:00 資料、実際の機器をもとに、味噌ができる一連の工程の解説
10:30 体験(豆をつぶし、麹と塩と水をまぜてこねる作業など)
12:00 昼食(山都みそを生かした昔ながらの料理を予定してます)
13:00 薪割り体験、塩麹づくり実演
14:30 終了解散
・イベント終了後、できた味噌5kgをお持ち帰りいただきますが、郵送希望の方は送料実費で承ります。
・この体験で使用する材料はすべて相原麹店で通常使用しているこだわりの材料と同じものです。
・もちろん添加物、保存料は一切なし!です。
・この日つくった味噌は翌年(25年)の秋に食べることができます。
◎申し込み・問合せ先
山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会
福島県喜多方市山都町字蔵ノ後954-1
喜多方市山都総合支所 産業課内
TEL 0241-38-3831
FAX 0241-38-3899
E-mail info@yamato-gt.whitesnow.jp
ご予約は、電話にてご連絡いただくか、FAX、Eメール、またはこのページの左のメールフォームより、参加者住所・氏名・年齢・電話番号を記入の上、お申し込み下さい。
(後援 喜多方地方広域市町村圏組合(喜多方地方ふるさと市町村圏推進事業))

「黄金」の会津 - 2012.11.05 Mon
紅葉は山の方は終わりつつあり、里の方へだいぶ降りてきています。
あと数週間すれば、また長い雪の季節。
しかしその前に私が密かに「黄金週間」と呼んでいる、大好きなイチョウの黄葉シーズンがきます。
会津にはイチョウの巨木が多く、それぞれ微妙に黄葉する時期がずれているので、結構長く楽しめたりします。
昨年私が訪ねた会津のイチョウの名木を13本ご紹介します。
今年は多少ずれるかもしれませんが(※今年の紅葉などの進み具合を見る限り、今年はイチョウが色づくのも昨年より相当遅れるかもしれません)、参考までに昨年の日付を写真と一緒に載せておきますので、よかったらそれを目安に、「黄金の会津」を堪能しに来てみませんか?
1.赤井のイチョウ(撮影日2011.11.8)
所在地:福島県会津若松市湊町赤井字赤井
推定樹齢600年以上。
会津若松市指定天然記念物
福島県緑の文化財第325号
弘和年間(1381~1384年)、黒川城(のちの鶴ヶ城)城主芦名直盛の弟、田中六郎左エ門という人がいたそうですが、この人素行が悪く、悪いことばかりしていたため、この地に閉居を命ぜられ、その後は田を耕しつつ暮らしたのだそうです。
この赤井の大イチョウはその田中六郎左エ門の家の庭木だったと伝えられています。
でも今は集落のはずれ、周囲に何もない耕地に一本だけ存在感たっぷりにたたずんでいます。
「孤高のたたずまい」は美瑛の丘の「ケンとメリーの木」以上に素晴らしく、いつまでもボーっと眺めていたい場所です。

赤井のイチョウ1

赤井のイチョウ2
2.如来堂のイチョウ(撮影日:2011.11.9)
所在地:会津若松市神指町中四合(こうざしまちなかしごう)
会津若松市の西、田んぼの中にひっそりとたたずむ如来堂。
境内に一本のイチョウの木があります。
1868年8月21日、有名な母成峠の戦いで会津軍は西軍に敗れ、若松へ敗走。
近藤勇なき後、新撰組を率いていた土方歳三は、旧幕府艦隊の榎本武揚と合流する為に会津を去りました。
しかし。
新撰組三番隊組長で、沖田総司、永倉新八とともに新撰組最強の剣士と言われた斉藤一は、
「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」
と、(この言葉、かっこよすぎますよね(笑))会津に残り、闘い続けました。
その斉藤一ら十数名が本陣にしていたのがこの如来堂なのですが、1868年9月4日西軍の急襲を受け壊滅した、という新選組殉難の地なのです。
現在は、イチョウの木の他は碑石とお堂が残るのみ。
まさに「つわものどもが夢のあと」をしみじみ感じられる場所です。

如来堂のイチョウ1

如来堂のイチョウ2
3.小谷のイチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:会津若松市大戸町小谷川端
会津若松市自然景観指定緑地第12号
福島県緑の文化財第331号
会津若松の南、小谷(おや)という集落内に、ずっしりと存在感たっぷりのイチョウがあります。
樹齢500年以上、樹下に伏見稲荷の小祠が祀られています。
実はこの樹は初瀬川さんという方の個人所有の樹だったりします。
初瀬川家は、かつて小谷村(現在の大戸町小谷)で村方役人の肝煎を勤めた家柄でした。今もこのイチョウのそばに大きな屋敷があり、私は二度ほど中に入れてもらったことがありますが、阿賀川に面している庭の一角に、樹齢200年以上の大きな枝垂桜があって、それはそれは見事です。(この枝垂桜については今後「会津の桜シリーズ」を書くことあればそのときご紹介したいと思います)

小谷のイチョウ1

小谷のイチョウ2
4.大正寺のイチョウ(撮影日:2011.11.17)
所在地:耶麻郡北塩原村北山字寺ノ前
北塩原村指定天然記念物
福島県緑の文化財第359号
喜多方から国道459号を北塩原に入ったすぐのところに、大正寺というお寺があります。
弘仁年間(810~823)、空海が北山漆薬師堂の守護として草創したとされ、その境内にはそのとき植えられたと伝わる大イチョウがあります。
その伝承どおりだと、樹齢1100年以上。長床のイチョウより古いことになります。
この大正寺と奥の院(北山漆薬師堂)には今でも会津の人々が信じる習わしがあります。
1604年、ときの会津藩主、蒲生秀行(蒲生氏郷の子)の長男亀千代丸 (後の蒲生忠郷) は生まれながら病弱でありました。北山漆薬師の霊験あらたかなことを耳にした蒲生秀行は、早速北山漆大正寺に亀千代丸と奥方 (徳川家康の三女、振姫) を向かわせました。
亀千代丸と振姫は七日間護摩をたき、ひたすら奥の院にお詣りし病気が治るように祈願しました。
すると亀千代丸は元気になったそうです。
このとき亀千代丸はちょうど二歳であったため、それ以来現在も会津の人々は子供が二歳になると北山漆薬師に詣で大石に我子の腹をあてて、無病息災を祈ります。
いわゆる「二つ児詣り」です。

大正寺のイチョウ1

大正寺のイチョウ2
5.志津のイチョウ(撮影日:2011.11.7)
所在地:耶麻郡猪苗代町三郷字志津南
福島県緑の文化財第344号
このイチョウがある志津文殊堂は猪苗代三十三観音の番外「外3番」になってます。
会津には有名な会津三十三観音をはじめ、この猪苗代三十三観音や御蔵入三十三観音など様々な三十三観音がありますが、他の三十三観音には子安観音を本尊としているところはまったくないのに、猪苗代三十三観音の中にはこの文殊堂をはじめ番外のも入れるとなんと13ヶ所もあるのでした。
子安観音とは安産や幼児の成長を守護するという観世音菩薩ですが、同時に隠れキリシタンが礼拝した聖母像でもあります。
猪苗代は会津ではもっとも切支丹活動の活発な所だった言われており、それと関係があると考えるのが自然ですよね。
そう思いながらこのイチョウを眺めていると、また違った趣きがあります。
「賤の身も心にかけて一すじに 祈る誠は後の世のため」
外三番 志津文殊堂 御詠歌

志津のイチョウ1

志津のイチョウ2
6.都沢のイチョウ(撮影日:2011.11.7)
所在地:耶麻郡猪苗代町関都字都沢
猪苗代町指定天然記念物
福島県緑の文化財第350号
志津のイチョウの南、同じ猪苗代町の二本松街道沿い都沢集落にこの大イチョウはあります。
猪苗代町は会津でも特にイチョウの木が多いような気がしますが、このイチョウはその中でも最大で、樹齢720年以上と言われています。(樹齢はイチョウのある地蔵堂の創建時にこのイチョウが植えられたと想定しての推定です。)
地蔵堂のご本尊は、等身大の木造六体地蔵尊(六道地蔵尊)。この六地蔵も志津のイチョウの子安観音と同様、切支丹地蔵だという方もいました。

都沢のイチョウ1

都沢のイチョウ2
7.百目貫のイチョウ(撮影日:2011.11.7)
所在地:耶麻郡猪苗代町磐里字百目貫
猪苗代町指定天然記念物
福島県緑の文化財第349号
磐梯山をのぞむJR猪苗代駅近くにある猪苗代三十三観音の第二十番札所、地蔵堂。
その境内にあるのが「百目貫(「どうめき」と読みます)のイチョウ」です。
故事によれば、かつてはこの現存の地蔵堂を含む東光寺という大きな寺院がここにあったそうで、このイチョウはその境内にあったことが記されています。
一説に、その昔摂津の国、河原田泉というところから東光寺の観音像を背負ってきた人が、道中使っていた杖を挿しておいたらそれが根付いてこのイチョウになった、とのことで、別名「逆さ公孫樹」とも呼ばれています。
その伝承に基づいてか、樹齢は1000年とのことですが、現実にはそこまでの巨木ではないように見えます。
でもこういう言い伝えはほんと興味深いですね。

百目貫のイチョウ
8.浄福寺のイチョウ(撮影日:2011.11.4)
所在地:河沼郡会津坂下町開津字浄福
福島県緑の文化財第374号
会津坂下町にある浄福寺は、阿弥陀仏を本尊としていて、明応3年(1494年)専蓮社良有上人により開山されたと伝えらる古刹とのことですが、現在は公民館と消防屯所の間に立っていて、なんとなく集会所のような雰囲気。
イチョウの由来は定かではありませんが、このへんは盆地で見通しがよく、結構遠くからでも目立つ巨木です。

浄福寺のイチョウ
9.慈眼寺のイチョウ(撮影日:2011.11.8)
所在地:耶麻郡西会津町群岡字北岐甲
西会津町、下野尻の慈眼寺という寺の境内に、大きなイチョウがあります。
「慈眼寺」というと、私はついつい新潟・小千谷にある戊辰戦争時の、長岡藩家老河合継之助と西軍土佐藩士岩村精一郎の有名な「小千谷談判」が行われた寺を思い浮かべてしまうのですが(苦笑)、どうも小千谷とは関係ないようで、慶安年間(1648~1651)、鉄額が若松の成願寺の末寺として中興し、後に、京都の妙心寺の末寺となって現在に至ってるようです。

慈眼寺のイチョウ
10.法用寺のイチョウ(撮影日:2011.11.10)
所在地:大沼郡会津美里町大字雀林字三番山下
福島県緑の文化財第389号
会津美里町(旧会津高田町)にある法用寺は、会津の寺の中でも私が一番好きな寺のひとつです。
会津三十三観音第29番札所。
養老4年(702年)徳道上人が建てたと伝えられていて、会津では立木観音のある恵隆寺(養老3年創建)に次いで二番目に古いお寺です。
ここは重要文化財の宝庫で、観音堂の堂内には記年銘が明らかな会津最古の厨子、そして平安時代中期のものとされる金剛力士立像が安置されていて(両方とも国指定重要文化財)、境内には県指定重文の美しい三重塔、そしてこれもいつか「会津の桜シリーズ」を書く際にご紹介したい、会津五桜のひとつ、虎ノ尾桜(県指定天然記念物)があります。
イチョウは推定樹齢300年、虎ノ尾桜と対になったように立っています。
「巡り来て 西を遥かに眺むれば 雨露繁き 古方の沼」
第29番 法用寺 御詠歌

法用寺のイチョウ1

法用寺のイチョウ2
11.藤巻神社の乳イチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:大沼郡会津美里町氷玉字古屋敷
会津美里町指定天然記念物
福島県緑の文化財第391号
下野街道沿い、会津若松の南、福永集落にある藤巻神社の境内に大きな「乳イチョウ」があります。
万治元年(1658年)に、農民である山口勝右ェ門が寄付を募り、神社を建てたと伝えられていて、このイチョウは樹齢から考えるとそのころに植えられたものと考えられます。
「乳イチョウ」の名が示すとおり、樹幹から乳房状の乳枝が垂れ下がり、(イチョウの巨樹には多くみられる現象です)これを削り取って煎用すれば乳の出がよくなるという伝説があります。
(専門学的にいうと、ここでいう「乳」=鍾乳石状の下垂物は、潜状性の不定芽、または短枝を中心として貯蔵栄養分の蓄積によって形成されます)

藤巻神社の乳イチョウ
12.金川戸隠神社のイチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:喜多方市塩川町金橋字金川
旧塩川町指定天然記念物
福島県緑の文化財第361号
旧塩川町(現喜多方市)金川に戸隠神社はあります。「戸隠神社」なので、日本神話で天照大神が隠れた岩戸を手で開けたとされる怪力の「手力雄命(たぢからおのみこと)」が祭られています。
ちょっと不思議なのは、この大イチョウは社殿のギリギリ横に生えており(ほぼくっついた状態)、境内入口から見ると、まるで屋根を覆い隠して守ってるような雰囲気があります。
樹齢600年以上、地上に露出した根が縦横に這っており、長い年月生き抜いてきたオーラを放っていますね。

金川戸隠神社のイチョウ
13.新宮熊野神社のイチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:喜多方市慶徳町新宮熊野
喜多方市天然記念物
福島県緑の文化財第7号
国指定重要文化財の長床(ながとこ)のある新宮熊野神社は、社伝によれば源頼義、義家親子が「前九年の役」天喜3年(1055)陸奥征討に赴いたとき、武運を祈って紀州熊野から熊野堂村(現在の河沼郡河東町)に勧請鎮座したのが始まりで、後に「後三年の役」で再びこの地を訪れた義家が、新宮の地に移すよう命じ、寛治3年(1089)完成といわれています。
御神木の大イチョウはその頃植えられたものと考えられ、そうだとすると樹齢920年以上ということになります。
落雷で主幹がやられるまでは、会津若松からもこの木が見えたとか。



拝殿の反対側から、柱を額縁に見立て、こんな感じで御神木を眺めるのが私は好きです。



毎年、黄葉の時期はライトアップの演出があります。
今年は11月15日(木)~11月20日(火)。
時間は17:30~19:30の2時間です。
詳しくは→こちらをクリック


実は私が知っている会津のイチョウの巨木は30以上あるのですが、今回は厳選して13本紹介しました。
イチョウはよく大火事になって建物が焼け落ちても生き残るくらい生命力が強く、昨年の震災以来、へこみそうになりがちなとき、私はとくに「かくありたい」と思いながら巡り続けてます。
そして会津には巨木とともに由緒ある寺院や神社が多くあります。
先人たちの信仰の篤さと文化を育む豊かな心。
いつまでも後世に語り継いでいけるよう、原発ごときに絶対に屈したくないと私は強く思います。
紅葉の大滝の回の記事の反響が思いのほか大きくて、多くの方が訪れてくださったとのこと、ほんとうにありがたく思います。
今回のブログを読んで一人でも多くの方が「黄金の会津」を味わいに来てくださることを祈りつつ。。。
「銀杏の葉」
これは はるばると東洋から
わたしの庭に移された木の葉です
この葉には 賢者の心をよろこばせる
ふかい意味がふくまれています
これは もともと一枚の葉が
裂かれて二枚になったのでしょうか
それとも 二枚の葉が相手を見つけて
一枚になったのでしょうか
こうした問いに答えられる
ほんとうの意味がどうやらわかってきました
わたしの歌を読んであなたはお気づきになりませんか
わたしも一枚でありながら あなたとむすばれた二枚の葉であることが
ヨハン ウォルフガング フォン ゲーテ

あと数週間すれば、また長い雪の季節。
しかしその前に私が密かに「黄金週間」と呼んでいる、大好きなイチョウの黄葉シーズンがきます。
会津にはイチョウの巨木が多く、それぞれ微妙に黄葉する時期がずれているので、結構長く楽しめたりします。
昨年私が訪ねた会津のイチョウの名木を13本ご紹介します。
今年は多少ずれるかもしれませんが(※今年の紅葉などの進み具合を見る限り、今年はイチョウが色づくのも昨年より相当遅れるかもしれません)、参考までに昨年の日付を写真と一緒に載せておきますので、よかったらそれを目安に、「黄金の会津」を堪能しに来てみませんか?
1.赤井のイチョウ(撮影日2011.11.8)
所在地:福島県会津若松市湊町赤井字赤井
推定樹齢600年以上。
会津若松市指定天然記念物
福島県緑の文化財第325号
弘和年間(1381~1384年)、黒川城(のちの鶴ヶ城)城主芦名直盛の弟、田中六郎左エ門という人がいたそうですが、この人素行が悪く、悪いことばかりしていたため、この地に閉居を命ぜられ、その後は田を耕しつつ暮らしたのだそうです。
この赤井の大イチョウはその田中六郎左エ門の家の庭木だったと伝えられています。
でも今は集落のはずれ、周囲に何もない耕地に一本だけ存在感たっぷりにたたずんでいます。
「孤高のたたずまい」は美瑛の丘の「ケンとメリーの木」以上に素晴らしく、いつまでもボーっと眺めていたい場所です。

赤井のイチョウ1

赤井のイチョウ2
2.如来堂のイチョウ(撮影日:2011.11.9)
所在地:会津若松市神指町中四合(こうざしまちなかしごう)
会津若松市の西、田んぼの中にひっそりとたたずむ如来堂。
境内に一本のイチョウの木があります。
1868年8月21日、有名な母成峠の戦いで会津軍は西軍に敗れ、若松へ敗走。
近藤勇なき後、新撰組を率いていた土方歳三は、旧幕府艦隊の榎本武揚と合流する為に会津を去りました。
しかし。
新撰組三番隊組長で、沖田総司、永倉新八とともに新撰組最強の剣士と言われた斉藤一は、
「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」
と、(この言葉、かっこよすぎますよね(笑))会津に残り、闘い続けました。
その斉藤一ら十数名が本陣にしていたのがこの如来堂なのですが、1868年9月4日西軍の急襲を受け壊滅した、という新選組殉難の地なのです。
現在は、イチョウの木の他は碑石とお堂が残るのみ。
まさに「つわものどもが夢のあと」をしみじみ感じられる場所です。

如来堂のイチョウ1

如来堂のイチョウ2
3.小谷のイチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:会津若松市大戸町小谷川端
会津若松市自然景観指定緑地第12号
福島県緑の文化財第331号
会津若松の南、小谷(おや)という集落内に、ずっしりと存在感たっぷりのイチョウがあります。
樹齢500年以上、樹下に伏見稲荷の小祠が祀られています。
実はこの樹は初瀬川さんという方の個人所有の樹だったりします。
初瀬川家は、かつて小谷村(現在の大戸町小谷)で村方役人の肝煎を勤めた家柄でした。今もこのイチョウのそばに大きな屋敷があり、私は二度ほど中に入れてもらったことがありますが、阿賀川に面している庭の一角に、樹齢200年以上の大きな枝垂桜があって、それはそれは見事です。(この枝垂桜については今後「会津の桜シリーズ」を書くことあればそのときご紹介したいと思います)

小谷のイチョウ1

小谷のイチョウ2
4.大正寺のイチョウ(撮影日:2011.11.17)
所在地:耶麻郡北塩原村北山字寺ノ前
北塩原村指定天然記念物
福島県緑の文化財第359号
喜多方から国道459号を北塩原に入ったすぐのところに、大正寺というお寺があります。
弘仁年間(810~823)、空海が北山漆薬師堂の守護として草創したとされ、その境内にはそのとき植えられたと伝わる大イチョウがあります。
その伝承どおりだと、樹齢1100年以上。長床のイチョウより古いことになります。
この大正寺と奥の院(北山漆薬師堂)には今でも会津の人々が信じる習わしがあります。
1604年、ときの会津藩主、蒲生秀行(蒲生氏郷の子)の長男亀千代丸 (後の蒲生忠郷) は生まれながら病弱でありました。北山漆薬師の霊験あらたかなことを耳にした蒲生秀行は、早速北山漆大正寺に亀千代丸と奥方 (徳川家康の三女、振姫) を向かわせました。
亀千代丸と振姫は七日間護摩をたき、ひたすら奥の院にお詣りし病気が治るように祈願しました。
すると亀千代丸は元気になったそうです。
このとき亀千代丸はちょうど二歳であったため、それ以来現在も会津の人々は子供が二歳になると北山漆薬師に詣で大石に我子の腹をあてて、無病息災を祈ります。
いわゆる「二つ児詣り」です。

大正寺のイチョウ1

大正寺のイチョウ2
5.志津のイチョウ(撮影日:2011.11.7)
所在地:耶麻郡猪苗代町三郷字志津南
福島県緑の文化財第344号
このイチョウがある志津文殊堂は猪苗代三十三観音の番外「外3番」になってます。
会津には有名な会津三十三観音をはじめ、この猪苗代三十三観音や御蔵入三十三観音など様々な三十三観音がありますが、他の三十三観音には子安観音を本尊としているところはまったくないのに、猪苗代三十三観音の中にはこの文殊堂をはじめ番外のも入れるとなんと13ヶ所もあるのでした。
子安観音とは安産や幼児の成長を守護するという観世音菩薩ですが、同時に隠れキリシタンが礼拝した聖母像でもあります。
猪苗代は会津ではもっとも切支丹活動の活発な所だった言われており、それと関係があると考えるのが自然ですよね。
そう思いながらこのイチョウを眺めていると、また違った趣きがあります。
「賤の身も心にかけて一すじに 祈る誠は後の世のため」
外三番 志津文殊堂 御詠歌

志津のイチョウ1

志津のイチョウ2
6.都沢のイチョウ(撮影日:2011.11.7)
所在地:耶麻郡猪苗代町関都字都沢
猪苗代町指定天然記念物
福島県緑の文化財第350号
志津のイチョウの南、同じ猪苗代町の二本松街道沿い都沢集落にこの大イチョウはあります。
猪苗代町は会津でも特にイチョウの木が多いような気がしますが、このイチョウはその中でも最大で、樹齢720年以上と言われています。(樹齢はイチョウのある地蔵堂の創建時にこのイチョウが植えられたと想定しての推定です。)
地蔵堂のご本尊は、等身大の木造六体地蔵尊(六道地蔵尊)。この六地蔵も志津のイチョウの子安観音と同様、切支丹地蔵だという方もいました。

都沢のイチョウ1

都沢のイチョウ2
7.百目貫のイチョウ(撮影日:2011.11.7)
所在地:耶麻郡猪苗代町磐里字百目貫
猪苗代町指定天然記念物
福島県緑の文化財第349号
磐梯山をのぞむJR猪苗代駅近くにある猪苗代三十三観音の第二十番札所、地蔵堂。
その境内にあるのが「百目貫(「どうめき」と読みます)のイチョウ」です。
故事によれば、かつてはこの現存の地蔵堂を含む東光寺という大きな寺院がここにあったそうで、このイチョウはその境内にあったことが記されています。
一説に、その昔摂津の国、河原田泉というところから東光寺の観音像を背負ってきた人が、道中使っていた杖を挿しておいたらそれが根付いてこのイチョウになった、とのことで、別名「逆さ公孫樹」とも呼ばれています。
その伝承に基づいてか、樹齢は1000年とのことですが、現実にはそこまでの巨木ではないように見えます。
でもこういう言い伝えはほんと興味深いですね。

百目貫のイチョウ
8.浄福寺のイチョウ(撮影日:2011.11.4)
所在地:河沼郡会津坂下町開津字浄福
福島県緑の文化財第374号
会津坂下町にある浄福寺は、阿弥陀仏を本尊としていて、明応3年(1494年)専蓮社良有上人により開山されたと伝えらる古刹とのことですが、現在は公民館と消防屯所の間に立っていて、なんとなく集会所のような雰囲気。
イチョウの由来は定かではありませんが、このへんは盆地で見通しがよく、結構遠くからでも目立つ巨木です。

浄福寺のイチョウ
9.慈眼寺のイチョウ(撮影日:2011.11.8)
所在地:耶麻郡西会津町群岡字北岐甲
西会津町、下野尻の慈眼寺という寺の境内に、大きなイチョウがあります。
「慈眼寺」というと、私はついつい新潟・小千谷にある戊辰戦争時の、長岡藩家老河合継之助と西軍土佐藩士岩村精一郎の有名な「小千谷談判」が行われた寺を思い浮かべてしまうのですが(苦笑)、どうも小千谷とは関係ないようで、慶安年間(1648~1651)、鉄額が若松の成願寺の末寺として中興し、後に、京都の妙心寺の末寺となって現在に至ってるようです。

慈眼寺のイチョウ
10.法用寺のイチョウ(撮影日:2011.11.10)
所在地:大沼郡会津美里町大字雀林字三番山下
福島県緑の文化財第389号
会津美里町(旧会津高田町)にある法用寺は、会津の寺の中でも私が一番好きな寺のひとつです。
会津三十三観音第29番札所。
養老4年(702年)徳道上人が建てたと伝えられていて、会津では立木観音のある恵隆寺(養老3年創建)に次いで二番目に古いお寺です。
ここは重要文化財の宝庫で、観音堂の堂内には記年銘が明らかな会津最古の厨子、そして平安時代中期のものとされる金剛力士立像が安置されていて(両方とも国指定重要文化財)、境内には県指定重文の美しい三重塔、そしてこれもいつか「会津の桜シリーズ」を書く際にご紹介したい、会津五桜のひとつ、虎ノ尾桜(県指定天然記念物)があります。
イチョウは推定樹齢300年、虎ノ尾桜と対になったように立っています。
「巡り来て 西を遥かに眺むれば 雨露繁き 古方の沼」
第29番 法用寺 御詠歌

法用寺のイチョウ1

法用寺のイチョウ2
11.藤巻神社の乳イチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:大沼郡会津美里町氷玉字古屋敷
会津美里町指定天然記念物
福島県緑の文化財第391号
下野街道沿い、会津若松の南、福永集落にある藤巻神社の境内に大きな「乳イチョウ」があります。
万治元年(1658年)に、農民である山口勝右ェ門が寄付を募り、神社を建てたと伝えられていて、このイチョウは樹齢から考えるとそのころに植えられたものと考えられます。
「乳イチョウ」の名が示すとおり、樹幹から乳房状の乳枝が垂れ下がり、(イチョウの巨樹には多くみられる現象です)これを削り取って煎用すれば乳の出がよくなるという伝説があります。
(専門学的にいうと、ここでいう「乳」=鍾乳石状の下垂物は、潜状性の不定芽、または短枝を中心として貯蔵栄養分の蓄積によって形成されます)

藤巻神社の乳イチョウ
12.金川戸隠神社のイチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:喜多方市塩川町金橋字金川
旧塩川町指定天然記念物
福島県緑の文化財第361号
旧塩川町(現喜多方市)金川に戸隠神社はあります。「戸隠神社」なので、日本神話で天照大神が隠れた岩戸を手で開けたとされる怪力の「手力雄命(たぢからおのみこと)」が祭られています。
ちょっと不思議なのは、この大イチョウは社殿のギリギリ横に生えており(ほぼくっついた状態)、境内入口から見ると、まるで屋根を覆い隠して守ってるような雰囲気があります。
樹齢600年以上、地上に露出した根が縦横に這っており、長い年月生き抜いてきたオーラを放っていますね。

金川戸隠神社のイチョウ
13.新宮熊野神社のイチョウ(撮影日:2011.11.16)
所在地:喜多方市慶徳町新宮熊野
喜多方市天然記念物
福島県緑の文化財第7号
国指定重要文化財の長床(ながとこ)のある新宮熊野神社は、社伝によれば源頼義、義家親子が「前九年の役」天喜3年(1055)陸奥征討に赴いたとき、武運を祈って紀州熊野から熊野堂村(現在の河沼郡河東町)に勧請鎮座したのが始まりで、後に「後三年の役」で再びこの地を訪れた義家が、新宮の地に移すよう命じ、寛治3年(1089)完成といわれています。
御神木の大イチョウはその頃植えられたものと考えられ、そうだとすると樹齢920年以上ということになります。
落雷で主幹がやられるまでは、会津若松からもこの木が見えたとか。



拝殿の反対側から、柱を額縁に見立て、こんな感じで御神木を眺めるのが私は好きです。



毎年、黄葉の時期はライトアップの演出があります。
今年は11月15日(木)~11月20日(火)。
時間は17:30~19:30の2時間です。
詳しくは→こちらをクリック


実は私が知っている会津のイチョウの巨木は30以上あるのですが、今回は厳選して13本紹介しました。
イチョウはよく大火事になって建物が焼け落ちても生き残るくらい生命力が強く、昨年の震災以来、へこみそうになりがちなとき、私はとくに「かくありたい」と思いながら巡り続けてます。
そして会津には巨木とともに由緒ある寺院や神社が多くあります。
先人たちの信仰の篤さと文化を育む豊かな心。
いつまでも後世に語り継いでいけるよう、原発ごときに絶対に屈したくないと私は強く思います。
紅葉の大滝の回の記事の反響が思いのほか大きくて、多くの方が訪れてくださったとのこと、ほんとうにありがたく思います。
今回のブログを読んで一人でも多くの方が「黄金の会津」を味わいに来てくださることを祈りつつ。。。
「銀杏の葉」
これは はるばると東洋から
わたしの庭に移された木の葉です
この葉には 賢者の心をよろこばせる
ふかい意味がふくまれています
これは もともと一枚の葉が
裂かれて二枚になったのでしょうか
それとも 二枚の葉が相手を見つけて
一枚になったのでしょうか
こうした問いに答えられる
ほんとうの意味がどうやらわかってきました
わたしの歌を読んであなたはお気づきになりませんか
わたしも一枚でありながら あなたとむすばれた二枚の葉であることが
ヨハン ウォルフガング フォン ゲーテ

喜多方市環境講演会「農山村の環境まちづくり」 - 2012.11.05 Mon
喜多方市環境講演会
◆日時 11月19日(月)午後3時~午後4時30分
◆場所 喜多方プラザ文化センター 小ホール
◆テーマ 「農山村の環境まちづくり」
◆講師 NPO法人えがおつなげて代表理事 曽根原 久司氏
◆内容 農山村における地域資源の活用、保全、再生可能エネルギーなど、交流人口の拡大を図りながら取り組んでいる事例を参考に、喜多方市の環境について考えます。
問い合わせ・申し込み先を含めた詳細は→こちらをクリック
実は私は今の仕事をやる前、そう、今年の初めに今回の講師、曽根原先生の著書、
「日本の田舎は宝の山」をたまたま見つけて読ませていただいたのですが、もうほんと目からウロコ、「すごいなあ」の言葉しかでてこなくて。
まさかその著者ご本人の講演を聞ける機会に恵まれるとは。。。願ったり叶ったりで、うれしい限りです。

実践して、結果を出し続けている方の言葉は重みが違いますよね。
グリーンツー、六次産業、地域活性化。
今携わっていることに直結しているお話が多く、いろんな「気づき」をいただけそうで、当日ナマでお話をうかがえることを楽しみにしてます。
◆日時 11月19日(月)午後3時~午後4時30分
◆場所 喜多方プラザ文化センター 小ホール
◆テーマ 「農山村の環境まちづくり」
◆講師 NPO法人えがおつなげて代表理事 曽根原 久司氏
◆内容 農山村における地域資源の活用、保全、再生可能エネルギーなど、交流人口の拡大を図りながら取り組んでいる事例を参考に、喜多方市の環境について考えます。
問い合わせ・申し込み先を含めた詳細は→こちらをクリック
実は私は今の仕事をやる前、そう、今年の初めに今回の講師、曽根原先生の著書、
「日本の田舎は宝の山」をたまたま見つけて読ませていただいたのですが、もうほんと目からウロコ、「すごいなあ」の言葉しかでてこなくて。
まさかその著者ご本人の講演を聞ける機会に恵まれるとは。。。願ったり叶ったりで、うれしい限りです。

実践して、結果を出し続けている方の言葉は重みが違いますよね。
グリーンツー、六次産業、地域活性化。
今携わっていることに直結しているお話が多く、いろんな「気づき」をいただけそうで、当日ナマでお話をうかがえることを楽しみにしてます。