柏木城ウォーク - 2014.07.30 Wed
だいぶ前の記事で申し訳ないのですが。。。(苦笑)
6月14日に開催された北塩原村の「会津米沢街道歴史ウォーク」に参加してきました。
といっても、米沢街道は個人的に何度も歩いているので、前からとても興味のあったCコースの柏木城に関する講話や柏木城跡周辺を中心に史跡に関する話を聞きながら歩くプログラムへ参加しました。

スタートは北塩原村活性化センター。
ここはかつては芦名氏の家臣、清野六郎の屋敷があったところです。



柏木城へ行く前に、大塩集落の北のはずれにある山塩工場へ。
地名が示す通り、伝承ではここ大塩では今から1200年以上も前に、弘法大師がこの地を訪れて護摩を焚き続けたところ、濃い塩分を含む温泉が湧き出したとされています。
そして噴出する温泉から製塩して会津藩に納めたり、明治時代には皇室にも献上していたとこのと。
「新編会津風土記」には塩井(塩をとる温泉井戸)が2基、「会津邑日記」には塩を精製する塩釜が34基あったと記されています。
その後昭和に入り、物流がよくなって海の塩が安価で入るようになったり、煮詰めるための薪が不足するようになったりで、山塩作りは昭和24年から完全に途絶えてしまっていたそうですが、地域活性化のために地域名産品を作りたいとの地元の熱い想いから平成19年からこの工場ができて復活しました。

製塩作業は昔ながらの至ってシンプルな、しかしこれまた昔ながらのすべて手作業なのでメッチャ大変そうなやり方です。
この釜で2段階に分けて煮詰め、そのあと仕上げの釜へ移すとのこと。


これも昔ながらの薪を使用。ガスだと火を均等に回すことができず、味に影響してしまうとか。こだわりですねえ。
昔はこの薪を確保するためにそこらじゅうの森林を伐採してしまい、そのため米沢街道筋にはカヤしかない「萱峠」なんて地名が残っているくらいで、薪不足は深刻な問題となっていたそうですが、今の時代は森の整備、間伐材の有効利用として逆にメリット大かもしれないですね。

これが仕上げの釜。
私は勘違いしてたのですが、ここで結晶になるまで煮詰めることはご法度で、水分が残った状態で、これまた手作業で少しずつ掬い取っていき、最後は天日乾燥させるとのこと。
そしてさらに手作業で夾雑物を取り除いてようやく山塩として出荷できるようになるそうで、ほんと大変な作業ですね。
今度からは大切に使わないと(苦笑)。


そしていよいよ本題の、柏木城跡探索へ。
上の写真の墓の台地の上あたりが中島氏の舘跡で、狼煙台があったといわれています。
柏木城は天正12年(1584)頃に会津の雄・葦名氏が、米沢・伊達政宗の侵攻に対抗すべく築いたといわれる山城で、「檜原軍物語」には檜原峠から侵攻してきた伊達政宗が、対岸の萱峠あたりからこの柏木城を見たとき、その堅固さに驚き(政宗はこのとき石垣を持つ城というのを初めて見たとか)、攻めるのをあきらめ軍を引いた、とあります。


このイベントにあわせて草刈り等がなされたと思われ、快適なウォークに。苦労がわかるだけに、頭がさがります。

柏木城にはいわゆる「石垣」と呼べるような本格的なものはないようですが、「石塁」と呼ばれる石を土塁状に積んだものはそこここに見られました。

こんなにしっかり残っているなんて、ちょっと感動しました。
でも、これらもおそらく最初はブッシュの中に埋もれていたことでしょう。調査された石田先生、そして草刈り整備された方々に感謝です。






柏木城には多くの曲輪(くるわ)が確認されており、この写真の上部はその中の一番東側の曲輪があるあたりです。


城の中心部、一番大きい曲輪と丸馬出の間には空堀があって、かつては木橋が架けられていたとのこと。
いざというときは橋を落とし、敵の侵入を阻止するシステムですね。

このあたりが丸馬出。これは武田信玄が多用した技法で、武田氏が滅んだあと、葦名氏は武田氏の家臣を引き取っているので、それによって甲斐の技法がこの地にもたらされた可能性もあるとのことです。

丸馬出から空堀越しに曲輪1をみたところ。結構深いです。ここに木橋がかけられていたとのこと。

大手口側の虎口から中心部へ。クネクネ曲がってます。


倉があったと思われる?場所。苔むした石塁が並んでいます。



いよいよ城主が住んでいたといわれる場所へ向かいますが、いきなり行き止まりのようになっています。
埋門(うずみもん)といって、敵が侵入してきた場合、大きな石や土で塞ぐ構造になっていたそうです。

その門を乗っ越すと、中心部の曲輪の中でもさらに石塁で区画されている場所に出ました。
城主の居た主殿があった場所と思われ、塀が周囲に建てられ、ここには冠木門があったのではないかといわれています。


ここが城主のいた主殿跡。二階建ての建物があったとのこと。

中心部の曲輪の西側にも空堀がめぐらされ、ここにも木橋がかけられていたとか。

橋を置いたと思われる石。

こちらは城の南西部、裏口の搦手(からめて)口。
やはり埋門になっていて、石積石垣でつくられた内枡形の虎口がありました。

石積みは少し崩れていますが、いい感じで残っています。

この門のわきには今でも「鏡石」が残っていました。
権威の象徴、そして魔除けの意味で城の門に置く巨大な石です。

城の南は今は水田になっていますが、かつては水堀になっていたそうです。

城を下りると大久保集落で、採れたてアスパラのおもてなし。
味付けの塩はもちろん「山塩」です。



心配された天気も持ちこたえ、いいウォーキングでした。
正直こんなに遺構が残っていると思わなかったので、とても有意義な日となりました。
やはり文献だけで見てるのと、実際歩いてみるのは大違いですね。
維持管理するのはとても大変かと思いますが、これも地域の大切な宝、しっかり整備して山城散策を楽しめるようにしておいてほしいなと思います。
6月14日に開催された北塩原村の「会津米沢街道歴史ウォーク」に参加してきました。
といっても、米沢街道は個人的に何度も歩いているので、前からとても興味のあったCコースの柏木城に関する講話や柏木城跡周辺を中心に史跡に関する話を聞きながら歩くプログラムへ参加しました。

スタートは北塩原村活性化センター。
ここはかつては芦名氏の家臣、清野六郎の屋敷があったところです。



柏木城へ行く前に、大塩集落の北のはずれにある山塩工場へ。
地名が示す通り、伝承ではここ大塩では今から1200年以上も前に、弘法大師がこの地を訪れて護摩を焚き続けたところ、濃い塩分を含む温泉が湧き出したとされています。
そして噴出する温泉から製塩して会津藩に納めたり、明治時代には皇室にも献上していたとこのと。
「新編会津風土記」には塩井(塩をとる温泉井戸)が2基、「会津邑日記」には塩を精製する塩釜が34基あったと記されています。
その後昭和に入り、物流がよくなって海の塩が安価で入るようになったり、煮詰めるための薪が不足するようになったりで、山塩作りは昭和24年から完全に途絶えてしまっていたそうですが、地域活性化のために地域名産品を作りたいとの地元の熱い想いから平成19年からこの工場ができて復活しました。

製塩作業は昔ながらの至ってシンプルな、しかしこれまた昔ながらのすべて手作業なのでメッチャ大変そうなやり方です。
この釜で2段階に分けて煮詰め、そのあと仕上げの釜へ移すとのこと。


これも昔ながらの薪を使用。ガスだと火を均等に回すことができず、味に影響してしまうとか。こだわりですねえ。
昔はこの薪を確保するためにそこらじゅうの森林を伐採してしまい、そのため米沢街道筋にはカヤしかない「萱峠」なんて地名が残っているくらいで、薪不足は深刻な問題となっていたそうですが、今の時代は森の整備、間伐材の有効利用として逆にメリット大かもしれないですね。

これが仕上げの釜。
私は勘違いしてたのですが、ここで結晶になるまで煮詰めることはご法度で、水分が残った状態で、これまた手作業で少しずつ掬い取っていき、最後は天日乾燥させるとのこと。
そしてさらに手作業で夾雑物を取り除いてようやく山塩として出荷できるようになるそうで、ほんと大変な作業ですね。
今度からは大切に使わないと(苦笑)。


そしていよいよ本題の、柏木城跡探索へ。
上の写真の墓の台地の上あたりが中島氏の舘跡で、狼煙台があったといわれています。
柏木城は天正12年(1584)頃に会津の雄・葦名氏が、米沢・伊達政宗の侵攻に対抗すべく築いたといわれる山城で、「檜原軍物語」には檜原峠から侵攻してきた伊達政宗が、対岸の萱峠あたりからこの柏木城を見たとき、その堅固さに驚き(政宗はこのとき石垣を持つ城というのを初めて見たとか)、攻めるのをあきらめ軍を引いた、とあります。


このイベントにあわせて草刈り等がなされたと思われ、快適なウォークに。苦労がわかるだけに、頭がさがります。

柏木城にはいわゆる「石垣」と呼べるような本格的なものはないようですが、「石塁」と呼ばれる石を土塁状に積んだものはそこここに見られました。

こんなにしっかり残っているなんて、ちょっと感動しました。
でも、これらもおそらく最初はブッシュの中に埋もれていたことでしょう。調査された石田先生、そして草刈り整備された方々に感謝です。






柏木城には多くの曲輪(くるわ)が確認されており、この写真の上部はその中の一番東側の曲輪があるあたりです。


城の中心部、一番大きい曲輪と丸馬出の間には空堀があって、かつては木橋が架けられていたとのこと。
いざというときは橋を落とし、敵の侵入を阻止するシステムですね。

このあたりが丸馬出。これは武田信玄が多用した技法で、武田氏が滅んだあと、葦名氏は武田氏の家臣を引き取っているので、それによって甲斐の技法がこの地にもたらされた可能性もあるとのことです。

丸馬出から空堀越しに曲輪1をみたところ。結構深いです。ここに木橋がかけられていたとのこと。

大手口側の虎口から中心部へ。クネクネ曲がってます。


倉があったと思われる?場所。苔むした石塁が並んでいます。



いよいよ城主が住んでいたといわれる場所へ向かいますが、いきなり行き止まりのようになっています。
埋門(うずみもん)といって、敵が侵入してきた場合、大きな石や土で塞ぐ構造になっていたそうです。

その門を乗っ越すと、中心部の曲輪の中でもさらに石塁で区画されている場所に出ました。
城主の居た主殿があった場所と思われ、塀が周囲に建てられ、ここには冠木門があったのではないかといわれています。


ここが城主のいた主殿跡。二階建ての建物があったとのこと。

中心部の曲輪の西側にも空堀がめぐらされ、ここにも木橋がかけられていたとか。

橋を置いたと思われる石。

こちらは城の南西部、裏口の搦手(からめて)口。
やはり埋門になっていて、石積石垣でつくられた内枡形の虎口がありました。

石積みは少し崩れていますが、いい感じで残っています。

この門のわきには今でも「鏡石」が残っていました。
権威の象徴、そして魔除けの意味で城の門に置く巨大な石です。

城の南は今は水田になっていますが、かつては水堀になっていたそうです。

城を下りると大久保集落で、採れたてアスパラのおもてなし。
味付けの塩はもちろん「山塩」です。



心配された天気も持ちこたえ、いいウォーキングでした。
正直こんなに遺構が残っていると思わなかったので、とても有意義な日となりました。
やはり文献だけで見てるのと、実際歩いてみるのは大違いですね。
維持管理するのはとても大変かと思いますが、これも地域の大切な宝、しっかり整備して山城散策を楽しめるようにしておいてほしいなと思います。
第38回6000人の盆踊り & 山都盆踊りスタンプラリー - 2014.07.30 Wed
雑穀おむすびの結その3 草取り&沢歩き 無事終了しました - 2014.07.22 Tue
雑穀おむすびの結シリーズも第3回。
毎回農業体験以外の要素をなるべくひとつ入れてみんなで楽しむようにしていまして、今回は沢歩き。
ただ、直前の天気予報では沢歩きをはじめ、イベント開催が非常に危ぶまれていたのですが、幸い全く降られずに20日、21日の二日間予定通りのスケジュールをこなし、無事終了しました。
まずは沢で遊ぶプログラム。
水量は普段より多く、多少濁りが入っているものの、天気も持ちそうだし、予定通り行うことに。

まずは沢に下降します。
みなさん未知の沢歩きへのワクワク感が私に伝わってきました。



みなさんの視線の先には。。。

期間限定、自然のかわいい造形。面白いですねえ。





石清水をダイレクト飲み(笑)。

今回は歩くのがメインで釣りはほとんどやりませんでしたが、とはいえ川の幸をみなさんに堪能していただきたかったので、私だけちょっと竿も出してみました。
この日は水量多く、普段の透き通るような清冽な流れを楽しめなかったのですが、釣りという観点からいうといわゆる「笹濁り」といって最高の条件。
うまく29㎝のイワナをGETできました。






そして沢を登ること4時間近く。ついに昼食ポイントの巨木が見えてきました。

カツラを軸に、ブナやサワグルミが合体して巨木を形成していて、もうこの木自体がひとつの「森」のようです。
道はなく、沢を歩いてこなければなりませんが、私の大好きな場所です。
いつもひとりで来るときは、この木の下でまったり昼寝したりしてます。


先ほど釣ったばかりの鮮度バツグンのイワナを刺身にします。

アウトドアでの皮剥ぎにはちょっとしたやり方があります。
まずは背中を一筋、皮だけ切るように切り込みいれます。

で、エラから口に指をいれて、皮のはしっこをくわえて、一気に後ろにひくと。。。

結構簡単に皮をひけます。

あとは三枚におろし。。。




わさび醤油でいただきます。

シコシコ感の中にほんのりあまさがあって絶品です。



そしてメインディッシュ。
雑穀王子作、雑穀おにぎりと漬け物。


美味しい空気と美味しい水、森の香りの味付けも加わり、もうほんとに幸せ感いっぱいです(笑)。

モチキビおにぎりの中にはクルミ味噌が。





最後はちょっと藪こいで林道に出て車まで戻り、沢歩き終了。
その後着替えて、山都の雑穀畑へ移動。
草取り作業開始。

苗植えから1ヶ月、雑穀の成長はうれしかったですが、雑草もしっかりと成長(苦笑)。


基本はクワで雑草をけずっていきます。
しかし雑穀の成長が遅いところは慣れるまで雑草との区別をつけるのが大変で、手間がかかります。
手で丁寧に抜いていく方もいました。




初日の作業終了。いいでのゆへ行き汗を流したあと、黒森山荘へ。

今回は山荘前でバーベキュー。
満点の星空を眺めながらの懇親会。

下見の時にキープして凍らせておいたヤマメとイワナも食材のひとつに。


ラタトゥーユと雑穀ごはん。



そばの実ソーセージ。


チャパティも出てきました。

クルミとサツマイモのダンゴ。
そしてバーベキューを終え、山荘内に入り、本格的な宴会。

もうすっかり山都G.T.イベントの常連になって、月2回くらいは400㎞以上車を飛ばして山都へ駆けつけてくれる参加者から、黒森山荘へ素敵な贈り物が。

雑穀おむすびの結シリーズは今後も追加されていくそうです。
うれしいですね~。
宴会写真は撮り忘れて、1枚もないのですが。。。。
今回は7名と前回の半分くらいでしたので、自己紹介も短くなると思っていた(前回は一巡するのに3時間半(苦笑))のが。。。結局トークがはずみ、同じくらいかかってお開きになったのは午前2時半でした。。。(苦笑)

二日目。朝6時半にしっかり起床。

朝からモチキビポテトのコロッケをがっつりいただきます。

二日目は田んぼの草取り。
イセヒカリもしっかりいい感じで育っていました。


草取りの方法は基本的に前日と同じ。
モチキビよりイネははっきりしているので、やりやすいです。
歩きまくって土に空気を入れることも重要です。











そして二日目の草取り作業も終了。

着替えた後、この日は宮古の大下さんへ行って昼食。

あいかわらずおいしいです。


これなんだかわかりますか?
コンニャクイモです。
少し前まででっかい変わった花が咲いていたそうです。
花が咲くのは5年以上のもの。でもだいたい3年くらいで食べちゃうので、結構珍しいとか。
見たかったですね~。
というわけで雑穀おむすびの結の第3回も無事終了しました。
次回第4回は10月18-19日、稲刈りです。
実は、この「おむすびの結」はイベントだけでなく1年を通じての活動です。たまたまイベントの日が都合悪く来れなくても、「結」の輪に加わりたいと思ってくださる方、黒森山荘では随時農業体験を受け入れてますので、ご都合いい日にぜひ山都へお越しください。
農作業でいい汗かいて、夜は浅野氏のおいしい雑穀料理を楽しめます。
黒森山荘
福島県喜多方市山都町一ノ木字綿呉乙2303-1
お問い合わせ:090-6492-7147
kenji-asano@nifty.com (浅野健児)
毎回農業体験以外の要素をなるべくひとつ入れてみんなで楽しむようにしていまして、今回は沢歩き。
ただ、直前の天気予報では沢歩きをはじめ、イベント開催が非常に危ぶまれていたのですが、幸い全く降られずに20日、21日の二日間予定通りのスケジュールをこなし、無事終了しました。
まずは沢で遊ぶプログラム。
水量は普段より多く、多少濁りが入っているものの、天気も持ちそうだし、予定通り行うことに。

まずは沢に下降します。
みなさん未知の沢歩きへのワクワク感が私に伝わってきました。



みなさんの視線の先には。。。

期間限定、自然のかわいい造形。面白いですねえ。





石清水をダイレクト飲み(笑)。

今回は歩くのがメインで釣りはほとんどやりませんでしたが、とはいえ川の幸をみなさんに堪能していただきたかったので、私だけちょっと竿も出してみました。
この日は水量多く、普段の透き通るような清冽な流れを楽しめなかったのですが、釣りという観点からいうといわゆる「笹濁り」といって最高の条件。
うまく29㎝のイワナをGETできました。






そして沢を登ること4時間近く。ついに昼食ポイントの巨木が見えてきました。

カツラを軸に、ブナやサワグルミが合体して巨木を形成していて、もうこの木自体がひとつの「森」のようです。
道はなく、沢を歩いてこなければなりませんが、私の大好きな場所です。
いつもひとりで来るときは、この木の下でまったり昼寝したりしてます。


先ほど釣ったばかりの鮮度バツグンのイワナを刺身にします。

アウトドアでの皮剥ぎにはちょっとしたやり方があります。
まずは背中を一筋、皮だけ切るように切り込みいれます。

で、エラから口に指をいれて、皮のはしっこをくわえて、一気に後ろにひくと。。。

結構簡単に皮をひけます。

あとは三枚におろし。。。




わさび醤油でいただきます。

シコシコ感の中にほんのりあまさがあって絶品です。



そしてメインディッシュ。
雑穀王子作、雑穀おにぎりと漬け物。


美味しい空気と美味しい水、森の香りの味付けも加わり、もうほんとに幸せ感いっぱいです(笑)。

モチキビおにぎりの中にはクルミ味噌が。





最後はちょっと藪こいで林道に出て車まで戻り、沢歩き終了。
その後着替えて、山都の雑穀畑へ移動。
草取り作業開始。

苗植えから1ヶ月、雑穀の成長はうれしかったですが、雑草もしっかりと成長(苦笑)。


基本はクワで雑草をけずっていきます。
しかし雑穀の成長が遅いところは慣れるまで雑草との区別をつけるのが大変で、手間がかかります。
手で丁寧に抜いていく方もいました。




初日の作業終了。いいでのゆへ行き汗を流したあと、黒森山荘へ。

今回は山荘前でバーベキュー。
満点の星空を眺めながらの懇親会。

下見の時にキープして凍らせておいたヤマメとイワナも食材のひとつに。


ラタトゥーユと雑穀ごはん。



そばの実ソーセージ。


チャパティも出てきました。

クルミとサツマイモのダンゴ。
そしてバーベキューを終え、山荘内に入り、本格的な宴会。

もうすっかり山都G.T.イベントの常連になって、月2回くらいは400㎞以上車を飛ばして山都へ駆けつけてくれる参加者から、黒森山荘へ素敵な贈り物が。

雑穀おむすびの結シリーズは今後も追加されていくそうです。
うれしいですね~。
宴会写真は撮り忘れて、1枚もないのですが。。。。
今回は7名と前回の半分くらいでしたので、自己紹介も短くなると思っていた(前回は一巡するのに3時間半(苦笑))のが。。。結局トークがはずみ、同じくらいかかってお開きになったのは午前2時半でした。。。(苦笑)

二日目。朝6時半にしっかり起床。

朝からモチキビポテトのコロッケをがっつりいただきます。

二日目は田んぼの草取り。
イセヒカリもしっかりいい感じで育っていました。


草取りの方法は基本的に前日と同じ。
モチキビよりイネははっきりしているので、やりやすいです。
歩きまくって土に空気を入れることも重要です。











そして二日目の草取り作業も終了。

着替えた後、この日は宮古の大下さんへ行って昼食。

あいかわらずおいしいです。


これなんだかわかりますか?
コンニャクイモです。
少し前まででっかい変わった花が咲いていたそうです。
花が咲くのは5年以上のもの。でもだいたい3年くらいで食べちゃうので、結構珍しいとか。
見たかったですね~。
というわけで雑穀おむすびの結の第3回も無事終了しました。
次回第4回は10月18-19日、稲刈りです。
実は、この「おむすびの結」はイベントだけでなく1年を通じての活動です。たまたまイベントの日が都合悪く来れなくても、「結」の輪に加わりたいと思ってくださる方、黒森山荘では随時農業体験を受け入れてますので、ご都合いい日にぜひ山都へお越しください。
農作業でいい汗かいて、夜は浅野氏のおいしい雑穀料理を楽しめます。
黒森山荘
福島県喜多方市山都町一ノ木字綿呉乙2303-1
お問い合わせ:090-6492-7147
kenji-asano@nifty.com (浅野健児)
旧越後街道探索ウォークその2(野沢~津川編) 2日目 鳥井から津川まで - 2014.07.18 Fri
旧越後街道探索ウォークその2の続き、二日目鳥井から津川までの模様です。
二日目はさらに2名の一般参加者を迎えスタート。
前日のにしあいづ観光交流協会さんのガイドも素晴らしかったですが、2日目は新潟に入り、阿賀町観光ガイドから4名ものプロフェッショナルガイドが駆け付けてくださり、各ポイントを分担して密度の濃いガイドをしていただきました。

前日のゴール地点からスタートし、八ツ田の集落を過ぎると。。。

鳥井峠の標識が。
ここからの道は歴史の道調査報告書にも記載されておらず、打ち合わせの段階で阿賀町の方々に教えてもらって初めて私は知りました。



石畳もところどころ残っています。
阿賀町には「会津街道ファンクラブ」というものがあり、会員によって道普請がたびたび行われているようで、旧道の雰囲気が復活しており、かつ歩きやすくてとてもありがたかったです。


それでもところどころは国道で寸断されており、かつての旧街道がわからなくなっているところもあります。
そのへんは迂回するしかないのですが、往時のルートを丁寧に解説していただきました。

福取集落の入口にある福取一里塚。

この福取の一里塚は、高さ約3m、周囲約20mで、旧道を挟んで一対が現存し、ほぼ原形を今日に伝えている貴重なものです。
一里塚がやや高い位置にあるように見えますが、これは道路の勾配をゆるくするため現代になって道自体を掘り下げたためです。

福取集落中央あたりに「ゴロ石」と呼ばれる円柱状の石があります。

なんでもこれは、明治初期に三方道路開削の際に道を平らにするためのローラーに使用した石とのことです。

後ろの建物はかつて旅籠だった「泉屋」。

惣座峠の開削の模様を古写真で解説。


今回の重要なチェックポイントのひとつ、八木山(かつての焼山)集落に入ると、右側に防空壕のような穴が。
これについてはのちほど。

旅籠の雰囲気を今に伝える「三条屋」の建物。


「三条屋」の看板は今も残っています。

そしてこの三条屋の前が旧越後街道で、おとなりにかつての本陣だった渡部家があります。

渡部家は郷頭とともに宿駅の問屋も兼ねていました。会津藩主の巡検や新発田村上藩主の参勤交代の際にはここ渡部家を本陣として休息したので、「殿様の間」「家老の間」があります。
以前にこのブログでも書きましたが(こちらをクリック)、下見のときにお会いした当主渡部一郎翁からいただいた名刺には「旧会津領」と書かれていました。
「今は新潟県に属しているが、今でも自分は会津人だ」とおっしゃる通り、今でも会津に対して熱い想いをお持ちの方で、今回も本陣の内部を開けて、我々が来るのを待っていてくださいました。


普段の玄関の横に、かつて殿様のみが使った特別の玄関があります。

この方が、ご当主、渡部一郎翁。

御年95歳とは思えない矍鑠としたお姿に、一同驚き。
この焼山宿の話を中心に、様々な興味深いお話をユーモアたっぷりにお話していただきました。

渡部さんは「今年はじめて老いを感じている」とおっしゃっていました。
それに対し、70代の参加者からは「まだまだ自分も年とったなんて言ってられない。これからが本番だな」と(笑)。
私なんぞは赤子同然です(苦笑)。

我々が座っている場所が、かつて家老が泊まった「家老の間」。

その奥が「殿様の間」です。
普通、殿様の間は敷居が一段高くなっているのですが、ここはのちの大工が手抜きをした?とかで、そうなっていません(笑)。

殿様が使用した?トイレ。

渡部さんのご厚意で、普段お目にかかれないいろんなお宝が次から次へ披露されました。




ついには刀も登場。


そうそう、本陣の脇の崖には人がくぐれるほどの穴が。

実はさきほどの写真の穴は、ここと通じていて、本陣が襲われたときの要人緊急脱出用のトンネルだとのことです。

渡部さんには今後もちょくちょくお話を聞きに伺いたいなと思ってます。

後ろ髪ひかれる思いで渡部さんの本陣をあとにし、一路西へ。
このあたりは沢の近くを旧街道が通っていたそうですが、今はその道形をみつけることができません。

栄山の一里石。
建立年は享和元年(1801)。旧越後街道は現在の国道よりもっと下、川の近くを通っていたそうです。
川の脇は崖で、本来の一里塚をつくるスペースがなく、場所をとらないこの一里石を置いたとのこと。

これも歴史の道調査報告書にはまったく記載がなかったのですが、かつて旧街道は花立と平石の間は国道よりもさらに北の山のほうを通っていたとか。

途中、スギ林の中を石畳がずっと続いている箇所に案内していただきました。

今は杉の葉の下に埋もれていますが、たしかに石畳です。

うまく露出させて整備できるといいなあ、なんて思いました。

花立集落へ。右上に大山祇神社。

会津藩家老・田中土佐関連墓石。
前回その1の最初、甲賀口門で少し触れた会津藩家老・田中土佐の妾の二男の墓が花立集落内にあります。


天満の地下壕跡。
第二次世界大戦の末期、昭和20年(1945)、戦局が不利になり、軍の指導者は本土決戦を考慮し、軍需物資の疎開を行いました。
そのときに天満に地下壕を掘削し、物資の貯蔵施設をつくった跡、坑道入口が今も確認できます。

110m四方の中に、高さ3m、幅4mの坑道が縦5本、横に8本掘られています。

天満に入り、北野神社境内へ。
参道入り口の左右に樹齢400年以上といわれる御神木の2本の大杉があります。それだけでなく境内にはスギやモミの大木がたくさんありました。
ここで昼食タイム。

昼食は豪華弁当。


北野神社から野村集落方面をのぞむ。
野村集落のはずれに延命地蔵尊が祀られていて、そこに明治4年まで一里塚があったそうですが、今はなくなっています。

天満の集落内で旧街道と三方道路が合流していて、そこに道路元標があります。

常浪川の渡船場跡。

この日は鮎の解禁日で、太公望たちがいっぱい来ていました。

平堀地蔵尊。下見のときは中を見れませんでしたが、この日はこの集落在住の阿賀町役場の方のご厚意で御開帳していただきました。

お堂の中央に地蔵菩薩像、右に閻魔天倚像、左に倶生神坐像が安置されています。

地蔵菩薩像。地域の人は「延命地蔵様」と呼んでいます。

閻魔天倚像。地元では「ジジ」と呼ばれています。

倶生神坐像。地元では「バサ」と呼ばれています。

鬼子母神(刑場跡)。
江戸時代の中期、このあたりに罪人を処刑する刑場があり、紫の衣を着た尼さんがいつも処刑された人を供養していたそうです。
その尼さんが亡くなったのち、宝暦年間(1751~64)に石の地蔵様が建立され、人々はその尼さんにちなんで「紫地蔵」と呼ぶようになりました。現在は延命地蔵と子育て地蔵が合祀されています。

ちょっと寄り道。地酒を扱っている酒屋へ。

試飲して私が一番気に入ったのが、この本醸造「はでっぱの香」。
「はでっぱ」とはお米を天日干しにする「はざ架け」のことだそうで、地元限定のお酒です。
次回、車で寄ったときには何本か購入しようと思います。
「はでっぱの香」以外にも「蒲原」とか私の好みのお酒がいっぱいありました。

いいお酒はいい水から。
津川の街中にもおいしい清水がそこここにあります。


新善光寺。
建久元年(1190)、尾張の沙門定尊が七堂伽藍を創立して開山し、その後貞治元年(1362)相州鎌倉光明寺の僧、感誓が現在の場所に移した、と伝わります。戊辰の役の際、柏崎から退いてきた桑名藩主・松平定敬(容保の弟)が、約2か月本営としてここに宿営しています。

新善光寺の境内には戊辰の役の際、戦死した白虎寄合一番隊士藤森八太郎の墓があります。
藤森八太郎が属していた白虎寄合一番隊は慶応4年7月15日に若松をたち、越後街道を通って8月2日に藩境の赤谷口に到着、すでに西軍に寝返っていた新発田藩の領内から攻めてくる西軍に対する守備につきました。
8月15日に西軍と新谷で激突、銃撃戦の末津川に撤退、16日には阿賀野川を挟んで砲撃戦となり善戦していましたが、23日に猪苗代方面の母成峠が破られたため、津川口の兵を引くよう命が下り、25日に下野尻に移動しました。その際に琴平山で戦死したのが藤森八太郎でした。享年16歳。

境内右側のお堂に福海観音菩薩像が安置されています。

像は浮き彫りで、台石に上半身と下半身がほぞ差しで組み合わされている珍しい石像です。この像には数奇ないわれがあります。
ここ津川出身の品誉(ほんよ)上人が三国町の西光寺の住職となって11年勤めたのち、師匠である新善光寺の住職が亡くなり、その遺命によって新善光寺の住職になりました。その際、品誉上人を慕う西光寺の在家信者二人が無事息災を観音像に託して上人に贈りましたが、船が難破し、観音像は海に沈んでしまったそうです。
その後、漁師さんが上半身を日和山沖、下半身を信濃川河口で引き上げ、新潟の商人浅井家が浜辺にお堂を立てて祀っていました。その御子息がやはり観音像は新善光寺にあるべきと考え、平成2年に今の場所にお堂を建てて観音像を寄進したとのことです。





津川は雁木発祥の地。
慶長15年(1610)津川大火復興の際、津川城主・岡半兵衛重政により家々の玄関先の土間の部分にひさしをかけ、雁木(がんぎ)がつくられました。
津川では雁木を「とんぼ」というそうです。

つがわ狐の嫁入り行列
津川の正面にそびえる麒麟山にはキツネがいて、毎晩のようにキツネの声が聞こえ、狐火もよく見られたと言われています。
津川で毎年5月3日に行われる「つがわ狐の嫁入り行列」は古くから伝わる狐の嫁入り伝説を発展させて再興したものです。
行列は住吉神社をスタートし、街を練り歩いた後、麒麟山を望む常滑川左岸の会場に到着、結婚式と披露宴のあと、花嫁・花婿は常滑川を渡って麒麟山に向かい、漆黒の麒麟山に狐火が揺れる幻想的情景が広がるとのこと。
平成2年に始まったこの祭りは、2010年にはなんと5万3千人もの来訪者で賑わったそうです。


住吉神社内 一里塚跡。
住吉神社の祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命で、津川らしく、舟運の神です。かつては境内に一里塚があったとのことで、今は説明柱だけが立ってます。

正法寺。
天文元年(1532)に鵜川丹波と器堂存朴が本寺を創建したと伝わります。
境内にあの「姿三四郎」のモデル、講道館四天王の1人、西郷四郎の墓があります。



西郷四郎は慶応2年(1866)、会津藩士志田貞次郎の三男として会津若松で生まれました。
その2年後、戊辰の役で会津が敗れたのちは清川村角島、現在の津川に移住、幼少時代を過ごします。
17歳で上京、講道館の門をたたき、めきめきと力をつけ講道館四天王の1人となります。20歳であの西郷頼母の養子となって西郷家を再興、「西郷四郎」となります。
西郷頼母は大東流合気柔術の達人。会津藩内の「御留技(おとめわざ)」(門外不出の技)として伝えられてきた秘技を四郎は頼母から伝えられ、それが伝説の荒技「山嵐」につながった、といわれています。
大正11年(1922)、療養先の尾道で57歳の生涯を閉じました。
興味深いエピソードをひとつ。あのイザベラ・バードと西郷四郎は津川で遭遇しているのでは、という話です。
「日本奥地紀行」に、津川を通ったとき、一人の子供がイザベラに向かって外国人を侮辱する言葉を発し、警官が謝罪、その子供はこっぴどく叱られた、という記述があり、どうやらその悪童が少年時代の西郷四郎なんじゃないか、と。
真偽のほどはわかりませんが、儒教教育を中心とした会津藩士の家庭に育ち、生涯徹底した「毛唐嫌い」で通したと言われる西郷四郎ならありえるんではないでしょうか。

イザベラ・バードは著書「日本奥地紀行」に津川の宿で「生鮭の切り身がひとつ出たが、こんなにおいしいものは今まで味わったことがないと思う。」と書いています。
原文では「fresh salmon」=「生鮭」となっていますが、イザベラが津川に泊まったのは7月2日。鮭の遡上はおそらくありえません。
イザベラは塩鮭なら「fresh」とは書かないと思うので、この時期に生で食べられるのはサクラマス(ヤマメの降海型)だろうと思われます。

津川河港跡。
会津藩は、物資を若松から津川までは越後街道で陸送、津川から新潟までは阿賀野川の舟運を利用していました。その関係で津川は輸送の中継地として重要な場所で、越後街道随一の規模を誇っていました。
津川からは廻米、会津塗、たばこ、薪、炭、木材などを輸送し、新潟からは塩、綿布、海産物などを運びました。
江戸時代の船着場、「大船戸」は、その規模、賑わいから、岡山県旭川、千葉県利根川と並んでかつては日本三大河港と呼ばれていました。
明治になってから三方道路が整備されましたが、それでも物資の輸送は船のほうが効率的だったので、大船戸の川下に水量の増減に対応できる新河戸をつくり、津川の発展は続きました。
しかし、その後鉄道の開通、自動車輸送の発展などで、舟運は衰退し、下流にダムができて完全に港としての機能を失いました。
十返舎一九は津川のことを「川舟の出入り多く、越後新潟へ舟の出る所にて、商人見世も多く、いずれも大家のみ見えて繁盛のところなり。」と書いています。


現代の麒麟橋を渡り、JR津川駅にゴール。
旧越後街道探索ウォークの第2回は終了しました。
ほんと何度も書いていますが、西会津町、阿賀町と越後街道で結ばれている地域の方々と連携できて、実りあるイベントシリーズになってきています。
関係各位にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
早くもこの越後街道ウォークのネクストのイベント構想の話も出てきていて、かつての街道のつながりでもっともっと深い交流ができていけばいいなと思ってます。
このイベントの翌日から2日間、私はさらに先へ進み、第3回のゴールの新発田まで歩き通して下見してきました。諏訪峠に代表されるように、第1回、第2回とは違って山歩き的要素が大きい第3回となりますが、見どころは多く、楽しめると思います。
次回もご期待ください。
二日目はさらに2名の一般参加者を迎えスタート。
前日のにしあいづ観光交流協会さんのガイドも素晴らしかったですが、2日目は新潟に入り、阿賀町観光ガイドから4名ものプロフェッショナルガイドが駆け付けてくださり、各ポイントを分担して密度の濃いガイドをしていただきました。

前日のゴール地点からスタートし、八ツ田の集落を過ぎると。。。

鳥井峠の標識が。
ここからの道は歴史の道調査報告書にも記載されておらず、打ち合わせの段階で阿賀町の方々に教えてもらって初めて私は知りました。



石畳もところどころ残っています。
阿賀町には「会津街道ファンクラブ」というものがあり、会員によって道普請がたびたび行われているようで、旧道の雰囲気が復活しており、かつ歩きやすくてとてもありがたかったです。


それでもところどころは国道で寸断されており、かつての旧街道がわからなくなっているところもあります。
そのへんは迂回するしかないのですが、往時のルートを丁寧に解説していただきました。

福取集落の入口にある福取一里塚。

この福取の一里塚は、高さ約3m、周囲約20mで、旧道を挟んで一対が現存し、ほぼ原形を今日に伝えている貴重なものです。
一里塚がやや高い位置にあるように見えますが、これは道路の勾配をゆるくするため現代になって道自体を掘り下げたためです。

福取集落中央あたりに「ゴロ石」と呼ばれる円柱状の石があります。

なんでもこれは、明治初期に三方道路開削の際に道を平らにするためのローラーに使用した石とのことです。

後ろの建物はかつて旅籠だった「泉屋」。

惣座峠の開削の模様を古写真で解説。


今回の重要なチェックポイントのひとつ、八木山(かつての焼山)集落に入ると、右側に防空壕のような穴が。
これについてはのちほど。

旅籠の雰囲気を今に伝える「三条屋」の建物。


「三条屋」の看板は今も残っています。

そしてこの三条屋の前が旧越後街道で、おとなりにかつての本陣だった渡部家があります。

渡部家は郷頭とともに宿駅の問屋も兼ねていました。会津藩主の巡検や新発田村上藩主の参勤交代の際にはここ渡部家を本陣として休息したので、「殿様の間」「家老の間」があります。
以前にこのブログでも書きましたが(こちらをクリック)、下見のときにお会いした当主渡部一郎翁からいただいた名刺には「旧会津領」と書かれていました。
「今は新潟県に属しているが、今でも自分は会津人だ」とおっしゃる通り、今でも会津に対して熱い想いをお持ちの方で、今回も本陣の内部を開けて、我々が来るのを待っていてくださいました。


普段の玄関の横に、かつて殿様のみが使った特別の玄関があります。

この方が、ご当主、渡部一郎翁。

御年95歳とは思えない矍鑠としたお姿に、一同驚き。
この焼山宿の話を中心に、様々な興味深いお話をユーモアたっぷりにお話していただきました。

渡部さんは「今年はじめて老いを感じている」とおっしゃっていました。
それに対し、70代の参加者からは「まだまだ自分も年とったなんて言ってられない。これからが本番だな」と(笑)。
私なんぞは赤子同然です(苦笑)。

我々が座っている場所が、かつて家老が泊まった「家老の間」。

その奥が「殿様の間」です。
普通、殿様の間は敷居が一段高くなっているのですが、ここはのちの大工が手抜きをした?とかで、そうなっていません(笑)。

殿様が使用した?トイレ。

渡部さんのご厚意で、普段お目にかかれないいろんなお宝が次から次へ披露されました。




ついには刀も登場。


そうそう、本陣の脇の崖には人がくぐれるほどの穴が。

実はさきほどの写真の穴は、ここと通じていて、本陣が襲われたときの要人緊急脱出用のトンネルだとのことです。

渡部さんには今後もちょくちょくお話を聞きに伺いたいなと思ってます。

後ろ髪ひかれる思いで渡部さんの本陣をあとにし、一路西へ。
このあたりは沢の近くを旧街道が通っていたそうですが、今はその道形をみつけることができません。

栄山の一里石。
建立年は享和元年(1801)。旧越後街道は現在の国道よりもっと下、川の近くを通っていたそうです。
川の脇は崖で、本来の一里塚をつくるスペースがなく、場所をとらないこの一里石を置いたとのこと。

これも歴史の道調査報告書にはまったく記載がなかったのですが、かつて旧街道は花立と平石の間は国道よりもさらに北の山のほうを通っていたとか。

途中、スギ林の中を石畳がずっと続いている箇所に案内していただきました。

今は杉の葉の下に埋もれていますが、たしかに石畳です。

うまく露出させて整備できるといいなあ、なんて思いました。

花立集落へ。右上に大山祇神社。

会津藩家老・田中土佐関連墓石。
前回その1の最初、甲賀口門で少し触れた会津藩家老・田中土佐の妾の二男の墓が花立集落内にあります。


天満の地下壕跡。
第二次世界大戦の末期、昭和20年(1945)、戦局が不利になり、軍の指導者は本土決戦を考慮し、軍需物資の疎開を行いました。
そのときに天満に地下壕を掘削し、物資の貯蔵施設をつくった跡、坑道入口が今も確認できます。

110m四方の中に、高さ3m、幅4mの坑道が縦5本、横に8本掘られています。

天満に入り、北野神社境内へ。
参道入り口の左右に樹齢400年以上といわれる御神木の2本の大杉があります。それだけでなく境内にはスギやモミの大木がたくさんありました。
ここで昼食タイム。

昼食は豪華弁当。


北野神社から野村集落方面をのぞむ。
野村集落のはずれに延命地蔵尊が祀られていて、そこに明治4年まで一里塚があったそうですが、今はなくなっています。

天満の集落内で旧街道と三方道路が合流していて、そこに道路元標があります。

常浪川の渡船場跡。

この日は鮎の解禁日で、太公望たちがいっぱい来ていました。

平堀地蔵尊。下見のときは中を見れませんでしたが、この日はこの集落在住の阿賀町役場の方のご厚意で御開帳していただきました。

お堂の中央に地蔵菩薩像、右に閻魔天倚像、左に倶生神坐像が安置されています。

地蔵菩薩像。地域の人は「延命地蔵様」と呼んでいます。

閻魔天倚像。地元では「ジジ」と呼ばれています。

倶生神坐像。地元では「バサ」と呼ばれています。

鬼子母神(刑場跡)。
江戸時代の中期、このあたりに罪人を処刑する刑場があり、紫の衣を着た尼さんがいつも処刑された人を供養していたそうです。
その尼さんが亡くなったのち、宝暦年間(1751~64)に石の地蔵様が建立され、人々はその尼さんにちなんで「紫地蔵」と呼ぶようになりました。現在は延命地蔵と子育て地蔵が合祀されています。

ちょっと寄り道。地酒を扱っている酒屋へ。

試飲して私が一番気に入ったのが、この本醸造「はでっぱの香」。
「はでっぱ」とはお米を天日干しにする「はざ架け」のことだそうで、地元限定のお酒です。
次回、車で寄ったときには何本か購入しようと思います。
「はでっぱの香」以外にも「蒲原」とか私の好みのお酒がいっぱいありました。

いいお酒はいい水から。
津川の街中にもおいしい清水がそこここにあります。


新善光寺。
建久元年(1190)、尾張の沙門定尊が七堂伽藍を創立して開山し、その後貞治元年(1362)相州鎌倉光明寺の僧、感誓が現在の場所に移した、と伝わります。戊辰の役の際、柏崎から退いてきた桑名藩主・松平定敬(容保の弟)が、約2か月本営としてここに宿営しています。

新善光寺の境内には戊辰の役の際、戦死した白虎寄合一番隊士藤森八太郎の墓があります。
藤森八太郎が属していた白虎寄合一番隊は慶応4年7月15日に若松をたち、越後街道を通って8月2日に藩境の赤谷口に到着、すでに西軍に寝返っていた新発田藩の領内から攻めてくる西軍に対する守備につきました。
8月15日に西軍と新谷で激突、銃撃戦の末津川に撤退、16日には阿賀野川を挟んで砲撃戦となり善戦していましたが、23日に猪苗代方面の母成峠が破られたため、津川口の兵を引くよう命が下り、25日に下野尻に移動しました。その際に琴平山で戦死したのが藤森八太郎でした。享年16歳。

境内右側のお堂に福海観音菩薩像が安置されています。

像は浮き彫りで、台石に上半身と下半身がほぞ差しで組み合わされている珍しい石像です。この像には数奇ないわれがあります。
ここ津川出身の品誉(ほんよ)上人が三国町の西光寺の住職となって11年勤めたのち、師匠である新善光寺の住職が亡くなり、その遺命によって新善光寺の住職になりました。その際、品誉上人を慕う西光寺の在家信者二人が無事息災を観音像に託して上人に贈りましたが、船が難破し、観音像は海に沈んでしまったそうです。
その後、漁師さんが上半身を日和山沖、下半身を信濃川河口で引き上げ、新潟の商人浅井家が浜辺にお堂を立てて祀っていました。その御子息がやはり観音像は新善光寺にあるべきと考え、平成2年に今の場所にお堂を建てて観音像を寄進したとのことです。





津川は雁木発祥の地。
慶長15年(1610)津川大火復興の際、津川城主・岡半兵衛重政により家々の玄関先の土間の部分にひさしをかけ、雁木(がんぎ)がつくられました。
津川では雁木を「とんぼ」というそうです。

つがわ狐の嫁入り行列
津川の正面にそびえる麒麟山にはキツネがいて、毎晩のようにキツネの声が聞こえ、狐火もよく見られたと言われています。
津川で毎年5月3日に行われる「つがわ狐の嫁入り行列」は古くから伝わる狐の嫁入り伝説を発展させて再興したものです。
行列は住吉神社をスタートし、街を練り歩いた後、麒麟山を望む常滑川左岸の会場に到着、結婚式と披露宴のあと、花嫁・花婿は常滑川を渡って麒麟山に向かい、漆黒の麒麟山に狐火が揺れる幻想的情景が広がるとのこと。
平成2年に始まったこの祭りは、2010年にはなんと5万3千人もの来訪者で賑わったそうです。


住吉神社内 一里塚跡。
住吉神社の祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命で、津川らしく、舟運の神です。かつては境内に一里塚があったとのことで、今は説明柱だけが立ってます。

正法寺。
天文元年(1532)に鵜川丹波と器堂存朴が本寺を創建したと伝わります。
境内にあの「姿三四郎」のモデル、講道館四天王の1人、西郷四郎の墓があります。



西郷四郎は慶応2年(1866)、会津藩士志田貞次郎の三男として会津若松で生まれました。
その2年後、戊辰の役で会津が敗れたのちは清川村角島、現在の津川に移住、幼少時代を過ごします。
17歳で上京、講道館の門をたたき、めきめきと力をつけ講道館四天王の1人となります。20歳であの西郷頼母の養子となって西郷家を再興、「西郷四郎」となります。
西郷頼母は大東流合気柔術の達人。会津藩内の「御留技(おとめわざ)」(門外不出の技)として伝えられてきた秘技を四郎は頼母から伝えられ、それが伝説の荒技「山嵐」につながった、といわれています。
大正11年(1922)、療養先の尾道で57歳の生涯を閉じました。
興味深いエピソードをひとつ。あのイザベラ・バードと西郷四郎は津川で遭遇しているのでは、という話です。
「日本奥地紀行」に、津川を通ったとき、一人の子供がイザベラに向かって外国人を侮辱する言葉を発し、警官が謝罪、その子供はこっぴどく叱られた、という記述があり、どうやらその悪童が少年時代の西郷四郎なんじゃないか、と。
真偽のほどはわかりませんが、儒教教育を中心とした会津藩士の家庭に育ち、生涯徹底した「毛唐嫌い」で通したと言われる西郷四郎ならありえるんではないでしょうか。

イザベラ・バードは著書「日本奥地紀行」に津川の宿で「生鮭の切り身がひとつ出たが、こんなにおいしいものは今まで味わったことがないと思う。」と書いています。
原文では「fresh salmon」=「生鮭」となっていますが、イザベラが津川に泊まったのは7月2日。鮭の遡上はおそらくありえません。
イザベラは塩鮭なら「fresh」とは書かないと思うので、この時期に生で食べられるのはサクラマス(ヤマメの降海型)だろうと思われます。

津川河港跡。
会津藩は、物資を若松から津川までは越後街道で陸送、津川から新潟までは阿賀野川の舟運を利用していました。その関係で津川は輸送の中継地として重要な場所で、越後街道随一の規模を誇っていました。
津川からは廻米、会津塗、たばこ、薪、炭、木材などを輸送し、新潟からは塩、綿布、海産物などを運びました。
江戸時代の船着場、「大船戸」は、その規模、賑わいから、岡山県旭川、千葉県利根川と並んでかつては日本三大河港と呼ばれていました。
明治になってから三方道路が整備されましたが、それでも物資の輸送は船のほうが効率的だったので、大船戸の川下に水量の増減に対応できる新河戸をつくり、津川の発展は続きました。
しかし、その後鉄道の開通、自動車輸送の発展などで、舟運は衰退し、下流にダムができて完全に港としての機能を失いました。
十返舎一九は津川のことを「川舟の出入り多く、越後新潟へ舟の出る所にて、商人見世も多く、いずれも大家のみ見えて繁盛のところなり。」と書いています。


現代の麒麟橋を渡り、JR津川駅にゴール。
旧越後街道探索ウォークの第2回は終了しました。
ほんと何度も書いていますが、西会津町、阿賀町と越後街道で結ばれている地域の方々と連携できて、実りあるイベントシリーズになってきています。
関係各位にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。
早くもこの越後街道ウォークのネクストのイベント構想の話も出てきていて、かつての街道のつながりでもっともっと深い交流ができていけばいいなと思ってます。
このイベントの翌日から2日間、私はさらに先へ進み、第3回のゴールの新発田まで歩き通して下見してきました。諏訪峠に代表されるように、第1回、第2回とは違って山歩き的要素が大きい第3回となりますが、見どころは多く、楽しめると思います。
次回もご期待ください。
旧越後街道探索ウォークその2(野沢~津川編) 1日目 野沢から鳥井まで - 2014.07.17 Thu
ひとつのイベントが終わるとすぐに次のイベントの準備に追われる今日この頃。。。
終了したイベントのご報告が遅くなってすみません。
さる7月5日~6日に、旧越後街道探索ウォークの2回目、野沢~津川編を行いました。
今回は既報のとおり、初日はにしあいづ観光交流協会さん、2日目は阿賀町観光ガイドさんの協力を得て、前回よりさらにパワーアップ。
天気にも恵まれ、とてもいいイベントになりました。
まずは初日の模様をご報告いたします。

前回第1回の参加者+αが野沢に集結。

雙座松峠「道者みち」ウォークに参加してくれた方が、そのときのワラジで今回も歩き始めました。
そして、街道を先へ進む前に、少し寄り道して、越後街道三大宿のひとつ野沢の街中をじっくり散策。
この日ガイドをしてくださったにしあいづ観光交流協会の田崎さんの奥深いレクチャーを受けました。

郷倉跡。
郷倉とは主に年貢として領主に上納する米その他の生産物を村から送り出すまで、一時的に保管する目的で設置した蔵で、現在の野沢小学校のある場所にかつて郷倉がありました。

代官清水 代官所跡。
鎌倉時代末期(1300年ごろ)この地ををおさめていた荒井信濃守頼任が、今の野沢小学校に館をつくり、わき水を「館の清水」と呼んでいました。それから約500年後、文化5年(1808)に、原町の常楽寺東にあった会津藩野沢代官所がこの館跡に移転してからは、「代官清水」とよばれ今に伝えられています。


この写真の道路はさんだ向かい側、今は駐車場になっているあたりが本陣跡。
もとは「御茶屋」と呼ばれていたのですが、領主の領内巡検の際の宿になったり、会津藩の宿泊所として利用する頻度が多くなってきたため、享保7年(1722)6月から正式に「本陣」と呼ばれるようになりました。
また、会津戦争時は容保公が1868年の8月1日から13日の間ここに布陣して指揮をとりました。あの佐川官兵衛が家老に任命された場所でもあります。

東北の松下村塾といわれた研幾堂(けんきどう)は、建物は残っていませんが、現在のここ「朱泥庵(しゅでいあん)」というラーメン屋&民宿のあるこのへんにありました。
「渡部思斎」
1832年、野沢生まれ。藩校日新館で医学を学び、やがて野澤で漢方医を開業しました。
その後、私塾「研幾堂」を開設し、法政、経済、文学、医学の4科目を近隣の子弟に教えました。
会津の初期民権運動の高揚推進に尽力した人、多くの素晴らしい門弟を育てた人として知られています。
そしてこの渡部思斎の息子こそ、若松に「会陽医院」を開業、野口英世の左手を手術したあの渡部鼎です。
実は野口英世は野沢に金策のため何度も訪れており、鼎が従軍して留守中時の会陽医院の維持と、英世のアメリカ留学の援助をしたのは野沢の人々だったのです。
英世が世界的な医師になったのちの大正4年の一時帰国時にも、英世は野沢を訪れ、停車場で記念撮影した写真がいまも残っています。


化け桜。
読売新聞平成元年の「日本名木百選」で、全国7位にランクされた巨木。
木の空洞に白狐が住んでいたという言い伝えからそう呼ばれていますが、ほとんどの本には「下條の普賢象桜」という名で紹介されてます。
しかし八重桜の仲間の「普賢象」とはあきらかに違うし、看板にも「エドヒガン」と書かれています。
伝承では樹齢500年以上。旧越後街道の近くにはえていることからも、当時は旅人の目印にもなっていたと思われます。

鬼子母神 鞘堂

芝草・小屋田遺跡。
縄文中期(約5,500 - 4,500年前)の居住跡。

かつての旧街道は安座川をまっすぐ行ってましたが、今は渡れないので、堀越橋を回り込んでかつての道を眺めてレクチャー。

芹沼では下見のときにいろいろ伺った地元の方がこの日もいらしたので、みんなでお話を聴きました。

芹沼不動尊。


芹沼の一里塚。
半壊していますが、言われると確かに一里塚らしい形が残っています。


イザベラ・バードの「日本奥地紀行」の野沢についての記述に
「下を流れる急流の向かい側には、素晴らしい灰色の断崖がそそり立ち、金色の夕陽の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった。」
という美しい一文があります。
街道の地形を地図で見ると、野沢を出て阿賀川に近づくこのあたりの景色ではないかな、という推測ができます。


西光寺。
浄土宗。ご本尊は阿弥陀如来で、東京芝増上寺の直末寺です。開基の時期は不明で、光源という僧が開基、永正中良然という僧が中興したと伝わります。

入口左手前に馬頭観音があります。
◎野尻宿
野尻には上野尻と下野尻のふたつの村があって、どちらも越後街道の駅所でした。下野尻のほうが歴史は古く、戦国時代から阿賀川の舟運で物資を会津へ運ぶ基地でした。その需要の多さにより、すぐおとなりに上野尻ができるほどの賑わいで、野尻が重要な駅所だったのがわかります。ピーク時には上野尻99軒、下野尻80軒の家があったとの記録が残っています。
現在のJR上野尻駅の裏手に「中嶋」と呼ばれる荷物の発着所がありました。
当時、会津藩の廻米の量は年間10~13万俵で、そのうちの6割は下野街道から江戸へ、残りの4割が阿賀川舟運で日本海航路を通って京都・大阪に運ばれていました。
中嶋舟着場では、廻米を含めたすべての荷物がいったん陸揚げされて、役人の検査を受けた後、この後私たちが辿る車峠を越えて馬による陸路で運ばれるルートと、阿賀川沿いの道を徳沢舟着場へ運び、そこから鵜飼船に積んで舟運で搬送するルートに区分されて津川の湊に運ばれました。
野尻を通ったイザベラ・バードは「絵に見るような美しい村」と表現しています。

根析神社。
「ねさくじんじゃ」と読みます。
永仁二年(1294)8月1日の鎮座と伝わり、明治までは大天大明神と言われていました。
寛永五年(1628)、安座村の肝煎・二瓶七左衛門が時の藩主加藤嘉明から鶴ヶ城改修の資材搬出の命を受け、車峠の開削を行いました。
その際にこの神社の祭神の根烈神が七左衛門の夢に現れて工事を成功に導いたとされ、それ以来下野尻の鎮守となったそうです。
ここから車峠の登りが始まります。




峠の茶屋跡のすぐ手前に、かつて目印となっていた柿の古木があります。
その昔、ここの峠を越える地元の人が、ここで柿をとって、下の町で売っておこづかいにしていたとか。

車峠 茶屋跡。
かつて車峠には3軒の茶屋があったそうです。ここの茶店の名物「力餅」は、若松一ノ堰の「棒鱈」と、河東強清水の「鰊の天ぷら」とともに会津三大茶店名物といわれていました。
この車峠の茶屋は参勤交代の際の大名の休息所としても使われたため、殿様の休息する上段の間が設けられ、床下には警護の者が潜む隠れ部屋、さらには緊急脱出用の抜け道もあったとのこと。
この茶屋が豪雪で倒壊したのは昭和55年(1980)。そんな最近まであったのなら是非この目で見てみたかったと残念に思うのは私だけでしょうか。。。
明治11年6月、車峠に2泊したイザベラ・バードは、著書「日本奥地紀行」の中で、会津の山々の雪景色が素晴らしく、「蚤さえいなければ私はもっと滞在したいと思うだろう」と書いています。
また、イザベラ・バードは「はしごで登るひと間だけの2階の部屋」に泊まったと書いているので、それが前述の殿様用の上段の間だったのではないかと推測できます。





白坂の集落を過ぎてしばらく行くと、岩から吹き出すように美味しい水が出ています。
かつて街道を往来した旅人達もこの水でのどを潤したんじゃないかな、などと考えるとうれしくなります。

このへんの地名、宝坂の由来、この川底からはいまでもオパールがとれるそうです。

宝川一里塚跡。
一里塚は失われてしまっていますが、かつてあったと思われる場所に新しい標柱が建っています。


宝川に入り、安養寺(曹洞宗、ご本尊は釈迦如来。明治29年火災により焼失、明治31年に再建)の道路の向かい側に馬頭観音があります。

安養寺から川を渡り、すぐ左に折れるのが旧道で、わずかに往時の石畳が残っています。


宝川村は明治10年、16年、29年と度重なる大火でほとんどが焼失してしまったそうですが、この赤岩屋、そして高砂屋のふたつの旅籠の屋号の字のみが残っていて、宿場だった名残を伝えてくれています。


般若寺。
真言宗、かつては「勝善寺」という名で、あの徳一菩薩の創建と伝わります。ご本尊はお不動様。明治29年に火災で焼失、その後再建されました。

宝川を過ぎるといよいよ鳥井峠への登り。
宝川と八ツ田の間にある鳥井峠は、かつては「鳥居峠」と表記されていたそうで、それは飯豊神社の一ノ鳥居がこの峠にあったからそう呼ばれた、と伝わります。
現在の鳥井峠に続く道は明治三方道路と並行して整備された道で、イザベラ・バードや十返舎一九が登った道とは異なります。

十返舎一九は「諸国道中金の草鞋」の中で、この峠を
「苦しさに 口ばしばかりとがらせて 鳥居峠のなんじょこしたり」
と詠んでいて、イザベラ・バードは
「この道路はあらゆる合理的な近代思想を無視したもので山を真っすぐ登り、真っすぐ下る。その傾斜度ときたらあてずっぽうを云うのも怖いくらい」と書いています。
両者に共通しているのは今の道とはイメージの違う鳥井峠の厳しい道。その当時の道は宝川宿からほぼ真っすぐに現在の峠の南を通っていたようですが、現在は道形も残っておらず、確認できません。
また、吉田松陰がこの峠を越えたときは冬。松陰は「雪甚だ深く、行歩甚だ難し」と書いています。かんじきくらいは履いていたでしょうが、冬の峠越えは相当厳しかったことでしょう。
ちなみに鳥井峠から先の阿賀町もかつては会津藩領であったので、現在の県境はかつての国境ではないのですが、会津側から行く旅人はここまでを「会津街道」、ここから先を「新発田街道」と呼んでいたようです。
(ちなみに越後から会津方面への旅人にとっては「会津街道」)


鳥井峠、旧国道の標識の名残のある場所で記念撮影。
いよいよここで福島県から新潟県へ入ります。

峠を下ってすぐの八ツ田駐車場がこの日のゴール。

西会津に戻り、この日はロータスインのコテージに宿泊。
夜の懇親会はバーベキュー。



2日目、鳥井~津川へ続きます。
終了したイベントのご報告が遅くなってすみません。
さる7月5日~6日に、旧越後街道探索ウォークの2回目、野沢~津川編を行いました。
今回は既報のとおり、初日はにしあいづ観光交流協会さん、2日目は阿賀町観光ガイドさんの協力を得て、前回よりさらにパワーアップ。
天気にも恵まれ、とてもいいイベントになりました。
まずは初日の模様をご報告いたします。

前回第1回の参加者+αが野沢に集結。

雙座松峠「道者みち」ウォークに参加してくれた方が、そのときのワラジで今回も歩き始めました。
そして、街道を先へ進む前に、少し寄り道して、越後街道三大宿のひとつ野沢の街中をじっくり散策。
この日ガイドをしてくださったにしあいづ観光交流協会の田崎さんの奥深いレクチャーを受けました。

郷倉跡。
郷倉とは主に年貢として領主に上納する米その他の生産物を村から送り出すまで、一時的に保管する目的で設置した蔵で、現在の野沢小学校のある場所にかつて郷倉がありました。

代官清水 代官所跡。
鎌倉時代末期(1300年ごろ)この地ををおさめていた荒井信濃守頼任が、今の野沢小学校に館をつくり、わき水を「館の清水」と呼んでいました。それから約500年後、文化5年(1808)に、原町の常楽寺東にあった会津藩野沢代官所がこの館跡に移転してからは、「代官清水」とよばれ今に伝えられています。


この写真の道路はさんだ向かい側、今は駐車場になっているあたりが本陣跡。
もとは「御茶屋」と呼ばれていたのですが、領主の領内巡検の際の宿になったり、会津藩の宿泊所として利用する頻度が多くなってきたため、享保7年(1722)6月から正式に「本陣」と呼ばれるようになりました。
また、会津戦争時は容保公が1868年の8月1日から13日の間ここに布陣して指揮をとりました。あの佐川官兵衛が家老に任命された場所でもあります。

東北の松下村塾といわれた研幾堂(けんきどう)は、建物は残っていませんが、現在のここ「朱泥庵(しゅでいあん)」というラーメン屋&民宿のあるこのへんにありました。
「渡部思斎」
1832年、野沢生まれ。藩校日新館で医学を学び、やがて野澤で漢方医を開業しました。
その後、私塾「研幾堂」を開設し、法政、経済、文学、医学の4科目を近隣の子弟に教えました。
会津の初期民権運動の高揚推進に尽力した人、多くの素晴らしい門弟を育てた人として知られています。
そしてこの渡部思斎の息子こそ、若松に「会陽医院」を開業、野口英世の左手を手術したあの渡部鼎です。
実は野口英世は野沢に金策のため何度も訪れており、鼎が従軍して留守中時の会陽医院の維持と、英世のアメリカ留学の援助をしたのは野沢の人々だったのです。
英世が世界的な医師になったのちの大正4年の一時帰国時にも、英世は野沢を訪れ、停車場で記念撮影した写真がいまも残っています。


化け桜。
読売新聞平成元年の「日本名木百選」で、全国7位にランクされた巨木。
木の空洞に白狐が住んでいたという言い伝えからそう呼ばれていますが、ほとんどの本には「下條の普賢象桜」という名で紹介されてます。
しかし八重桜の仲間の「普賢象」とはあきらかに違うし、看板にも「エドヒガン」と書かれています。
伝承では樹齢500年以上。旧越後街道の近くにはえていることからも、当時は旅人の目印にもなっていたと思われます。

鬼子母神 鞘堂

芝草・小屋田遺跡。
縄文中期(約5,500 - 4,500年前)の居住跡。

かつての旧街道は安座川をまっすぐ行ってましたが、今は渡れないので、堀越橋を回り込んでかつての道を眺めてレクチャー。

芹沼では下見のときにいろいろ伺った地元の方がこの日もいらしたので、みんなでお話を聴きました。

芹沼不動尊。


芹沼の一里塚。
半壊していますが、言われると確かに一里塚らしい形が残っています。


イザベラ・バードの「日本奥地紀行」の野沢についての記述に
「下を流れる急流の向かい側には、素晴らしい灰色の断崖がそそり立ち、金色の夕陽の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった。」
という美しい一文があります。
街道の地形を地図で見ると、野沢を出て阿賀川に近づくこのあたりの景色ではないかな、という推測ができます。


西光寺。
浄土宗。ご本尊は阿弥陀如来で、東京芝増上寺の直末寺です。開基の時期は不明で、光源という僧が開基、永正中良然という僧が中興したと伝わります。

入口左手前に馬頭観音があります。
◎野尻宿
野尻には上野尻と下野尻のふたつの村があって、どちらも越後街道の駅所でした。下野尻のほうが歴史は古く、戦国時代から阿賀川の舟運で物資を会津へ運ぶ基地でした。その需要の多さにより、すぐおとなりに上野尻ができるほどの賑わいで、野尻が重要な駅所だったのがわかります。ピーク時には上野尻99軒、下野尻80軒の家があったとの記録が残っています。
現在のJR上野尻駅の裏手に「中嶋」と呼ばれる荷物の発着所がありました。
当時、会津藩の廻米の量は年間10~13万俵で、そのうちの6割は下野街道から江戸へ、残りの4割が阿賀川舟運で日本海航路を通って京都・大阪に運ばれていました。
中嶋舟着場では、廻米を含めたすべての荷物がいったん陸揚げされて、役人の検査を受けた後、この後私たちが辿る車峠を越えて馬による陸路で運ばれるルートと、阿賀川沿いの道を徳沢舟着場へ運び、そこから鵜飼船に積んで舟運で搬送するルートに区分されて津川の湊に運ばれました。
野尻を通ったイザベラ・バードは「絵に見るような美しい村」と表現しています。

根析神社。
「ねさくじんじゃ」と読みます。
永仁二年(1294)8月1日の鎮座と伝わり、明治までは大天大明神と言われていました。
寛永五年(1628)、安座村の肝煎・二瓶七左衛門が時の藩主加藤嘉明から鶴ヶ城改修の資材搬出の命を受け、車峠の開削を行いました。
その際にこの神社の祭神の根烈神が七左衛門の夢に現れて工事を成功に導いたとされ、それ以来下野尻の鎮守となったそうです。
ここから車峠の登りが始まります。




峠の茶屋跡のすぐ手前に、かつて目印となっていた柿の古木があります。
その昔、ここの峠を越える地元の人が、ここで柿をとって、下の町で売っておこづかいにしていたとか。

車峠 茶屋跡。
かつて車峠には3軒の茶屋があったそうです。ここの茶店の名物「力餅」は、若松一ノ堰の「棒鱈」と、河東強清水の「鰊の天ぷら」とともに会津三大茶店名物といわれていました。
この車峠の茶屋は参勤交代の際の大名の休息所としても使われたため、殿様の休息する上段の間が設けられ、床下には警護の者が潜む隠れ部屋、さらには緊急脱出用の抜け道もあったとのこと。
この茶屋が豪雪で倒壊したのは昭和55年(1980)。そんな最近まであったのなら是非この目で見てみたかったと残念に思うのは私だけでしょうか。。。
明治11年6月、車峠に2泊したイザベラ・バードは、著書「日本奥地紀行」の中で、会津の山々の雪景色が素晴らしく、「蚤さえいなければ私はもっと滞在したいと思うだろう」と書いています。
また、イザベラ・バードは「はしごで登るひと間だけの2階の部屋」に泊まったと書いているので、それが前述の殿様用の上段の間だったのではないかと推測できます。





白坂の集落を過ぎてしばらく行くと、岩から吹き出すように美味しい水が出ています。
かつて街道を往来した旅人達もこの水でのどを潤したんじゃないかな、などと考えるとうれしくなります。

このへんの地名、宝坂の由来、この川底からはいまでもオパールがとれるそうです。

宝川一里塚跡。
一里塚は失われてしまっていますが、かつてあったと思われる場所に新しい標柱が建っています。


宝川に入り、安養寺(曹洞宗、ご本尊は釈迦如来。明治29年火災により焼失、明治31年に再建)の道路の向かい側に馬頭観音があります。

安養寺から川を渡り、すぐ左に折れるのが旧道で、わずかに往時の石畳が残っています。


宝川村は明治10年、16年、29年と度重なる大火でほとんどが焼失してしまったそうですが、この赤岩屋、そして高砂屋のふたつの旅籠の屋号の字のみが残っていて、宿場だった名残を伝えてくれています。


般若寺。
真言宗、かつては「勝善寺」という名で、あの徳一菩薩の創建と伝わります。ご本尊はお不動様。明治29年に火災で焼失、その後再建されました。

宝川を過ぎるといよいよ鳥井峠への登り。
宝川と八ツ田の間にある鳥井峠は、かつては「鳥居峠」と表記されていたそうで、それは飯豊神社の一ノ鳥居がこの峠にあったからそう呼ばれた、と伝わります。
現在の鳥井峠に続く道は明治三方道路と並行して整備された道で、イザベラ・バードや十返舎一九が登った道とは異なります。

十返舎一九は「諸国道中金の草鞋」の中で、この峠を
「苦しさに 口ばしばかりとがらせて 鳥居峠のなんじょこしたり」
と詠んでいて、イザベラ・バードは
「この道路はあらゆる合理的な近代思想を無視したもので山を真っすぐ登り、真っすぐ下る。その傾斜度ときたらあてずっぽうを云うのも怖いくらい」と書いています。
両者に共通しているのは今の道とはイメージの違う鳥井峠の厳しい道。その当時の道は宝川宿からほぼ真っすぐに現在の峠の南を通っていたようですが、現在は道形も残っておらず、確認できません。
また、吉田松陰がこの峠を越えたときは冬。松陰は「雪甚だ深く、行歩甚だ難し」と書いています。かんじきくらいは履いていたでしょうが、冬の峠越えは相当厳しかったことでしょう。
ちなみに鳥井峠から先の阿賀町もかつては会津藩領であったので、現在の県境はかつての国境ではないのですが、会津側から行く旅人はここまでを「会津街道」、ここから先を「新発田街道」と呼んでいたようです。
(ちなみに越後から会津方面への旅人にとっては「会津街道」)


鳥井峠、旧国道の標識の名残のある場所で記念撮影。
いよいよここで福島県から新潟県へ入ります。

峠を下ってすぐの八ツ田駐車場がこの日のゴール。

西会津に戻り、この日はロータスインのコテージに宿泊。
夜の懇親会はバーベキュー。



2日目、鳥井~津川へ続きます。
8/21 アサギマダラ観察マーキング会 参加者募集 - 2014.07.17 Thu
8/9 わんぱく子供川遊び 参加者募集 - 2014.07.14 Mon
モリアオガエルの卵 - 2014.07.03 Thu
飯豊山山開きの記念品、いい出来です! - 2014.07.02 Wed
今度の土曜に行われる飯豊山山開き。
来られた方へ配られる記念品のクリアファイルが完成しました。
いや~古地図や飯豊山神社の由来がプリントされ、今までで一番イケてるデザインなんじゃないかな、と(笑)。



これをGETしたい方、ぜひ土曜日の飯豊山山開きに一ノ木へお越しください。
山開きの詳細は→こちらをクリック
来られた方へ配られる記念品のクリアファイルが完成しました。
いや~古地図や飯豊山神社の由来がプリントされ、今までで一番イケてるデザインなんじゃないかな、と(笑)。



これをGETしたい方、ぜひ土曜日の飯豊山山開きに一ノ木へお越しください。
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