雑穀おむすびの結その2 (2日目) 田植え 梅干しづくり - 2014.06.26 Thu
翌6月22日、雑穀おむすびの結その2の二日目。
いよいよ田植えです。

4月の第1回で蒔いた種は、こんな感じに。
覆砂が少なかったのか、水が足りなかったせいか、予定より芽が出るのが少なかったので、苗を追加することになりました。

それでも元気な苗は結構育っていました。まさに選ばれた強い苗?

準備体操して田植え作業開始。

昨日の雑穀苗植えと同様、紐を張ってそれを目印に植えていきます。

蒔いた種から育った苗を土ごと剥ぎ取ります。


















田植え作業終了。
7畝ほどの大きさとのことですが、イセヒカリの苗のみでコシヒカリに手を付けずに植えきりました。
ぬかるみから足を抜くのに苦労したり、コケちゃった人もいたり、やはり慣れていないと畑よりかなり疲れている方が多かった模様で、ほんと皆さんお疲れ様でした。


お昼は恒例の飯豊 龍胆(りんどう)そば



あいかわらずおいしいおそばに舌鼓。

で、午後からは今回の最後のプログラム、梅干しづくり。

まずはかびないよう、洗った後の水分を拭き取ります。

使用する梅は、戦国時代にあの北条氏が奨励して以来、小田原の特産品となっている伝統の梅。
化学農薬や化学肥料を使用しない有機栽培のこだわりの梅です。

一個一個ヘタを竹串で取り除きます。
これが意外と楽しくてハマる作業です(笑)。


雑穀王子・浅野氏は塩にもこだわります。
この「海の精」は、海水から作ったミネラルの結晶塩で、ナトリウムはもちろん、その他の体にとって必要なカルシウムや、マグネシウム、カリウムその他のミネラルを程よく含んでいるので、美味しく、甘味やまろやかさを感じられる塩です。

休憩時の梅茶、これがまたおいし(笑)。

なるべく塩がまんべんなくいきわたるように、3層にして漬けます。


会津は湿気があり、カビ易いので失敗しない塩分20%の昔ながらの漬け方。


河原からとってきた自然石でしっかり重し。2~3日すると水分(白梅酢)があがってきます。
この後、カビチェック、赤シソで本漬け、土用の天気のいい頃に天日干し、という作業を経て、梅干しができあがります。
今回の参加者には1㎏の梅干しが手渡されます。
楽しみですね。
次回は来月7月20-21日。
いい雑穀やお米を収穫するには避けては通れない重要な「草取り」作業。
他に、沢歩き、巨木巡りにご案内いたします。
よろしくお願いします。
いよいよ田植えです。

4月の第1回で蒔いた種は、こんな感じに。
覆砂が少なかったのか、水が足りなかったせいか、予定より芽が出るのが少なかったので、苗を追加することになりました。

それでも元気な苗は結構育っていました。まさに選ばれた強い苗?

準備体操して田植え作業開始。

昨日の雑穀苗植えと同様、紐を張ってそれを目印に植えていきます。

蒔いた種から育った苗を土ごと剥ぎ取ります。


















田植え作業終了。
7畝ほどの大きさとのことですが、イセヒカリの苗のみでコシヒカリに手を付けずに植えきりました。
ぬかるみから足を抜くのに苦労したり、コケちゃった人もいたり、やはり慣れていないと畑よりかなり疲れている方が多かった模様で、ほんと皆さんお疲れ様でした。


お昼は恒例の飯豊 龍胆(りんどう)そば



あいかわらずおいしいおそばに舌鼓。

で、午後からは今回の最後のプログラム、梅干しづくり。

まずはかびないよう、洗った後の水分を拭き取ります。

使用する梅は、戦国時代にあの北条氏が奨励して以来、小田原の特産品となっている伝統の梅。
化学農薬や化学肥料を使用しない有機栽培のこだわりの梅です。

一個一個ヘタを竹串で取り除きます。
これが意外と楽しくてハマる作業です(笑)。


雑穀王子・浅野氏は塩にもこだわります。
この「海の精」は、海水から作ったミネラルの結晶塩で、ナトリウムはもちろん、その他の体にとって必要なカルシウムや、マグネシウム、カリウムその他のミネラルを程よく含んでいるので、美味しく、甘味やまろやかさを感じられる塩です。

休憩時の梅茶、これがまたおいし(笑)。

なるべく塩がまんべんなくいきわたるように、3層にして漬けます。


会津は湿気があり、カビ易いので失敗しない塩分20%の昔ながらの漬け方。


河原からとってきた自然石でしっかり重し。2~3日すると水分(白梅酢)があがってきます。
この後、カビチェック、赤シソで本漬け、土用の天気のいい頃に天日干し、という作業を経て、梅干しができあがります。
今回の参加者には1㎏の梅干しが手渡されます。
楽しみですね。
次回は来月7月20-21日。
いい雑穀やお米を収穫するには避けては通れない重要な「草取り」作業。
他に、沢歩き、巨木巡りにご案内いたします。
よろしくお願いします。
雑穀おむすびの結その2 (初日) 雑穀の苗植え サンドラムのライブ - 2014.06.25 Wed
6月21-22日の二日間に渡り、雑穀おむすびの結シリーズ第2回を行い、雑穀の苗植えとお米の田植えをみんなでやりました。
まずは6月21日、初日の模様をご報告。


種まきしておいた雑穀の苗を畑へ植えます。


これはモチキビ。

こちらのちょっと赤いのがタカキビ。

すでに直蒔きしてあった小豆は芽が出ていました。

こちらも直蒔きの大豆。

アマランサス。

苗植え作業の前に恒例の準備体操。

苗は苗箱ごとどっぷりしばらく水に漬けてから植えます。こうすることによって、植えた後に水をまくよりも根に水分がいきわたります。

端から端へ紐を張って、それを目印に一列に並んで植えます。
















雑穀苗植え作業終了。

いいでのゆで汗を流した後、夕食タイム。
もう雑穀王子の18番といっていい定番の玄米粉甘酒カレー。

これが「タカキビバーガー」。

タカキビハンバーグに、浅見さんの無農薬有機レタス、パンは青木さんの天然酵母パン。
野菜やパンは、この記事のひとつ前の、「百姓市」で手に入ります~。


左の汁物は、ダイコン、ワカメに3年前に仕込んだ自家製無添加みそを溶いた味噌汁。


デザートもしっかりあります!
シコクビエ粉とフルーツジュースのキャラメルブティング。
雑穀甘酒クリームがのってます。

夕食後は、旧山都第三小学校の体育館にて、サンドラムのライブ。
一ノ木集落の方々に多く来ていただけました。
踊りだすオバアチャンもいらっしゃったり(笑)。
感謝です。









予定時刻を過ぎてもヒートアップして、最後はみんなで踊ってる感じでした。
サンドラム最高!(笑)

で、その後、黒森山荘で懇親会。

15名くらいはいたかと思いますが、それぞれの話が盛り上がりすぎて、自己紹介が一巡するのになんと3時間半もかかりました(苦笑)。
サンドラムのメンバーはもちろん、参加者それぞれみなさん個性的で魅力たっぷりで、ほんと時間をすっかり忘れる楽しいひとときでした。
というわけで、二日目の田植えに続きます~。
まずは6月21日、初日の模様をご報告。


種まきしておいた雑穀の苗を畑へ植えます。


これはモチキビ。

こちらのちょっと赤いのがタカキビ。

すでに直蒔きしてあった小豆は芽が出ていました。

こちらも直蒔きの大豆。

アマランサス。

苗植え作業の前に恒例の準備体操。

苗は苗箱ごとどっぷりしばらく水に漬けてから植えます。こうすることによって、植えた後に水をまくよりも根に水分がいきわたります。

端から端へ紐を張って、それを目印に一列に並んで植えます。
















雑穀苗植え作業終了。

いいでのゆで汗を流した後、夕食タイム。
もう雑穀王子の18番といっていい定番の玄米粉甘酒カレー。

これが「タカキビバーガー」。

タカキビハンバーグに、浅見さんの無農薬有機レタス、パンは青木さんの天然酵母パン。
野菜やパンは、この記事のひとつ前の、「百姓市」で手に入ります~。


左の汁物は、ダイコン、ワカメに3年前に仕込んだ自家製無添加みそを溶いた味噌汁。


デザートもしっかりあります!
シコクビエ粉とフルーツジュースのキャラメルブティング。
雑穀甘酒クリームがのってます。

夕食後は、旧山都第三小学校の体育館にて、サンドラムのライブ。
一ノ木集落の方々に多く来ていただけました。
踊りだすオバアチャンもいらっしゃったり(笑)。
感謝です。









予定時刻を過ぎてもヒートアップして、最後はみんなで踊ってる感じでした。
サンドラム最高!(笑)

で、その後、黒森山荘で懇親会。

15名くらいはいたかと思いますが、それぞれの話が盛り上がりすぎて、自己紹介が一巡するのになんと3時間半もかかりました(苦笑)。
サンドラムのメンバーはもちろん、参加者それぞれみなさん個性的で魅力たっぷりで、ほんと時間をすっかり忘れる楽しいひとときでした。
というわけで、二日目の田植えに続きます~。
山都・百姓市 いよいよ来週オープンです! - 2014.06.23 Mon
7月20-21日 雑穀おむすびの結その3 草取り&沢歩き - 2014.06.23 Mon

昨日、雑穀おむすびの結その2 田植え、無事終了しました。報告はしばしお待ちください。
続いて来月のその3 草取り&沢歩きのご案内です。
今回も素晴らしいチラシを描いていただけました!
坂下町在住の小林さんという方なのですが、私のつたないイメージ説明や参考写真だけで、イメージどおり、いやそれ以上の絵を描いてくださるイラストレーターです。(お仕事依頼したい方いらしたらお取次ぎいたします)
イベントの集合は7月20日8時喜多方駅、初日に巨木の森を流れる沢歩きにご案内します。(沢を歩く服装や足回りについて、要説明)
あとはめいいっぱい田んぼや雑穀畑の草取りでいい汗を(笑)。
山都百姓市や喜多方ラーメン、夜はまだ未確定ですが、バーベキュー懇親会やりたいな、などと計画してます。
その1その2に参加されてない方でももちろん大歓迎。
ふるってご参加ください。
7月5-6日 旧越後街道探索ウォークその2(野沢~津川編) 参加者募集 - 2014.06.20 Fri
発表が遅くなって申し訳ありません。
5月に若松~野沢編を行った旧越後街道探索ウォーク、その第2回を来月7月の5日~6日に行います。
今回はいよいよ鳥井峠を越えて、新潟県へ入ります。
初日の野沢~鳥井までは、にしあいづ観光交流会グリーン・ツーリズム部会さん、そして2日目の鳥井~津川までは阿賀町観光ガイドさんの心強い協力を得て、前回よりさらにパワーアップして行います。
見どころ満載の越後路。
かつての街道筋の賑わいに想いを馳せながら、いにしえの道をスペシャルなガイド付きで歩いてみませんか?
※今回は、特に車峠の前後など、前回以上にヤブに埋もれた旧道を突破する箇所・距離が長くなります。1日の歩行距離は16㎞以上。登山慣れした経験・体力のある方に参加を限らせていただきます。
※新潟県側ではヤマビルが生息しているところを通ります。

印刷用PDFは→こちらをクリック
5月に若松~野沢編を行った旧越後街道探索ウォーク、その第2回を来月7月の5日~6日に行います。
今回はいよいよ鳥井峠を越えて、新潟県へ入ります。
初日の野沢~鳥井までは、にしあいづ観光交流会グリーン・ツーリズム部会さん、そして2日目の鳥井~津川までは阿賀町観光ガイドさんの心強い協力を得て、前回よりさらにパワーアップして行います。
見どころ満載の越後路。
かつての街道筋の賑わいに想いを馳せながら、いにしえの道をスペシャルなガイド付きで歩いてみませんか?
※今回は、特に車峠の前後など、前回以上にヤブに埋もれた旧道を突破する箇所・距離が長くなります。1日の歩行距離は16㎞以上。登山慣れした経験・体力のある方に参加を限らせていただきます。
※新潟県側ではヤマビルが生息しているところを通ります。

印刷用PDFは→こちらをクリック
会津人。 - 2014.06.17 Tue
7月5-6日開催の越後街道ウォークその2ですが、正式発表が遅れてて申し訳ありません。
今回はスケールアップして、にしあいづ観光交流協会グリーン・ツーリズム部会さん、阿賀町観光ガイドさんとの共催として行うので、しっかり確認作業を完了してからでないと安易にアナウンスするわけにはいかないので。。。。
おそらく木曜日か金曜日には発表できるかと思います。
よろしくお願いいたします。
ルートの選定は先週全行程を歩き、ほぼ完了しました。
実はこういったイベントを企画する側としての醍醐味は、打ち合わせ、そしてルート下見で直接現地の人々と接することにあります。
この越後街道シリーズも様々な方々との出会いがあり、とてもうれしく思っています。
そのおひとり、次回2日目の途中で寄る予定の新潟県阿賀町の集落で、御年96歳の方とお会いできたときのこと。
「どこから来たんだ?」と聞かれ、「会津・山都町からです。越後街道を歩いて新発田に行くイベントをやるんです」と私が答えると、その「会津から」に激しく反応し、とても喜んでいろいろ話してくださいました。
その方曰く
「ここはもともと会津領。今は新潟県となっているが、自分は今でも会津人だ」、と。
そういえば先日もこのもっと先、新発田の手前の集落で同じようなことがあり、新潟の東部の方々はほんとうに会津の人にやさしいなあ、と実感したところでした。
そして今でも自分のアイデンティティというか、よりどころとしての「会津」というものを大切に大切にしているんだな、と。
その方からいただいた名刺↓ 「旧会津領」の文字が光ってます(笑)。

もちろん会津に限らず、私は自分がどこからやってきたのかをしっかり意識し、それに対して誇りを持っている人が大好きです。
そういった方々の「想い」をつむいでいく旅、それが今回の「旧越後街道探索ウォーク」シリーズなのかもしれないな、と思った次第でした。
今回はスケールアップして、にしあいづ観光交流協会グリーン・ツーリズム部会さん、阿賀町観光ガイドさんとの共催として行うので、しっかり確認作業を完了してからでないと安易にアナウンスするわけにはいかないので。。。。
おそらく木曜日か金曜日には発表できるかと思います。
よろしくお願いいたします。
ルートの選定は先週全行程を歩き、ほぼ完了しました。
実はこういったイベントを企画する側としての醍醐味は、打ち合わせ、そしてルート下見で直接現地の人々と接することにあります。
この越後街道シリーズも様々な方々との出会いがあり、とてもうれしく思っています。
そのおひとり、次回2日目の途中で寄る予定の新潟県阿賀町の集落で、御年96歳の方とお会いできたときのこと。
「どこから来たんだ?」と聞かれ、「会津・山都町からです。越後街道を歩いて新発田に行くイベントをやるんです」と私が答えると、その「会津から」に激しく反応し、とても喜んでいろいろ話してくださいました。
その方曰く
「ここはもともと会津領。今は新潟県となっているが、自分は今でも会津人だ」、と。
そういえば先日もこのもっと先、新発田の手前の集落で同じようなことがあり、新潟の東部の方々はほんとうに会津の人にやさしいなあ、と実感したところでした。
そして今でも自分のアイデンティティというか、よりどころとしての「会津」というものを大切に大切にしているんだな、と。
その方からいただいた名刺↓ 「旧会津領」の文字が光ってます(笑)。

もちろん会津に限らず、私は自分がどこからやってきたのかをしっかり意識し、それに対して誇りを持っている人が大好きです。
そういった方々の「想い」をつむいでいく旅、それが今回の「旧越後街道探索ウォーク」シリーズなのかもしれないな、と思った次第でした。
飯豊山信仰「道者みち」ウォーク 無事終了しました - 2014.06.11 Wed
さる6月8日に、「飯豊山信仰「道者みち」ウォーク」を行いました。
天気予報では雨模様だったのですが、なんとイベント終了時まで天気は持ちこたえてくれ、飯豊の神様に守っていただけたのかな、とありがたく感じました。
昨年は「山都の峠ウォーク(雙座松峠編)」というイベント名で開催したのですが、今年は少しルートを変更し、雙座松峠からは昨年の川吉集落でなく、一郷集落のほうへ降りるコースにしました。
この道はまさにかつての飯豊山信仰登山の「道者みち」。
「道者」とはもともと仏教や道教の修行者を指す言葉だったのですが、そのうち霊山、霊地を訪れる人すべてを指すようになったそうで、その道者が通る道を「道者みち」といいます。

今回、そのいにしえの「道者みち」を歩くイベントということで、スタッフと参加者の一部で当時の白装束を着てみました。

山都は山間にあり、昔はどこに出るにもほぼ必ず峠を越えていました。
雙座松峠の道は、奥川(西会津町)・相川・一の木(以上喜多方市山都町)など山三郷と呼ばれた地域の人々にとっては重要な交易路、生活道路でした。
「そうざまつとうげ」は空海が植えたと伝える二本の松の木があったことから「双座松峠」とも、飯豊山の一の鳥居や色々な神社があったので「総社松峠」ともいいます。
山三郷の人々は、漆器の原料を加工した木地や薬草を運び、小荒井で米や塩などの日用品を買って帰りました。雙座松峠には三軒の茶屋があり、競争で客を呼び合ったそうです。
江戸時代から明治時代には飯豊山信仰が盛んで、村ごとに行屋があり、男子15歳までに先達に導かれて入山し、これが済めば村では一人前として扱われたそうです。村の若者たちは、先達に率いられて白い衣を身にまとって笠をかぶって飯豊山に向かい、その間、家族の人たちは水ごりをとって神仏に無事を祈ったそうです。
喜多方地方から飯豊山に登るには新町(喜多方市慶徳町)から馬坂と呼ばれる坂道を上り、古四王山→双座松峠を越えて小布瀬川→藤沢(以上喜多方市山都町)と行き、登り口の一ノ戸(一ノ木)と向かうのが普通でした。新町の古老の話によると、夏になるとこの峠への道は飯豊山への参詣者で賑わい、まるで白い行列が通るようであったとのことです。

往時の面影を少し残している新町(喜多方市慶徳町)の街並。


古四王神社の鳥居に到着。

ちなみに私の持っている古写真ハガキの同じ場所はこんな感じ。

ここから本堂までは15分ほど急な参道を登ります。

我ながら、いいショットです(笑)。

ワラジ初体験ですが、信じられないくらい軽いし、履き心地は最高です。あとは耐久性がどうか。。。





かつてはここでお清めをしてから本堂へお参りしたと思われる場所。新しい石のお宮ができてました。

古四王神社(こしおうじんじゃ)。
弘治3年(1557年)八月在銘の棟札があったことから、現在の社殿は、戦国期に建てられたものと思われます。
祭神は言い伝えによると、大ひこの命(大彦命=大畏古命)と武ぬなかわわけの命(武渟川別命=武沼河別命)だということです。
第十代崇神天皇は、四道に四人の将軍を派遣されました。その時、そのうちの二人、大ひこの命と武ぬなかわわけの命という父子二人の将軍が、この地に向かわれました。大ひこの命は高志道(こしのみち)(これは今の北陸道=北陸地方)を平げて越後の国から会津の国に向かわれました。又武ぬなかわわけの命は、東海道を平げて、これまた白川地方から会津の国に向かわれました。そして、この地でたまたま父子二人の将軍がめぐりあわれました。
このエピソードは会津の地名の由来、「相津」につながってます。
父子二人の将軍は再会を喜ばれて、ここから共に京にひき返されました。そこでこの父子の将軍が、征夷の祭神としてまつられるようになったということです。
社殿が北をむいているのは蝦夷の方をにらんでいる意味からだそうです。
御神体は四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)ですが、秘仏で拝観することは出来ません。像はなんと聖徳太子の御作と伝えられています。
社殿はもと小原の東北にあったが、水害のため山上に移築したという伝承があります。



本堂前にあるコウヤマキの巨木。



古四王神社本堂からさらに登り、最初の寄り道、琴平山展望台へ。

展望台からは喜多方市街地やこの日は少し雲がかかってましたが、雄国、磐梯山が一望できます。



そして二つ目の寄り道、不動滝へ。
峠道の途中を南に400mほどそれたところに清めの滝・不動滝・行者ケ滝、弁天滝・大蛇ゲ滝・雨降り滝の6滝があり、各滝には不動明王の像があります。
今から100年以上前、大正時代にお不動さまが荒川吉馬さんなる人の夢枕に立ち、かの地の不動明王、村をあげて大事にせよ、とのお告げがあり、荒川さんが翌朝峠を越えて行ったところ、六つの滝に囲まれた石像があり、それ以来村の人は四代にわたって守り続けて来たのだそうです。
不動明王は「水」の神様であるといわれ、霊地の滝の水をくみ帰り、眼病などを癒すという方がいまでもおり、又、背に火炎を負うことからも「火」の神様でもあるのですが、その心は広く、願い事の多くをかなえてくれるとのことです。

その中のひとつ、「大蛇ヶ滝」。

滝つぼには不動明王の石像があります。




大蛇ケ滝のすぐ上の空間が「奥の院」と呼ばれているところで、なんらかの祭事が行われていたのではないかと思われます。


この峠道は倒木が多く、イベント3日前に道普請に赴き、チェーンソーで何か所も切り開きました。

そして、ここが「雙座松峠」。
わかりづらいかもしれませんが、広場になっており、かつてはここに3軒の茶屋があったとか。
雙座松峠についての話は結構残っており、「喜多方の民話と伝説」や「会津・山都の民話」のものをここに転載すると以下のとおりです↓。
「双座松の茶屋
相川から喜多方へ出るのに、小布瀬川という、山都の奥を通る。
その相川寄りの峠に双座松というのがあった。
そこで爺さま戸婆さまが茶屋をやっていて、いい人が通ると、ばっさりやって金をとったという。
昭和十八年に戦死した弟が、若松連隊をたつというので見送りに行った時、夜そこを通るのが気持ち悪くしばらく足踏みをしていた。」
「惣社松(双座松)
飯豊山登山道の一ノ鳥居があったといわれる惣社松(双座松)の峠に一軒の茶屋があって、登山道を記した版画や、甘酒を売っているおじいさんとおばあさんがおった。
その人達の若い頃は、そこに大きな松の木があり、それがその峠の名前となったといわれている。
が、その松は明治の末頃に枯れてしまい、そのあとにヒノキがすくすくと育って茶店をおおい道者達をよろこばせてくれていた。鉄道が敷かれて参道が変ると、急に人通りが少なくなり、一ノ戸方面などから喜多方へ馬で荷をはこぶ人とか、小布瀬川の人達が日用品などを求めに色々な荷を背負って通る位となってしまったが、それでも双座松は、その人達にとって大切な休み場所だった。
昭和になって、ある大雪の年、誰も峠を越えられないまま何日か過ぎて、小布瀬川の人達が喜多方への道を開けようと、そろってガンジキで踏んで行くと、雪にとざされた峠の茶店で二人はヒッソリと冷たくなっていたということでした。
そのあと、茶店はなくなっても、双座松は荷駄を運ぶ人にとっては、茶店があった時と同じに必ず一服する場所となり、双座松の休み場としてあとあとまで親しまれた所。」


今年は峠から北西、一郷集落へ進みました。




ドウダンツツジ。


クマのウンチはそこここに(苦笑)。


本日のゴール、相川・早鳥居のおんば様への最後の登り。

おんば様、ゴール。
ここは民話「会津の三御婆様」の舞台です。
その昔、飯豊山が女人禁制の山だった頃、中通りから3人の姉妹が飯豊山に登りに向かってきましたが、まず一番下の妹が猪苗代の関都で倒れ、二番目の妹がここ早鳥居峠で倒れ、最後まで頑張った一番上のお姉さんも飯豊山頂上手前で力尽き、女人禁制の禁を破ったため三姉妹とも石仏になってしまったというお話です。
ここのおんば様は、飯豊山信仰登山の登拝路にあり、ここから先は女人禁制、侵入するべからず、という結界の意味もあったそうです。
また、おんば様信仰の内容はいろいろありますが、一番ポピュラーなのは「お産の神様」で、ここ山都でも安産祈願の信仰が篤いです。
医療が今ほど発達していなかった昔は、お産で命を落とす人も多く、神に頼るしかなかった当時の信仰が色濃く残っていて興味深いですね。
昔、お産を控えた人は、このおんば様にお参りして、その着物か帽子を借りて持ち帰り、それを身に着けてお産を迎えたそうです。
そして無事お産を終えると「倍返し」といって、借りてきた物を倍にして返したとか。

ちなみに私の履いたワラジは終わってみるとこの通り。
ちょっとわかりずらいかもしれませんが、半分はすり減ってなくなっちゃってました。
まあ、他の人はこれほど減ってなかったので、体重が大きく影響していたと思われますが(苦笑)、街道歩きをワラジでやるとしたら相当予備のワラジを持たなくてはならないですね。
この際ワラジづくりからイベント化して、自分でつくったワラジで歩く、というイベントもいいかな、なんて今思っています。

そして最後は山都G.T.少人数イベント恒例の懇親会。
いいで荘でおいしい山都そばを食べながら、親睦を深めました。

天気予報では雨模様だったのですが、なんとイベント終了時まで天気は持ちこたえてくれ、飯豊の神様に守っていただけたのかな、とありがたく感じました。
昨年は「山都の峠ウォーク(雙座松峠編)」というイベント名で開催したのですが、今年は少しルートを変更し、雙座松峠からは昨年の川吉集落でなく、一郷集落のほうへ降りるコースにしました。
この道はまさにかつての飯豊山信仰登山の「道者みち」。
「道者」とはもともと仏教や道教の修行者を指す言葉だったのですが、そのうち霊山、霊地を訪れる人すべてを指すようになったそうで、その道者が通る道を「道者みち」といいます。

今回、そのいにしえの「道者みち」を歩くイベントということで、スタッフと参加者の一部で当時の白装束を着てみました。

山都は山間にあり、昔はどこに出るにもほぼ必ず峠を越えていました。
雙座松峠の道は、奥川(西会津町)・相川・一の木(以上喜多方市山都町)など山三郷と呼ばれた地域の人々にとっては重要な交易路、生活道路でした。
「そうざまつとうげ」は空海が植えたと伝える二本の松の木があったことから「双座松峠」とも、飯豊山の一の鳥居や色々な神社があったので「総社松峠」ともいいます。
山三郷の人々は、漆器の原料を加工した木地や薬草を運び、小荒井で米や塩などの日用品を買って帰りました。雙座松峠には三軒の茶屋があり、競争で客を呼び合ったそうです。
江戸時代から明治時代には飯豊山信仰が盛んで、村ごとに行屋があり、男子15歳までに先達に導かれて入山し、これが済めば村では一人前として扱われたそうです。村の若者たちは、先達に率いられて白い衣を身にまとって笠をかぶって飯豊山に向かい、その間、家族の人たちは水ごりをとって神仏に無事を祈ったそうです。
喜多方地方から飯豊山に登るには新町(喜多方市慶徳町)から馬坂と呼ばれる坂道を上り、古四王山→双座松峠を越えて小布瀬川→藤沢(以上喜多方市山都町)と行き、登り口の一ノ戸(一ノ木)と向かうのが普通でした。新町の古老の話によると、夏になるとこの峠への道は飯豊山への参詣者で賑わい、まるで白い行列が通るようであったとのことです。

往時の面影を少し残している新町(喜多方市慶徳町)の街並。


古四王神社の鳥居に到着。

ちなみに私の持っている古写真ハガキの同じ場所はこんな感じ。

ここから本堂までは15分ほど急な参道を登ります。

我ながら、いいショットです(笑)。

ワラジ初体験ですが、信じられないくらい軽いし、履き心地は最高です。あとは耐久性がどうか。。。





かつてはここでお清めをしてから本堂へお参りしたと思われる場所。新しい石のお宮ができてました。

古四王神社(こしおうじんじゃ)。
弘治3年(1557年)八月在銘の棟札があったことから、現在の社殿は、戦国期に建てられたものと思われます。
祭神は言い伝えによると、大ひこの命(大彦命=大畏古命)と武ぬなかわわけの命(武渟川別命=武沼河別命)だということです。
第十代崇神天皇は、四道に四人の将軍を派遣されました。その時、そのうちの二人、大ひこの命と武ぬなかわわけの命という父子二人の将軍が、この地に向かわれました。大ひこの命は高志道(こしのみち)(これは今の北陸道=北陸地方)を平げて越後の国から会津の国に向かわれました。又武ぬなかわわけの命は、東海道を平げて、これまた白川地方から会津の国に向かわれました。そして、この地でたまたま父子二人の将軍がめぐりあわれました。
このエピソードは会津の地名の由来、「相津」につながってます。
父子二人の将軍は再会を喜ばれて、ここから共に京にひき返されました。そこでこの父子の将軍が、征夷の祭神としてまつられるようになったということです。
社殿が北をむいているのは蝦夷の方をにらんでいる意味からだそうです。
御神体は四天王(東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天)ですが、秘仏で拝観することは出来ません。像はなんと聖徳太子の御作と伝えられています。
社殿はもと小原の東北にあったが、水害のため山上に移築したという伝承があります。



本堂前にあるコウヤマキの巨木。



古四王神社本堂からさらに登り、最初の寄り道、琴平山展望台へ。

展望台からは喜多方市街地やこの日は少し雲がかかってましたが、雄国、磐梯山が一望できます。



そして二つ目の寄り道、不動滝へ。
峠道の途中を南に400mほどそれたところに清めの滝・不動滝・行者ケ滝、弁天滝・大蛇ゲ滝・雨降り滝の6滝があり、各滝には不動明王の像があります。
今から100年以上前、大正時代にお不動さまが荒川吉馬さんなる人の夢枕に立ち、かの地の不動明王、村をあげて大事にせよ、とのお告げがあり、荒川さんが翌朝峠を越えて行ったところ、六つの滝に囲まれた石像があり、それ以来村の人は四代にわたって守り続けて来たのだそうです。
不動明王は「水」の神様であるといわれ、霊地の滝の水をくみ帰り、眼病などを癒すという方がいまでもおり、又、背に火炎を負うことからも「火」の神様でもあるのですが、その心は広く、願い事の多くをかなえてくれるとのことです。

その中のひとつ、「大蛇ヶ滝」。

滝つぼには不動明王の石像があります。




大蛇ケ滝のすぐ上の空間が「奥の院」と呼ばれているところで、なんらかの祭事が行われていたのではないかと思われます。


この峠道は倒木が多く、イベント3日前に道普請に赴き、チェーンソーで何か所も切り開きました。

そして、ここが「雙座松峠」。
わかりづらいかもしれませんが、広場になっており、かつてはここに3軒の茶屋があったとか。
雙座松峠についての話は結構残っており、「喜多方の民話と伝説」や「会津・山都の民話」のものをここに転載すると以下のとおりです↓。
「双座松の茶屋
相川から喜多方へ出るのに、小布瀬川という、山都の奥を通る。
その相川寄りの峠に双座松というのがあった。
そこで爺さま戸婆さまが茶屋をやっていて、いい人が通ると、ばっさりやって金をとったという。
昭和十八年に戦死した弟が、若松連隊をたつというので見送りに行った時、夜そこを通るのが気持ち悪くしばらく足踏みをしていた。」
「惣社松(双座松)
飯豊山登山道の一ノ鳥居があったといわれる惣社松(双座松)の峠に一軒の茶屋があって、登山道を記した版画や、甘酒を売っているおじいさんとおばあさんがおった。
その人達の若い頃は、そこに大きな松の木があり、それがその峠の名前となったといわれている。
が、その松は明治の末頃に枯れてしまい、そのあとにヒノキがすくすくと育って茶店をおおい道者達をよろこばせてくれていた。鉄道が敷かれて参道が変ると、急に人通りが少なくなり、一ノ戸方面などから喜多方へ馬で荷をはこぶ人とか、小布瀬川の人達が日用品などを求めに色々な荷を背負って通る位となってしまったが、それでも双座松は、その人達にとって大切な休み場所だった。
昭和になって、ある大雪の年、誰も峠を越えられないまま何日か過ぎて、小布瀬川の人達が喜多方への道を開けようと、そろってガンジキで踏んで行くと、雪にとざされた峠の茶店で二人はヒッソリと冷たくなっていたということでした。
そのあと、茶店はなくなっても、双座松は荷駄を運ぶ人にとっては、茶店があった時と同じに必ず一服する場所となり、双座松の休み場としてあとあとまで親しまれた所。」


今年は峠から北西、一郷集落へ進みました。




ドウダンツツジ。


クマのウンチはそこここに(苦笑)。


本日のゴール、相川・早鳥居のおんば様への最後の登り。

おんば様、ゴール。
ここは民話「会津の三御婆様」の舞台です。
その昔、飯豊山が女人禁制の山だった頃、中通りから3人の姉妹が飯豊山に登りに向かってきましたが、まず一番下の妹が猪苗代の関都で倒れ、二番目の妹がここ早鳥居峠で倒れ、最後まで頑張った一番上のお姉さんも飯豊山頂上手前で力尽き、女人禁制の禁を破ったため三姉妹とも石仏になってしまったというお話です。
ここのおんば様は、飯豊山信仰登山の登拝路にあり、ここから先は女人禁制、侵入するべからず、という結界の意味もあったそうです。
また、おんば様信仰の内容はいろいろありますが、一番ポピュラーなのは「お産の神様」で、ここ山都でも安産祈願の信仰が篤いです。
医療が今ほど発達していなかった昔は、お産で命を落とす人も多く、神に頼るしかなかった当時の信仰が色濃く残っていて興味深いですね。
昔、お産を控えた人は、このおんば様にお参りして、その着物か帽子を借りて持ち帰り、それを身に着けてお産を迎えたそうです。
そして無事お産を終えると「倍返し」といって、借りてきた物を倍にして返したとか。

ちなみに私の履いたワラジは終わってみるとこの通り。
ちょっとわかりずらいかもしれませんが、半分はすり減ってなくなっちゃってました。
まあ、他の人はこれほど減ってなかったので、体重が大きく影響していたと思われますが(苦笑)、街道歩きをワラジでやるとしたら相当予備のワラジを持たなくてはならないですね。
この際ワラジづくりからイベント化して、自分でつくったワラジで歩く、というイベントもいいかな、なんて今思っています。

そして最後は山都G.T.少人数イベント恒例の懇親会。
いいで荘でおいしい山都そばを食べながら、親睦を深めました。

旧越後街道探索ウォークその1(若松~野沢編) 2日目気多宮から野沢まで - 2014.06.05 Thu
旧越後街道探索ウォーク、続きです。
二日目は前日のゴールだった塔寺駅からスタート、西会津町の野沢駅まで約16.5㎞の行程です。



気多宮からすぐに鐘撞堂峠まで軽い登りが続きます。

峠の頂上をやや下ったこの写真のてっぺん、東の山中に欽明天皇元年(540)、梁の青岩が開いたという高寺山の鐘撞堂があったと言われる場所があり、それらしい遺構も確認されています。

その鐘撞堂跡を右手にみるあたりで、道路左に下っていくのが旧越後街道です。
イザべラ・バードの「日本奥地紀行」の第13信には以下の記述があります。
「…この不健康な沼沢地(坂下)を通り越し、そこからは山また山の旅である。道路はひどいもので、辷(すべ)りやすく、私の馬は数回も辷って倒れた。手荷物を載せた馬には伊藤が乗っていたが、まっ逆さまに転んで、彼のいろいろな荷物は散乱してしまう有様であった。」
おそらくこのあたりの坂がそのエピソードの場所と思われます。

今は横に県道が走っているので人が通ることがなく、ヤブとなっていますが、道形ははっきりしているし、なんとか通れるので、今回はイザべラの通った頃を偲びながら旧道を突破してみました。









坂ノ下地蔵堂。
もとは、今より50mほど東の山都町への県道との三叉路の角にありました。
ご本尊は「坂の下の地蔵様」と呼ばれ、団子をお供えしてお参りすると、子供の夜泣きが治ると伝わり、また、旅の女が急に産気づき、この地蔵様の場所に来て出産したそうですが、安産でしかも子供が丈夫に育ったので、「子安地蔵」とも呼ばれているそうです。
ちなみにこの近くで生まれたあの斉藤清画伯の版画にもこの地蔵堂は描かれています。

舟渡の一里壇。
現在の越後街道では会津若松からここまで一里壇(塚)は残っておらず、ここで初めて登場します。この先は新発田までかなりの確率で一里塚が現存します。

その一里壇の先に「旧越後街道」の柱が建っていて、わずかな距離ですが旧道が現存します。
多少倒木で歩きずらいですが、ここは正真正銘の殿様道ですので、もちろん突破(笑)。





舟渡の集落に入り、チェックポイントは「バンモチ石」。
かつて舟渡集落の若者たちがこの石をかついで力くらべをしたとか。
石には「目方三十一貫メ」と刻まれています。三十一貫=約117㎏。
肩までクリヤーした人はおらず、胸まで持ち上げた人が落とした時に割れてしまい、その大きい方が今も残っているとのこと。

現代の力自慢、参加者のひとりがチャレンジしてくれました(笑)。

欠けていて117㎏は無いにしても、かなりの重量、そして持ちにくさ。。そんな中、見事リフトアップに成功!すごい怪力です(笑)。

続いて殿様の腰掛け石。
昔、参勤交代のために新発田の殿様がこの地を通った際、この石の上で休息したと伝わります。
近年、道路拡張の際、業者が拡張の邪魔になるこの石を川に捨てると、この地の人が工事監督を叱りつけ、元通りにするように言ったとのこと。
実際はもう少し川より手前の屋号「加登屋」の前にあったそうですが、運ぶのが大変だったせいか、ずっと川寄りの今の位置に置いて済ませちゃったとか。

そしてお約束の。。(笑) 殿様になった気持ちを堪能してくださったでしょうか。

舟渡集落を進むと只見川に突き当たり、対岸には片門(かたかど)集落が見えます。舟渡はその名のとおり舟渡し場から、片門は川の流れに沿って道の南側だけ家が並んでいたことからそういう名になったと言われています。
新編会津風土記には、執権・北条時頼がこの渡しを越えたとき、その船頭が素早く渡したので、時頼から「早川」の姓をたまわった、とあります。早川家は今も片門に代々続いています。
延徳三年(1491)の「片門の渡しの定め」が現存し、中世の頃から重要な渡し場だったことが考えられ、永正三年(1506)には芦名盛高から渡し守次郎兵衛に安堵状が与えられたとのことです。


そんな片門の渡しには、天保年間(1830~44)の絵図には吊り橋がかけられてるのがみてとれ、江戸時代末期の絵図には舟を並べその上に橋板を渡したいわゆる「舟橋」がかけられています。(上の写真は大正時代の片門の舟橋の写真)
イザべラ・バードもここを通ったときに立派な舟橋に驚いています。
「…私たちは大きな川にかけてある橋を渡ったが、こんなひどい道路にこんな立派な橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船からなる橋で、どの船も編んだ藤蔓の大きな綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が12フィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている。」(イザベラ・バード 日本奥地紀行)



束松事件現場。
戊辰戦争で敗れた会津には、その後西軍によって民生局が置かれ、その若松民生局の監察方頭取であった久保村文四郎は会津藩士の恨みを買っていました。
明治2年、民生局は廃止、若松県になると、久保文四郎は任おわって郷里の越前に帰ることになり、その帰路の途中、この地で2人の男に襲われ、斬られました。二人は会津藩士の伴百悦、高津仲三郎でした。伴はやがて新津藩士に追い詰められ大安寺村で割腹し、高津は思案橋事件※に連座して惨殺されました。
※思案橋事件・・・旧会津藩士の永岡久茂や竹村俊秀、高津仲三郎、井口慎次郎等が、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、に呼応して挙兵、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光を経て会津を扼し若松に大挙しようと計画。
明治9年10月29日に東堀留川が日本橋川に注ぎ落ちる口、小網町1丁目から2丁目に通じる小さな橋「思案橋」のたもとにて、14名の一向が、不審に思った船の船頭の通報によって駆けつけた警官4名と斬り合いになり、2人の警官(寺本警部補・河合巡査)が死亡、1人警官重傷(木村巡査)の犠牲を出し、 挙兵としては未遂として終わり、一向は数名を除いて捕縛され、関係者も国事犯として手配され捕縛され、首謀者とされた永岡久茂は獄中負傷が元で死亡、竹村・高津・井口は翌10年2月7日処刑されたという事件。

束松事件現場からすぐ先の登りにも短いながら旧道が残ってます。
もちろん突破。



束松峠入り口にある天屋の集落には往時の面影を感じさせる建物、空気があります。

ここから峠越え、車は入れません。



六地蔵(地蔵の茶屋跡)。
天屋から峠への登りが始まるこの六地蔵の場所には明治初めまで地蔵の茶屋がありました。
「陸奥の満つ田の里の束松 千代の齢を家つとにせん」
昔、ここを通った北条時頼は束松を愛でてこう詠んだといわれます。
その束松は、平安時代末期、八幡太郎義家公が、前九年の役の際にここを通ったときに、戦勝を祈願して数本の松を束ねて植えたものが根付いて今のようになった、という伝説があります。

この束松のひとつ三本松は、福島県緑の文化財に指定されている巨木だったのですが、今は枯れて主幹が切られた状態です。
ちなみに昨年はこんな状態でした↓


石畳跡。
束松峠の通行が盛んだった明治初年までは、石畳道が何kmも続いていましたが、炭焼き釜に使われたり、馬車の通行の邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまったそうです。




天屋の一里塚。
寛文7年(1667年)頃つくられた一里塚です。会津では一里壇とも呼ばれます。この一里塚は両側に一対が残っていて、会津領の越後街道では唯一のものです。
会津藩の役人は肝煎どもを集めて命じました。「一里ごとに壇をつくれ。一里壇へ木を植えよ」と。肝煎どもはあまりに緊張して聞いたものだから「一里壇榎を植えよ」と聞き間違え、そのため一里塚には榎が植えられているそうです。


束松洞門。
今は崩落して通行はできません。
明治15年、福島県令となった三島通庸は会津三方道路を開きます。これは馬車が通行できることが条件でしたので、越後街道は束松峠の険を避けて藤峠経由(今の国道49号)となってしまいました。
夢よもう一度、付近の住民は独力で250mほどのトンネルを掘り道路を付け替え、車馬の通行を可能にしました。それがこの束松洞門です。
しかし洞門の貫通が明治20年、新道開通がその5年後くらいでしたが、時は鉄道の時代になっており、夢ははかなく終わってしまいました。




峠の茶屋跡。
昭和30年代まで2軒の茶屋がありました。江戸時代には越後街道の「間の宿」で、旅人の休息・一泊の宿泊は許されていました。
十返舎一九の「奥州道中金草蛙」にあるように、峠の名物は焼き鳥とあんこもちでした。
「甘口で 行かぬ世渡りなればとて ここの汁粉の塩の辛さよ」
イザべラ・バードもおそらくはこの束松峠での景色と思われる詳細な記述を残しています。ちょっと長いのですが、とても抒情的で素晴らしい場面なので、その部分をすべて以下に転載します。
「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、二つの峰を持つ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている峡谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。これらの峰は、岩石を露出させているものもあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色に覆われている低い山々の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私の考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった。」
(イザベラ・バード 日本奥地紀行)

また、この束松峠は、会津藩の外交交渉の公用方だった幕末の会津藩士、秋月悌次郎が戊辰戦争後、かつて親交のあった長州藩士の奥平謙輔に会うため越後にひそかに向かい、藩主松平容保公の罪の軽減と、会津藩の青少年(その一人があの山川健次郎)の教育を懇願した帰り、藩の行く末を思う詩「北越潜行の詩」を詠んだ場所と言われています。
大河ドラマ「八重の桜」でその存在を知られたこともあり、秋月の功績を伝えようと、昨年、顕彰会や愛好家が束松峠に詩碑を建立しました。
北越潜行の詩 秋月悌次郎
行くに輿なく帰るに家なし
国破れて孤城雀鴉乱る
治功を奏せず戦いに略なし
微臣罪ありまた何をか嗟かん
聞くならく天皇元より聖明
我が公の貫日至誠より発す
恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
幾度か手に額をして京城を望む
之を思い之を思えば夕晨に達す
愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
風は淅瀝として雲は惨憺たり
何れの地に君を置き又親を置かん



軽沢集落。

冑神社。
天喜五年(1057年)、源義家が前九年の役の途、ここで休んで冑を石の上に置いたところ、石に変じたという伝説の神社です。
このあたりの地名は「冑石」といいます。実際に石材を採掘していた時代もありました。
冑石観音岩だけは村民の厚い信仰により守られ、今も昔のまま残っています。
橋には門がかかっていますが、横から人間だけは行けるようになってます。

縄沢 馬頭観音。
今回の越後街道シリーズでは、一里塚の次に街道史跡として重視してチェックの馬頭観音。
近世以降は馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなり、これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていきました。
そんなわけで特に街道沿いには馬頭観音が多く見られます。

野沢一里塚跡。
諏方神社の道路をはさんだ向かい側、杉木立の中に一里塚はあります。旧街道は現在水路となっている部分とその南、草むらとなっているところを通っていたようです。北側にもう一対一里塚があったそうですが、それは道路拡張の際削平でされてしまったとのことです。

諏方神社。
永仁二年(1294年)に芦名宗盛が信州より諏訪大明神を勧請した時、その神輿が宿営した縁で、野沢地頭の荒井信濃守頼任が嘉元元年(1303年)に同社を祀ったとあります。
本来「諏訪」とするところを「諏方」にしているのは、信州諏訪本社に遠慮してのことだと伝えられてます。

あまり知られていませんが、元和5年(1619年)にここ諏方神社で「鉄火の裁き」が行われました。
鉄火の裁き
松尾村と縄沢村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました。
すなわち、両村から代表者が出て、鉄火をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。
この勝負は負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄沢村の代表になる決意をした二郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門。
元和5年(1619年)8月21日。双方礼服を着用して手に熊野牛王の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。
果たして二郎右衛門は3度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました。
松尾村では村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです。

六地蔵(俗称 化け地蔵)。
遍照寺の境内にあるこの地蔵は6角に削り面ごとに地蔵1体を彫ってあります。
新編会津風土記によると、夜毎怪しい形になり人々をたぶらかしていたが、一丈夫に斬りつけられ疵を受け、それからはその変化がなくなったといい、今も竿石の中ほどにその太刀傷が見えるといいます。

栄川(さかえがわ)酒造
西会津を代表する酒蔵です。
栄川酒造の初代は、大阪夏の陣の後に野澤へ移り住んだ三成の直系、大阪落人の石田興一左衛門重友という人だそうで、三代市十郎友治のときに会津松平家に遠慮して、石田の姓を石川に改め、会津藩より酒箒(さけぼうき:酒造免許の意)を得て、以降現在十五代続いているとのこと。
その子孫には、福沢諭吉の慶応義塾で学び、女性の洋髪化など、黎明期日本の教育と文化に大きな足跡を残し、なによりあのアダムスミスの「国富論」の翻訳者で知られる石川暎作がいます。

みなさん、試飲し、ご主人と談笑後、美味しいお酒をいっぱい買われていました。


野沢駅にゴールし、第1回の若松~野沢編終了。
次回第二回は7月5日6日、野沢~津川編です。来週には発表しますが、にしあいづ観光交流協会 グリーン・ツーリズム部会さんと連携して行うことがほぼ決定しています。
さらに第三回は津川~新発田編は阿賀町さん、新潟地域振興局さんとの連携の話もすすんでいて、私がこの越後街道ウォークを企画させていただいた理由のひとつ、「街道」を通じての市町村の垣根を越えた交流が実現しそうでとてもうれしく思います。
また、今回参加してくださった方が、今回のイベントの内容をしっかり記事にしてくださいました。
本人の許可を得て全文掲載させていただき、第1回の報告を終えたいと思います。
<旅人というライフスタイル(旧越後街道ウォーク)>
越後街道は会津五街道のひとつであり、会津の若松と越後の新発田を結んでいる。江戸時代には、会津の米と越後の海産物による交易、また、越後側の新発田藩や村上藩からの参勤交代の旅路にも用いられた。私が参加した5月24、25日(平成26年)の「旧越後街道ウォーク」では、できる限り忠実に江戸時代の旧道に沿うよう旅路がとられた。
15人を数えた参加者の参加動機は
「ロマンを求めて」
「旧街道好き」
「山好き」
「イザベラバードを追って」
「越後生まれだから」
「人生の出会いを求めて」
など、多様だった。参加者は、県内から9名、県外から6名、合計15名だった。遠くは愛知、石川からの参加もあり、県外参加者の地域内訳は、宮城県3名、石川県1名、愛知県1名、東京都1名であった。
出発地は会津若松の鶴ヶ城。会津藩家老の庭園跡では、戊辰戦争直後の会津の話を聞くことができた。甲賀口門跡では、背丈の2倍を超える巨大な石垣を前に、戊辰会津戦争での市街地攻防の様子を聞くことができた。江戸時代の初期から続く竹藤民芸店では、古くからそして今でも地域で使われ続けている竹製品の数々を鑑賞した。なお、私は今度、竹柄杓(たけひしゃく)を買いに行く予定だ。
会津五街道の起点、大町札辻を過ぎると、道々には、幕末から明治にかけて多くの要人が利用したという清水屋旅館跡地を始めとして、幕末戦没者の墓標、新撰組斉藤一の墓、平安時代より続く寺院、米沢街道との分岐点湯殿山道標には江戸時代からの石標、などが続く。道を歩きつつ、道中に残る一里塚や街道道標に出会っては、かつて人々がここを通ったことを確信させられる。
歩き始めてまだ時間は短いながらも、徒歩によるかつての旅人と同じく、史跡巡りながら過去に想いを馳せたり、神社仏閣での見聞きしながら文化に触れたり、民芸品を見てはその土地での生活を想像するなど、数多くの魅力に出会うことができている。個人的には、かつては湿地帯だった会津盆地西部を田園地帯に変えたという栗村堰を眺めつつ、広域排水設計や大規模土木工事を想像しながらニヤニヤしたのだが、それについてはここでは語らないことにする。
山歩きに慣れた人、歴史に詳しい人、地域の諸事を語ってくれる地元の人、食好き、酒好き、多様な参加者によって、多様に楽しむことができた。
ひとつひとつ挙げては切りが無いので一部を紹介するならば、容姿端麗・頭脳明晰・武芸錬達にして幕末には女子隊を率いて薩長軍と戦い白虎隊全員の憧れの標だったとも言われる中野竹子の殉節の地、外周 8 m を越える千年ケヤキ、松下村塾開塾の際には会津日新館を参考にしたと言われる吉田松陰の会津遊歴の碑、今や日本に名だたる名酒飛露喜を醸する広木酒造本店、などなど。
他にも多くの見聞を得ることができたのだが、ここにはほんの一部しか挙げきれないことが残念である。それにしても、これほどの史跡を調べに調べ上げた担当リーダーには頭が下がる。配布資料の巻末に記された参考文献には、会津風土記、各市町村史、などなどがずらりと並んでいた。
宿泊地は蕎麦で有名な山都町であった。山都町は、越後街道沿いではない。越後街道から外れた越後裏街道沿いである。しかし、江戸時代の当時も、余裕のある旅人は隣の山都へ片道2里(約8km)ほど寄り道し、名物の蕎麦などを楽しんだことだろう。私達は、1日目終着点のJR只見線塔寺駅からバスで移動した。
宿泊地の山都でも街道の魅力はあった。まず、名物の蕎麦は昔から美味であっただろうと想像しながら食したのはもちろんである。さらには、昔であれば、偶然居合わせた宿泊客との出会いが楽しまれたことだろう。今回は、これをも同様に楽しむことができた。参加者どうしで、街道を歩く理由から始まって、街道を歩く後姿が素敵、福島に住みたい、定年退職した後の余生暴走、キリマンジャロでの出会い、虚無僧のコスプレでフルマラソン走破、田畑もよいが山も良い、自分で食べるものは自分で、イザベラバードの三著書による日本・韓国・中国比較、旅のためなら訓告懲戒も辞さず、などなど盛り上がった。街道を楽しむ、旅を楽しむ人たちのスタイルの多様さに触れることができた。
2日目の朝には前日終着点JR只見線塔寺駅へ戻り、「日本奥地紀行」などで有名な1800年代の世界冒険家イザベラ・バードが通った険しい旧道、道路拡張工事の際に除去されながらも地元の老婆の激しい一喝によって一両日かけて元の位置に戻されたと言われる只見川渡船待ちのための殿様専用の大きな腰掛け石、峠の茶屋跡、遠くにそびえる飯豊山、石田三成の後裔による造り酒屋「榮川酒造」(酒銘は、石田三成、のほか、ちどりあし、はしござけ、からくち行財政改革、などユーモアあふれる)、などに寄りながら終着点の野沢へたどり着いた。
テーマは「街道」。それに関わるのは、史跡、名勝、民俗、風習、食、人、など。旅人というライフスタイルについて、ほんの少しですが理解が深まった気がします。次回は7月、会津野沢から越後津川。
最後に、主催の山都地区グリーンツーリズム推進協議会と、旧越後街道ウォーク担当の堀口様に深い感謝の意を示させていただきます。
ライフスタイル総合研究所 武樋孝幸
二日目は前日のゴールだった塔寺駅からスタート、西会津町の野沢駅まで約16.5㎞の行程です。



気多宮からすぐに鐘撞堂峠まで軽い登りが続きます。

峠の頂上をやや下ったこの写真のてっぺん、東の山中に欽明天皇元年(540)、梁の青岩が開いたという高寺山の鐘撞堂があったと言われる場所があり、それらしい遺構も確認されています。

その鐘撞堂跡を右手にみるあたりで、道路左に下っていくのが旧越後街道です。
イザべラ・バードの「日本奥地紀行」の第13信には以下の記述があります。
「…この不健康な沼沢地(坂下)を通り越し、そこからは山また山の旅である。道路はひどいもので、辷(すべ)りやすく、私の馬は数回も辷って倒れた。手荷物を載せた馬には伊藤が乗っていたが、まっ逆さまに転んで、彼のいろいろな荷物は散乱してしまう有様であった。」
おそらくこのあたりの坂がそのエピソードの場所と思われます。

今は横に県道が走っているので人が通ることがなく、ヤブとなっていますが、道形ははっきりしているし、なんとか通れるので、今回はイザべラの通った頃を偲びながら旧道を突破してみました。









坂ノ下地蔵堂。
もとは、今より50mほど東の山都町への県道との三叉路の角にありました。
ご本尊は「坂の下の地蔵様」と呼ばれ、団子をお供えしてお参りすると、子供の夜泣きが治ると伝わり、また、旅の女が急に産気づき、この地蔵様の場所に来て出産したそうですが、安産でしかも子供が丈夫に育ったので、「子安地蔵」とも呼ばれているそうです。
ちなみにこの近くで生まれたあの斉藤清画伯の版画にもこの地蔵堂は描かれています。

舟渡の一里壇。
現在の越後街道では会津若松からここまで一里壇(塚)は残っておらず、ここで初めて登場します。この先は新発田までかなりの確率で一里塚が現存します。

その一里壇の先に「旧越後街道」の柱が建っていて、わずかな距離ですが旧道が現存します。
多少倒木で歩きずらいですが、ここは正真正銘の殿様道ですので、もちろん突破(笑)。





舟渡の集落に入り、チェックポイントは「バンモチ石」。
かつて舟渡集落の若者たちがこの石をかついで力くらべをしたとか。
石には「目方三十一貫メ」と刻まれています。三十一貫=約117㎏。
肩までクリヤーした人はおらず、胸まで持ち上げた人が落とした時に割れてしまい、その大きい方が今も残っているとのこと。

現代の力自慢、参加者のひとりがチャレンジしてくれました(笑)。

欠けていて117㎏は無いにしても、かなりの重量、そして持ちにくさ。。そんな中、見事リフトアップに成功!すごい怪力です(笑)。

続いて殿様の腰掛け石。
昔、参勤交代のために新発田の殿様がこの地を通った際、この石の上で休息したと伝わります。
近年、道路拡張の際、業者が拡張の邪魔になるこの石を川に捨てると、この地の人が工事監督を叱りつけ、元通りにするように言ったとのこと。
実際はもう少し川より手前の屋号「加登屋」の前にあったそうですが、運ぶのが大変だったせいか、ずっと川寄りの今の位置に置いて済ませちゃったとか。

そしてお約束の。。(笑) 殿様になった気持ちを堪能してくださったでしょうか。

舟渡集落を進むと只見川に突き当たり、対岸には片門(かたかど)集落が見えます。舟渡はその名のとおり舟渡し場から、片門は川の流れに沿って道の南側だけ家が並んでいたことからそういう名になったと言われています。
新編会津風土記には、執権・北条時頼がこの渡しを越えたとき、その船頭が素早く渡したので、時頼から「早川」の姓をたまわった、とあります。早川家は今も片門に代々続いています。
延徳三年(1491)の「片門の渡しの定め」が現存し、中世の頃から重要な渡し場だったことが考えられ、永正三年(1506)には芦名盛高から渡し守次郎兵衛に安堵状が与えられたとのことです。


そんな片門の渡しには、天保年間(1830~44)の絵図には吊り橋がかけられてるのがみてとれ、江戸時代末期の絵図には舟を並べその上に橋板を渡したいわゆる「舟橋」がかけられています。(上の写真は大正時代の片門の舟橋の写真)
イザべラ・バードもここを通ったときに立派な舟橋に驚いています。
「…私たちは大きな川にかけてある橋を渡ったが、こんなひどい道路にこんな立派な橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船からなる橋で、どの船も編んだ藤蔓の大きな綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が12フィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている。」(イザベラ・バード 日本奥地紀行)



束松事件現場。
戊辰戦争で敗れた会津には、その後西軍によって民生局が置かれ、その若松民生局の監察方頭取であった久保村文四郎は会津藩士の恨みを買っていました。
明治2年、民生局は廃止、若松県になると、久保文四郎は任おわって郷里の越前に帰ることになり、その帰路の途中、この地で2人の男に襲われ、斬られました。二人は会津藩士の伴百悦、高津仲三郎でした。伴はやがて新津藩士に追い詰められ大安寺村で割腹し、高津は思案橋事件※に連座して惨殺されました。
※思案橋事件・・・旧会津藩士の永岡久茂や竹村俊秀、高津仲三郎、井口慎次郎等が、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、に呼応して挙兵、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光を経て会津を扼し若松に大挙しようと計画。
明治9年10月29日に東堀留川が日本橋川に注ぎ落ちる口、小網町1丁目から2丁目に通じる小さな橋「思案橋」のたもとにて、14名の一向が、不審に思った船の船頭の通報によって駆けつけた警官4名と斬り合いになり、2人の警官(寺本警部補・河合巡査)が死亡、1人警官重傷(木村巡査)の犠牲を出し、 挙兵としては未遂として終わり、一向は数名を除いて捕縛され、関係者も国事犯として手配され捕縛され、首謀者とされた永岡久茂は獄中負傷が元で死亡、竹村・高津・井口は翌10年2月7日処刑されたという事件。

束松事件現場からすぐ先の登りにも短いながら旧道が残ってます。
もちろん突破。



束松峠入り口にある天屋の集落には往時の面影を感じさせる建物、空気があります。

ここから峠越え、車は入れません。



六地蔵(地蔵の茶屋跡)。
天屋から峠への登りが始まるこの六地蔵の場所には明治初めまで地蔵の茶屋がありました。
「陸奥の満つ田の里の束松 千代の齢を家つとにせん」
昔、ここを通った北条時頼は束松を愛でてこう詠んだといわれます。
その束松は、平安時代末期、八幡太郎義家公が、前九年の役の際にここを通ったときに、戦勝を祈願して数本の松を束ねて植えたものが根付いて今のようになった、という伝説があります。

この束松のひとつ三本松は、福島県緑の文化財に指定されている巨木だったのですが、今は枯れて主幹が切られた状態です。
ちなみに昨年はこんな状態でした↓


石畳跡。
束松峠の通行が盛んだった明治初年までは、石畳道が何kmも続いていましたが、炭焼き釜に使われたり、馬車の通行の邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまったそうです。




天屋の一里塚。
寛文7年(1667年)頃つくられた一里塚です。会津では一里壇とも呼ばれます。この一里塚は両側に一対が残っていて、会津領の越後街道では唯一のものです。
会津藩の役人は肝煎どもを集めて命じました。「一里ごとに壇をつくれ。一里壇へ木を植えよ」と。肝煎どもはあまりに緊張して聞いたものだから「一里壇榎を植えよ」と聞き間違え、そのため一里塚には榎が植えられているそうです。


束松洞門。
今は崩落して通行はできません。
明治15年、福島県令となった三島通庸は会津三方道路を開きます。これは馬車が通行できることが条件でしたので、越後街道は束松峠の険を避けて藤峠経由(今の国道49号)となってしまいました。
夢よもう一度、付近の住民は独力で250mほどのトンネルを掘り道路を付け替え、車馬の通行を可能にしました。それがこの束松洞門です。
しかし洞門の貫通が明治20年、新道開通がその5年後くらいでしたが、時は鉄道の時代になっており、夢ははかなく終わってしまいました。




峠の茶屋跡。
昭和30年代まで2軒の茶屋がありました。江戸時代には越後街道の「間の宿」で、旅人の休息・一泊の宿泊は許されていました。
十返舎一九の「奥州道中金草蛙」にあるように、峠の名物は焼き鳥とあんこもちでした。
「甘口で 行かぬ世渡りなればとて ここの汁粉の塩の辛さよ」
イザべラ・バードもおそらくはこの束松峠での景色と思われる詳細な記述を残しています。ちょっと長いのですが、とても抒情的で素晴らしい場面なので、その部分をすべて以下に転載します。
「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、二つの峰を持つ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている峡谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。これらの峰は、岩石を露出させているものもあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色に覆われている低い山々の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私の考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった。」
(イザベラ・バード 日本奥地紀行)

また、この束松峠は、会津藩の外交交渉の公用方だった幕末の会津藩士、秋月悌次郎が戊辰戦争後、かつて親交のあった長州藩士の奥平謙輔に会うため越後にひそかに向かい、藩主松平容保公の罪の軽減と、会津藩の青少年(その一人があの山川健次郎)の教育を懇願した帰り、藩の行く末を思う詩「北越潜行の詩」を詠んだ場所と言われています。
大河ドラマ「八重の桜」でその存在を知られたこともあり、秋月の功績を伝えようと、昨年、顕彰会や愛好家が束松峠に詩碑を建立しました。
北越潜行の詩 秋月悌次郎
行くに輿なく帰るに家なし
国破れて孤城雀鴉乱る
治功を奏せず戦いに略なし
微臣罪ありまた何をか嗟かん
聞くならく天皇元より聖明
我が公の貫日至誠より発す
恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
幾度か手に額をして京城を望む
之を思い之を思えば夕晨に達す
愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
風は淅瀝として雲は惨憺たり
何れの地に君を置き又親を置かん



軽沢集落。

冑神社。
天喜五年(1057年)、源義家が前九年の役の途、ここで休んで冑を石の上に置いたところ、石に変じたという伝説の神社です。
このあたりの地名は「冑石」といいます。実際に石材を採掘していた時代もありました。
冑石観音岩だけは村民の厚い信仰により守られ、今も昔のまま残っています。
橋には門がかかっていますが、横から人間だけは行けるようになってます。

縄沢 馬頭観音。
今回の越後街道シリーズでは、一里塚の次に街道史跡として重視してチェックの馬頭観音。
近世以降は馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなり、これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていきました。
そんなわけで特に街道沿いには馬頭観音が多く見られます。

野沢一里塚跡。
諏方神社の道路をはさんだ向かい側、杉木立の中に一里塚はあります。旧街道は現在水路となっている部分とその南、草むらとなっているところを通っていたようです。北側にもう一対一里塚があったそうですが、それは道路拡張の際削平でされてしまったとのことです。

諏方神社。
永仁二年(1294年)に芦名宗盛が信州より諏訪大明神を勧請した時、その神輿が宿営した縁で、野沢地頭の荒井信濃守頼任が嘉元元年(1303年)に同社を祀ったとあります。
本来「諏訪」とするところを「諏方」にしているのは、信州諏訪本社に遠慮してのことだと伝えられてます。

あまり知られていませんが、元和5年(1619年)にここ諏方神社で「鉄火の裁き」が行われました。
鉄火の裁き
松尾村と縄沢村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました。
すなわち、両村から代表者が出て、鉄火をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。
この勝負は負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄沢村の代表になる決意をした二郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門。
元和5年(1619年)8月21日。双方礼服を着用して手に熊野牛王の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。
果たして二郎右衛門は3度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました。
松尾村では村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです。

六地蔵(俗称 化け地蔵)。
遍照寺の境内にあるこの地蔵は6角に削り面ごとに地蔵1体を彫ってあります。
新編会津風土記によると、夜毎怪しい形になり人々をたぶらかしていたが、一丈夫に斬りつけられ疵を受け、それからはその変化がなくなったといい、今も竿石の中ほどにその太刀傷が見えるといいます。

栄川(さかえがわ)酒造
西会津を代表する酒蔵です。
栄川酒造の初代は、大阪夏の陣の後に野澤へ移り住んだ三成の直系、大阪落人の石田興一左衛門重友という人だそうで、三代市十郎友治のときに会津松平家に遠慮して、石田の姓を石川に改め、会津藩より酒箒(さけぼうき:酒造免許の意)を得て、以降現在十五代続いているとのこと。
その子孫には、福沢諭吉の慶応義塾で学び、女性の洋髪化など、黎明期日本の教育と文化に大きな足跡を残し、なによりあのアダムスミスの「国富論」の翻訳者で知られる石川暎作がいます。

みなさん、試飲し、ご主人と談笑後、美味しいお酒をいっぱい買われていました。


野沢駅にゴールし、第1回の若松~野沢編終了。
次回第二回は7月5日6日、野沢~津川編です。来週には発表しますが、にしあいづ観光交流協会 グリーン・ツーリズム部会さんと連携して行うことがほぼ決定しています。
さらに第三回は津川~新発田編は阿賀町さん、新潟地域振興局さんとの連携の話もすすんでいて、私がこの越後街道ウォークを企画させていただいた理由のひとつ、「街道」を通じての市町村の垣根を越えた交流が実現しそうでとてもうれしく思います。
また、今回参加してくださった方が、今回のイベントの内容をしっかり記事にしてくださいました。
本人の許可を得て全文掲載させていただき、第1回の報告を終えたいと思います。
<旅人というライフスタイル(旧越後街道ウォーク)>
越後街道は会津五街道のひとつであり、会津の若松と越後の新発田を結んでいる。江戸時代には、会津の米と越後の海産物による交易、また、越後側の新発田藩や村上藩からの参勤交代の旅路にも用いられた。私が参加した5月24、25日(平成26年)の「旧越後街道ウォーク」では、できる限り忠実に江戸時代の旧道に沿うよう旅路がとられた。
15人を数えた参加者の参加動機は
「ロマンを求めて」
「旧街道好き」
「山好き」
「イザベラバードを追って」
「越後生まれだから」
「人生の出会いを求めて」
など、多様だった。参加者は、県内から9名、県外から6名、合計15名だった。遠くは愛知、石川からの参加もあり、県外参加者の地域内訳は、宮城県3名、石川県1名、愛知県1名、東京都1名であった。
出発地は会津若松の鶴ヶ城。会津藩家老の庭園跡では、戊辰戦争直後の会津の話を聞くことができた。甲賀口門跡では、背丈の2倍を超える巨大な石垣を前に、戊辰会津戦争での市街地攻防の様子を聞くことができた。江戸時代の初期から続く竹藤民芸店では、古くからそして今でも地域で使われ続けている竹製品の数々を鑑賞した。なお、私は今度、竹柄杓(たけひしゃく)を買いに行く予定だ。
会津五街道の起点、大町札辻を過ぎると、道々には、幕末から明治にかけて多くの要人が利用したという清水屋旅館跡地を始めとして、幕末戦没者の墓標、新撰組斉藤一の墓、平安時代より続く寺院、米沢街道との分岐点湯殿山道標には江戸時代からの石標、などが続く。道を歩きつつ、道中に残る一里塚や街道道標に出会っては、かつて人々がここを通ったことを確信させられる。
歩き始めてまだ時間は短いながらも、徒歩によるかつての旅人と同じく、史跡巡りながら過去に想いを馳せたり、神社仏閣での見聞きしながら文化に触れたり、民芸品を見てはその土地での生活を想像するなど、数多くの魅力に出会うことができている。個人的には、かつては湿地帯だった会津盆地西部を田園地帯に変えたという栗村堰を眺めつつ、広域排水設計や大規模土木工事を想像しながらニヤニヤしたのだが、それについてはここでは語らないことにする。
山歩きに慣れた人、歴史に詳しい人、地域の諸事を語ってくれる地元の人、食好き、酒好き、多様な参加者によって、多様に楽しむことができた。
ひとつひとつ挙げては切りが無いので一部を紹介するならば、容姿端麗・頭脳明晰・武芸錬達にして幕末には女子隊を率いて薩長軍と戦い白虎隊全員の憧れの標だったとも言われる中野竹子の殉節の地、外周 8 m を越える千年ケヤキ、松下村塾開塾の際には会津日新館を参考にしたと言われる吉田松陰の会津遊歴の碑、今や日本に名だたる名酒飛露喜を醸する広木酒造本店、などなど。
他にも多くの見聞を得ることができたのだが、ここにはほんの一部しか挙げきれないことが残念である。それにしても、これほどの史跡を調べに調べ上げた担当リーダーには頭が下がる。配布資料の巻末に記された参考文献には、会津風土記、各市町村史、などなどがずらりと並んでいた。
宿泊地は蕎麦で有名な山都町であった。山都町は、越後街道沿いではない。越後街道から外れた越後裏街道沿いである。しかし、江戸時代の当時も、余裕のある旅人は隣の山都へ片道2里(約8km)ほど寄り道し、名物の蕎麦などを楽しんだことだろう。私達は、1日目終着点のJR只見線塔寺駅からバスで移動した。
宿泊地の山都でも街道の魅力はあった。まず、名物の蕎麦は昔から美味であっただろうと想像しながら食したのはもちろんである。さらには、昔であれば、偶然居合わせた宿泊客との出会いが楽しまれたことだろう。今回は、これをも同様に楽しむことができた。参加者どうしで、街道を歩く理由から始まって、街道を歩く後姿が素敵、福島に住みたい、定年退職した後の余生暴走、キリマンジャロでの出会い、虚無僧のコスプレでフルマラソン走破、田畑もよいが山も良い、自分で食べるものは自分で、イザベラバードの三著書による日本・韓国・中国比較、旅のためなら訓告懲戒も辞さず、などなど盛り上がった。街道を楽しむ、旅を楽しむ人たちのスタイルの多様さに触れることができた。
2日目の朝には前日終着点JR只見線塔寺駅へ戻り、「日本奥地紀行」などで有名な1800年代の世界冒険家イザベラ・バードが通った険しい旧道、道路拡張工事の際に除去されながらも地元の老婆の激しい一喝によって一両日かけて元の位置に戻されたと言われる只見川渡船待ちのための殿様専用の大きな腰掛け石、峠の茶屋跡、遠くにそびえる飯豊山、石田三成の後裔による造り酒屋「榮川酒造」(酒銘は、石田三成、のほか、ちどりあし、はしござけ、からくち行財政改革、などユーモアあふれる)、などに寄りながら終着点の野沢へたどり着いた。
テーマは「街道」。それに関わるのは、史跡、名勝、民俗、風習、食、人、など。旅人というライフスタイルについて、ほんの少しですが理解が深まった気がします。次回は7月、会津野沢から越後津川。
最後に、主催の山都地区グリーンツーリズム推進協議会と、旧越後街道ウォーク担当の堀口様に深い感謝の意を示させていただきます。
ライフスタイル総合研究所 武樋孝幸
旧越後街道探索ウォークその1(若松~野沢編) 1日目鶴ヶ城から気多宮まで - 2014.06.04 Wed
報告が遅くなって申し訳ありません。
さる5月24日25日の二日間に渡り、今年度3回シリーズの第一回目、「旧越後街道探索ウォークその1若松~野沢編」を行いました。
会津若松・鶴ヶ城をスタート、全3回、6日にわけて新潟県の新発田城までの約100㎞を歩くイベントのスタートです。
初日は会津若松~気多宮までの約21㎞。

スタートは、会津の名城、鶴ヶ城。
至徳元年(1384)に芦名直盛によって築かれた黒川城がはじまりで、その後伊達政宗、蒲生氏郷と入城し、蒲生の時に「鶴ヶ城」という名になりました。
その後も上杉景勝、加藤嘉明の居城となり、それぞれの時代に改修が続けられ、難攻不落の名城とうたわれました。
戊辰の役で新政府軍の猛攻にさらされても最後まで城は落ちませんでした。
明治7年に石垣だけ残して取り壊され、現在の天守が復元されたのは昭和40年9月のことです。来年は再建50周年。何かイベントが企画されているようです。乞うご期待。

地元の方はのみならず、遠くは愛知県、東京都、宮城県などから街道歩きフリークの方々が参加してくださいました。


鶴ヶ城の石垣には、魔除けの意味といわれる大きな石が使われている箇所があります。
これは「遊女石」と呼ばれているもので、メチャクチャ重くて運ぶのが大変だったことから、美しい遊女を石の上に乗せて男たちのヤル気を向上させて運んだと『新編会津風土記』に記述があります。

昨年の大河「八重の桜」をご覧になった方はご記憶に新しいかと思いますが、ここがあの山本八重が銃を撃ちまくった北出丸。
一説には大山巌のふとももを撃ち抜いたのは八重だという話も。
この時、北出丸にいたのは精度の低い火縄銃などを装備した老人兵ばかりで、唯一最新の銃を持っていた八重が撃った可能性もかなりあると思います。

運命の1868年9月22日、午前10時。
降参の旗は3か所に掲げられたそうですが、その1か所がこの石橋のたもとだと言われています。
「当日、御玄関先に降参と認めたる一旗の白旗あるを見、非憤に堪えず…悦之進一目之を見ると、ああ残念と泣きくづれてあった。実際遺憾なりし云々。」 平石弁蔵「会津戊辰戦争」


裁判所の敷地内になぜか上品な庭園があります。
実はここ、旧会津藩家老内藤介右衛門の屋敷があった場所で、建物は一切なくなってしまったものの、庭園だけは当時の面影を今に伝えてくれています。

旧内藤邸の庭園、「白露邸」。


西郷頼母邸跡。
家老、西郷頼母の屋敷があった場所です。
1868年8月23日。西軍が城下へ侵入し、それを告げる早鐘が鳴らされると、会津藩士やその家族は籠城戦にそなえるため城へ急ぎました。
しかし西郷邸では、留守を預かる頼母の妻・千恵子は長男だけ城に行かせ、自分らは籠城戦に参加しても足手まといになる、しかし城外で敵の辱めを受けるわけにはいかない、と、ここで娘達と自刃しました。
なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節の ありとこそ聞け 西郷千恵子 辞世の句


会津戦争終結の地。
1868年9月22日、10時に降参の白旗が掲げられ、正午には降伏式が行われました。その場所がこの交差点のあたりだったそうです。
その際、敷かれた緋毛氈を会津藩士たちは小さく切って分け、この無念を忘れないようにとそれぞれ懐に入れて持ち帰りました。後にそれは「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれ、今でも会津の人々の心に深く刻み込まれています。


甲賀口門跡 石垣。
蒲生氏郷は城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い濠と土塁、16の郭門によって仕切られました。
この甲賀口門はその外郭十六門のうちのひとつで、外郭の石垣としては唯一現存するものです。
戊辰の役では、この場所で激しい戦いが繰り広げられ、昨年の大河ドラマでもやっていましたが、ここを突破され、郭内へ西軍の侵入を許してしまった責任をとって、指揮にあたった田中土佐と神保内蔵助は自刃しました。

竹藤(たけとう)民芸店。
寛永元年(1624)に竹問屋として創業したという老舗。この建物も築170年を越える貴重なものです。


建物も竹細工も興味深いですが、ここの白眉はなんといっても「会津唐人凧」。竹藤さんが唯一の製作元なんです。
これも八重の桜のワンシーンにありましたが、籠城戦の最中、城内から揚がった凧を見た新政府軍の兵に、バカにされたと思わせ、さらにこっちは凧揚げをして楽しむくらい余裕があるんだと錯覚させました。


五街道起点 大町札の辻 道路元標。
会津藩の時代からここは大町札の辻と呼ばれ、かつては高札場があり、今回私たちが辿る越後街道をはじめ、会津五街道の起点でした。
現在はもちろん高札場はなく、道路元標があるのみです。この元標は明治15年、福島県令、三浦通庸が山形、新潟、栃木へのびる三方道路の大工事を行う際、起点としたものです。

清水屋旅館跡。
ここには吉田松陰、土方歳三、新島襄、八重など、多くの歴史的人物が宿泊した「清水屋」という旅館がありました。
残念ながら清水屋は昭和初年に取り壊され、今は銀行が建っています。

金剛寺。
大治5年(1130)、開山の長い歴史を持つ真言宗のお寺です。蒲生氏郷公の町割で現在地へ移転。江戸時代には、金剛寺・観音寺・自在院・弥勒寺が会津真言四ヵ寺と称されました。

常光寺 めぐりあい観音堂。
706年建立という古いお寺で、境内は古くから城下の人々に解放され、寛政3年(1791)には境内に劇場人形座が建設され、日新館の生徒もちょくちょく観にきていたとのこと。
また、境内には「めぐりあい観音堂」というものがあります。
その昔、京都・宇治の茶問屋の父が、行方がわからなくなった長男を探そうと日本中を巡り、ここ会津の常光寺で出されたお茶が家伝のお茶と同じ香りと味だったので、そのお茶を入れた修行僧が長男だとわかったそうです。
以来、人と人の巡り合いの観音様として信仰を集めています。

阿弥陀寺 御三階。
阿弥陀寺の創建は慶長8年(1603)。戊辰の役で堂宇が焼失してしまい、明治3年には若松城の小天守にあたる「御三階」を移築し、仮本堂としました。
戊辰の役直後、新政府は会津藩の戦死者の埋葬を許さず、遺体はひどい状態になっていましたが、有志が何度も交渉して5ヶ月後にようやく許され、この阿弥陀寺には1,300名の遺骸が埋葬されました。

かつて鶴ヶ城本丸内にあった建物、御三階(おさんがい・ごさんがい)は、外観上は三階ですが、内部が四層になっており2階と3階の間に天井の低い部屋があります。そこは密議の場所として使用されたといわれています。
また、玄関の立派な唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を移築したもので、鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。


そして、同じく阿弥陀寺境内には、最後まで会津にとどまり戦った新選組最強剣士のひとり、斉藤一の墓があります。
斉藤一はその後、藤田五郎と改名。会津藩士の娘・時尾と結婚し、後半生を会津人として生きました。
東京で大往生を遂げた(一説には正座したまま逝ったとも)後、本人の希望により、ここ会津の地で時尾とともに眠っています。


柿本稲荷神社境内 湯殿山道標。

柿本稲荷神社の右側に湯殿山の道標があります。
元治二年(1865)建造。脇に「右日光街道」「左江戸街道」の文字がみてとれます。

写真ではわかりづらいかもしれませんが、涙橋のちょっと上流で、鯉の「乗っ込み」(産卵活動)がみられました。

キリシタン塚。
天正18年(1590)、洗礼名を「レオ」といったキリシタン大名である蒲生氏郷によって、会津にキリスト教が伝えられました。それにより、南会津や郡山、三春、二本松、福島など、会津若松や猪苗代以外でも少しずつキリスト教が広まりました。
しかし江戸時代になると、幕府からキリスト教禁止令が出て、藩主・加藤明成の時代には、会津でもキリシタンの取締りが激化し、寛永9年(1632)会津藩15人、白河藩13人、二本松藩14人,若松藩42人のキリシタンが処刑され、寛永12年(1635)には、薬師川原の刑場で60余名が処刑されたと伝えられています。
その後、この地から犠牲者のものと思われるたくさんの人骨が見つかったため、昭和37(1962)年に今のキリシタン塚が建てられました。
合掌。


これは下見の時、みつけるのに非常に難儀したのですが(苦笑)、道を外れ農協の倉庫のウラに回り込むと。。。。↓

ひっそりと念仏供養宝塔が建っています。

ここはかつて会津藩の処刑場があった場所。
この倉庫建築の折、基礎工事中に大量の人骨が出土したそうです。
合掌。

馬頭観世音供養塔群。
東城戸村への追分点に4基の馬頭観音があります。

中野竹子殉節の地。


中野竹子は藩邸生まれの江戸育ち。容姿端麗で頭も良く、武芸にも優れていたというスーパーウーマン。戊辰戦争が始まると会津に戻ります。
自分も戦に参加したいと申し出ると、家老に「婦女子まで戦争に出したと見られては会津武士の名折れ」と一度は断られますが、「ならばこの場で自刃します」と決死の覚悟で再度直訴。
脱籍浪人で組織された「衝鋒隊(しょうほうたい)」に参加を許され、薙刀で長州・大垣藩と戦い奮戦します。実際はもう少し東とのことですが、この周辺で1868年8月25日に竹子を含む会津藩兵と長州・大垣藩兵の激しい戦いが展開され、男達に混じって奮戦した中野竹子は敵の銃弾に倒れ、22歳の若すぎる命をここで散らしたのでした。

高瀬新田 道標。
大正4年(1915)建造。「右荒井村」「左中四合ニ至」とかろうじて読めますが、まっぷたつに折れ、転がってしまっています。



金毘羅大権現常夜燈籠。
高瀬新田集落の一番北にあります。天保五年(1834)建造。

一里壇集落入口にある馬頭観世音供養塔。

この日は飯豊連峰がよくみえました。

田んぼの区画整理が行われたところは旧道は失われてしまってますが、ほぼこのへんという道を歩きます。
アスファルトいくよりもむしろ往時に近い!?



高久宿 金毘羅大権現常夜燈籠。
若松から出て最初の宿場が高久(たかく)です。村内のカーブの外側に常夜燈籠があります。「宿中安全」の文字があり、駅所時代の名残を今に伝える貴重な燈籠です。

旧街道は高久からこの写真左前方のほうへ阿賀川を渡り細工名(さいくな)に向かってました。
今はもちろん渡しがないので、我々は国道49号の宮古橋のほうへ迂回しました。


巳待供養塔。
位置は多少ずれているかもしれませんが、当時の旧道の通っていたルートを特定できる貴重な石碑です。
この石碑の先の鶴沼川を渡ると、いよいよ坂下(ばんげ)宿。
普通に読めば「さかした」ですが、「ばんげ」と読みます。語源については2説あります。ひとつは昔一大勢力を誇った高寺山のお寺の坂の下だからという説。もうひとつはアイヌ語のバンケ(崖、川下の意)からきているという説。もしかしたら両方が混ざったのかもしれません。
また、坂下は交通の要衝に位置していて、鶴ヶ城へ三里、野沢へも三里、塩川へも三里とそれぞれ同じ距離なので、旅人に尋ねられてもとりあえず「三里」と答えとけば間違いないことから「坂下バカ三里」という言葉があります。

御稷神社境内 千年ケヤキ。
御稷(ごしょく)神社は創建年不詳のようですが、境内にある台の宮公園は、明治41年(1909)の東宮殿下(後の大正天皇)会津行啓の際、公園として整備されたものだそうです。中央には、樹齢1000年は超えていると思われる「千年ケヤキ」があります。
坂下宿についてはイザベラ・バードの「日本奥地紀行」の中にも記述があります。
「坂下に着いたのは六時であった。ここは人口五千の商業の町である。…私たちは馬を下りて、干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚から出る臭いは強烈であった」
おそらくはこの「干魚」は会津の郷土料理「鰊の山椒漬け」用の「身欠鰊」だったのではないかと思われます。

廣木酒造本店。
創業は江戸時代中期の文政年間(19世紀前半)の老舗。首都圏では県外向け「飛露喜」は有名でなかなか手に入りません。しかし地元では県内向けの「泉川」が親しまれています。
あいにくお店は休みでしたが、参加者の1人が今晩の懇親会用に近くの酒屋へ一升瓶を買いに走ってくれました(笑)。

法界寺 中野竹子の墓。
法界寺は曹洞宗、永享10年(1438)、淳宗が創建、善恕が開山。
ここに前述の中野竹子の墓があります。
これも前述の西郷一族が自刃した1868年8月23日。
入城に遅れた中野竹子等は照姫が坂下にいるとの情報を聞き、照姫をお守りしようとこの法界寺に宿泊。(実際はガセネタで、照姫は鶴ヶ城内にいました)そこから出撃し、高久の先で戦死するのでした。
武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば 数に入らぬ わが身ながらも 中野竹子 辞世の句
竹子はこの句を詠んだ短冊を薙刀に結びつけ、敵と互角以上に斬り結んだそうです。
この句を読むたびに胸が熱くなります。
竹子は女子に生まれたわが身を呪ったかもしれませんが、「中野竹子」は間違いなく男子以上の「会津魂」を持った「もののふ」だったんですよね。

光明寺 楼門。
楼門は会津坂下町指定重要文化財で、文化元年(1804)の再建。
江戸後期の典型的なつくりとなっているそうです。

貴徳寺 堀部安兵衛の両親の墓。
これは賛否が分かれるところですが、坂下ではあの赤穂浪士、堀部安兵衛はここ貴徳寺で生まれた、と伝わっています。私は安兵衛は新発田で生まれたと記憶していたので、これを聞いたときはかなり意外でした。
坂下に伝わる話をそのままここに書くと、堀部安兵衛は本名を中山安之助といい、寛文10年(1670)にここで生まれ、母は安之助が5歳の時病死、父も13歳のときに強盗に斬られて亡くしています。安之助はこのとき、父の脇差で強盗を刺し殺し、その場で仇をとったといわれています。
その後新発田藩の祖父に引き取られ、そこからは忠臣蔵の話と同じです。真偽のほどはわかりませんが、貴徳寺には安兵衛の両親の墓がしっかりとあります。

定林寺 栗村弾正の墓。
栗村の地頭、栗村氏はこの定林寺のあるあたりに笠松館を築いて、永仁4年(1296)から天正17年(1587)の300年近く、当地の地頭を務めました。

百万遍供養塔。

臼ケ森古墳 愛宕神社。
古墳時代前期の前方後円墳。1990年代の調査で全長約50m、後円部径約30m、前方部幅約14mの前方後円墳だったことが確認されています。ただ、現在は前方部は消滅し、後円部の墳頂に愛宕神社の社殿が建てられています。


栗村堰。
坂下の水利の便が悪いことを嘆いた栗村の地頭栗村弾正盛俊が、永仁4年(1296)、長大な栗村堰を開削して豊かな稲作地帯に変えました。
現在は護岸された部分が多く、当時の面影はないものの、栗村堰は今も坂下の田を潤しています。

今回の旧道探索ルートは、基本的に「歴史の道調査報告書」をベースして、明治時代の古い地図の道を参考にして決めているのですが、おそらくこの写真の道は旧道と思われます(笑)。

恵隆寺。
恵隆寺の由緒は、様々な伝承があって、創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえませんが、新編会津風土記には大同三年(808)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したもの、とあります。
現在かやの架け替え中で観音堂は覆われてしまっていますが、架け替え作業を見れるので逆に興味深かったです。
本尊「十一面千手観音菩薩」は、大同三年(808)に弘法大師が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。

立木観音。ポスターより。

心清水神社。
天喜3年(1055)に、源頼義・義家親子が戦勝を祈願してこの地に八幡神社を勧請したことがはじまりと伝わります。
天保十一年(1840)に社殿は焼けてしまい、今の拝殿・本殿は文久3年(1863)に藩の費用で建立したものです。
義家公が社殿建立の時、心身を清めるため禊の神泉を夢のお告げによって求め、「心清々し」と発したことからこの神社の名がつけられたとのことです。


吉田松陰遊歴の碑。
吉田松陰は脱藩後、東北を遊歴した際、この地も訪れています。この碑にはその時松陰の書いた「東北遊日記」の直筆本から影写されています。



街道道標 追分石。
越後街道と沼田街道の分かれ道、いわゆる「追分」です。ここに「追分石」と呼ばれる道標があります。
「是より右越後道」「是より左柳津道」と読み取れます。鯨岡平右衛門の筆によるものと伝わります。

また、一部の面に丸い穴が見て取れますが、これは戊辰戦争の際の弾痕だと言われています。
かつてこのあたりは三階建ての旅籠、茶屋などが軒を連ね、街道を行き交う人々で賑わっていたそうです。
昭和の初め頃までは、飯豊参りに行く子供は白装束を着て父親の引く馬に乗ってここまで来て歩き始めとのこと。
また、全国どこの追分もそうですが、ここもかつて人々の別れの場所でした。
「越後出るときゃみんなで出たが、泣いて別れる気多の宮」
越後の薬売りの歌が今に伝えられています。

この日のゴールはJR只見線塔寺駅。
集落から外れ、国道を渡った山側のとってもヘンピな所にある駅です。2年ほど前には駅のホームにクマが出没し、騒ぎになったほどです。なぜこんな場所にあるのでしょうか。
大正13年(1924)にJR(当時は国鉄)只見線は坂下から柳津までのびました。
このころこの周辺には物資の輸送をする馬車引き、荷物を背負って運ぶ人など、まだまだ運搬を生業としている人が多くいて、その人たちが鉄道を引くことに猛反対したため、塔寺の駅は気多宮の集落から外れた今の位置につくらざるを得なかった、とのことです。
1日目終了。
二日目気多宮~野沢へ続きます。
さる5月24日25日の二日間に渡り、今年度3回シリーズの第一回目、「旧越後街道探索ウォークその1若松~野沢編」を行いました。
会津若松・鶴ヶ城をスタート、全3回、6日にわけて新潟県の新発田城までの約100㎞を歩くイベントのスタートです。
初日は会津若松~気多宮までの約21㎞。

スタートは、会津の名城、鶴ヶ城。
至徳元年(1384)に芦名直盛によって築かれた黒川城がはじまりで、その後伊達政宗、蒲生氏郷と入城し、蒲生の時に「鶴ヶ城」という名になりました。
その後も上杉景勝、加藤嘉明の居城となり、それぞれの時代に改修が続けられ、難攻不落の名城とうたわれました。
戊辰の役で新政府軍の猛攻にさらされても最後まで城は落ちませんでした。
明治7年に石垣だけ残して取り壊され、現在の天守が復元されたのは昭和40年9月のことです。来年は再建50周年。何かイベントが企画されているようです。乞うご期待。

地元の方はのみならず、遠くは愛知県、東京都、宮城県などから街道歩きフリークの方々が参加してくださいました。


鶴ヶ城の石垣には、魔除けの意味といわれる大きな石が使われている箇所があります。
これは「遊女石」と呼ばれているもので、メチャクチャ重くて運ぶのが大変だったことから、美しい遊女を石の上に乗せて男たちのヤル気を向上させて運んだと『新編会津風土記』に記述があります。

昨年の大河「八重の桜」をご覧になった方はご記憶に新しいかと思いますが、ここがあの山本八重が銃を撃ちまくった北出丸。
一説には大山巌のふとももを撃ち抜いたのは八重だという話も。
この時、北出丸にいたのは精度の低い火縄銃などを装備した老人兵ばかりで、唯一最新の銃を持っていた八重が撃った可能性もかなりあると思います。

運命の1868年9月22日、午前10時。
降参の旗は3か所に掲げられたそうですが、その1か所がこの石橋のたもとだと言われています。
「当日、御玄関先に降参と認めたる一旗の白旗あるを見、非憤に堪えず…悦之進一目之を見ると、ああ残念と泣きくづれてあった。実際遺憾なりし云々。」 平石弁蔵「会津戊辰戦争」


裁判所の敷地内になぜか上品な庭園があります。
実はここ、旧会津藩家老内藤介右衛門の屋敷があった場所で、建物は一切なくなってしまったものの、庭園だけは当時の面影を今に伝えてくれています。

旧内藤邸の庭園、「白露邸」。


西郷頼母邸跡。
家老、西郷頼母の屋敷があった場所です。
1868年8月23日。西軍が城下へ侵入し、それを告げる早鐘が鳴らされると、会津藩士やその家族は籠城戦にそなえるため城へ急ぎました。
しかし西郷邸では、留守を預かる頼母の妻・千恵子は長男だけ城に行かせ、自分らは籠城戦に参加しても足手まといになる、しかし城外で敵の辱めを受けるわけにはいかない、と、ここで娘達と自刃しました。
なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節の ありとこそ聞け 西郷千恵子 辞世の句


会津戦争終結の地。
1868年9月22日、10時に降参の白旗が掲げられ、正午には降伏式が行われました。その場所がこの交差点のあたりだったそうです。
その際、敷かれた緋毛氈を会津藩士たちは小さく切って分け、この無念を忘れないようにとそれぞれ懐に入れて持ち帰りました。後にそれは「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれ、今でも会津の人々の心に深く刻み込まれています。


甲賀口門跡 石垣。
蒲生氏郷は城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い濠と土塁、16の郭門によって仕切られました。
この甲賀口門はその外郭十六門のうちのひとつで、外郭の石垣としては唯一現存するものです。
戊辰の役では、この場所で激しい戦いが繰り広げられ、昨年の大河ドラマでもやっていましたが、ここを突破され、郭内へ西軍の侵入を許してしまった責任をとって、指揮にあたった田中土佐と神保内蔵助は自刃しました。

竹藤(たけとう)民芸店。
寛永元年(1624)に竹問屋として創業したという老舗。この建物も築170年を越える貴重なものです。


建物も竹細工も興味深いですが、ここの白眉はなんといっても「会津唐人凧」。竹藤さんが唯一の製作元なんです。
これも八重の桜のワンシーンにありましたが、籠城戦の最中、城内から揚がった凧を見た新政府軍の兵に、バカにされたと思わせ、さらにこっちは凧揚げをして楽しむくらい余裕があるんだと錯覚させました。


五街道起点 大町札の辻 道路元標。
会津藩の時代からここは大町札の辻と呼ばれ、かつては高札場があり、今回私たちが辿る越後街道をはじめ、会津五街道の起点でした。
現在はもちろん高札場はなく、道路元標があるのみです。この元標は明治15年、福島県令、三浦通庸が山形、新潟、栃木へのびる三方道路の大工事を行う際、起点としたものです。

清水屋旅館跡。
ここには吉田松陰、土方歳三、新島襄、八重など、多くの歴史的人物が宿泊した「清水屋」という旅館がありました。
残念ながら清水屋は昭和初年に取り壊され、今は銀行が建っています。

金剛寺。
大治5年(1130)、開山の長い歴史を持つ真言宗のお寺です。蒲生氏郷公の町割で現在地へ移転。江戸時代には、金剛寺・観音寺・自在院・弥勒寺が会津真言四ヵ寺と称されました。

常光寺 めぐりあい観音堂。
706年建立という古いお寺で、境内は古くから城下の人々に解放され、寛政3年(1791)には境内に劇場人形座が建設され、日新館の生徒もちょくちょく観にきていたとのこと。
また、境内には「めぐりあい観音堂」というものがあります。
その昔、京都・宇治の茶問屋の父が、行方がわからなくなった長男を探そうと日本中を巡り、ここ会津の常光寺で出されたお茶が家伝のお茶と同じ香りと味だったので、そのお茶を入れた修行僧が長男だとわかったそうです。
以来、人と人の巡り合いの観音様として信仰を集めています。

阿弥陀寺 御三階。
阿弥陀寺の創建は慶長8年(1603)。戊辰の役で堂宇が焼失してしまい、明治3年には若松城の小天守にあたる「御三階」を移築し、仮本堂としました。
戊辰の役直後、新政府は会津藩の戦死者の埋葬を許さず、遺体はひどい状態になっていましたが、有志が何度も交渉して5ヶ月後にようやく許され、この阿弥陀寺には1,300名の遺骸が埋葬されました。

かつて鶴ヶ城本丸内にあった建物、御三階(おさんがい・ごさんがい)は、外観上は三階ですが、内部が四層になっており2階と3階の間に天井の低い部屋があります。そこは密議の場所として使用されたといわれています。
また、玄関の立派な唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を移築したもので、鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。


そして、同じく阿弥陀寺境内には、最後まで会津にとどまり戦った新選組最強剣士のひとり、斉藤一の墓があります。
斉藤一はその後、藤田五郎と改名。会津藩士の娘・時尾と結婚し、後半生を会津人として生きました。
東京で大往生を遂げた(一説には正座したまま逝ったとも)後、本人の希望により、ここ会津の地で時尾とともに眠っています。


柿本稲荷神社境内 湯殿山道標。

柿本稲荷神社の右側に湯殿山の道標があります。
元治二年(1865)建造。脇に「右日光街道」「左江戸街道」の文字がみてとれます。

写真ではわかりづらいかもしれませんが、涙橋のちょっと上流で、鯉の「乗っ込み」(産卵活動)がみられました。

キリシタン塚。
天正18年(1590)、洗礼名を「レオ」といったキリシタン大名である蒲生氏郷によって、会津にキリスト教が伝えられました。それにより、南会津や郡山、三春、二本松、福島など、会津若松や猪苗代以外でも少しずつキリスト教が広まりました。
しかし江戸時代になると、幕府からキリスト教禁止令が出て、藩主・加藤明成の時代には、会津でもキリシタンの取締りが激化し、寛永9年(1632)会津藩15人、白河藩13人、二本松藩14人,若松藩42人のキリシタンが処刑され、寛永12年(1635)には、薬師川原の刑場で60余名が処刑されたと伝えられています。
その後、この地から犠牲者のものと思われるたくさんの人骨が見つかったため、昭和37(1962)年に今のキリシタン塚が建てられました。
合掌。


これは下見の時、みつけるのに非常に難儀したのですが(苦笑)、道を外れ農協の倉庫のウラに回り込むと。。。。↓

ひっそりと念仏供養宝塔が建っています。

ここはかつて会津藩の処刑場があった場所。
この倉庫建築の折、基礎工事中に大量の人骨が出土したそうです。
合掌。

馬頭観世音供養塔群。
東城戸村への追分点に4基の馬頭観音があります。

中野竹子殉節の地。


中野竹子は藩邸生まれの江戸育ち。容姿端麗で頭も良く、武芸にも優れていたというスーパーウーマン。戊辰戦争が始まると会津に戻ります。
自分も戦に参加したいと申し出ると、家老に「婦女子まで戦争に出したと見られては会津武士の名折れ」と一度は断られますが、「ならばこの場で自刃します」と決死の覚悟で再度直訴。
脱籍浪人で組織された「衝鋒隊(しょうほうたい)」に参加を許され、薙刀で長州・大垣藩と戦い奮戦します。実際はもう少し東とのことですが、この周辺で1868年8月25日に竹子を含む会津藩兵と長州・大垣藩兵の激しい戦いが展開され、男達に混じって奮戦した中野竹子は敵の銃弾に倒れ、22歳の若すぎる命をここで散らしたのでした。

高瀬新田 道標。
大正4年(1915)建造。「右荒井村」「左中四合ニ至」とかろうじて読めますが、まっぷたつに折れ、転がってしまっています。



金毘羅大権現常夜燈籠。
高瀬新田集落の一番北にあります。天保五年(1834)建造。

一里壇集落入口にある馬頭観世音供養塔。

この日は飯豊連峰がよくみえました。

田んぼの区画整理が行われたところは旧道は失われてしまってますが、ほぼこのへんという道を歩きます。
アスファルトいくよりもむしろ往時に近い!?



高久宿 金毘羅大権現常夜燈籠。
若松から出て最初の宿場が高久(たかく)です。村内のカーブの外側に常夜燈籠があります。「宿中安全」の文字があり、駅所時代の名残を今に伝える貴重な燈籠です。

旧街道は高久からこの写真左前方のほうへ阿賀川を渡り細工名(さいくな)に向かってました。
今はもちろん渡しがないので、我々は国道49号の宮古橋のほうへ迂回しました。


巳待供養塔。
位置は多少ずれているかもしれませんが、当時の旧道の通っていたルートを特定できる貴重な石碑です。
この石碑の先の鶴沼川を渡ると、いよいよ坂下(ばんげ)宿。
普通に読めば「さかした」ですが、「ばんげ」と読みます。語源については2説あります。ひとつは昔一大勢力を誇った高寺山のお寺の坂の下だからという説。もうひとつはアイヌ語のバンケ(崖、川下の意)からきているという説。もしかしたら両方が混ざったのかもしれません。
また、坂下は交通の要衝に位置していて、鶴ヶ城へ三里、野沢へも三里、塩川へも三里とそれぞれ同じ距離なので、旅人に尋ねられてもとりあえず「三里」と答えとけば間違いないことから「坂下バカ三里」という言葉があります。

御稷神社境内 千年ケヤキ。
御稷(ごしょく)神社は創建年不詳のようですが、境内にある台の宮公園は、明治41年(1909)の東宮殿下(後の大正天皇)会津行啓の際、公園として整備されたものだそうです。中央には、樹齢1000年は超えていると思われる「千年ケヤキ」があります。
坂下宿についてはイザベラ・バードの「日本奥地紀行」の中にも記述があります。
「坂下に着いたのは六時であった。ここは人口五千の商業の町である。…私たちは馬を下りて、干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚から出る臭いは強烈であった」
おそらくはこの「干魚」は会津の郷土料理「鰊の山椒漬け」用の「身欠鰊」だったのではないかと思われます。

廣木酒造本店。
創業は江戸時代中期の文政年間(19世紀前半)の老舗。首都圏では県外向け「飛露喜」は有名でなかなか手に入りません。しかし地元では県内向けの「泉川」が親しまれています。
あいにくお店は休みでしたが、参加者の1人が今晩の懇親会用に近くの酒屋へ一升瓶を買いに走ってくれました(笑)。

法界寺 中野竹子の墓。
法界寺は曹洞宗、永享10年(1438)、淳宗が創建、善恕が開山。
ここに前述の中野竹子の墓があります。
これも前述の西郷一族が自刃した1868年8月23日。
入城に遅れた中野竹子等は照姫が坂下にいるとの情報を聞き、照姫をお守りしようとこの法界寺に宿泊。(実際はガセネタで、照姫は鶴ヶ城内にいました)そこから出撃し、高久の先で戦死するのでした。
武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば 数に入らぬ わが身ながらも 中野竹子 辞世の句
竹子はこの句を詠んだ短冊を薙刀に結びつけ、敵と互角以上に斬り結んだそうです。
この句を読むたびに胸が熱くなります。
竹子は女子に生まれたわが身を呪ったかもしれませんが、「中野竹子」は間違いなく男子以上の「会津魂」を持った「もののふ」だったんですよね。

光明寺 楼門。
楼門は会津坂下町指定重要文化財で、文化元年(1804)の再建。
江戸後期の典型的なつくりとなっているそうです。

貴徳寺 堀部安兵衛の両親の墓。
これは賛否が分かれるところですが、坂下ではあの赤穂浪士、堀部安兵衛はここ貴徳寺で生まれた、と伝わっています。私は安兵衛は新発田で生まれたと記憶していたので、これを聞いたときはかなり意外でした。
坂下に伝わる話をそのままここに書くと、堀部安兵衛は本名を中山安之助といい、寛文10年(1670)にここで生まれ、母は安之助が5歳の時病死、父も13歳のときに強盗に斬られて亡くしています。安之助はこのとき、父の脇差で強盗を刺し殺し、その場で仇をとったといわれています。
その後新発田藩の祖父に引き取られ、そこからは忠臣蔵の話と同じです。真偽のほどはわかりませんが、貴徳寺には安兵衛の両親の墓がしっかりとあります。

定林寺 栗村弾正の墓。
栗村の地頭、栗村氏はこの定林寺のあるあたりに笠松館を築いて、永仁4年(1296)から天正17年(1587)の300年近く、当地の地頭を務めました。

百万遍供養塔。

臼ケ森古墳 愛宕神社。
古墳時代前期の前方後円墳。1990年代の調査で全長約50m、後円部径約30m、前方部幅約14mの前方後円墳だったことが確認されています。ただ、現在は前方部は消滅し、後円部の墳頂に愛宕神社の社殿が建てられています。


栗村堰。
坂下の水利の便が悪いことを嘆いた栗村の地頭栗村弾正盛俊が、永仁4年(1296)、長大な栗村堰を開削して豊かな稲作地帯に変えました。
現在は護岸された部分が多く、当時の面影はないものの、栗村堰は今も坂下の田を潤しています。

今回の旧道探索ルートは、基本的に「歴史の道調査報告書」をベースして、明治時代の古い地図の道を参考にして決めているのですが、おそらくこの写真の道は旧道と思われます(笑)。

恵隆寺。
恵隆寺の由緒は、様々な伝承があって、創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえませんが、新編会津風土記には大同三年(808)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したもの、とあります。
現在かやの架け替え中で観音堂は覆われてしまっていますが、架け替え作業を見れるので逆に興味深かったです。
本尊「十一面千手観音菩薩」は、大同三年(808)に弘法大師が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。

立木観音。ポスターより。

心清水神社。
天喜3年(1055)に、源頼義・義家親子が戦勝を祈願してこの地に八幡神社を勧請したことがはじまりと伝わります。
天保十一年(1840)に社殿は焼けてしまい、今の拝殿・本殿は文久3年(1863)に藩の費用で建立したものです。
義家公が社殿建立の時、心身を清めるため禊の神泉を夢のお告げによって求め、「心清々し」と発したことからこの神社の名がつけられたとのことです。


吉田松陰遊歴の碑。
吉田松陰は脱藩後、東北を遊歴した際、この地も訪れています。この碑にはその時松陰の書いた「東北遊日記」の直筆本から影写されています。



街道道標 追分石。
越後街道と沼田街道の分かれ道、いわゆる「追分」です。ここに「追分石」と呼ばれる道標があります。
「是より右越後道」「是より左柳津道」と読み取れます。鯨岡平右衛門の筆によるものと伝わります。

また、一部の面に丸い穴が見て取れますが、これは戊辰戦争の際の弾痕だと言われています。
かつてこのあたりは三階建ての旅籠、茶屋などが軒を連ね、街道を行き交う人々で賑わっていたそうです。
昭和の初め頃までは、飯豊参りに行く子供は白装束を着て父親の引く馬に乗ってここまで来て歩き始めとのこと。
また、全国どこの追分もそうですが、ここもかつて人々の別れの場所でした。
「越後出るときゃみんなで出たが、泣いて別れる気多の宮」
越後の薬売りの歌が今に伝えられています。

この日のゴールはJR只見線塔寺駅。
集落から外れ、国道を渡った山側のとってもヘンピな所にある駅です。2年ほど前には駅のホームにクマが出没し、騒ぎになったほどです。なぜこんな場所にあるのでしょうか。
大正13年(1924)にJR(当時は国鉄)只見線は坂下から柳津までのびました。
このころこの周辺には物資の輸送をする馬車引き、荷物を背負って運ぶ人など、まだまだ運搬を生業としている人が多くいて、その人たちが鉄道を引くことに猛反対したため、塔寺の駅は気多宮の集落から外れた今の位置につくらざるを得なかった、とのことです。
1日目終了。
二日目気多宮~野沢へ続きます。