平成26年度 山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会 イベントスケジュール - 2014.01.31 Fri
※ (8月27日追記) 10月18-19日の雑穀おむすびの結その4は、10月25-26日に開催日変更になりました。
※ (9月9日追記) 11月15-16日の雑穀おむすびの結その5は、11月22-23日に開催日変更になりました。
※ (10月22日追記) 11月30日の飯豊の幸「やまとのみそ」づくり体験は、11月24日に開催日変更になりました。

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※ (9月9日追記) 11月15-16日の雑穀おむすびの結その5は、11月22-23日に開催日変更になりました。
※ (10月22日追記) 11月30日の飯豊の幸「やまとのみそ」づくり体験は、11月24日に開催日変更になりました。

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平成25年度山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会 通常総会 無事終了しました - 2014.01.31 Fri
昨夜、平成25年度の山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会の通常総会が喜多方市山都総合支所内で行われました。
(なぜか当協議会は会計年度が1月~12月なのでした。しかしこれは本総会で4月~3月に改正されました)
昨年度の山都G.T.は会員数が36名。
この日の出席者が15名、委任状が13名の計28名。よって過半数を得て総会は成立しました。
来賓のNPO喜多方市グリーン・ツーリズム・サポートセンター伊藤理事長様、喜多方市観光交流課グリーンツーリズム推進室山口室長様からご祝辞をたまわり、その後平成25年度事業報告ならびに決算報告、また先日行われた監査報告、規約改正案、平成26年度事業計画案、収支予算案等の報告・議案を説明させていただき、すべてが満場一致で承認されました。
ここまでは通常の「硬い」(笑)総会。
その後の「その他」のコーナーで、ちょっと私が仕掛けたので、ざっくばらんにみなさん活発にご意見を出してくださり、とても有意義な会になりました。
私のつくった26年度の事業計画案も無事承認されましたので、のちほど年間スケジュールを発表したいと思います。

(なぜか当協議会は会計年度が1月~12月なのでした。しかしこれは本総会で4月~3月に改正されました)
昨年度の山都G.T.は会員数が36名。
この日の出席者が15名、委任状が13名の計28名。よって過半数を得て総会は成立しました。
来賓のNPO喜多方市グリーン・ツーリズム・サポートセンター伊藤理事長様、喜多方市観光交流課グリーンツーリズム推進室山口室長様からご祝辞をたまわり、その後平成25年度事業報告ならびに決算報告、また先日行われた監査報告、規約改正案、平成26年度事業計画案、収支予算案等の報告・議案を説明させていただき、すべてが満場一致で承認されました。
ここまでは通常の「硬い」(笑)総会。
その後の「その他」のコーナーで、ちょっと私が仕掛けたので、ざっくばらんにみなさん活発にご意見を出してくださり、とても有意義な会になりました。
私のつくった26年度の事業計画案も無事承認されましたので、のちほど年間スケジュールを発表したいと思います。

天海大僧正 歴史講演会&歴史見学会 - 2014.01.29 Wed
突然ですが、みなさん、天海大僧正って知ってますか?
戦国時代末期から江戸時代初期の天台宗の名僧で、特に家康から家光まで徳川三代の宗教的な支えとなったことでその名を残しています。
信長に焼かれた比叡山の再興や、日光東照宮の造営に尽力しました。
しかし名僧としてのすごい功績とは裏腹に、その生い立ちなどはよくわかっていません。
明智光秀が山崎の戦いのあとも実は生き延びていて天海となった、という説もあるくらいです(笑)。
天海本人が「仏門に入れば過去の俗事は何事もないし知ってよいこともない」とほとんど自身のことを語らなかったことが大きいようですが、両親の墓があり、伝記等ではどれも会津郡高田の出身となっていることからも定説となっているのが旧会津高田町=現会津美里町だったりします。
会津美里町では天海を町おこしのメインにすえて、様々なイベントを開催しています。
その一環、昨年9月28日に行われた講演会と歴史見学会に参加してきました。
(もう4か月も前の話を今頃書いててスミマセン(苦笑))

午前の部は歴史講演会。
上野の寛永寺の住職、浦井正明先生による講演「天海大僧正の実像~信念に生きた人~」

体育館に設けられた座席はほぼ埋まっていました。
講演の内容は、主に徳川三代に仕えたころの天海のエピソードの紹介で、天海のことをあまり知らなかった私にとってとても興味深いものでした。
浦井先生は天海のことを「そろばん勘定は一切無し、信念に生きた人」と。
1616年1月、駿府の家康が病気になり、川越の天海の元へ見舞いに来いとの手紙がきてもすぐに駆けつけず家康の怒りを買ったり、家康の葬式の際、幕府は唯一神道で執り行ったが、天海は家康公は天台宗で行えと言っていたと批判したり、寛永寺建立の際、金を出す幕府から幕府の人間のみの菩提寺にしろと言われたことに反発、庶民も分け隔てなく弔うと、自費で建立することにした、などなどリスクを承知の上で考えを通す、信念にはあわないものには従わない反骨の精神の持ち主だったエピソードが紹介されました。
今の時代、思ってることを保身や損得勘定のみで言わず(やらず)にいるだけでなく、言った(やった)者に対してさも自分が「大人」であるかのようにその行為を咎める人がなんと多いことか。
そんななか天海大僧正のエピソードはどれも痛快でした。
他にも天海大僧正がいかに家光はじめ当時の人たちに一目置かれる重要な人として扱われていたか、様々な貴重なお話を伺いました。
そして午後は第二部の歴史見学会。
実際に会津美里町内の天海ゆかりの寺社をまわりました。

美里町公民館向かい、JAの前にある「慈眼大師御誕生地」の碑。慈眼大師はもちろん天海のことです。
天海は没年は1643年とはっきりしているものの、前述のとおり幼少時代の記録がほとんどないため生年については明確なものがなく、よって何歳まで生きたかは90歳から140歳!まで15の説があります。
いずれにしても当時の寿命としてはギネス的な長寿だったことは間違いなさそうです。
その中でも、二つのある文献、1632年に97歳、1615年に80歳の記載が根拠となって生年が1536年とされ、108歳で入寂というのが通説となっています。
現代でもすごいのに、当時は信じられない長寿だったでしょうね~。

生誕地の碑のはす向かい、会津美里町公民館の前にある天海大僧正の石像。

石像のとなりにあるのが「護法石」。
天海は両親が伊佐須美神社の近くの文殊堂にお祈りして授かったといわれ、無事生まれたことを記念して当時の屋敷内に置いた石がこれなんだそうです。

会津に残っている天海の逸話で有名なものは3つほどあるのですが、まずそのひとつ、「浮目の土仏」の話。
町の西寄りに「浮目」という場所があるのですが、天海が得度した10歳のころ、田んぼから光を発してるのを見つけ、掘ったら土仏の観音像が出てきたとのこと。
この観音像を模して新たに仏像をつくって、土仏を胎内におさめて観音堂を建てたのが公民館すぐ南の、この写真奥の桜の木のあたりだったそうです。
当初はその土仏が出てきた場所、「浮目」から「浮目観音」と呼ばれていたそうですが、いつの頃からか「浮身観音」と呼ばれるようになり、観音堂自体も平成になってから老朽化によって取り壊され、龍興寺境内に移っています。
ふたつめは「鯉の味噌汁」の話。
天海が赤ちゃんのとき、天海のお母さんは高齢出産で乳の出が悪く、人の勧めもあって鯉の味噌汁を飲んだところ、乳の出がよくなったとか。
しかし、今度はその乳を天海は吐き出してしまって全然飲まなかったそうです。
しかし、よく考えると鯉の味噌汁だけでなく、お母さんが鳥や魚を食べたときに乳を吐き出すことがわかり、その後肉を絶ち、穀物や野菜のみ食べていたら乳をよく飲んでくれたとか。
生まれながらにして、殺生を嫌う僧侶だったんですね(笑)。
そして3つめは「長い泣き声」の話。
天海が5歳になったころ、毎日朝と夕に長々と泣き続けて、親は参ったそうです。
ところがある日、いつものように泣いているところへある高僧がやってきて、幼子であった天海を見て礼拝し、「遠くからでもこの子が唱えるお経が聞こえた」と。
天海は泣いていたのではなく、実は5歳にしてお経を唱えていたのでした。
そして参加者はバスに乗り、雀林にある法用寺へ。
法用寺は養老4年(702年)に徳道上人が建てたと伝わる、会津では恵隆寺(養老3年)に次いで二番に古いお寺です。

まずは仁王門。
両サイドに阿吽像のパネルがありますが、本物は国の重要文化財に指定されており、本堂の中に移動されています。
慧日寺でも思うのですが、パネルの展示は逆にちゃちいイメージを与えるような気がするのは私だけでしょうか。。

仁王門の上にちょっと変わった注連縄があります。
実はこれ、「蛇」。
雀林集落では江戸期から続いている「蛇の御年始」という行事があり、毎年1月7日に子供たちがこの藁の蛇を担いで家々を回るそうです。
その間に大人たちが新しいものをつくり掲げ、古い蛇体は戻ってくると仁王門の横で焼くとか。
一度ナマで観てみたいですね。

観音堂の右にあるのが、会津五桜のひとつ、「虎の尾桜」。

虎の尾桜については以前に書いたものがあるので詳しくは→こちらをクリック

観音堂内は普段は入れないのですが、たまに戸が開いていて薄暗い中をうかがえるときがあって、そのとき見た限り古い貴重なものがいっぱいありそうだったので、今回中に入れるのを楽しみにしていました。


会津美里町の教育委員会の方が解説してくださいました。


左が702年にこの法用寺を創建した得道上人坐像。福島県指定重要文化財。

前述の仁王門から本堂へ移して安置されている「木造金剛力士像」。
平安時代に造られたケヤキの一木造で、2mを越す大きな像です。装飾が少なく控え目ですが、筋骨隆々で迫力満点です。
阿(あ)・吽(うん)の二体あり、国の重要文化財に指定されています。

飯豊山信仰登山の際、ここもお籠りの場所だったそうで、柱には江戸末期あたりから明治、大正、昭和初期の「落書き」が多数残されています。

厨子の中の観音様は秘仏で、1300年の間一度も御開帳されたことがないそうです。
厨子は会津最古のもので、鎌倉時代の正和三年(1314)作と刻まれていて、国の重要文化財に指定されています。

安永9年(1780)に完成、会津で唯一の三重塔であるだけでなく、下と上の屋根の大きさの差が少なく、組み上げられている木の形など、近づくとその美しさに圧倒されます。
福島県の重要文化財に指定されています。
そして、法用寺をあとにし、龍興寺へ。

天海さんは、1546年、11歳のときにここ龍興寺で得度、つまり仏門へ向けて修行に入りました。名は「隋風」といったそうです。
そしてここ龍興寺には、福島県に3つしかない国宝のひとつがあります。

国宝 一字蓮台法華経 開結共9巻。
今から800年以上前の平安後期に30名によって書写された経巻で、あの平清盛のつくった有名な平家納経、そして中尊寺経、久能寺経と並んで「藤原時代四大荘厳経」と称されています。
これはいつも観せていただけるわけでなく拝観するには事前予約が必要で、かつ風や湿気は禁物という性質上、当日晴れていないといくら予約していても拝観できないという代物です。


住職の丁寧な説明に、参加者一同聞き入ります。
残念ながら10巻のうち第6巻の一巻だけは失われてしまったとのことですが、破損しやすく、また逸散しやすいこういう経典が、ここまできれいに残されているのは奇跡ですよね。
実はこれほどのものが新編会津風土記にはまったく触れられていません。そのおかげで新政府軍の略奪に遭わずに済んだとも言えるそうですが。。。謎ですね。

本物の色や質感を再現した一枚の「一字蓮台法華経」が販売されていたので購入しました。

額に入れて飾っておくとご利益ありそうです。

経文の一字一字が仏様であると考えて、ひとつひとつ美しい蓮の台の上に文字を乗せて書き写してあります。
驚異的なのが、書き損じがないのももちろんのこと、墨の色が一定なんですよね。
一字一字心をこめて。
その気持ちの入りようが伝わってくる気がします。


また、龍興寺には、伊達政宗が天海に宛てて書いた書状も残されています。
何て書いてあるのかなと尋ねたところ、政宗が天海に会いにいったけど、先客がいてお疲れのようだったので、会わずに帰った、との内容だということ。
政宗にも一目置かれていた存在だったのいうのがうかがえますね。

龍興寺境内には、大正4年に見つかった天海の父母の墓があります。この発見によって、天海大僧正の生誕地がここ会津美里町であることが決定的になったとのこと。

これが、この記事の最初の方でご紹介した、平成5年に龍興寺境内に移された「浮身観音八葉堂」。
浮身観音は会津三十三観音の番外札所です。
「浮目をも 助け給へや 観世音 導きたまへ 弥陀の浄土へ」

最後に法幢寺へ。
ここのご本尊は、銅造弥陀如来及び両脇侍立像で、阿弥陀如来の背面にしっかりと建治2年(1276年)造と刻まれているそうで、国の重要文化財に指定されています。
なるほど、とても素晴らしい仏像でした。
三躯が一つの光背の前に立つ「一光三尊仏」の形は善光寺式だそうで、ここは「会津の善光寺さん」といわれて地元で親しまれています。
そして公民館に戻り、歴史見学会終了。
国宝など、普段目にすることのできない貴重な品々を拝観できたことも有意義でしたが、天海大僧正について少し理解を深められたのがうれしかったです。
天海大僧正については今後も自分なりに調べていきたいと思っています。
戦国時代末期から江戸時代初期の天台宗の名僧で、特に家康から家光まで徳川三代の宗教的な支えとなったことでその名を残しています。
信長に焼かれた比叡山の再興や、日光東照宮の造営に尽力しました。
しかし名僧としてのすごい功績とは裏腹に、その生い立ちなどはよくわかっていません。
明智光秀が山崎の戦いのあとも実は生き延びていて天海となった、という説もあるくらいです(笑)。
天海本人が「仏門に入れば過去の俗事は何事もないし知ってよいこともない」とほとんど自身のことを語らなかったことが大きいようですが、両親の墓があり、伝記等ではどれも会津郡高田の出身となっていることからも定説となっているのが旧会津高田町=現会津美里町だったりします。
会津美里町では天海を町おこしのメインにすえて、様々なイベントを開催しています。
その一環、昨年9月28日に行われた講演会と歴史見学会に参加してきました。
(もう4か月も前の話を今頃書いててスミマセン(苦笑))

午前の部は歴史講演会。
上野の寛永寺の住職、浦井正明先生による講演「天海大僧正の実像~信念に生きた人~」

体育館に設けられた座席はほぼ埋まっていました。
講演の内容は、主に徳川三代に仕えたころの天海のエピソードの紹介で、天海のことをあまり知らなかった私にとってとても興味深いものでした。
浦井先生は天海のことを「そろばん勘定は一切無し、信念に生きた人」と。
1616年1月、駿府の家康が病気になり、川越の天海の元へ見舞いに来いとの手紙がきてもすぐに駆けつけず家康の怒りを買ったり、家康の葬式の際、幕府は唯一神道で執り行ったが、天海は家康公は天台宗で行えと言っていたと批判したり、寛永寺建立の際、金を出す幕府から幕府の人間のみの菩提寺にしろと言われたことに反発、庶民も分け隔てなく弔うと、自費で建立することにした、などなどリスクを承知の上で考えを通す、信念にはあわないものには従わない反骨の精神の持ち主だったエピソードが紹介されました。
今の時代、思ってることを保身や損得勘定のみで言わず(やらず)にいるだけでなく、言った(やった)者に対してさも自分が「大人」であるかのようにその行為を咎める人がなんと多いことか。
そんななか天海大僧正のエピソードはどれも痛快でした。
他にも天海大僧正がいかに家光はじめ当時の人たちに一目置かれる重要な人として扱われていたか、様々な貴重なお話を伺いました。
そして午後は第二部の歴史見学会。
実際に会津美里町内の天海ゆかりの寺社をまわりました。

美里町公民館向かい、JAの前にある「慈眼大師御誕生地」の碑。慈眼大師はもちろん天海のことです。
天海は没年は1643年とはっきりしているものの、前述のとおり幼少時代の記録がほとんどないため生年については明確なものがなく、よって何歳まで生きたかは90歳から140歳!まで15の説があります。
いずれにしても当時の寿命としてはギネス的な長寿だったことは間違いなさそうです。
その中でも、二つのある文献、1632年に97歳、1615年に80歳の記載が根拠となって生年が1536年とされ、108歳で入寂というのが通説となっています。
現代でもすごいのに、当時は信じられない長寿だったでしょうね~。

生誕地の碑のはす向かい、会津美里町公民館の前にある天海大僧正の石像。

石像のとなりにあるのが「護法石」。
天海は両親が伊佐須美神社の近くの文殊堂にお祈りして授かったといわれ、無事生まれたことを記念して当時の屋敷内に置いた石がこれなんだそうです。

会津に残っている天海の逸話で有名なものは3つほどあるのですが、まずそのひとつ、「浮目の土仏」の話。
町の西寄りに「浮目」という場所があるのですが、天海が得度した10歳のころ、田んぼから光を発してるのを見つけ、掘ったら土仏の観音像が出てきたとのこと。
この観音像を模して新たに仏像をつくって、土仏を胎内におさめて観音堂を建てたのが公民館すぐ南の、この写真奥の桜の木のあたりだったそうです。
当初はその土仏が出てきた場所、「浮目」から「浮目観音」と呼ばれていたそうですが、いつの頃からか「浮身観音」と呼ばれるようになり、観音堂自体も平成になってから老朽化によって取り壊され、龍興寺境内に移っています。
ふたつめは「鯉の味噌汁」の話。
天海が赤ちゃんのとき、天海のお母さんは高齢出産で乳の出が悪く、人の勧めもあって鯉の味噌汁を飲んだところ、乳の出がよくなったとか。
しかし、今度はその乳を天海は吐き出してしまって全然飲まなかったそうです。
しかし、よく考えると鯉の味噌汁だけでなく、お母さんが鳥や魚を食べたときに乳を吐き出すことがわかり、その後肉を絶ち、穀物や野菜のみ食べていたら乳をよく飲んでくれたとか。
生まれながらにして、殺生を嫌う僧侶だったんですね(笑)。
そして3つめは「長い泣き声」の話。
天海が5歳になったころ、毎日朝と夕に長々と泣き続けて、親は参ったそうです。
ところがある日、いつものように泣いているところへある高僧がやってきて、幼子であった天海を見て礼拝し、「遠くからでもこの子が唱えるお経が聞こえた」と。
天海は泣いていたのではなく、実は5歳にしてお経を唱えていたのでした。
そして参加者はバスに乗り、雀林にある法用寺へ。
法用寺は養老4年(702年)に徳道上人が建てたと伝わる、会津では恵隆寺(養老3年)に次いで二番に古いお寺です。

まずは仁王門。
両サイドに阿吽像のパネルがありますが、本物は国の重要文化財に指定されており、本堂の中に移動されています。
慧日寺でも思うのですが、パネルの展示は逆にちゃちいイメージを与えるような気がするのは私だけでしょうか。。

仁王門の上にちょっと変わった注連縄があります。
実はこれ、「蛇」。
雀林集落では江戸期から続いている「蛇の御年始」という行事があり、毎年1月7日に子供たちがこの藁の蛇を担いで家々を回るそうです。
その間に大人たちが新しいものをつくり掲げ、古い蛇体は戻ってくると仁王門の横で焼くとか。
一度ナマで観てみたいですね。

観音堂の右にあるのが、会津五桜のひとつ、「虎の尾桜」。

虎の尾桜については以前に書いたものがあるので詳しくは→こちらをクリック

観音堂内は普段は入れないのですが、たまに戸が開いていて薄暗い中をうかがえるときがあって、そのとき見た限り古い貴重なものがいっぱいありそうだったので、今回中に入れるのを楽しみにしていました。


会津美里町の教育委員会の方が解説してくださいました。


左が702年にこの法用寺を創建した得道上人坐像。福島県指定重要文化財。

前述の仁王門から本堂へ移して安置されている「木造金剛力士像」。
平安時代に造られたケヤキの一木造で、2mを越す大きな像です。装飾が少なく控え目ですが、筋骨隆々で迫力満点です。
阿(あ)・吽(うん)の二体あり、国の重要文化財に指定されています。

飯豊山信仰登山の際、ここもお籠りの場所だったそうで、柱には江戸末期あたりから明治、大正、昭和初期の「落書き」が多数残されています。

厨子の中の観音様は秘仏で、1300年の間一度も御開帳されたことがないそうです。
厨子は会津最古のもので、鎌倉時代の正和三年(1314)作と刻まれていて、国の重要文化財に指定されています。

安永9年(1780)に完成、会津で唯一の三重塔であるだけでなく、下と上の屋根の大きさの差が少なく、組み上げられている木の形など、近づくとその美しさに圧倒されます。
福島県の重要文化財に指定されています。
そして、法用寺をあとにし、龍興寺へ。

天海さんは、1546年、11歳のときにここ龍興寺で得度、つまり仏門へ向けて修行に入りました。名は「隋風」といったそうです。
そしてここ龍興寺には、福島県に3つしかない国宝のひとつがあります。

国宝 一字蓮台法華経 開結共9巻。
今から800年以上前の平安後期に30名によって書写された経巻で、あの平清盛のつくった有名な平家納経、そして中尊寺経、久能寺経と並んで「藤原時代四大荘厳経」と称されています。
これはいつも観せていただけるわけでなく拝観するには事前予約が必要で、かつ風や湿気は禁物という性質上、当日晴れていないといくら予約していても拝観できないという代物です。


住職の丁寧な説明に、参加者一同聞き入ります。
残念ながら10巻のうち第6巻の一巻だけは失われてしまったとのことですが、破損しやすく、また逸散しやすいこういう経典が、ここまできれいに残されているのは奇跡ですよね。
実はこれほどのものが新編会津風土記にはまったく触れられていません。そのおかげで新政府軍の略奪に遭わずに済んだとも言えるそうですが。。。謎ですね。

本物の色や質感を再現した一枚の「一字蓮台法華経」が販売されていたので購入しました。

額に入れて飾っておくとご利益ありそうです。

経文の一字一字が仏様であると考えて、ひとつひとつ美しい蓮の台の上に文字を乗せて書き写してあります。
驚異的なのが、書き損じがないのももちろんのこと、墨の色が一定なんですよね。
一字一字心をこめて。
その気持ちの入りようが伝わってくる気がします。


また、龍興寺には、伊達政宗が天海に宛てて書いた書状も残されています。
何て書いてあるのかなと尋ねたところ、政宗が天海に会いにいったけど、先客がいてお疲れのようだったので、会わずに帰った、との内容だということ。
政宗にも一目置かれていた存在だったのいうのがうかがえますね。

龍興寺境内には、大正4年に見つかった天海の父母の墓があります。この発見によって、天海大僧正の生誕地がここ会津美里町であることが決定的になったとのこと。

これが、この記事の最初の方でご紹介した、平成5年に龍興寺境内に移された「浮身観音八葉堂」。
浮身観音は会津三十三観音の番外札所です。
「浮目をも 助け給へや 観世音 導きたまへ 弥陀の浄土へ」

最後に法幢寺へ。
ここのご本尊は、銅造弥陀如来及び両脇侍立像で、阿弥陀如来の背面にしっかりと建治2年(1276年)造と刻まれているそうで、国の重要文化財に指定されています。
なるほど、とても素晴らしい仏像でした。
三躯が一つの光背の前に立つ「一光三尊仏」の形は善光寺式だそうで、ここは「会津の善光寺さん」といわれて地元で親しまれています。
そして公民館に戻り、歴史見学会終了。
国宝など、普段目にすることのできない貴重な品々を拝観できたことも有意義でしたが、天海大僧正について少し理解を深められたのがうれしかったです。
天海大僧正については今後も自分なりに調べていきたいと思っています。
アニマルトラッキング雪原ハイク 下見行ってきました - 2014.01.29 Wed
今週末のイベントの下見にいってきました。
今年は寒さは例年以上の厳しさですが、雪は少な目なんでどうかな、と思ってましたが、、、、宮古はやっぱり山都の中でも違います(笑)。



ただ、連日の冷え込みの厳しさで、2月下旬~3月並みに雪はしまっていて、とても歩きやすいです。
去年のラッセルがうそのよう。。。(まあ昨年は前日に降った大雪の影響もありましたが)
動画↓ 心地よい踏み音をお聞きください。



深い雪の上をひきづってるので明瞭でないですが、おそらくキツネの足跡。少し急いで渡ったようですね。





今年は昨年と通るルートを少し、いやかなり変更します。
私がある「モノ」をかついでいって、ちょっと面白い調査をしてみようかと(笑)。

ノウサギの足跡。

これはニホンリス(ホンドリス)ですね。

これもニホンリス。

こんな「お荷物」背負わされて、スギの木がかわいそうになりました。


ノウサギの足跡はそこここにあります。



今年も馬頭観音のあるお堂まで登ります。

屋根の雪は降ろさないとやばい状態に。
雪おろし体験もやっちゃいます(笑)。
お楽しみに~。
今から参加、まだ間に合います。行っちゃおうかな、という方、明日夕方までに連絡を!!
詳しくは→こちらをクリック
今年は寒さは例年以上の厳しさですが、雪は少な目なんでどうかな、と思ってましたが、、、、宮古はやっぱり山都の中でも違います(笑)。



ただ、連日の冷え込みの厳しさで、2月下旬~3月並みに雪はしまっていて、とても歩きやすいです。
去年のラッセルがうそのよう。。。(まあ昨年は前日に降った大雪の影響もありましたが)
動画↓ 心地よい踏み音をお聞きください。



深い雪の上をひきづってるので明瞭でないですが、おそらくキツネの足跡。少し急いで渡ったようですね。





今年は昨年と通るルートを少し、いやかなり変更します。
私がある「モノ」をかついでいって、ちょっと面白い調査をしてみようかと(笑)。

ノウサギの足跡。

これはニホンリス(ホンドリス)ですね。

これもニホンリス。

こんな「お荷物」背負わされて、スギの木がかわいそうになりました。


ノウサギの足跡はそこここにあります。



今年も馬頭観音のあるお堂まで登ります。

屋根の雪は降ろさないとやばい状態に。
雪おろし体験もやっちゃいます(笑)。
お楽しみに~。
今から参加、まだ間に合います。行っちゃおうかな、という方、明日夕方までに連絡を!!
詳しくは→こちらをクリック
寒晒しそばまつり ボランティア募集 - 2014.01.28 Tue
1月19日 山都「寒晒しそば」玄そば浸し儀式 - 2014.01.07 Tue
毎年3月に行われる寒晒しそばまつり。
そのまつり用の玄そばを大寒の頃に清流一ノ戸川に浸します。
場所は→こちらをクリック
今年は1月19日9:30からです。
年に一度の特別な作業です。
写真家の方、ご興味ある方、ぜひ山都へ足をお運びください。
昨年の模様は→こちらをクリック


◎寒晒しそばとは
1年で最も寒さの厳しい大寒のころに、極寒の渓流にソバの実を浸します。
10日ほどしたらそれを引き上げ、さらに20日ほど寒風に晒して自然乾燥させます。
これを製粉してそばに打つと、弾けるような食感の素晴らしいそばができるのです。
これは科学的にもおいしさが証明されてまして、凍る寸前の冷たい清流に浸すことによって、玄ソバ自らが凍死しないようにと実の成分を不凍液に変えます。この不凍液こそ旨味成分となるアミノ酸なのです。
信州大学農学部の井上直人教授によると、寒晒しそばは、
①デンプンの消化速度が高く、腹持ちがよい。
②ストレス緩和作用があり、幸せな気分にさせてくれる。
③水溶性のタンパク質が流出することで、雑味がなくすっきりとした味になる。
④デンプンの質的変化により、シコシコ、モチモチとした食感がある。
といった特性を持っていることが科学的に解析されたとのことです。
(リベラルタイム出版社刊「蕎麦春秋」第5巻引用)
そのまつり用の玄そばを大寒の頃に清流一ノ戸川に浸します。
場所は→こちらをクリック
今年は1月19日9:30からです。
年に一度の特別な作業です。
写真家の方、ご興味ある方、ぜひ山都へ足をお運びください。
昨年の模様は→こちらをクリック


◎寒晒しそばとは
1年で最も寒さの厳しい大寒のころに、極寒の渓流にソバの実を浸します。
10日ほどしたらそれを引き上げ、さらに20日ほど寒風に晒して自然乾燥させます。
これを製粉してそばに打つと、弾けるような食感の素晴らしいそばができるのです。
これは科学的にもおいしさが証明されてまして、凍る寸前の冷たい清流に浸すことによって、玄ソバ自らが凍死しないようにと実の成分を不凍液に変えます。この不凍液こそ旨味成分となるアミノ酸なのです。
信州大学農学部の井上直人教授によると、寒晒しそばは、
①デンプンの消化速度が高く、腹持ちがよい。
②ストレス緩和作用があり、幸せな気分にさせてくれる。
③水溶性のタンパク質が流出することで、雑味がなくすっきりとした味になる。
④デンプンの質的変化により、シコシコ、モチモチとした食感がある。
といった特性を持っていることが科学的に解析されたとのことです。
(リベラルタイム出版社刊「蕎麦春秋」第5巻引用)
2月23日 氷筍洞窟トレッキング 参加者募集 - 2014.01.06 Mon
会津でのゆく年くる年 - 2014.01.03 Fri
皆様あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
私は年末はアニマルシェルターへボランティアとして行ってましたが、正月は久々に会津でのんびり過ごしております。
年越しから初詣の模様を少しご紹介します。

綾瀬さんの心に沁みる「花は咲く」で涙したあと、紅白の最後の方は観ずに喜多方・願成寺へ。
ここは2007年だったかな、NHKゆく年くる年のオープニングを飾った名刹です。



厳かな空気の中、除夜の鐘の音がひとつまたひとつと響いていました。
ちょうど新年を迎えたあたりで、長床へ。



長床のある新宮熊野神社では、毎年大みそかの23時~元旦2時くらいまで絵ろうそく祭りが行われています。
私は久々来ました。






2014年初詣はココで。


想いを込めて鐘を突かせてもらいました。

そして長床をあとにし、会津若松へ。

鶴ヶ城に元旦登閣。




元旦に登閣すると、「めしべら」をもらえます。

五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の願いを込めてお祓いした縁起物の「めしべら」です。

そして午前3時過ぎに家に戻り、しばらく寝たのち。。。
ウチの集落の神社へ。


スノーシュー、またはかんじき無しでは行けません(苦笑)。


楚々木・大山神神社。

カモシカの足跡がそこここにあります。

で、最後に。。。
今年の正月は雪かきと読書と書庫の整理と決めていたので、今読んでいる二冊。
左の「評伝 山川健次郎 士君子の肖像」は山川健次郎顕彰会から年末に送られてきたばかりの新刊で、読み応え充分です。
右の「鶴ヶ城開城の使者 鈴木為輔伝」は開城の使者として弾丸の雨あられの中を潜り抜け使命を全うした鈴木為輔についての本。残念ながら大河ドラマでは登場しませんでしたが、開城の際に白旗を掲げたのも実はこの人なのです。
私は今年、このブログ上で「八重の桜には取り上げられなかったけど、もっと広く知ってほしい人たち」という記事をいくつか書きたいと思っていて、鈴木為輔はそのひとりです。
そしてもうすぐ1月7日は柳津七日堂裸まいり。
私は今年行けるかどうかはまだわかりませんが、昨年初めて目にして大興奮しました。
昨年の模様は→こちらをクリック
とても興味深い奇祭です。よかったらみなさんもぜひ。
今年もいい年にしたいですね。
しましょう!
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
私は年末はアニマルシェルターへボランティアとして行ってましたが、正月は久々に会津でのんびり過ごしております。
年越しから初詣の模様を少しご紹介します。

綾瀬さんの心に沁みる「花は咲く」で涙したあと、紅白の最後の方は観ずに喜多方・願成寺へ。
ここは2007年だったかな、NHKゆく年くる年のオープニングを飾った名刹です。



厳かな空気の中、除夜の鐘の音がひとつまたひとつと響いていました。
ちょうど新年を迎えたあたりで、長床へ。



長床のある新宮熊野神社では、毎年大みそかの23時~元旦2時くらいまで絵ろうそく祭りが行われています。
私は久々来ました。






2014年初詣はココで。


想いを込めて鐘を突かせてもらいました。

そして長床をあとにし、会津若松へ。

鶴ヶ城に元旦登閣。




元旦に登閣すると、「めしべら」をもらえます。

五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の願いを込めてお祓いした縁起物の「めしべら」です。

そして午前3時過ぎに家に戻り、しばらく寝たのち。。。
ウチの集落の神社へ。


スノーシュー、またはかんじき無しでは行けません(苦笑)。


楚々木・大山神神社。

カモシカの足跡がそこここにあります。

で、最後に。。。
今年の正月は雪かきと読書と書庫の整理と決めていたので、今読んでいる二冊。
左の「評伝 山川健次郎 士君子の肖像」は山川健次郎顕彰会から年末に送られてきたばかりの新刊で、読み応え充分です。
右の「鶴ヶ城開城の使者 鈴木為輔伝」は開城の使者として弾丸の雨あられの中を潜り抜け使命を全うした鈴木為輔についての本。残念ながら大河ドラマでは登場しませんでしたが、開城の際に白旗を掲げたのも実はこの人なのです。
私は今年、このブログ上で「八重の桜には取り上げられなかったけど、もっと広く知ってほしい人たち」という記事をいくつか書きたいと思っていて、鈴木為輔はそのひとりです。
そしてもうすぐ1月7日は柳津七日堂裸まいり。
私は今年行けるかどうかはまだわかりませんが、昨年初めて目にして大興奮しました。
昨年の模様は→こちらをクリック
とても興味深い奇祭です。よかったらみなさんもぜひ。
今年もいい年にしたいですね。
しましょう!