「蛇石」にまつわる伝説と白鳥姫 - 2013.08.29 Thu
以前、5月末にパワースポットとしてを紹介しました「蛇石」(こちらをクリック)。
そのとき「この岩にまつわる何か伝説や民話が残っていないか、今調べています」としていましたが、ひとつ伝説を入手しました。
大同年間(806年~810年)、磐梯山が大爆発し、天地が鳴動し、人々を恐怖のどん底におとしいれました。
そこに弘法大師が登場、祈念して噴火の元凶となった大蛇を追い払い、その場をおさめました。
しかし追放された大蛇は死んだわけでなく、今度は逃げてきた高郷の地で、山を崩し、川をせきとめ、田畑をつぶし、多くの人命を奪うという悪事の限りを尽していました。
これを聞いた弘法大師は今度は高郷に来て、大きな数珠で大蛇を縛り、沼に沈めたそうです。
大蛇はもがき抵抗し、唸り声とともに熱気を噴き出し、3日後には沼の水は干しあがってしまいました。
しかし、その時大蛇はすでに石と化していたそうです。
それがこの「蛇石」というわけですね。
ちなみにかつて沼だったこの蛇石のある場所を田んぼにしたら、一坪から五合のコメがとれたとか。そのため、この蛇石がある場所には「五合田」という地名が残っています。

高郷も山都と同じく伝説の宝庫です。
もうひとつ、「三方(みかた)」という地区にちょっと悲しい伝説のある沼があります。
三方の名の由来は、八幡太郎義家公が前九年の役の際、このへんを通るときに敵襲に苦戦したところを「味方」したところから付いたという説もありますが、水をたたえた潟(かた)が三つあったからという説もあります。
その通り、今はひとつだけになってしまってますが、かつては三つの沼があったそうです。
その三つの沼は仲の良い兄弟でした。
日光に「戦場ヶ原」という有名な観光地がありますが、その名の由来となった日光・男体山と群馬・赤城山の戦いの際、日光から中禅寺湖の申し子であるこの兄弟沼たちにも応援にきてくれとの依頼がありました。
二男と三男沼は日光へ加勢、しかし長男沼は赤城山の姫を嫁にもらっていたため、赤城山につくことになりました。
果たして、戦場ヶ原で行われた激戦は日光の勝利となり、弟たちは褒美をもらって会津に帰ってきましたが、長男沼は帰ってきませんでした。戦死していたのです。
悲しみに包まれた姫は白鳥となり、長男沼に降り立ち毎日泣いていたそうです。
そこに、日光の神様から白鳥になった姫を捕まえて差し出せとの命令が。
弟沼たちは涙ながらに命令に従うことになりました。
今まさに捕えようとしたした瞬間、白鳥姫はまっさかさまに凍った沼に突き刺さり命をたちました。




やがて春になり、氷は融け、湖面に見慣れない植物が芽吹きだしました。
葉のかげから純白の花が。
蓮の花でした。
また、沼には水草も生えるようになりました。
ジュンサイでした。
村の人々は、姫が白鳥となり、体が蓮の花、羽毛がジュンサイとなったと信じています。
「こんにひとつ さげもうした」
そのとき「この岩にまつわる何か伝説や民話が残っていないか、今調べています」としていましたが、ひとつ伝説を入手しました。
大同年間(806年~810年)、磐梯山が大爆発し、天地が鳴動し、人々を恐怖のどん底におとしいれました。
そこに弘法大師が登場、祈念して噴火の元凶となった大蛇を追い払い、その場をおさめました。
しかし追放された大蛇は死んだわけでなく、今度は逃げてきた高郷の地で、山を崩し、川をせきとめ、田畑をつぶし、多くの人命を奪うという悪事の限りを尽していました。
これを聞いた弘法大師は今度は高郷に来て、大きな数珠で大蛇を縛り、沼に沈めたそうです。
大蛇はもがき抵抗し、唸り声とともに熱気を噴き出し、3日後には沼の水は干しあがってしまいました。
しかし、その時大蛇はすでに石と化していたそうです。
それがこの「蛇石」というわけですね。
ちなみにかつて沼だったこの蛇石のある場所を田んぼにしたら、一坪から五合のコメがとれたとか。そのため、この蛇石がある場所には「五合田」という地名が残っています。

高郷も山都と同じく伝説の宝庫です。
もうひとつ、「三方(みかた)」という地区にちょっと悲しい伝説のある沼があります。
三方の名の由来は、八幡太郎義家公が前九年の役の際、このへんを通るときに敵襲に苦戦したところを「味方」したところから付いたという説もありますが、水をたたえた潟(かた)が三つあったからという説もあります。
その通り、今はひとつだけになってしまってますが、かつては三つの沼があったそうです。
その三つの沼は仲の良い兄弟でした。
日光に「戦場ヶ原」という有名な観光地がありますが、その名の由来となった日光・男体山と群馬・赤城山の戦いの際、日光から中禅寺湖の申し子であるこの兄弟沼たちにも応援にきてくれとの依頼がありました。
二男と三男沼は日光へ加勢、しかし長男沼は赤城山の姫を嫁にもらっていたため、赤城山につくことになりました。
果たして、戦場ヶ原で行われた激戦は日光の勝利となり、弟たちは褒美をもらって会津に帰ってきましたが、長男沼は帰ってきませんでした。戦死していたのです。
悲しみに包まれた姫は白鳥となり、長男沼に降り立ち毎日泣いていたそうです。
そこに、日光の神様から白鳥になった姫を捕まえて差し出せとの命令が。
弟沼たちは涙ながらに命令に従うことになりました。
今まさに捕えようとしたした瞬間、白鳥姫はまっさかさまに凍った沼に突き刺さり命をたちました。




やがて春になり、氷は融け、湖面に見慣れない植物が芽吹きだしました。
葉のかげから純白の花が。
蓮の花でした。
また、沼には水草も生えるようになりました。
ジュンサイでした。
村の人々は、姫が白鳥となり、体が蓮の花、羽毛がジュンサイとなったと信じています。
「こんにひとつ さげもうした」
山都町一ノ木字川入地区の避難勧告解除について - 2013.08.29 Thu
7月17日の豪雨被害で避難勧告中だった山都町一ノ木字川入地区の避難勧告が8月23日(金)で解除となりました。
また、山形県飯豊町経由で川入まで入れるようにもなりました。
(山都側からの道は依然通行止めです)
詳しくは→こちらをクリック
また、山形県飯豊町経由で川入まで入れるようにもなりました。
(山都側からの道は依然通行止めです)
詳しくは→こちらをクリック
バイオガスプラント - 2013.08.27 Tue
以前このブログでもご紹介したことがあるのですが(こちらをクリック)、昨年から山都に移り住み、食べ物とエネルギーの自産自消、持続可能な生き方を模索しておられる長谷川さんの、建設中のバイオガスプラントを見学させていただきました。
バイオガスとは生ゴミや家畜の糞尿などを発酵させて得られる可燃性ガス(主にメタン)です。
化石燃料に替わる再生可能エネルギーとして近年注目されています。
さらに発酵処理後に残る消化液は、いわゆる「液肥」という良質な有機肥料として活用できるということで、これだけ聞くとなんだか夢のようなシステムですよね(笑)。

長谷川さんはバイオガスの元となる馬糞をとるために2頭の馬を飼ってます。
2頭とも3歳のメス、左から「森(モリ)」「成(ナリ)」。
ひとなっつこくてメッチャかわいいです。
ちょくちょく会いに来たいですね(笑)。

もーずっーと食べてるんじゃないかと思うくらいモリモリ食べていました。
基本はイネ科の、それもやわらかいとこしか食べない贅沢モノたちらしく、クズも葉っぱしか食べないでツルはしっかり残すとか。
エサの確保も大変ですね。

ウンチはこうやってキープしています。

これが長谷川さんちの庭に建設中のプラント。

左のシートがついてる円型のものが「発酵槽」。この中に馬糞などの有機物を投入し、メタン細菌による発酵でメタンガスが生成されます。
右側の長方形のものは「貯留槽」。投入した有機物は減るわけではないので、生成された「液肥」はこの貯留槽の方へ移されます。



有機物投入口のピットを設置している最中でした。

黄色に見えるのは発泡ウレタン。断熱は大きな鍵ですよね。

これがすでに稼働している宮城県白石市の生ごみ資源化事業所から分けていたいただいたというメタン細菌の種だそうです。ここのバイオガスプラントができたらこれらを投入するわけですね。

常温で無造作に、植え継ぎもせずに持ってるとのこと、そうとう強い菌なんですね。
問題はメタン発酵は20℃以下だと極端に低下すること。
夏場はともかく、会津の厳しい冬にはなんらかの加温が必要になります。
長谷川さんは薪ボイラーで加温したお湯(60℃)を投入して対応する予定だそうです。
また、投入とガス使用のバランス、脱硫つまり硫化水素の除去が必要、液肥の運搬など、他にも様々な課題があります。
しかし、太陽光、小水力発電と並んで、このバイオガスもエネルギー自産の重要な手段だと思いますし、私もこの長谷川さんの試みから学ばせてもらって、将来は我が家にも作れたらいいな、なんて(笑)。
まずは、このプラントが稼働して、バーナーからメタンガスの火がともる瞬間を楽しみにしています。


長谷川さんの著書、コモンズから好評発売中です。
原発事故以後、いろいろ考えるところアリの方々、ぜひご一読を!→こちらをクリック
バイオガスとは生ゴミや家畜の糞尿などを発酵させて得られる可燃性ガス(主にメタン)です。
化石燃料に替わる再生可能エネルギーとして近年注目されています。
さらに発酵処理後に残る消化液は、いわゆる「液肥」という良質な有機肥料として活用できるということで、これだけ聞くとなんだか夢のようなシステムですよね(笑)。

長谷川さんはバイオガスの元となる馬糞をとるために2頭の馬を飼ってます。
2頭とも3歳のメス、左から「森(モリ)」「成(ナリ)」。
ひとなっつこくてメッチャかわいいです。
ちょくちょく会いに来たいですね(笑)。

もーずっーと食べてるんじゃないかと思うくらいモリモリ食べていました。
基本はイネ科の、それもやわらかいとこしか食べない贅沢モノたちらしく、クズも葉っぱしか食べないでツルはしっかり残すとか。
エサの確保も大変ですね。

ウンチはこうやってキープしています。

これが長谷川さんちの庭に建設中のプラント。

左のシートがついてる円型のものが「発酵槽」。この中に馬糞などの有機物を投入し、メタン細菌による発酵でメタンガスが生成されます。
右側の長方形のものは「貯留槽」。投入した有機物は減るわけではないので、生成された「液肥」はこの貯留槽の方へ移されます。



有機物投入口のピットを設置している最中でした。

黄色に見えるのは発泡ウレタン。断熱は大きな鍵ですよね。

これがすでに稼働している宮城県白石市の生ごみ資源化事業所から分けていたいただいたというメタン細菌の種だそうです。ここのバイオガスプラントができたらこれらを投入するわけですね。

常温で無造作に、植え継ぎもせずに持ってるとのこと、そうとう強い菌なんですね。
問題はメタン発酵は20℃以下だと極端に低下すること。
夏場はともかく、会津の厳しい冬にはなんらかの加温が必要になります。
長谷川さんは薪ボイラーで加温したお湯(60℃)を投入して対応する予定だそうです。
また、投入とガス使用のバランス、脱硫つまり硫化水素の除去が必要、液肥の運搬など、他にも様々な課題があります。
しかし、太陽光、小水力発電と並んで、このバイオガスもエネルギー自産の重要な手段だと思いますし、私もこの長谷川さんの試みから学ばせてもらって、将来は我が家にも作れたらいいな、なんて(笑)。
まずは、このプラントが稼働して、バーナーからメタンガスの火がともる瞬間を楽しみにしています。


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長床シンポジウムと麺’sフェスタin柳津 - 2013.08.26 Mon
昨日は午前と午後でふたつのイベントに行ってきました。
まず午前中は、柳津町で開催された第3回麺'sフェスタ。
「麺's」というだけあって、ラーメン、そば、ソーメンなど、10店舗が出店。



全店どれも食べてみたかったのですが、、、時間もお金もないので、やはり遠方のものを中心に。
まずは高田馬場の有名店、「麺屋 宗」。


正直、私はラーメンの中でも「塩」はあまり好きではなく普段もほとんど食べないのですが。。。。これはおいしかったです!
とくに香ばしいチャーシューは絶品でした。
今度東京へ行ったらお店の方へ食べにいってみたいですね。


そうこうしているうちに、福島県ご当地アイドルユニット「Loveit!」(ラビット)のみなさんのステージが始まりました。

ラビットは5人組。かわいくてよかったですね。でもそれ以上に。。。おっかけ?の人たちの盛り上がり方が最高でした(笑)。↓動画参照~。

そして2杯目は。。。東京ラーメンショーで4年連続日本一との、富山県射水市「麺屋いろは」の黒醤油ラーメン・「富山ブラック」。


確かに。うまい。
まあ、山都「ほがらかブラック」も負けてないと思いますが(笑)、この富山ブラックも細麺との相性がとてもよく美味でした。

そして、先日の山都6000人の盆踊りにも来てくださった「ふくしま八重隊」のステージ。
今日は女性陣のみで構成されていました。

あの「瓜生岩子」刀自がキレキレで踊るのはなんだか違和感が(笑)。

金山町の流しソーメン。

気温が上がってくるとラーメンよりこれを食べたくなりますね(笑)。

そして、我らが山都代表、萬長さんのおそば。



もちろん、私はこれで〆させていただきました。

スタンプ満タンにして、さあ抽選へGO!


外れました。。。無念(苦笑)。
そして柳津をあとにし、喜多方へ戻り、長床シンポジウムへ。

喜多方の重要な観光スポットのひとつ、熊野神社「長床」はこれまで「平安時代末期から鎌倉時代初期の築造」とされていましたが、正確な建築時期は不明でした。
それが、昨年度に長床の旧建築材をC14年代測定法で分析したところ、これまでの推定時期を裏付ける結果が出たとのことで、今回の発表となりました。
長床は昭和46年から49年に解体復原修理が行われ、その時に出土した土器その他や、旧建築材が会場の片隅に展示されていました。


遠く、慶長の大地震(1611年)の直後?実際に削られた跡と思うだけで、この目の前のものが愛おしくなります(笑)。



この長床基壇内で出土した「柱状高台」と呼ばれる皿の下が高くなってる土器こそが、平泉などで出土したものと比較して12世紀前半のものだという根拠になっているそうです。


解体復原修理の際につくられた模型も展示されていました。


こういうアングルで撮るとなんだかまるで本物の長床のようですね。


シンポジウムはまず長岡造形大学の宮澤智士名誉教授の基調講演からはじまり、3人のパネリスト、福島県文化振興財団の飯村均先生による「出土遺物から見た長床」、東京芸術大学の日塔和彦客員教授の「昭和48年解体修理と復元年代の考え方」、武蔵大学総合研究所の中尾七重先生による「長床のC14年代測定調査」の発表があり、さらに「長床の建築年代特定」についてのパネルディスカッションがありました。


導き出された結論をざっくりまとめると、
・出土遺物等からの考古学的には12世紀前半。
・建築学的には平安時代後期つまり12世紀。
・文献学的には「新宮雑葉記」および「新編会津風土記」の鰐口銘の「治承3年」すなわち1179年。
そして今回の最新のC14年代測定の結果は・・・・3つの部材でそれぞれ1073~1134年、1108~1158年、1078~1156年、つまり考古学、建築学的に導き出された平安時代後期という推測を裏付ける結果でした。
鎌倉時代よりも古く、平安時代。
宮澤先生は、もっと詳しく調べ、資料を揃え、将来的には国宝に指定されることを目指すべきだとおっしゃっていました。
今回の長床シンポジウムは、今年から始まった「喜多方市の歴史再発見事業」の第一弾で、今後は長床のみならず、熊野神社、稲荷神社、新宮城跡など慶徳地区全体、はたまた歴史の宝庫である喜多方市全体の調査が進んでいくことを期待します。
この事業の今後の展開に私はワクワクしています。
この「ワクワク」を市民全体で共有できるよう、微力ながらPRにつとめていきたいですね。
まず午前中は、柳津町で開催された第3回麺'sフェスタ。
「麺's」というだけあって、ラーメン、そば、ソーメンなど、10店舗が出店。



全店どれも食べてみたかったのですが、、、時間もお金もないので、やはり遠方のものを中心に。
まずは高田馬場の有名店、「麺屋 宗」。


正直、私はラーメンの中でも「塩」はあまり好きではなく普段もほとんど食べないのですが。。。。これはおいしかったです!
とくに香ばしいチャーシューは絶品でした。
今度東京へ行ったらお店の方へ食べにいってみたいですね。


そうこうしているうちに、福島県ご当地アイドルユニット「Loveit!」(ラビット)のみなさんのステージが始まりました。

ラビットは5人組。かわいくてよかったですね。でもそれ以上に。。。おっかけ?の人たちの盛り上がり方が最高でした(笑)。↓動画参照~。

そして2杯目は。。。東京ラーメンショーで4年連続日本一との、富山県射水市「麺屋いろは」の黒醤油ラーメン・「富山ブラック」。


確かに。うまい。
まあ、山都「ほがらかブラック」も負けてないと思いますが(笑)、この富山ブラックも細麺との相性がとてもよく美味でした。

そして、先日の山都6000人の盆踊りにも来てくださった「ふくしま八重隊」のステージ。
今日は女性陣のみで構成されていました。

あの「瓜生岩子」刀自がキレキレで踊るのはなんだか違和感が(笑)。

金山町の流しソーメン。

気温が上がってくるとラーメンよりこれを食べたくなりますね(笑)。

そして、我らが山都代表、萬長さんのおそば。



もちろん、私はこれで〆させていただきました。

スタンプ満タンにして、さあ抽選へGO!


外れました。。。無念(苦笑)。
そして柳津をあとにし、喜多方へ戻り、長床シンポジウムへ。

喜多方の重要な観光スポットのひとつ、熊野神社「長床」はこれまで「平安時代末期から鎌倉時代初期の築造」とされていましたが、正確な建築時期は不明でした。
それが、昨年度に長床の旧建築材をC14年代測定法で分析したところ、これまでの推定時期を裏付ける結果が出たとのことで、今回の発表となりました。
長床は昭和46年から49年に解体復原修理が行われ、その時に出土した土器その他や、旧建築材が会場の片隅に展示されていました。


遠く、慶長の大地震(1611年)の直後?実際に削られた跡と思うだけで、この目の前のものが愛おしくなります(笑)。



この長床基壇内で出土した「柱状高台」と呼ばれる皿の下が高くなってる土器こそが、平泉などで出土したものと比較して12世紀前半のものだという根拠になっているそうです。


解体復原修理の際につくられた模型も展示されていました。


こういうアングルで撮るとなんだかまるで本物の長床のようですね。


シンポジウムはまず長岡造形大学の宮澤智士名誉教授の基調講演からはじまり、3人のパネリスト、福島県文化振興財団の飯村均先生による「出土遺物から見た長床」、東京芸術大学の日塔和彦客員教授の「昭和48年解体修理と復元年代の考え方」、武蔵大学総合研究所の中尾七重先生による「長床のC14年代測定調査」の発表があり、さらに「長床の建築年代特定」についてのパネルディスカッションがありました。


導き出された結論をざっくりまとめると、
・出土遺物等からの考古学的には12世紀前半。
・建築学的には平安時代後期つまり12世紀。
・文献学的には「新宮雑葉記」および「新編会津風土記」の鰐口銘の「治承3年」すなわち1179年。
そして今回の最新のC14年代測定の結果は・・・・3つの部材でそれぞれ1073~1134年、1108~1158年、1078~1156年、つまり考古学、建築学的に導き出された平安時代後期という推測を裏付ける結果でした。
鎌倉時代よりも古く、平安時代。
宮澤先生は、もっと詳しく調べ、資料を揃え、将来的には国宝に指定されることを目指すべきだとおっしゃっていました。
今回の長床シンポジウムは、今年から始まった「喜多方市の歴史再発見事業」の第一弾で、今後は長床のみならず、熊野神社、稲荷神社、新宮城跡など慶徳地区全体、はたまた歴史の宝庫である喜多方市全体の調査が進んでいくことを期待します。
この事業の今後の展開に私はワクワクしています。
この「ワクワク」を市民全体で共有できるよう、微力ながらPRにつとめていきたいですね。
「沼ノ平むらおこし実行委員会」が「新うつくしまふくしま。県民運動」の知事感謝状を受賞しました! - 2013.08.26 Mon
文化財シンポジウム「大発見!長床~解明された建築年代~」 と 慶徳お田植え祭り - 2013.08.23 Fri
あさって25日に喜多方プラザで
文化財シンポジウム「大発見!長床~解明された建築年代~」
が行われます。

チラシPDFは→こちらをクリック

チラシPDFは→こちらをクリック
もちろん私は出席させていただくつもりです。
これまで長床は平安時代末期から鎌倉時代初期の建造物と考えられていましたが、昨年に放射性炭素年代測定により「平安時代建造」と正確な建築時期が分かった調査結果も発表されるそうで、とても楽しみです。
ところで、この長床がある喜多方市慶徳地区には、私の好きな慶徳稲荷神社もあり・・・ということで、書く時期を逸してのびのびになっていた7月2日のお田植え祭りについて今日は書かせてください~(遅くなってスミマセン)。
慶徳稲荷神社の御田植神事は明応年中(1492~1500年)に地頭が神田を寄付し、供物を備え、その年の吉凶を占い、田植え歌を歌いながら神田に田植えをしたのが初めと伝えられています。
田植え神事の日本の北限だそうです。
7月2日、御田植神事の前に今年は「まほろば街道講演会」がありました。


講師は会津まほろば街道・会津里人の会会長 志村和子さん。
まほろば=真秀場の漢字からくる意味や、慶徳地区の歴史的な重要度など、貴重なお話をうかがいました。
そして午後から神事開始。


まずは稲荷神社の境内で、早乙女の踊りの奉納。







御輿渡御。










行列は集落内を練り歩き、夕方に「神田(しんでん)」に到着。
それから「お田植え」神事が始まります。
それについては昨年のブログをご覧ください→こちらをクリック
よかったです。この記事御蔵入りにならなくて(苦笑)。
この神事がずっとずっと継承されていくことを祈りつつ。
文化財シンポジウム「大発見!長床~解明された建築年代~」
が行われます。

チラシPDFは→こちらをクリック

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もちろん私は出席させていただくつもりです。
これまで長床は平安時代末期から鎌倉時代初期の建造物と考えられていましたが、昨年に放射性炭素年代測定により「平安時代建造」と正確な建築時期が分かった調査結果も発表されるそうで、とても楽しみです。
ところで、この長床がある喜多方市慶徳地区には、私の好きな慶徳稲荷神社もあり・・・ということで、書く時期を逸してのびのびになっていた7月2日のお田植え祭りについて今日は書かせてください~(遅くなってスミマセン)。
慶徳稲荷神社の御田植神事は明応年中(1492~1500年)に地頭が神田を寄付し、供物を備え、その年の吉凶を占い、田植え歌を歌いながら神田に田植えをしたのが初めと伝えられています。
田植え神事の日本の北限だそうです。
7月2日、御田植神事の前に今年は「まほろば街道講演会」がありました。


講師は会津まほろば街道・会津里人の会会長 志村和子さん。
まほろば=真秀場の漢字からくる意味や、慶徳地区の歴史的な重要度など、貴重なお話をうかがいました。
そして午後から神事開始。


まずは稲荷神社の境内で、早乙女の踊りの奉納。







御輿渡御。










行列は集落内を練り歩き、夕方に「神田(しんでん)」に到着。
それから「お田植え」神事が始まります。
それについては昨年のブログをご覧ください→こちらをクリック
よかったです。この記事御蔵入りにならなくて(苦笑)。
この神事がずっとずっと継承されていくことを祈りつつ。
飯豊連峰縦走 大日杉~飯豊山~北股岳~朳差岳~大石ダム - 2013.08.22 Thu
8月16日~19日の3泊4日で、飯豊連峰を縦走してきました。
水場等の問い合わせが多いので、主にそれを中心にご紹介いたします。
8月16日(1日目)晴れ
大日杉~地蔵岳~御坪~切合小屋

入山したのは飯豊町大日杉ルート。いきなり「ザンゲ坂」といわれる急坂があります。

すごいですねえ、主幹は空洞化しているのに上部は元気に青々とした葉をつけています。

長之助清水。ちょっとだけ道をそれて下ります。

冷たくておいしい水がしっかり出ていました。

御田にある杉の巨木。巨木マニアの私はその堂々たる風格にうっとり。

今回、数は多くなかったものの、最初から最後まで4日間ずっと見ることができたアサギマダラ。きっと暑い間は飯豊で過ごしているのでしょうね。またデコ平へマーキングに行きたくなってきました。

暑さにやられ、ヘロヘロになりながら地蔵岳に到着。
この日はあわよくば本山小屋まで行ってしまおうと目論んでいたのですが、早々にあきらめて切合小屋に変更したのでした(苦笑)。

写真左から来て、ここ地蔵岳で鋭角に右へ折れて下ります。せっかく稼いだ高度が。。。(悲)

直下の地蔵清水の様子も見てみたのですが、雪は完全に融け、枯れていました。

暑さに弱く汗っかきな私は水分補給が生命線。
残量が気になるところでようやく「目洗い清水」へ到着。
ここは結構下りますが(写真中央上の黒くちょっと岩肌が露出している地点が水場)、迷わず補給へ。

ここもおいしい水が出ています。

御坪。

切合小屋が見えました。まだ遠いなあ(苦笑)。

このへんからはダケカンバの原生林が続き、楽しいです。

種蒔山直下の沢へ到着。
水もおいしい、浴びてすっきり、まさに天上の楽園です。


残雪が多い場所はようやくチングルマが咲いていました。
そしてこの日は切合小屋泊。
1日目 総移動時間9時間(食事、休憩、道草含む)
8月17日(二日目) 晴れのちガス
切合小屋~飯豊山~御西小屋~烏帽子岳~海花皮小屋

5時に切合小屋を出発。草履塚への登り。1か月前はびっしりの雪渓の上を歩きましたが、今回はこのとおり登山道が露出していました。

草履塚直下、トトロを彷彿とさせる木の「トンネル」。

草履塚。
ここから先がいわゆる「聖域」で、かつての信仰登山者はここで下界からの草履を脱ぎ捨て、素足で登ったとも、新品に履き替えて登ったとも言われています。

大日岳がくっきり見えていました。
薄曇りで、比較的涼しく、助かりました。

「御秘所」と飯豊本山方面。

「姥権現」。
その昔、飯豊山が女人禁制の山だった頃、中通りから3人の姉妹が飯豊山に登りに向かってきましたが、まず一番下の妹が猪苗代の関都で倒れ、山都の相川で二番目の妹も倒れ、最後まで頑張った一番上のお姉さんもここ姥ノ前の辺りで力尽き、女人禁制の禁を破ったため石仏になってしまったという伝説があります。
関都と相川と姥の前の御婆様を会津の三御婆様といい、安産の神様とされています。

本山小屋下の水場。
この日はそれほど水に困る感じではなかったですが、確認のため汲みにいきました。



雪渓は融けて水場は露出していい水が出てました。
本山小屋で小屋の主人にお土産を渡してしばらく話をしたあと、飯豊山へ。

イイデリンドウ、そこここに咲いていました。
ここの固有種というだけで、他の花よりワンランク上の気がして、なんだかじっくり愛でたくなります。


飯豊山頂、2105m。
6度目です。

大日岳はガスの中になってしまいました。


ヨツバシオガマ。

ニッコウキスゲ。


このへんからずっ~と3日間、タカネマツムシソウが咲き乱れていました。



あとすごかったのがコバイケイソウ。これもずっと最後まで稜線のそこここに咲き乱れていました。
写真ではわかりずらいですが、奥の白の点々はチングルマの大群落。


御西小屋が見えてきました。

御西小屋の下の水は結構下るのですが、いい水出ています。

大日岳は雲の中だったので、時間的にも厳しいのでピストンをあきらめ、海花皮小屋を目指します。

おととしも通ったルートですが、御西~海花皮間は烏帽子岳をはじめ、登ったり下りたり繰り返し、結構ハードです。

御西小屋から4時間以上、ようやく海花皮小屋が見えました。

海花皮小屋の水「治二清水」はほぼ平行に30m。

水量豊富で、冷やし用のタルもあります。
この日は海花皮小屋泊。
2日目 総移動時間11時間(食事、休憩、道草含む)
8月18日(3日目) 霧のち晴れ
海花皮小屋~北股岳~門内岳~頼母木山~大石山~鉾立峰~朳差小屋

海花皮小屋を出発、いきなり40分登り、北股岳(2024m)山頂。
2年前も今回も、北股岳の展望は見れませんでした。またおいで、ってことですね(苦笑)。
この後もこの日は頼母木山あたりまではずっとガスの中、さらに強風だったのですが、初日の暑さを考えると、私にとっては天の助けのようなコンディションでした(笑)。

門内岳(1887m)山頂。

頼母木山(1730m)山頂。 ガスのため展望なし。

頼母木小屋が見えました。
このへんからガスが晴れてきました。

頼母木小屋は、飯豊連峰随一といっていい豊富な水があります。

ロケーションもいいし、今度はここ泊まりで計画したくなりました。



秋は草もみじが絶対きれいでしょうね~。

足の松尾根との分岐・大石山を過ぎ、鉾立峰(写真左上)への登り。遠く一番奥に見えるのが目指す朳差岳(えぶりさしだけ)。

鉾立峰(1573m)。
360度大パノラマでした。

振り向けば、遠く北股岳はじめ、歩いてきた道筋が。

飯豊の先駆者、藤島玄氏のレリーフ。

ハクサンフウロ。

タカネナデシコ。

13:30に朳差小屋に到着。
ここから下山に6時間・・・そのまま下山しちゃうことも少し考えましたが、やっぱりもったいないし、のんびりしようってことで、まだ午後一でしたが朳差小屋停滞決定。

まずは小屋からすぐの朳差岳(1636.4m)山頂へ。

そして晩飯と明日の行動用の水確保へ。
噂には聞いていましたが、これがメッチャ遠く、メッチャ下り、大仕事に(苦笑)。

どんどんどんどん下っていきます。
写真の谷のさらに下へ。

10分以上下り、プールはちょっと汲むのをためらわれるような溜まりだったので、流れているところを探し、うまく石を組んでご覧のとおり気長に取水。

登り返すのに一汗も二汗もかきました。
下って、汲んで、登って戻るのになんと30分以上かかってしまいました(苦笑)。


朳差小屋の夕焼け。


日が沈むと、今度はぽっかり月が浮かんでいました。
というわけでこの日は朳差小屋泊。
3日目 総移動時間7時間30分(食事、休憩、道草含む)
8月19日(4日目最終日) 晴れ
朳差小屋~朳差岳~カモス峰~林道終点~東俣彫刻公園

夜明けにあわせて出発、朳差岳山頂でご来光。

やはり厳かな気持ちになるし、同時に、いいことあるかなという予感が(この瞬間自体が「いいこと」なのかもしれませんが(笑))。




前朳差岳を過ぎると、あとはひたすら「下界」へ降りていく行為。
またどんどん気温が上がり、初日と同様熱中症気味になり、水の残りを気にしながらの下山でした。
(この日の行程には林道終点まで途中まったく水場がありません。)

前朳差から下りに下り4時間、ようやく林道終点、東俣川に到着。浴びるように水を飲みました(苦笑)。

橋の上がアブもいなく、涼しい風が通るので、絶好の昼寝場所。

そして少しだけ復活したあと、最後の試練、林道歩きです(苦笑)。
ものすごいアブの数で、たまらず防虫ネットをかぶって歩きました。
マップだと1時間ですが、ヘロヘロだったので1時間半くらいかかりました(苦笑)。

そして最後の水場情報。
昭文社「山と高原地図」には載っていませんが、東俣彫刻公園車止めの手前15分くらいのところにいい水が出ています。

車止めゲートのすぐ先には。。。

東俣彫刻公園、ゴール!!!
いや~、メッチャ暑かったけど、天気に恵まれ、いい山行になりました。
やっぱり飯豊は懐が深く、人も少なくていいですね。
秋にまた登ろうと思っています。
4日目 総移動時間8時間(食事、休憩、道草含む)
今回の行程
8月16日 大日杉登山口~御田~地蔵岳~御坪~切合小屋
8月17日 切合小屋~草履塚~御秘所~飯豊山~御西~天狗岳~天狗の庭~烏帽子岳~海花皮岳~海花皮小屋
8月18日 海花皮小屋~北股岳~門内岳~胎内山~扇ノ地紙~地神山~頼母木山~大石山~鉾立峰~朳差小屋
8月19日 朳差小屋~朳差岳~前朳差岳~千本峰~権内ノ峰~カモス峰~林道終点~東俣彫刻公園
水場等の問い合わせが多いので、主にそれを中心にご紹介いたします。
8月16日(1日目)晴れ
大日杉~地蔵岳~御坪~切合小屋

入山したのは飯豊町大日杉ルート。いきなり「ザンゲ坂」といわれる急坂があります。

すごいですねえ、主幹は空洞化しているのに上部は元気に青々とした葉をつけています。

長之助清水。ちょっとだけ道をそれて下ります。

冷たくておいしい水がしっかり出ていました。

御田にある杉の巨木。巨木マニアの私はその堂々たる風格にうっとり。

今回、数は多くなかったものの、最初から最後まで4日間ずっと見ることができたアサギマダラ。きっと暑い間は飯豊で過ごしているのでしょうね。またデコ平へマーキングに行きたくなってきました。

暑さにやられ、ヘロヘロになりながら地蔵岳に到着。
この日はあわよくば本山小屋まで行ってしまおうと目論んでいたのですが、早々にあきらめて切合小屋に変更したのでした(苦笑)。

写真左から来て、ここ地蔵岳で鋭角に右へ折れて下ります。せっかく稼いだ高度が。。。(悲)

直下の地蔵清水の様子も見てみたのですが、雪は完全に融け、枯れていました。

暑さに弱く汗っかきな私は水分補給が生命線。
残量が気になるところでようやく「目洗い清水」へ到着。
ここは結構下りますが(写真中央上の黒くちょっと岩肌が露出している地点が水場)、迷わず補給へ。

ここもおいしい水が出ています。

御坪。

切合小屋が見えました。まだ遠いなあ(苦笑)。

このへんからはダケカンバの原生林が続き、楽しいです。

種蒔山直下の沢へ到着。
水もおいしい、浴びてすっきり、まさに天上の楽園です。


残雪が多い場所はようやくチングルマが咲いていました。
そしてこの日は切合小屋泊。
1日目 総移動時間9時間(食事、休憩、道草含む)
8月17日(二日目) 晴れのちガス
切合小屋~飯豊山~御西小屋~烏帽子岳~海花皮小屋

5時に切合小屋を出発。草履塚への登り。1か月前はびっしりの雪渓の上を歩きましたが、今回はこのとおり登山道が露出していました。

草履塚直下、トトロを彷彿とさせる木の「トンネル」。

草履塚。
ここから先がいわゆる「聖域」で、かつての信仰登山者はここで下界からの草履を脱ぎ捨て、素足で登ったとも、新品に履き替えて登ったとも言われています。

大日岳がくっきり見えていました。
薄曇りで、比較的涼しく、助かりました。

「御秘所」と飯豊本山方面。

「姥権現」。
その昔、飯豊山が女人禁制の山だった頃、中通りから3人の姉妹が飯豊山に登りに向かってきましたが、まず一番下の妹が猪苗代の関都で倒れ、山都の相川で二番目の妹も倒れ、最後まで頑張った一番上のお姉さんもここ姥ノ前の辺りで力尽き、女人禁制の禁を破ったため石仏になってしまったという伝説があります。
関都と相川と姥の前の御婆様を会津の三御婆様といい、安産の神様とされています。

本山小屋下の水場。
この日はそれほど水に困る感じではなかったですが、確認のため汲みにいきました。



雪渓は融けて水場は露出していい水が出てました。
本山小屋で小屋の主人にお土産を渡してしばらく話をしたあと、飯豊山へ。

イイデリンドウ、そこここに咲いていました。
ここの固有種というだけで、他の花よりワンランク上の気がして、なんだかじっくり愛でたくなります。


飯豊山頂、2105m。
6度目です。

大日岳はガスの中になってしまいました。


ヨツバシオガマ。

ニッコウキスゲ。


このへんからずっ~と3日間、タカネマツムシソウが咲き乱れていました。



あとすごかったのがコバイケイソウ。これもずっと最後まで稜線のそこここに咲き乱れていました。
写真ではわかりずらいですが、奥の白の点々はチングルマの大群落。


御西小屋が見えてきました。

御西小屋の下の水は結構下るのですが、いい水出ています。

大日岳は雲の中だったので、時間的にも厳しいのでピストンをあきらめ、海花皮小屋を目指します。

おととしも通ったルートですが、御西~海花皮間は烏帽子岳をはじめ、登ったり下りたり繰り返し、結構ハードです。

御西小屋から4時間以上、ようやく海花皮小屋が見えました。

海花皮小屋の水「治二清水」はほぼ平行に30m。

水量豊富で、冷やし用のタルもあります。
この日は海花皮小屋泊。
2日目 総移動時間11時間(食事、休憩、道草含む)
8月18日(3日目) 霧のち晴れ
海花皮小屋~北股岳~門内岳~頼母木山~大石山~鉾立峰~朳差小屋

海花皮小屋を出発、いきなり40分登り、北股岳(2024m)山頂。
2年前も今回も、北股岳の展望は見れませんでした。またおいで、ってことですね(苦笑)。
この後もこの日は頼母木山あたりまではずっとガスの中、さらに強風だったのですが、初日の暑さを考えると、私にとっては天の助けのようなコンディションでした(笑)。

門内岳(1887m)山頂。

頼母木山(1730m)山頂。 ガスのため展望なし。

頼母木小屋が見えました。
このへんからガスが晴れてきました。

頼母木小屋は、飯豊連峰随一といっていい豊富な水があります。

ロケーションもいいし、今度はここ泊まりで計画したくなりました。



秋は草もみじが絶対きれいでしょうね~。

足の松尾根との分岐・大石山を過ぎ、鉾立峰(写真左上)への登り。遠く一番奥に見えるのが目指す朳差岳(えぶりさしだけ)。

鉾立峰(1573m)。
360度大パノラマでした。

振り向けば、遠く北股岳はじめ、歩いてきた道筋が。

飯豊の先駆者、藤島玄氏のレリーフ。

ハクサンフウロ。

タカネナデシコ。

13:30に朳差小屋に到着。
ここから下山に6時間・・・そのまま下山しちゃうことも少し考えましたが、やっぱりもったいないし、のんびりしようってことで、まだ午後一でしたが朳差小屋停滞決定。

まずは小屋からすぐの朳差岳(1636.4m)山頂へ。

そして晩飯と明日の行動用の水確保へ。
噂には聞いていましたが、これがメッチャ遠く、メッチャ下り、大仕事に(苦笑)。

どんどんどんどん下っていきます。
写真の谷のさらに下へ。

10分以上下り、プールはちょっと汲むのをためらわれるような溜まりだったので、流れているところを探し、うまく石を組んでご覧のとおり気長に取水。

登り返すのに一汗も二汗もかきました。
下って、汲んで、登って戻るのになんと30分以上かかってしまいました(苦笑)。


朳差小屋の夕焼け。


日が沈むと、今度はぽっかり月が浮かんでいました。
というわけでこの日は朳差小屋泊。
3日目 総移動時間7時間30分(食事、休憩、道草含む)
8月19日(4日目最終日) 晴れ
朳差小屋~朳差岳~カモス峰~林道終点~東俣彫刻公園

夜明けにあわせて出発、朳差岳山頂でご来光。

やはり厳かな気持ちになるし、同時に、いいことあるかなという予感が(この瞬間自体が「いいこと」なのかもしれませんが(笑))。




前朳差岳を過ぎると、あとはひたすら「下界」へ降りていく行為。
またどんどん気温が上がり、初日と同様熱中症気味になり、水の残りを気にしながらの下山でした。
(この日の行程には林道終点まで途中まったく水場がありません。)

前朳差から下りに下り4時間、ようやく林道終点、東俣川に到着。浴びるように水を飲みました(苦笑)。

橋の上がアブもいなく、涼しい風が通るので、絶好の昼寝場所。

そして少しだけ復活したあと、最後の試練、林道歩きです(苦笑)。
ものすごいアブの数で、たまらず防虫ネットをかぶって歩きました。
マップだと1時間ですが、ヘロヘロだったので1時間半くらいかかりました(苦笑)。

そして最後の水場情報。
昭文社「山と高原地図」には載っていませんが、東俣彫刻公園車止めの手前15分くらいのところにいい水が出ています。

車止めゲートのすぐ先には。。。

東俣彫刻公園、ゴール!!!
いや~、メッチャ暑かったけど、天気に恵まれ、いい山行になりました。
やっぱり飯豊は懐が深く、人も少なくていいですね。
秋にまた登ろうと思っています。
4日目 総移動時間8時間(食事、休憩、道草含む)
今回の行程
8月16日 大日杉登山口~御田~地蔵岳~御坪~切合小屋
8月17日 切合小屋~草履塚~御秘所~飯豊山~御西~天狗岳~天狗の庭~烏帽子岳~海花皮岳~海花皮小屋
8月18日 海花皮小屋~北股岳~門内岳~胎内山~扇ノ地紙~地神山~頼母木山~大石山~鉾立峰~朳差小屋
8月19日 朳差小屋~朳差岳~前朳差岳~千本峰~権内ノ峰~カモス峰~林道終点~東俣彫刻公園
山都G.T.会員から山都クマ出没速報 - 2013.08.22 Thu
日本の田舎は宝の山プロジェクトinきたかた 第2回セミナー - 2013.08.21 Wed
昨日、「日本の田舎は宝の山プロジェクトinきたかた」の第2回セミナーが行われました。
前回のセミナーや曽根原久司先生については→こちらをクリック

前回の会場は喜多方市高郷町の「ふれあいランド高郷」。
今回の会場は喜多方市熊倉町にある「雄国農園」。 詳しくは→こちらをクリック
昨日はあいにくの天気でしたが(個人的にはピーカンより雲のたなびくこの日のような幻想的な景色が好きですけど(笑))、会津盆地と飯豊山が一望できる最高のロケーションです。

まずは曽根原先生の講演会。
動き出したばかりの最新の動向などオフレコの話も多く含むので詳しくは書けませんが、前回より一歩踏み込んだ具体的な「えがおつなげて」の活動内容を聞かせていただきました。

引き続きセミナーでは前回と同じテーマのワークショップ形式で「農村資源の捉え方」を。
ポイントは3つ。
・ナンバーワンといえる農村資源
・それに「物語」はあるか
・それは「旬」(時期、流行)であるか
曽根原先生は、6次化、観光、森林資源、不動産、エネルギー、教育、福祉などの要素からみると、喜多方には100億円産業、1000人雇用創出のポテンシャルがあるとおっしゃいます。
まずは眠っている資源を数値化、掘り起し、ビジネスモデルとしてしっかり整理することが第一なんですね。
次回まで自分なりに考えをまとめておきたいと思います。


その後懇親会。
夜景もなかなかのものでした。
ありがとうございました。
次回は10月1日です。
前回のセミナーや曽根原久司先生については→こちらをクリック

前回の会場は喜多方市高郷町の「ふれあいランド高郷」。
今回の会場は喜多方市熊倉町にある「雄国農園」。 詳しくは→こちらをクリック
昨日はあいにくの天気でしたが(個人的にはピーカンより雲のたなびくこの日のような幻想的な景色が好きですけど(笑))、会津盆地と飯豊山が一望できる最高のロケーションです。

まずは曽根原先生の講演会。
動き出したばかりの最新の動向などオフレコの話も多く含むので詳しくは書けませんが、前回より一歩踏み込んだ具体的な「えがおつなげて」の活動内容を聞かせていただきました。

引き続きセミナーでは前回と同じテーマのワークショップ形式で「農村資源の捉え方」を。
ポイントは3つ。
・ナンバーワンといえる農村資源
・それに「物語」はあるか
・それは「旬」(時期、流行)であるか
曽根原先生は、6次化、観光、森林資源、不動産、エネルギー、教育、福祉などの要素からみると、喜多方には100億円産業、1000人雇用創出のポテンシャルがあるとおっしゃいます。
まずは眠っている資源を数値化、掘り起し、ビジネスモデルとしてしっかり整理することが第一なんですね。
次回まで自分なりに考えをまとめておきたいと思います。


その後懇親会。
夜景もなかなかのものでした。
ありがとうございました。
次回は10月1日です。
第37回6000人の盆踊り - 2013.08.20 Tue
私事ですが、16日から昨日まで4日間ほど休みをいただいて飯豊連峰を縦走してきました。
そのため、アップが遅くなり申し訳ありませんでした。
8月15日、恒例の「6000人の盆踊り」が開催されました。

プログラムのトップを飾ったのは、「山形おきたま愛の武将隊」。
暑い中、甲冑を着て熱演、本当にご苦労様です。
左から、
あの伊達政宗の片腕・片倉小十郎
天下御免のかぶき者・前田慶次
「天地人」・直江兼続
山形藩主・最上義光(よしあき)
「もうひとつの関ヶ原」長谷堂の戦いの英雄・鮭延秀綱(さけのべひでつな)
政宗はいないけど、山形戦国オールスターキャストですね。

観客参加の殺陣実演もありました。



外には迷路が出現。


ちょっと簡単すぎたかな?(笑)

この日はぐんぐん気温があがり、やはりかき氷が人気。

飯豊町さんも店を出していたので、本場の牛串をいただきました。

子供たちに大人気、今年も魚つかみどり大会開催。



先週ウチの「川遊び」イベントに参加した子らが上手につかんでいるのをみて、ちょっとうれしかったです(笑)。

その後、昨年に続き、喜多方ご当地アイドル「KIRA GIRL」登場。
1年前と比べて踊りも歌も格段に上手になっていてびっくり。
すごいですねえ。








定番中の定番、これを聞かないと山都の夏ではない(笑)飯豊権現太鼓。
やっぱりいいですねえ。







体育館でのショー最後は「ふくしま八重隊」のみなさん。
大河ドラマでもいよいよ新島襄の出番ですね。


八重たんも踊りました!

盆踊りは昨年と比べものにならないくらい多くの方々の参加があり、大盛況でした!
ありがとうございました!
そのため、アップが遅くなり申し訳ありませんでした。
8月15日、恒例の「6000人の盆踊り」が開催されました。

プログラムのトップを飾ったのは、「山形おきたま愛の武将隊」。
暑い中、甲冑を着て熱演、本当にご苦労様です。
左から、
あの伊達政宗の片腕・片倉小十郎
天下御免のかぶき者・前田慶次
「天地人」・直江兼続
山形藩主・最上義光(よしあき)
「もうひとつの関ヶ原」長谷堂の戦いの英雄・鮭延秀綱(さけのべひでつな)
政宗はいないけど、山形戦国オールスターキャストですね。

観客参加の殺陣実演もありました。



外には迷路が出現。


ちょっと簡単すぎたかな?(笑)

この日はぐんぐん気温があがり、やはりかき氷が人気。

飯豊町さんも店を出していたので、本場の牛串をいただきました。

子供たちに大人気、今年も魚つかみどり大会開催。



先週ウチの「川遊び」イベントに参加した子らが上手につかんでいるのをみて、ちょっとうれしかったです(笑)。

その後、昨年に続き、喜多方ご当地アイドル「KIRA GIRL」登場。
1年前と比べて踊りも歌も格段に上手になっていてびっくり。
すごいですねえ。








定番中の定番、これを聞かないと山都の夏ではない(笑)飯豊権現太鼓。
やっぱりいいですねえ。







体育館でのショー最後は「ふくしま八重隊」のみなさん。
大河ドラマでもいよいよ新島襄の出番ですね。


八重たんも踊りました!

盆踊りは昨年と比べものにならないくらい多くの方々の参加があり、大盛況でした!
ありがとうございました!
稲作体験その4 稲刈り 参加者募集! - 2013.08.14 Wed
来月からのイベント日程に変更があります。
トップページの左サイドにある予定表はすでに変更してありますが、
まず9月1日の予定だった炭焼き体験ですが、諸事情により中止になりました。
そして10月27日開催予定だった大滝トレッキング秋についてですが、このブログでもお伝えしているように先月の大雨でアプローチの道路が崩落してしまい、復旧の目途がたっていないので残念ですが中止にいたします。
このふたつの代替イベントを企画するかどうかは今検討中です。
以上2つ、よろしくお願いいたします。
そして、こちらは予定通り、
いよいよ稲作体験も来月最終回、「稲刈り」を迎えます。
今年も機械刈り、手刈り両方体験します。
これまでの3回に参加されてなくても、今回初参加大歓迎です(今回だけでも新米2㎏プレゼント!)。
また、昨年同様、イベント終了後の夜、「収穫を祝う会」と称してワイワイ楽しく宴を催したいと思ってますので、みなさん奮ってご参加ください。(宴のみの参加も歓迎ですが、用意の兼ね合いもありますのでドタ参だけはご勘弁を(笑))

チラシPDFは→こちらをクリック
トップページの左サイドにある予定表はすでに変更してありますが、
まず9月1日の予定だった炭焼き体験ですが、諸事情により中止になりました。
そして10月27日開催予定だった大滝トレッキング秋についてですが、このブログでもお伝えしているように先月の大雨でアプローチの道路が崩落してしまい、復旧の目途がたっていないので残念ですが中止にいたします。
このふたつの代替イベントを企画するかどうかは今検討中です。
以上2つ、よろしくお願いいたします。
そして、こちらは予定通り、
いよいよ稲作体験も来月最終回、「稲刈り」を迎えます。
今年も機械刈り、手刈り両方体験します。
これまでの3回に参加されてなくても、今回初参加大歓迎です(今回だけでも新米2㎏プレゼント!)。
また、昨年同様、イベント終了後の夜、「収穫を祝う会」と称してワイワイ楽しく宴を催したいと思ってますので、みなさん奮ってご参加ください。(宴のみの参加も歓迎ですが、用意の兼ね合いもありますのでドタ参だけはご勘弁を(笑))

チラシPDFは→こちらをクリック
山都の夏はこれで決まり! 「みそ冷やし」 of じんべい - 2013.08.14 Wed
「山都の食シリーズ⑥」
久々のシリーズ6回目、以前の5回は→こちらをクリック
以前、山都のラーメン屋では踏切り近くの「ほがらか食堂」をご紹介しましたが、そこと同じく知る人ぞ知る山都の名店がJR山都駅の目の前にあります。
その店の名は 「じんべい」
じんべいは特にみそラーメンで定評のある店なのですが、夏には期間限定のスペシャルメニュー 「みそ冷やし」 が登場します。
冷やし中華ではありません、「みそ冷やし」です。750円。

具は冷やし中華に似てますが、お酢ではなく特製みそがのってます。

これをお好みでキンキンに冷やした「喜多方の水」(ではなくてもいいですが(笑))で割ります。

氷のトッピングもGood。


酷暑の夏には最適な食べ物ですよね。
他では食べれないスペシャルメニュー、よかったら一度いかがですか?
※なお、みそ冷やしは毎日あるわけではない「幻のメニュー」だそうなので、事前に電話等でご確認くださるようお願いします。
「じんべい」
喜多方市山都町西原2880 (JR山都駅すぐそば)
0241-38-2456
定休日 木曜日
あ!ちなみに明日15日には山都6000人の盆踊りが開催されます(こちらをクリック)。
みなさんぜひ山都へ!
久々のシリーズ6回目、以前の5回は→こちらをクリック
以前、山都のラーメン屋では踏切り近くの「ほがらか食堂」をご紹介しましたが、そこと同じく知る人ぞ知る山都の名店がJR山都駅の目の前にあります。
その店の名は 「じんべい」
じんべいは特にみそラーメンで定評のある店なのですが、夏には期間限定のスペシャルメニュー 「みそ冷やし」 が登場します。
冷やし中華ではありません、「みそ冷やし」です。750円。

具は冷やし中華に似てますが、お酢ではなく特製みそがのってます。

これをお好みでキンキンに冷やした「喜多方の水」(ではなくてもいいですが(笑))で割ります。

氷のトッピングもGood。


酷暑の夏には最適な食べ物ですよね。
他では食べれないスペシャルメニュー、よかったら一度いかがですか?
※なお、みそ冷やしは毎日あるわけではない「幻のメニュー」だそうなので、事前に電話等でご確認くださるようお願いします。
「じんべい」
喜多方市山都町西原2880 (JR山都駅すぐそば)
0241-38-2456
定休日 木曜日
あ!ちなみに明日15日には山都6000人の盆踊りが開催されます(こちらをクリック)。
みなさんぜひ山都へ!
わんぱく子供川遊び その2~親御さんの撮った写真~ - 2013.08.13 Tue
わんぱく子供川遊び 無事終了しました! - 2013.08.13 Tue

昨年は1泊2日の合宿形式でしたが、今年は日帰りでギュギュっと濃縮イベントに。
地元やまとキッズクラブの子らを中心に、こんなに大勢集まってくれました。


参加賞のオリジナル缶バッジ。いかがでしょう?




近くの「丸太小屋」へ移動、まずは小さい子から順番に魚のつかみどり体験。

やはり慣れてないとなかなか苦戦。
でもちょっとコツを教えれば。。。

このとおり見事GET(笑)。






子供たちは内臓とエラ取りも体験。

血合もきっちりきれいに。

そして串刺し体験。
うまくできたかな?



こちらはとうもろこし剥き。


そして。
実はこの後メインの川遊びに入ったのですが。。。
みんなライフジャケットつけていっぱい楽しく遊んだのですが。。。
いい写真いっぱいとったのですが。。。
最後の最後でカメラが流されてしまいまして。。。
すいません、川の写真がありません(苦笑)。
今後、親御さんが撮った写真をいただけたらまたアップしたいと思います。
また、水がひいたらカメラの捜索に行きたいと思っています。
で、川から上がり着替えたのち、昼食に。







そして、最後のプログラム、スイカ割りにすすむのですが、そのスイカは山都の誇るメチャクチャ甘くておいしいスイカをつくっている谷野さんのところのスイカ。正直、割るのがもったいないくらいの逸品です。




ん?どちらへ?(笑)



実は、特に1年生の子らがとても上手で、用意していたスイカ全て途中で使い果たしてしまい、6年生は段ボールで代用(苦笑)。

スイカは全部しっかりおいしくいただきました。


みなさん、お疲れ様でした!
昨日の体験田んぼの様子 - 2013.08.08 Thu
昨日8月7日の様子です。
以前の様子は→こちらをクリック


体験田んぼのヒトメボレの出穂はほぼ完了。


手前の方の出穂がまだなのは、水口はどうしても水温が低くなるので、成長が遅れるからです。
あと一か月ちょっとで稲刈りかと思うと、ほんと早いですね。
~追記~
6月21日に撮った写真も出てきました。
以下に載せます。↓



以前の様子は→こちらをクリック


体験田んぼのヒトメボレの出穂はほぼ完了。


手前の方の出穂がまだなのは、水口はどうしても水温が低くなるので、成長が遅れるからです。
あと一か月ちょっとで稲刈りかと思うと、ほんと早いですね。
~追記~
6月21日に撮った写真も出てきました。
以下に載せます。↓



院内御廟歴史散策会 - 2013.08.07 Wed
東山温泉の入り口近くにある会津藩主松平家墓所「院内御廟」にて行われた歴史散策会に参加してきました。


主催は会津若松市教育委員会文化課。
さすがですね、普段私のやっているこじんまりイベントとは桁違いの(笑)、ざっと数えた感じで70名以上もの多くの参加者が集いました。

申し込みを済ませるとまずもらったのは院内御廟のパンフとこの「巻物」。

巻物の中身は御廟のイラストマップとこの謎が書かれた「問題」の2枚でした。
問は7つ。
「なぜこの場所が御廟に選ばれたのでしょうか」
「二代藩主のお墓には「鳳翔院殿」という戒名が彫られています。それはなぜでしょう」
「巨大な石から成り立つ御廟。この石は、どこから、どんな方法で運ばれたのでしょうか」
などなど。
どれも非常に難問、恥ずかしながら私がわかったのはたったの1問で、今からはじまる散策会に期待が膨らみました。

そしていよいよ開会。

マップの説明。各ポイントに解説員がいて、問の答えの説明をしてくださるようになっています。

入り口の門に最初の問の答えが。
1657年、藩祖保科正之公の子保科正頼(本来なら二代藩主になるはずの人でしたが、江戸のいわゆる「振袖の大火」の犠牲になったそうです)が死去した際、正之公が南向きの山でよい水がでるという理由から、ここ院内山を墓所として定めたのでした。
私はこの墓所は何度も訪れていますが、いつもこの入り口の門をくぐるとなんだか厳かな気持ちになります。
それもそのはず、世が世なら庶民はこの先には入れない「聖域」だからです。

少し進み、左手に登ると、「中之御庭」。ここには前述の保科正頼の墓があります。

2問目の答えがここに。
この中之御庭の奥にあるのが、「西之御庭」。中之御庭と西之御庭には計22基の墓がありますが、これらは藩主の側室やその子供たちの墓です。

中之御庭から参道に戻り少し登ると二代藩主保科正経公の墓。
正経公は、亡くなった父正之公を弔うため土津神社を建立したり、領民を疫病から救うという目的であの御薬園を建設したり、学問の奨励などにも力を注ぎ、名君だったと伝えられています。
そして第3問、正経公の墓石に「鳳翔院殿」という戒名が彫られているのはなぜ?
それはこの二代藩主だけが「仏式」で葬られたからでした。
では藩祖正之公はじめ、他の藩主はすべて「神式」なのに、二代藩主だけがなぜ「仏式」?というあらたな疑問がわいてきます。
その答えを解説員に質問してみました。
「確たる答えはないのですが・・・」という前置きがあって、いくつかの説を教えていただきました。
それは「将軍家に配慮して神式を避けたのではないか」や「時の将軍はあの綱吉。神式だと碑石の下に亀石を置く形になるので、それが生類憐みの令に反すると思ったのでは」などの説です。

確かに正経公の碑石の下には亀石「亀趺(きふ)」がありません。

そしてどんどん登っていくと、開けた場所へ。
3代藩主から9代藩主までの墓がずらりと並んだ「入峰墓所」と呼ばれる所。

第4問
「三代藩主から九代藩主までは神式の墓のつくりとなっています。亀に似た石の名前、役割はなんでしょう」

石の名は「亀趺坐(きふざ)」。亀に似てますが中国の故事にちなんだ空想上の動物で、藩主の墓を守る役割があって、藩主の亡骸が眠る「鎮め石」の方向を向いています。
また亀趺坐の上に乗っている巨大な碑石には、その藩主の生い立ち・経歴・業績などが詳細に彫られています。

そして一番左の奥にあるのが、大河で綾野さんが熱演されている9代藩主容保公の墓。

その容保公の左隣に、十代以降の藩主はじめ現代の松平家の方々の墓があります。照姫さんもここに葬られています。


七代藩主容衆(かたひろ)公の墓の前に第5問。
この巨大な石は、今の河東町、八田野地区(大河では八重が小さいときに父に鳥をうちに連れて行ってもらったシーンを撮影したあたり)から、冬にソリを使ってここまで運ばれたそうです。

この小高い丘の上にある八角形の石が「鎮石(しずめいし)」と呼ばれるもので、この下に藩主の眠る石室があります。


その藩主の生い立ち・経歴・業績などが彫られている前述の「碑石」を前面に、その碑石より一段高い所に対の石灯籠(写真手前)を並べ、その奥に「表石」(「会津中将~」って彫られているもの)を建て、そのさらに奥の小高い所に前述の八角形の「鎮石」を置く方式になっています。
これほど壮大な規模で、荘厳な宗教的雰囲気の漂う御廟は全国でも類をみないとのことです。
御廟全体が昭和62(1987)年5月に国史跡の指定を受けています。

そして院内御廟をあとにし、おとなりの歴史感動ミュージアム・会津武家屋敷へ。ここは家老西郷頼母の屋敷を復元したものです。
通常は入場料850円かかるのですが、この日のイベント参加者は無料。とてもお得でした(笑)。さらに「什の掟」のポスターを参加記念品としていただきました。
第6問、7問は武家屋敷の問題。
この「会津武家屋敷」がつくられたきっかけと、西郷頼母の会津藩での役職は?というものでした。
院内御廟と武家屋敷。
参加者が思い思いのペースで歩きながら、要所要所でスタッフから解説を聞ける、この形式はとてもいいですね。
私自身知らなかったことが多く、とても有意義でした。
勉強になりました。
そして。。。実は武家屋敷へ来たのは久しぶりなのですが、今まで私が来たときは閉ざされていた?門がこの日はあいていました。その奥には。。。

京都見廻組、佐々木只三郎の墓があります。
あの坂本龍馬暗殺を指揮した人ということで結構有名ですね。
会津藩士の子ということが会津黒幕説にもつながっているようですが、旗本へ養子に行って幕府のもと働いていた佐々木が、寺田屋事件で幕府役人を射殺した「殺人犯」である龍馬を取り締まっただけだとも思えます。
龍馬暗殺のすぐ後、佐々木只三郎は鳥羽伏見の戦いで戦死しました。


久しぶりに武家屋敷を堪能した後、背あぶり山へ足をのばしました。
この背あぶり山といえば、奥州仕置の際に会津を訪れた秀吉が「絶景」と喜び、山頂でお茶会を開いたことが知られていますが、私にとっては。。。

アメリカ移民の日本女性第1号、「おけい」こと伊藤おけいさんの墓がある場所であることが重要です。


「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years 」
会津戦争の3年後、1871年に没。享年19歳。
ということは八重の7才下になりますね。

あれもこれもってわけにはいかないのでしょうが、八重の桜にぜひ登場してもらいたかったひとり、ヘンリースネル。
鶴ヶ城開城の翌年、カリフォルニアに「若松コロニー」という農場を拓き再起をはかろうとしたスネルと一緒に海を渡ったのがおけいでした。
しかし、その2年後、異国の地でおけいは病没します。
きっと帰りたかっただろうな。。。


おけいさんの墓のわきにはヤマユリが咲いていました。


主催は会津若松市教育委員会文化課。
さすがですね、普段私のやっているこじんまりイベントとは桁違いの(笑)、ざっと数えた感じで70名以上もの多くの参加者が集いました。

申し込みを済ませるとまずもらったのは院内御廟のパンフとこの「巻物」。

巻物の中身は御廟のイラストマップとこの謎が書かれた「問題」の2枚でした。
問は7つ。
「なぜこの場所が御廟に選ばれたのでしょうか」
「二代藩主のお墓には「鳳翔院殿」という戒名が彫られています。それはなぜでしょう」
「巨大な石から成り立つ御廟。この石は、どこから、どんな方法で運ばれたのでしょうか」
などなど。
どれも非常に難問、恥ずかしながら私がわかったのはたったの1問で、今からはじまる散策会に期待が膨らみました。

そしていよいよ開会。

マップの説明。各ポイントに解説員がいて、問の答えの説明をしてくださるようになっています。

入り口の門に最初の問の答えが。
1657年、藩祖保科正之公の子保科正頼(本来なら二代藩主になるはずの人でしたが、江戸のいわゆる「振袖の大火」の犠牲になったそうです)が死去した際、正之公が南向きの山でよい水がでるという理由から、ここ院内山を墓所として定めたのでした。
私はこの墓所は何度も訪れていますが、いつもこの入り口の門をくぐるとなんだか厳かな気持ちになります。
それもそのはず、世が世なら庶民はこの先には入れない「聖域」だからです。

少し進み、左手に登ると、「中之御庭」。ここには前述の保科正頼の墓があります。

2問目の答えがここに。
この中之御庭の奥にあるのが、「西之御庭」。中之御庭と西之御庭には計22基の墓がありますが、これらは藩主の側室やその子供たちの墓です。

中之御庭から参道に戻り少し登ると二代藩主保科正経公の墓。
正経公は、亡くなった父正之公を弔うため土津神社を建立したり、領民を疫病から救うという目的であの御薬園を建設したり、学問の奨励などにも力を注ぎ、名君だったと伝えられています。
そして第3問、正経公の墓石に「鳳翔院殿」という戒名が彫られているのはなぜ?
それはこの二代藩主だけが「仏式」で葬られたからでした。
では藩祖正之公はじめ、他の藩主はすべて「神式」なのに、二代藩主だけがなぜ「仏式」?というあらたな疑問がわいてきます。
その答えを解説員に質問してみました。
「確たる答えはないのですが・・・」という前置きがあって、いくつかの説を教えていただきました。
それは「将軍家に配慮して神式を避けたのではないか」や「時の将軍はあの綱吉。神式だと碑石の下に亀石を置く形になるので、それが生類憐みの令に反すると思ったのでは」などの説です。

確かに正経公の碑石の下には亀石「亀趺(きふ)」がありません。

そしてどんどん登っていくと、開けた場所へ。
3代藩主から9代藩主までの墓がずらりと並んだ「入峰墓所」と呼ばれる所。

第4問
「三代藩主から九代藩主までは神式の墓のつくりとなっています。亀に似た石の名前、役割はなんでしょう」

石の名は「亀趺坐(きふざ)」。亀に似てますが中国の故事にちなんだ空想上の動物で、藩主の墓を守る役割があって、藩主の亡骸が眠る「鎮め石」の方向を向いています。
また亀趺坐の上に乗っている巨大な碑石には、その藩主の生い立ち・経歴・業績などが詳細に彫られています。

そして一番左の奥にあるのが、大河で綾野さんが熱演されている9代藩主容保公の墓。

その容保公の左隣に、十代以降の藩主はじめ現代の松平家の方々の墓があります。照姫さんもここに葬られています。


七代藩主容衆(かたひろ)公の墓の前に第5問。
この巨大な石は、今の河東町、八田野地区(大河では八重が小さいときに父に鳥をうちに連れて行ってもらったシーンを撮影したあたり)から、冬にソリを使ってここまで運ばれたそうです。

この小高い丘の上にある八角形の石が「鎮石(しずめいし)」と呼ばれるもので、この下に藩主の眠る石室があります。


その藩主の生い立ち・経歴・業績などが彫られている前述の「碑石」を前面に、その碑石より一段高い所に対の石灯籠(写真手前)を並べ、その奥に「表石」(「会津中将~」って彫られているもの)を建て、そのさらに奥の小高い所に前述の八角形の「鎮石」を置く方式になっています。
これほど壮大な規模で、荘厳な宗教的雰囲気の漂う御廟は全国でも類をみないとのことです。
御廟全体が昭和62(1987)年5月に国史跡の指定を受けています。

そして院内御廟をあとにし、おとなりの歴史感動ミュージアム・会津武家屋敷へ。ここは家老西郷頼母の屋敷を復元したものです。
通常は入場料850円かかるのですが、この日のイベント参加者は無料。とてもお得でした(笑)。さらに「什の掟」のポスターを参加記念品としていただきました。
第6問、7問は武家屋敷の問題。
この「会津武家屋敷」がつくられたきっかけと、西郷頼母の会津藩での役職は?というものでした。
院内御廟と武家屋敷。
参加者が思い思いのペースで歩きながら、要所要所でスタッフから解説を聞ける、この形式はとてもいいですね。
私自身知らなかったことが多く、とても有意義でした。
勉強になりました。
そして。。。実は武家屋敷へ来たのは久しぶりなのですが、今まで私が来たときは閉ざされていた?門がこの日はあいていました。その奥には。。。

京都見廻組、佐々木只三郎の墓があります。
あの坂本龍馬暗殺を指揮した人ということで結構有名ですね。
会津藩士の子ということが会津黒幕説にもつながっているようですが、旗本へ養子に行って幕府のもと働いていた佐々木が、寺田屋事件で幕府役人を射殺した「殺人犯」である龍馬を取り締まっただけだとも思えます。
龍馬暗殺のすぐ後、佐々木只三郎は鳥羽伏見の戦いで戦死しました。


久しぶりに武家屋敷を堪能した後、背あぶり山へ足をのばしました。
この背あぶり山といえば、奥州仕置の際に会津を訪れた秀吉が「絶景」と喜び、山頂でお茶会を開いたことが知られていますが、私にとっては。。。

アメリカ移民の日本女性第1号、「おけい」こと伊藤おけいさんの墓がある場所であることが重要です。


「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years 」
会津戦争の3年後、1871年に没。享年19歳。
ということは八重の7才下になりますね。

あれもこれもってわけにはいかないのでしょうが、八重の桜にぜひ登場してもらいたかったひとり、ヘンリースネル。
鶴ヶ城開城の翌年、カリフォルニアに「若松コロニー」という農場を拓き再起をはかろうとしたスネルと一緒に海を渡ったのがおけいでした。
しかし、その2年後、異国の地でおけいは病没します。
きっと帰りたかっただろうな。。。


おけいさんの墓のわきにはヤマユリが咲いていました。
飯豊大滝遊歩道の状況 - 2013.08.02 Fri
山都町側からの飯豊山への道路は完全に崩落してしまった箇所があり当分通行止めですが、大滝遊歩道の状況を確認するため、昨日山形県側から回り込んで大滝の現況調査に行ってきました。
(ちなみに昨日は特別に許可を得て行ってきました。山形県側の林道も現在通行止めとなっていて惣兵衛(岳谷釣堀)の分かれの先でゲートは閉まっています。)

本来30分で行けるところを2時間半、山形県飯豊町側から6月に開通した林道を通って川入へ。
川入集落の先、かつての飯豊鉱泉があったところの橋が壊れ、車はここまで。

橋だけが残っていて、道は崩落してしまっています。林道が再開通したとしても川入~御沢まではさらに復旧は先になりそうですね。


その先も、流れが当たるところだったので舗装が削りとられ岩盤だけがむき出しになって残っていました。
歩くには問題ない幅はありますが、これでは車は通れません。

ここが車も通れる道路だったとはイメージできないほど変わっていますね。





写真にはほとんど納められなかったのですが、途中そば畑の中から猿がワラワラと出てきました。ウンチを調べてみるとしっかりソバの実が(苦笑)。

ちょっと遠いですが、猿です。
このへんには今年はほとんど人が来ないということになると、川入は猿の天国になりそうですね。

御沢キャンプ場の入り口の橋も完全に切れてしまってます。



橋が切れてしまっていたので、キャンプ場へは渡渉を余儀なくされました。

キャンプ場の駐車場も、写真ではよくわからないかもしれませんが、かなり水が通ったようで、細かい砂利や木くずが残っています。


男子トイレは相当流入したらしく、「大」のほうは泥で埋まっていました。




↑上の写真の景色、昨日のです。この場所の昨年秋の写真が↓

上の写真と見比べて写真真ん中やや左の奥の木を見るとほぼ同じ場所の写真だとわかりますが。。。これほど変わってしまいました。(撮影日2012.10.14)

同様に上↑ が昨日、下↓ が今年の7月7日の写真。微妙に角度が違うかもしれませんが、奥の山の形でだいたい同じところとわかります。草や木、土がすべて洗い流され、河原になってしまっています。


上↑ 昨日、下↓ 昨年10月14日。上の写真真ん中左の木に注目してください。下の写真左の木がそれです。


その場所を上流からみたところ。左に遊歩道の残骸があります。

ここは以前は林でした。すべて流され、新しい川の流れをつくっていました。

一の橋付近。これもあまりに景色が変わってしまっているので、写真ではわからないかもしれませんが、上↑ と下↓ は同じあたりの写真です。上は昨日、下は今年7月22日。現場に立ってもどこがどこだかわからないくらい変わっていましたが、手がかりとなるのは写真右端やや上の礎石。だいぶ昔の架け橋の基礎になっていた部分で、下の写真では一段上の淵の右の苔で緑になっているところです。きれいだった釜はなくなり、写真奥から流れていた川は写真左からの流れに変わっていました。


上の場所のややアップ。写真右のコンクリで固めた礎石がわかりやすいと思います。

さらに一の橋付近遠目のショット。

一の橋がかかっていたあたりを上流から下流へ向いてみた写真。

激しく石や流木が激突した痕跡。

木の皮がめくれちゃっています。

ここは今まで川ではなく灌木が生い茂っていた場所。枯れ木に見えるのは流木ではなくここに生えていた木で、激しい流れでみんな皮が剥けてしまい、流木のように見えるのでした。

長滝上の左岸から右岸に渡る場所は以前は↑ のように石を伝っていけたのですが、この雨で↓ 真ん中の大石が流れてしまったようで、簡単には渡れなくなりました。



大滝の雄姿は以前のままです。




カエルが遊んで(?)流れていました。

滝つぼの水中写真を試みてみましたが、イワナの姿は見えず。

セミがいままさに成虫になろうとしていました。
自然の力はあまりに巨大で、それに抗うことは不可能ですが、その中でも健気に生きていくこと、それが大切なんですよね。
森にとっては今回の大雨も大いなる営みのほんの一瞬の「想定内」の出来事でしかないのかもしれません。
でも、以前のように大滝トレッキングをみなさまに楽しんでもらえる日が来るのはまだまだだいぶ先になってしまいそうです。
そんなわけで10月27日に予定していた大滝トレッキング秋!は中止せざるを得ないと考えています。
そのかわり、山都内でのウォーキングを開催したいと思ってます。候補は4つほどあり、近々下見をして決定します。
詳細決定し次第発表しますので、大滝トレッキングに参加を検討していた方はぜひ代替イベントの方へご参加ください。
よろしくお願いいたします。
(ちなみに昨日は特別に許可を得て行ってきました。山形県側の林道も現在通行止めとなっていて惣兵衛(岳谷釣堀)の分かれの先でゲートは閉まっています。)

本来30分で行けるところを2時間半、山形県飯豊町側から6月に開通した林道を通って川入へ。
川入集落の先、かつての飯豊鉱泉があったところの橋が壊れ、車はここまで。

橋だけが残っていて、道は崩落してしまっています。林道が再開通したとしても川入~御沢まではさらに復旧は先になりそうですね。


その先も、流れが当たるところだったので舗装が削りとられ岩盤だけがむき出しになって残っていました。
歩くには問題ない幅はありますが、これでは車は通れません。

ここが車も通れる道路だったとはイメージできないほど変わっていますね。





写真にはほとんど納められなかったのですが、途中そば畑の中から猿がワラワラと出てきました。ウンチを調べてみるとしっかりソバの実が(苦笑)。

ちょっと遠いですが、猿です。
このへんには今年はほとんど人が来ないということになると、川入は猿の天国になりそうですね。

御沢キャンプ場の入り口の橋も完全に切れてしまってます。



橋が切れてしまっていたので、キャンプ場へは渡渉を余儀なくされました。

キャンプ場の駐車場も、写真ではよくわからないかもしれませんが、かなり水が通ったようで、細かい砂利や木くずが残っています。


男子トイレは相当流入したらしく、「大」のほうは泥で埋まっていました。




↑上の写真の景色、昨日のです。この場所の昨年秋の写真が↓

上の写真と見比べて写真真ん中やや左の奥の木を見るとほぼ同じ場所の写真だとわかりますが。。。これほど変わってしまいました。(撮影日2012.10.14)

同様に上↑ が昨日、下↓ が今年の7月7日の写真。微妙に角度が違うかもしれませんが、奥の山の形でだいたい同じところとわかります。草や木、土がすべて洗い流され、河原になってしまっています。


上↑ 昨日、下↓ 昨年10月14日。上の写真真ん中左の木に注目してください。下の写真左の木がそれです。


その場所を上流からみたところ。左に遊歩道の残骸があります。

ここは以前は林でした。すべて流され、新しい川の流れをつくっていました。

一の橋付近。これもあまりに景色が変わってしまっているので、写真ではわからないかもしれませんが、上↑ と下↓ は同じあたりの写真です。上は昨日、下は今年7月22日。現場に立ってもどこがどこだかわからないくらい変わっていましたが、手がかりとなるのは写真右端やや上の礎石。だいぶ昔の架け橋の基礎になっていた部分で、下の写真では一段上の淵の右の苔で緑になっているところです。きれいだった釜はなくなり、写真奥から流れていた川は写真左からの流れに変わっていました。


上の場所のややアップ。写真右のコンクリで固めた礎石がわかりやすいと思います。

さらに一の橋付近遠目のショット。

一の橋がかかっていたあたりを上流から下流へ向いてみた写真。

激しく石や流木が激突した痕跡。

木の皮がめくれちゃっています。

ここは今まで川ではなく灌木が生い茂っていた場所。枯れ木に見えるのは流木ではなくここに生えていた木で、激しい流れでみんな皮が剥けてしまい、流木のように見えるのでした。

長滝上の左岸から右岸に渡る場所は以前は↑ のように石を伝っていけたのですが、この雨で↓ 真ん中の大石が流れてしまったようで、簡単には渡れなくなりました。



大滝の雄姿は以前のままです。




カエルが遊んで(?)流れていました。

滝つぼの水中写真を試みてみましたが、イワナの姿は見えず。

セミがいままさに成虫になろうとしていました。
自然の力はあまりに巨大で、それに抗うことは不可能ですが、その中でも健気に生きていくこと、それが大切なんですよね。
森にとっては今回の大雨も大いなる営みのほんの一瞬の「想定内」の出来事でしかないのかもしれません。
でも、以前のように大滝トレッキングをみなさまに楽しんでもらえる日が来るのはまだまだだいぶ先になってしまいそうです。
そんなわけで10月27日に予定していた大滝トレッキング秋!は中止せざるを得ないと考えています。
そのかわり、山都内でのウォーキングを開催したいと思ってます。候補は4つほどあり、近々下見をして決定します。
詳細決定し次第発表しますので、大滝トレッキングに参加を検討していた方はぜひ代替イベントの方へご参加ください。
よろしくお願いいたします。