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2014-09

「飯豊山」の名の由来 - 2014.09.30 Tue

先週の土曜日、新潟県新発田市で開催された「第28回会津と越後を語る会」に参加させていただきました。

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会津と越後が歴史の研究を通じ、文化交流を深めていく素晴らしい大会で、当日配布資料も充実していて、過去のバックナンバーも読んでみたいです、とポロっと言ったら一緒に行った山都の方がすぐに持ってきてくださり、昨夜はむさぼり読みました。

まだとても全部は読み切れていないのですが、その中でひとつ興味深かったのが、平成12年に河東町で行われた第15回大会での中条町・五十嵐力さんの研究発表「飯豊山の山名由来私考」。

飯豊山のことを知らない人はまず「飯豊」を「いいで」とは読めないですよね。
山名の由来としては、飯豊山神社の縁起、「白雉3年(652)に飯豊を開山した知道という和尚が、山容が飯を豊かに盛る姿に似ているところから飯豊山と名付けた」というのが一般に知られていますが、縁起には読み方は書いておらず、漢字はともかく「いいで」と呼んだのかはわかりません。

「いいで」と読む由来としては、新発田市赤谷の湯の平温泉から登る道の「湯出(ゆいで)」から来ているという説がありますが、この道自体、山都の川入ルートと比べたらだいぶ後の時代のものだというし、80代90代のお年寄りの方々からは、ずっと昔は「いいでさん」なんて言わず「いいとよさん」って言ってたんだよって聞いたりしてたので、私はなんだか腑に落ちない気持ちでいました。

この研究報告の中で、五十嵐力さんは山名の由来について、4世紀前後の女帝、飯豊青尊(イイトヨアオノミコト)からきている可能性について論じられています。

面白いですね~。もっと研究がすすんで、いつか「いいとよさん」と呼ぶのが普通、という時代がきたりして(笑)。

会津北方桐細工体験(with 長床シンポジウム) 無事終了しました。 - 2014.09.29 Mon

昨日28日に「会津北方桐細工体験」を山都町木曽の「佐藤工房(こちらをクリック)」で行いました。

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講師は石臼づくりのプロ、佐藤勝次朗氏。

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軽くレクチャーを受けた後、さっそく作業開始。

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まず桐材の全面にやすりをかけて滑らかにします。

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続いてカップを置く場所などをくりぬきます。

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外枠を中心におおまかにくりぬいたあと、、、

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ノミで丁寧に彫っていきます。

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面を取り、全体をヤスリで仕上げてカタチはできあがり。みなさん、「アーティスト」ですねえ(笑)。

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ここから、あの桐独特の木目とツヤを出す作業。

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表面を結構ガンガン焼きます。

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炭になっちゃいました。。。というわけでなく、

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今度は表面の炭をどけるように磨きあげます。

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見事に木目が浮かび上がりました。

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ツヤもばっちり出ています。

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最後に記念撮影。
参加者みなさんそれぞれ作ったものが違っていて、個性がでて面白かったです。

講師をしてくださった佐藤氏は、普段は石臼のメンテナンス等で飛び回ってる忙しい方ですが、山都に活気を取り戻したいと今回の企画を私のところへ持ち込んでくださいました。
忙しいときはもちろん無理ですが、手が空いているときは山都に遊びに来てくれる人は歓迎してくれますので、ご興味のある方、まずはご連絡を。

石臼の佐藤工房 
TEL 0241-38-2875

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お昼は山都のおいしい蕎麦屋「やまと路(こちらをクリック)」で。

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いつ行ってもほんとおいしいです。
来月はいよいよ新そば登場です!

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午後はそのまま参加者を連れて喜多方市街地へ場所を移し、文化財シンポジウム「長床を考える~長床の性格と熊野神社本殿の建築年代~」へ。
このシンポジウムは昨年夏の第1回に続く2回目。
第1回は考古学、建築学、文献学、そしてC14年代測定法に基づく長床の建築年代の推定でしたが、(そのときのブログ記事→こちらをクリック)今年は寝殿造を専門とする建築史家から見た長床がどのような目的で使われていたのかと、本殿の建物調査による建築年代推定、昨年同様C14年代測定法に基づく熊野神社本殿と御神像の年代測定結果の発表がありました。

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発表内容をざっくりまとめると、
・長床の開放的な空間、規模などから、儀式専用の建物、それも敷物を敷いて座った形=大宴会などに使っていたのではないかと想像される。
・建物調査による修理個所や建築様式などから推定すると、文亀元年(1501)の大地震で本殿は倒壊し(長床はこのときは無事だったものの1611年の地震で倒壊)、今のものはその頃再建されたと思われる。
・本殿の三社のうち、新宮はその文亀再建時の状態を維持、本宮はその後も解体修理を受けているものの古材がかなり現存、那智宮は軸部は再建時のものを維持しているものの、三社以外の社殿の部材も使われている。
・C14年代測定法での結果は新宮御神体男神が平安中期(1039~1165)に伐採された用材を使用、新宮殿丸柱は1449~1471年あたりの部材と出た。

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私の個人的な印象ですが、今年は昨年のようなセンセーショナルな雰囲気はなかったですが、逆にさらに謎が深まったような、今後の展開にますます興味をおぼえるような、そんな内容だったような気がします。

これからも期待大だし、こうして喜多方の誇る貴重な文化財、長床への注目度が増していくムーブメントはとても素晴らしいですね。

10/25-26 雑穀おむすびの結その4 稲刈り&雑穀収穫 参加者募集 - 2014.09.24 Wed


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スケジュール
10/25
    12:40    山都駅集合  (電車で来られる場合、 11:27または13:34山都着)
    13:00    千咲原・雑穀畑 雑穀収穫開始
    17:00    作業終了
    17:30    いいでのゆ
    18:30     食事つくり
    19:30    交流会 
            黒森山荘泊

10/26
     6:00    起床 くるみ拾い
     7:00    朝食
     8:00    一ノ木 田んぼ稲刈り・はぜがけ作業開始
    11:30    作業終了
    12:00      一ノ木・弘法そばにて昼食
    13:00     稲刈り・はぜがけ(作業が早く終わるようなら雑穀収穫)
    15:00     作業終了
    15:30     山都駅着 解散  若松方面15:40発
 
※雨天の場合、そば資料館でのそば打ちや、すでに収穫している雑穀の脱穀に予定変更の可能性あります。
※基本的にフル参加できる方に参加を限らせていただきますが、どうしても部分参加希望という方、ご相談ください。


雑穀おむすびの結 今後のスケジュール
その5 11月22-23日 脱穀、柿収穫、干し柿つくり、みそ用大豆収穫
その6 12月13-14日 収穫祭、たくあん作り、刺身こんにゃく作り
その7 2月28日-3月1日 手前みそ作り

旧越後街道ウォーク ルートマップ まとめ - 2014.09.18 Thu

今回のウォークイベントのために作成した越後街道マップのご要望が多いので、ここに掲載します。

街道とはひとつではなく、時代によってルートが変わったりします。
今回は福島県教育委員会の「歴史の道 越後街道」と新潟県教育委員会の「歴史の道調査報告書 会津街道」をベースに、実際に歩き、地元の人などにお話をうかがい、地元の資料を参考にしたりして、ルートを決めました。
道がわかっていても灌木や草に埋まって通行困難だったり、崩落していて危険なところは自動車道を通り、すでに橋がない川を渡る箇所は迂回しました。
地図上には本来の街道はこっちとわかるところは点線で記してあります。
また、街道ではなくとも、見どころが多い場所はウォーキングルートとしました。
実際にイベントを行った後、さらに調べたい箇所もでてきています。

越後街道は、まだ一部の区間しか遊歩道として整備されていないので、ほとんど標識はなく、案内なしではわからない箇所も多々あります。
草刈りのなされていないところは通行が困難なところもあります。
山中を通る区間が多く、クマ、ハチなどに遭遇する可能性もあり、また諏訪峠前後の津川~行地間はヤマビルが多く生息する地域です。
そのへんをご理解の上、あくまで自己責任で、このマップを活用していただければ幸いです。

今回のイベントをきっかけに、さらなる道の整備、マップづくりをしていきたいと、西会津町や阿賀町の方々とも話しているところです。
不明な点、またはさらに詳しいことを知りたい場合は遠慮なく山都G.T.堀口までご連絡ください。

また、個人で利用される場合はかまいませんが、無断転載は禁じさせていただきます。イベント等で使用される場合も念のためご一報くださいますよう、お願いいたします。



旧越後街道探索ウォークその1 1日目(2014.5.24)
(鶴ヶ城~高久~坂下~気多宮) 約21㎞ 参考歩行時間7時間半
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その1 1日目 
チェックポイント一覧
CP1 内藤介右衛門邸跡、白露庭
CP2  西郷頼母邸跡
CP3 会津戦争終結の地
CP4 甲賀口門跡 石垣
CP5 竹藤民芸店
CP6 五街道起点 大町札の辻 道路元標
CP7  清水屋旅館跡
CP8  金剛寺
CP9  常光寺
CP10 阿弥陀寺
CP11 柿本稲荷神社境内 湯殿山道標
CP12 キリシタン塚
CP13 念仏供養宝塔
CP14 馬頭観世音供養塔群
CP15 中野竹子殉節の地
CP16 高瀬新田 道標
CP17 金毘羅大権現常夜燈籠
CP18 道標
CP19 馬頭観世音供養塔
CP20 金毘羅大権現常夜燈籠
CP21 巳待供養塔
CP22 御稷神社境内 千年ケヤキ
CP23 廣木酒造本店
CP24 法界寺 中野竹子の墓
CP25 光明寺 楼門
CP26 光照寺
CP27 貴徳寺 堀部安兵衛の両親の墓
CP28 定林寺 栗村弾正の墓
CP29 諏訪神社
CP30 百万遍供養塔
CP31 臼ケ森古墳 愛宕神社
CP32 栗村堰
CP33 恵隆寺 立木観音
CP34 心清水神社
CP35 吉田松陰遊歴の碑
CP36 湯殿山石柱
CP37 気多神社
CP38 追分道標
JR只見線塔寺駅 ゴール

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旧越後街道探索ウォークその1 2日目(2014.5.25)
(気多宮~舟渡~片門~束松峠~軽沢~縄沢~野沢) 約17㎞ 参考歩行時間7時間
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その1 2日目
チェックポイント一覧
塔寺駅スタート
CP1 街道道標
CP2 イザべラバードが下った旧道入口
CP3 坂ノ下地蔵堂
CP4 舟渡の一里壇
CP5 番持ち石
CP6 殿様の腰掛石
CP7 束松事件看板
CP8 束松(三本松)
CP9 石畳
CP10 一里塚
CP11  束松洞門往復 
CP12 峠の茶屋
CP13 戊辰戦争塹壕跡
CP14 別茶屋 茶屋跡
CP15 一里塚跡
CP16 冑(かぶと)神社
CP17 縄沢 馬頭観音
CP18 一里塚 
CP19 諏訪神社
CP20 鬼子母神
(OP 栄川酒造)
JR磐越西線野沢駅ゴール

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旧越後街道探索ウォークその2 1日目(2014.7.5)
(野沢~野尻~車峠~宝川~鳥井峠~八ツ田) 約16㎞ 参考歩行時間7時間
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その2 1日目
チェックポイント一覧
野沢駅スタート
CP1 郷倉跡
CP2 代官清水 旧代官所
CP3 本陣跡
CP4 脇本陣跡
CP5 化け桜
CP6 鬼子母神 鞘堂
CP7 芝草・小屋田遺跡
CP8 堀越橋
CP9 芹沼不動尊
CP10 芹沼一里塚跡
CP11 西光寺
CP12 慈眼寺 銀杏巨木
CP13 根析神社
CP14 車峠茶屋跡 
CP15 白坂の神社 巨木
CP16 水場
CP17 宝川一里塚
CP18 安養寺
CP19 石畳
CP20 赤岩屋
CP21 高砂屋
CP22 般若寺
CP23 鳥井峠入口
CP24 鳥井峠
八ツ田駐車場 ゴール

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旧越後街道探索ウォークその2 2日目(2014.7.6)
(八ツ田~福取~八木山~野村~花立~平堀~津川) 約17㎞ 参考歩行時間7時間

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その2 2日目
チェックポイント一覧
八ツ田駐車場出発
OP  熊野神社
CP1 福取一里塚
CP2 泉屋
CP3 ゴロ石
CP4 惣座峠
CP5 三条屋
CP6  渡部家本陣   
CP7 一里石
CP8 大山祇神社
CP9 会津藩家老・田中土佐関連墓石
CP10 旧小川村天満地下壕跡
CP11 天満宮北野神社 昼食
CP12 野村一里塚跡
OP 馬頭観音
CP13 青面金剛像
OP 渡船場跡
CP14 平堀地蔵尊 
CP15 鬼子母神(刑場跡)
CP16 神明神社
CP17 新善光寺  
CP18 正法寺 西郷四郎供養塔
CP19 住吉神社内 一里塚跡
CP20 琴平清水
CP21 御小屋跡
CP22 津川河港跡
JR磐越西線津川駅ゴール

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旧越後街道探索ウォークその3 1日目(2014.9.6)
(津川~諏訪峠~行地~新谷) 約12㎞ 参考歩行時間8時間
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その3 1日目
チェックポイント一覧
津川駅 スタート
CP1 角島観音堂
CP2 追分道標
CP3 石だたみ
CP4 柳新田一里塚
CP5 諏訪峠 松陰詩碑・井戸跡 
CP6 大ブナ
CP7 中ノ茶屋跡
CP8 行地一里塚
CP9 旅籠「富士屋」跡
CP10 旧山本屋
CP11 あねさ松跡
CP12 旧道 草倉道分岐
CP13 旧道 腰掛場所跡
CP14 旧道 石だたみ
CP15 えのき様
CP16 熊野神社 大ケヤキ
CP17 旧新谷木橋跡
OP-a 新谷寺 新宮氏「首の宮」跡
CP18 旧本陣
新谷一里塚跡 ゴール

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旧越後街道探索ウォークその3 2日目(2014.9.7)
(赤谷~山内~米倉~新発田城) 約19㎞ 参考歩行時間7時間半
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その3 2日目
チェックポイント一覧
OP-b 旅籠「山城屋の屋号石」
OP-c 綱木一里塚跡
OP-d 郡境の祠
OP-e ぶな峠の石仏
赤谷一里塚 スタート
CP1 聿修碑
OP-f 景勝清水
CP2 會藩戦死碑
CP3 藩境
CP4 角石原戦跡の碑
CP5 山内口留番所
CP6  一本木原松並木
CP7 米倉神社
CP8 普門院
CP9 大庄屋・旧斎藤家 
CP10 天原・みちしるべ
CP11 五十公野御茶屋庭園 
CP12 道標
CP13 足軽長屋
CP14 札の辻
CP15 「義士堀部安兵衛誕生の處」の碑
新発田城表門 ゴール

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10/18-19 会津塩川バルーンフェスティバル&山都新そばまつり - 2014.09.18 Thu

10月18日、19日に喜多方市塩川町で今年もバルーンフェスタがあります。
今年はなんと!熱気球の世界チャンピオンも来るそうです。
恥ずかしながら熱気球に世界選手権があることを私は知りませんでしたが、今年ブラジルで行われた大会で、日本人としては初めて優勝された方だそうです。

また、ナイトグローは一度観に行ったことあるのですが、花火とあいまってとてもきれいだし、特に写真家にはおススメです。

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そして既報ですが、同日には山都では恒例の新そばまつり開催。よかったらその足で山都にも来ていただいて、バルーンも新そばも堪能していただけたらと思います。

みなさん、10月18-19日はぜひ喜多方へ!
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旧越後街道探索ウォーク 完踏認定証 - 2014.09.17 Wed

5月 7月 9月と3回にわたり、会津若松城から新発田城まで合計約99.8㎞(みちくさ分は入ってないのでおそらくは110㎞以上)を歩いた旧越後街道探索ウォーク。
のべ43名もの参加者があったのですが、その中で6日間、全行程を踏破された方が5名いらっしゃいました。

最終日前夜の宴会のときに「完踏したら何かあるといいね」との声があったので(笑)、その栄誉をたたえ、ささやかながら「認定証」なるものをつくってみました。

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これは試作版。


また、先週あたりから、どこからこのイベントの話を聞いたのか、「行ってみたかった」「地図や資料が欲しい」「来年はやるのか」といった問い合わせが結構ありまして、あらためて「街道」の関心度は高いな~と実感しています。

まだまだ道の整備はできていないし、わかりづらい箇所多、崩落箇所、クマ出没、ヒル生息地と一般向けでない部分が多々あるのですが、あくまで自己責任が基本として越後街道に関心もって、歩きに訪れる人が増えてくれることは喜ばしいことだと思うので、近々街道ルートマップと見どころチェックポイントはこのブログに掲載してみようと思います。


山都の赤いそばの花 - 2014.09.15 Mon

喜多方市山都町、そばで有名な宮古地区の一角でちょっと珍しい赤いそばの花を今、見ることができます。
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旧越後街道探索ウォークその3(津川~新発田編)  2日目 赤谷から新発田まで - 2014.09.12 Fri

旧越後街道探索ウォークその3の2日目。
いよいよこの旅の終着地、新発田城へ。

実は、前日ゴールの新谷一里塚から赤谷一里塚までの2里8㎞ほどの区間は旧道があまり残っておらず、さらに歩道が狭く見通しの悪いカーブが多くて大型車の通行がある道が続くので、下見の段階で参加者の安全を考えてバスで通過することにしました。

よって2日目のスタートは新谷ではなく赤谷としました。
とはいえ、途中には吉田松陰も十返舎一九も宿泊した綱木宿があるので、そこの史跡もご紹介します。

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旅籠「山城屋の屋号石」。
かつて宿場として栄えていた綱木地区には旅籠が20軒ほどありました。そのなかで昭和初期まで営業していた旅籠が「山城屋」です。
嘉永5年(1852)2月8日、諏訪峠を越えてきた吉田松陰と宮部鼎蔵はこの山城屋に宿泊しています。
山城屋のかつての隆盛を誇るかのように今も石の看板が残っています。

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綱木一里塚跡
上綱木集落の北のはずれにかつて「綱木一里塚」があったと言われていますが、県道の改良や昭和42年の羽越水害によって塚は消滅してしまったそうです。今はこの写真のちょっとした岩が残っているあたりがそうだったとのことです。

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これはコースからかなり離れていて、本イベント中に寄るのを断念した滝谷地区の大慶寺。
開基は不明、慶長11年(1606)に再興されたとの記録があります。
平氏の落ち武者、佐久間勘解由らが、対岸の山中より鶏の鳴き声を聞いて住民の存在を知り、谷を渡ったとの伝説があり、山号は鶏谷山といいます。

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なぜ寄りたかったかというと、この大慶寺の境内には戊辰の役の際に敗走した会津藩士とその前哨戦などで戦死した滝谷村農猟兵を悼み、明治44年(1911)に地元の有志によって建立された戊辰役殉難者霊碑があるのでした。

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二日目、赤谷一里塚をスタート。

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そして二日目の朝から、また新たな強力案内人、合流。
ここ赤谷在住で、やはり赤谷周辺のことならなんでもござれの郷土史研究家、杉原氏。

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杉原さんの詳しくて丁寧な解説に、参加者みな聞き入っていました。

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一里塚からすぐ右へ入った旧道にはかつて6軒家があったから「六軒町」と呼ばれる場所があり、おいしい清水もありました。

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聿修碑
宝永7年(1710)、銘酒「飯豊川」を酒造していた赤谷の造り酒屋の片野氏が、赤谷開村などの歴史や、関東武将の太田資政との関係についてを刻んだ石碑です。新発田市内では一番古い石刻物とのことです。

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赤谷の街並み。
かつてはもっと細い道だったそうで、ずっと並木が続いていたそうですが、昭和39年の国体の際、登山競技が行われるということで、今のように広くきれいに変わってしまったそうです。

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景勝清水
上杉景勝が小田切氏を攻めるためここ赤谷に布陣した際、飲料用の水不足に陥り、この辺りを槍で突いたら水が湧き出したとの言い伝えがあります。

◎上杉景勝の赤谷攻め
天正15年(1587)、秀吉の越後平定の命により、上杉景勝は新発田重家と対峙します。しかし会津・葦名義広は新発田に味方したので、会津から新発田への支援路を断ち切るために小田切氏の守る赤谷城(関ヶ峰城)を攻めました。
景勝は直江兼続らを連れ、上赤谷地区の南の小山に3日間陣を引きました。赤谷城を巡る攻防は、数の上でも圧倒した(小田切1000に対して上杉は10000)上杉軍の勝利となり、1週間ほどで落城しました。

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江戸時代、いわゆる「関所」は幕府が設置するもので、藩独自の関所の設置は認められていなかったので、各藩は藩境や交通の要衝に「口留(くちどめ)番所」というものを設け、人および物資の出入りを取り締まりました。
会津藩の口留番所はここにあったそうです。

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會藩戦死碑
慶応4年(1868)7月から8月にかけて、赤谷周辺の角石原、入鳥越、猪ノ原などで、会津軍と西軍の激しい戦いがありました。
このとき戦死した20名近い会津藩士を悼み、赤谷の方々が明治17年にこの石碑を建てました。杉原さんをはじめ赤谷の方々が今もこの碑を大切に守ってくださっています。

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赤谷からさきは田んぼの間の道が旧道のあったルートに近く、それを通りました。

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今回は、前回みたいにヤブこぎがないなーとの声が参加者からきこえていましたが、、、それは甘い(笑)。

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そして。。。ついに会津藩領のはじっこへ。
今はなんの標識もありませんが、文字通り「境川」、「境橋」のこの場所が、かつての会津藩と新発田藩の境でした。新発田藩主が参勤交代を行う際には、郡奉行はここまで見送り、そしてまた出迎えたそうです。

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境川。

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かつての藩境に立って、レクチャーを受けました。

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会津藩と新発田藩の藩境に一列、EXILEバージョン(笑)。

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角石原戦跡の碑
慶応4年(1868)8月14日、会津領と新発田領の境、角石原で会津軍と西軍の激突がありました。
西軍は新発田、長州、薩摩、加賀の連合軍。
雷雨で見通しが悪く、近距離で不意に戦闘がはじまったため、銃火を交えることなく白兵戦となり、槍隊など白兵戦を得意とする会津軍が強く、西軍はいったん山内まで撤退しました。(戦死者は多く、白虎隊士佐々木新六郎もこの時戦死。享年16歳。)
しかし、立て直して今度は火力を用いて反撃に出た西軍が有利となり、会津軍は退却、行地まで退きました。

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まさに「つわものどもが 夢の跡」を感じる一枚ですね。

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ときおり猿よけの空砲が鳴り、至近距離でくらうとかなりびっくりしました。

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山内口留番所跡。
これは新発田藩側が置いた口留番所があったあたり。

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ここで杉原さんとはお別れ。丁寧な解説、ほんとうにありがとうございました。

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一本木原松並木
このあたり一帯にかつては新発田藩の御用林があり、街道沿いには見事な松並木が続いていたそうです。
藩もその景観を大事にし、伐採を禁じていたそうですが(有事の際には切り倒して敵を防ぐ狙いもあったとのこと)、時は流れ太平洋戦争の時代に、燃料等に使うためほとんど切られてしまったそうです。
今は米倉小学校周辺に往時をしのばせる松の巨木が少し残っているだけです。
 
「これより大まつばら一里ばかりゆきて、よねぐらの駅にいたる」  十返舎一九(金の草鞋)

1407081242a米倉神社
米倉の集落に入り、街道を少し右に入ると米倉神社。
創建は不明ですが、地域で祀られていた17社を合祀したと伝わります。

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米倉神社の境内の祠には疱瘡神が祀られていて、かつて米倉の人々は天然痘をもらたす神を丁寧にお祀りすることで軽くすむように祈ったそうです。

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普門院 
康治2年(1143)にある僧が京都から本尊となる十一面観音を背負ってこの地に持ってきたと伝わります。享保18年(1733)に本堂が再建されたことを記す棟札が残っています。

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この日は太平洋戦争の戦没者の供養をやっていて、十一面観音のお姿も拝見することができました。

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大庄屋・旧斎藤家
斉藤家は保元・平治の乱で活躍した武将斉藤実盛の末裔で、溝口氏の治世において新発田組大庄屋をつとめました。
現在の建物は藩主が休息等で立ち寄った際に利用した書院です。

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庭園はこのあと訪れる清水園や五十公野御茶屋庭園と同様、江戸中期の有名な庭師・茶人、縣宗知(あがたそうち)によってつくられたものと伝わります。

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庭の石燈籠は京都から運んできたものだそうです。

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庭には殿様がかごを降りた「かご置き場」とみられる長方形に埋め込まれた敷石があって、殿様はそのまま石づたいに建物へ入れるようになっています。

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この大庄屋・旧斎藤家は、平成18年にコミュニティ施設「有機の里交流センター」として整備されて憩いの場として一般開放されていたので、今回は事前にお願いして昼食をとる場所としてお借りしました。

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天原(てんのはら)のみちしるべ
だいぶ消えちゃってますが、かろうじて「右えどみち 左やまみち」の文字がみてとれます。
かつては街道沿い旧板山屋前にあったそうで、他の多くの道標と同じく、道路拡張以後ぞんざいに扱われていましたが、心ある方々の力により今の位置に保存されたとのことです。

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五十公野(いじみの)御茶屋庭園
国指定名勝。いちばん最初は初代藩主溝口秀勝が新発田へ入府した直後の仮の館があった場所で、その後3代宣直がここに別邸を構え、4代重雄が回遊式庭園をつくって茶屋として整備しました。以後、参勤交代の際には殿様はここで休憩し、衣服を整えてから城に入ったそうです。若松でいう滝沢本陣と同じですね。

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前述の縣宗知がつくった庭園。見事です。入場料無料、落ち着く場所です。

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越後街道と三国街道中通りの三叉路にあった道標。かつての位置とは違う場所にあります。「左奥州通 右三国通」の文字がみてとれます。
比較的新しい(明治以後)ものと思われます。

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足軽長屋
足軽や小人と呼ばれる下級武士が住んだ長屋で、国の重要文化財に指定されています。天保13年(1842)の棟札が残っています。敵襲に備え、街道脇のこの場所に集まって住んでいました。
また、となりにはかつての藩主の下屋敷、清水園があります。若松でいう御薬園と同じですね。ここは国の名勝に指定されていて、数寄屋建築の建物と回遊式庭園が現存しています。

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そしてついに「札の辻」に到着。
ここが街道の起点、つまり今回越後街道を若松から旅してきた我々にとっては終点となる場所です。
ここにはかつては高札場がありました。

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「義士堀部安兵衛誕生の處」の碑
あの忠臣蔵で有名な、赤穂四十七士の1人、中山安兵衛(のちの堀部安兵衛)は新発田で生まれました。越後国新発田藩士だった安兵衛の父が辰巳櫓の失火の責めを負って浪々の身となり(陰謀説もあります)、安兵衛は父の死後、江戸に出て、有名な高田馬場の決闘で名をあげ、赤穂藩士堀部弥兵衛の養子となりました。

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その安兵衛誕生の處のとなりにある祠をのぞくと。。。
 
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かわいらしい安兵衛がいました(笑)。

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そしてついに!
会津若松城をスタートして越後街道を辿ってきた我々のゴール、新発田城が見えてきました。

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ゴールの本丸表門。
新発田城は、初代藩主溝口秀勝によって慶長3年(1593)から築城が始まり、正保3年(1646)3代宣直の時にようやく完成しました。
その後2度の大火に見舞われ、現存する当時の遺構は享保17年(1732)に再建された表門と、昭和34年に今の場所に移築された旧二ノ丸隅櫓のみで、この二つは国の重要文化財に指定されています。また、実質的な天守であった三階櫓(幕府に遠慮して天守と呼ばなかった)と、堀部安兵衛のその後の人生を左右した曰くつきの辰巳櫓は平成16年に復元されたものです。

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新発田城本丸大手門の前にある堀部安兵衛の像。江戸へ旅立つ姿を表しているそうです。

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そしてついにゴール。
私は無事終了して肩の荷が下りたのと、達成できた充実感と、終わってしまった寂しさと、なんだかわけのわからない感情に包まれていました。
参加者のみなさんに楽しんでいただけたとしたら幸いです。

思えばいろんな方々のご協力で成立できたイベントでした。
自治体の方々のみならず、下見で知り合った街道沿いに今なお往時の想いを胸に住んでいらっしゃる方々。
そんなみなさんと接することができて、「道」ってモノが動くだけでなく、想いをつなぐものなんだなあ、と。
越後街道を通じて現代の会津と越後がつながったこの機会をこれで終わらせるのはもったいなさすぎると今思ってます。
なんらかの形で交流を保ちたいといろいろ検討中です。

福島県
会津坂下町 古川利意さん
喜多方市 小澤弘道さん
西会津町 田崎敬修さん
西会津町 蒲生庄平さん
新潟県
阿賀町 渡部通さん
阿賀町 渡部達也さん
阿賀町 佐藤修司さん
阿賀町 長谷川浩一さん
阿賀町 坂上三代司さん
阿賀町 川上健さん
阿賀町 渡部一郎さん
阿賀町 吉澤荘一さん
新発田市 杉原明則さん
新発田市 鈴木博さん
参加者のみなさん、サポートの山都支所産業課のみなさん、このイベントに関わったすべてのみなさん

本当にありがとうございました。 この場を借りて厚く御礼申し上げます。


最後に今回の越後街道ウォークシリーズで、私が参考にさせていただいた文献を列記します。
ご興味のある方ぜひご覧になってください。

「会津の街道」 会津史学会
「会津の宿場」 歴史春秋社
「歴史の道 越後街道」 福島県教育委員会
「新編会津風土記」
「会津旧事雑考」
「会津坂下町史Ⅰ民俗編」
「会津坂下町史Ⅱ文化編」
「会津坂下町史Ⅲ歴史編」
「会津戊辰戦争」 平石弁蔵
「会津若松市の文化財」 会津若松市教育委員会
「会津坂下町の文化財」 会津坂下町教育委員会
「みちのくの宿駅」  河北新報社
「諸国道中金の草鞋」 十返舎一九
「福島の古墳」 福島県立博物館
「郷土の歴史とロマンを訪ねて」  会津坂下町教育委員会
「束松峠案内」 高寺ふるさとを興す会
「高寺の誇り百選」 会津坂下町立片門小学校父母と教師の会
「会津石譜」
「西会津町史第1巻通史Ⅰ原始・古代・中世・近世」
「西会津町史第4巻(中)近世資料」
「西会津町史第6巻(上)民俗」
「西会津町史第6巻(下)旧町村沿革」
「会津の峠」 会津史学会
「日本奥地紀行」 イザベラ・バード
「吉田松陰・会津を行く」 滝沢洋之
「旧記書抄」
「容保公野沢駅出馬記録」
「西会津史談第5号 文献から見る会津の一里塚と諸問題」 角田十三男
「西会津町の指定文化財」 西会津町教育委員会
「図説・西会津歴史物語」  西会津町編
「江戸時代の流通 福島県を中心とした舟運と陸送」 福島県立博物館調査報告第十八集
「イザベラ・バードの会津紀行」 会津学研究会
「ふるさとの峠」 福島民友社
「ふくしまの峠」 ふくしま文庫
「イザベラ・バードの東北紀行(会津・置賜編)」 赤坂憲雄 平凡社
「図説・新潟県の街道」 郷土出版社
「阿賀の里 図説・東蒲原郡史」上・下
「阿賀町ものしりガイドブック」
「津川町の歴史と文化財」 津川町教育委員会
「阿賀の路」 歴史春秋社
「西郷四郎 目で見るその生涯とふるさと津川」 津川町
「山嵐 西郷四郎」 歴史春秋社
「歴史の道調査報告書 米沢街道 会津街道」 新潟県教育委員会
「東蒲原郡史 通史編1」
「東蒲原郡史 資料編5 近世四」
「東蒲原郡史 資料編9 文化財」
「会津街道~いにしえから続くみち~パンフレット」 新潟県阿賀町 新潟県新潟地域振興局
「会津街道発掘調査報告書~三川村綱木地内~」 三川村教育委員会
「新発田市史 上・下」 新発田市
「ふるさとしばた」 新発田市立学校教育研究協議会
「写真集 城下町新発田」 新発田古地図等刊行会
「よねくら散策まっぷ」 新発田市歩く旅のまちづくり推進協議会
「阿賀北・岩船ふるさと大百科」 郷土出版社
「ふるさと新発田」 郷土出版社
「図説 新発田・村上の歴史」 郷土出版社
「戊辰役戦史」 大山伯
「会津街道 赤谷歴史探訪パンフレット」 赤谷小学校区連携協議会



山都の風 - 2014.09.12 Fri

山都町一郷地区のそば畑、この週末くらいまでは楽しめます。



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場所は


もちろんそば畑はここ一郷だけでなく、山都町内、いや会津じゅうそこここで見ることができます。
山都以外だと、喜多方市塩川町・大深沢ダムの東あたりがオススメです。

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山都町小布瀬原地区ではそば畑とSLを同時に。

13日、14日は山都かあちゃんたちのそば祭り開催です。

また、13、14、15日の夜は一の戸橋梁ライトアップも行われます。(日没~20:30まで)
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よかったら今週末、ぜひ山都へお越しください。

旧越後街道探索ウォークその3(津川~新発田編)  1日目 津川から新谷まで - 2014.09.09 Tue

会津若松城をスタートし、5月、7月と越後街道を西へ進み、津川まできた「旧越後街道探索ウォーク」シリーズ。
いよいよ今回が最終回、諏訪峠を越えて新発田城まで旅しました。

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まずは参加者への随時給水用の清水補給。
前回、最後に時間がなくイベント中には寄れなかった津川の名水、「琴平清水」で。
その昔、この清水は帆船や筏乗衆、船荷の積み下ろしをする丁持衆の喉を潤し、留守家族はこの水を汲み、お供え物とともに琴平大権現に安全祈願をしたそうです。

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琴平清水は、湧水好きの私の中でも上位ランクのおいしい水です。

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今回の集合場所は前回の解散場所、JR津川駅。
前回に引き続き、阿賀町観光ガイドから佐藤氏、新潟県地域振興局から川上氏に同行していただき、きめ細かいガイドをしていただきました。

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今回、ヒルの多い山道を行くのでご注意を、と参加者みなさんを脅しに脅したので(苦笑)、塩を塗り込む人、このようにテープぐるぐる巻きで防御する人、みなさん様々な対応をされていました。

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最初のCPは駅の裏手にある角島観音堂。

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地滑りのため今から30年ほど前に現在の場所に移築されたとのこと。小川庄三十三観音の4番札所でした。

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堂内には石でできた祠があって、観音坐像が祀られています。

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これは下見のときには気づかなかった、庚申塔。
庚申信仰は道教の伝説に基づくもので、人間の体の中には三尸(さんし)の虫がいて、その三尸の虫は庚申の日の夜に人が寝ている間に天に登って閻魔大王へ日頃の行いを報告し、報告された行いによって自分らが裁かれると思われてきました。
そこで、三尸の虫に天に登って自分の悪行をチクられないようにするため、60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日の夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、囲炉裏を囲んで寝ずに酒盛りなどをして夜を明かしたのでした。
これを「庚申待」といい、まだ会津・越後ではこの風習が残っているところもあります。

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田んぼの真ん中に道標が残っている場所があります。
ここが諏訪峠方面越後街道と、阿賀野川沿いを通って本尊岩の上を山越えして水原方面へ至る小川通りの追分の道標です。

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追分道標には「右新発田・村上道」、「左水原・五せん小川通」の文字が読み取れます。

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寛文年間(1661~73)に行われた会津藩の街道整備の際に敷いたといわれる石畳が、今も断続的に残っています。花崗岩の割石や自然石を敷き、特に急な箇所は階段状に敷いて歩きやすくしています。「どうしん坂」とも呼ばれています。

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「三本松」と呼ばれるところ。今は二本しかないが、かつては三本の大きな松があったそうです。

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柳新田の集落。ここの方の先祖は甲斐・武田氏の石工で、武田氏が滅んだあとにここへ移り住んできたそうです。諏訪峠までの道を定期的に草刈等整備してくださっているそうで、とてもありがたいですね。

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このあたりからヤマビルの生息地帯に入り、雨だった下見のときと違い、この日は天気がよかったためそれほど数は多くはなかったものの、そこここで悲鳴にも似た大きな声があがっていました(笑)。

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これもヤマビル。

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かなりこまめにヒルのチェックを入れたので、ほとんどの人は血を吸われるまでには至りませんでしたが、ひとり犠牲者が(苦笑)。

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こんな木橋を渡るところあり。 と!

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ひとり踏み抜いてしまった人が! 大事に至らずよかったです。

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柳新田一里塚。

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柳新田の集落から1.5㎞ほど峠方面へのぼったところにこの一里塚はあります。一対しっかり残っているのはここと前回通った福取、そしてこのあとの行地ぐらいで、保存状態もよく非常に貴重なものです。

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この日ガイドをしてくださった新潟県地域振興局の川上さんらのご尽力により、諏訪峠までの道の途中、そこここに旧道の石畳がみてとれました。

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これは珍しい、旧道の横に自動車が通れる道を掘り下げてつくったため、オリジナルの石畳の横が露出して断面からみれる場所がいくつかありました。

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諏訪峠手前左手に、厳かな空気漂う空間があります。
この峠の名前の由来となった諏訪神社があった場所です。

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諏訪峠は、かつて犬吠(いぬぼえ)峠といったそうです。応永9年(1402)の葦名氏VS新宮氏の戦の時に諏訪明神があらわれて、葦名の勝利を予言したという伝説があることから、葦名盛政は深くその神徳を信じ、信州諏訪から諏訪神社を勧請、この峠にも仮泊して一社を建てたことから、「諏訪峠」と呼ぶようになったそうです。

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境内にあったケヤキは今も健在。

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峠からは遠く磐梯山まで見えました。
吉田松陰、十返舎一九、山県有朋などがこの諏訪峠を越えています。
松陰は嘉永5年(1852)2月8日、23歳のときにふもとの人の反対を押し切って真冬の諏訪峠を越えています。前日は焼山宿泊まり。この日津川を通って、雪の諏訪峠を越えて綱木まで30㎞くらい歩いています。すごいですね。

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そしてこの諏訪峠を越えたときに松陰が詠んだ漢詩を刻んだ詩碑が峠には建っています。

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阿賀町観光ガイドの佐藤氏にその漢詩を読み下していただき、ご説明ただきました。

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その内容は
「諏訪嶺は高く、雲を凌ぐほどで、よじ登らなければならないほどだ。弓のように背を曲げて上ると、腰も折れんばかり。胸も喘ぎ、肌も汗で濡れ、脚も疲れ切ってしまった。時々烈しい風が雲を巻くようにして起こり、髭は凍り、顔は叩かれ、肌には冷たい針が突き刺さる。」 と。

さしもの松陰もこの雪中軍は相当きつかったんですね。

しかし、さらに漢詩の続きを読むと、
「やっと頂上を極め、まわりを見渡してみると、快感で下あごがはずれるほど大笑いした。…このような困難は未だかつて経験したことがない。困難が益々大きくなればなるほど、珍しいことに直面する。地元の人が盛んに雪中行の困難を言っていたが、困難の中に奇特を知ることが出来るのは誰だろうか。」
と、結んでいます。
この厳しい諏訪峠越えの経験が、その後松陰に大きな影響を与えたと言われています。

山県有朋は、戊辰の役の際、津川で会津軍が船を引き揚げてしまって阿賀川を渡れなかったので、船大工の手配のため二度もこの峠を越えて新発田へ向かっています。山県はこの遠征にあたり、師匠松陰の「東北遊日記」を熟読して、諏訪峠の状況を学んでいたと言われています。
その後山県が書いた従軍記「越之山嵐」の中では、そのせいか「諏訪峠越えは思いのほか簡単だった」と記されています。

十返舎一九がこの峠を通ったのは、文化11年(1814)のことです。
 「この峠ほど高く難儀なるはなし、暑い時分でも峠は寒し」
 「茶屋2軒、砂糖餅と雑煮餅あり」             十返舎一九「諸国道中金の草鞋」
 
 諏訪峠には神社跡、松陰の詩碑の他に、かつての茶屋で使われた井戸の跡もあります。

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松陰詩碑の前で。

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昼食後、行地集落へ向けて下ります。

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街道沿いに樹齢300年以上の大きなブナの木があったのですが、つい最近倒れてしまって枯れた幹だけが残っています。
その昔、参勤交代の際、村上藩、新発田藩の殿様が、この木の下で休憩したと言われています。

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中ノ茶屋跡。
諏訪峠の7合目付近、このあたりにふもとの人が商売を行ってた「中の茶屋」があったと言われています。ここは諏訪峠の茶屋と違い、冬場は閉鎖するような簡易的な施設だったようで、団子などを販売していたそうです。

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行地(いくち)の一里塚。
二基一対の完形が現存する貴重な一里塚です。高さ3m、円周30m。
とても巨大で、一対の両方を写真に収めるのは至難の業です(苦笑)。
参加者の1人にパノラマで撮っていただきました。

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そして峠道は終了、行地の集落へ到着。

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ここで我々をまた素晴らしい方々が待っていてくださり、これまた貴重な品々を見せていただけることに。

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旅籠「藤屋」跡。
「富士屋」と表記されている文献も多々あるのですが、初代~四代までは「藤屋」だったそうで、ここでは「藤屋」で表記しました。
戊辰の役の際、津川を突破できない山県有朋はこの藤屋に1か月近く宿営しました。そのせいか、村内の旅籠の多くは戊辰の役の際に焼失してしまったのですが、藤屋は戦禍をまぬがれていました。
しかし。
なんと昨年11月火事で燃えてしまい、今はありません。築300年を越える古い建物だったそうで、残念でなりません。

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「藤屋」のご当主、安部さん。
我々の到着を待っていてくださり、たまたま別棟に置いてあって火災をまぬがれた藤屋ゆかりの品々を出してきてくださいました。

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これが、山県有朋らがここに陣を張っていたときに、飯炊きに使った釜だそうです。
本邦初公開、阿賀町のガイドさんですら初めて見るレアなものでした。

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この「旅籠屋」の看板や、前回の八木山宿渡部さんの本陣同様、運送関係を一手に引き受けてた名残の看板がずらり。
「藤屋」の権威は相当なもので、ご先祖さまは諏訪峠を馬から降りることなく移動し、通行人はよけていったという逸話も残されています。

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そしてここからまた強力な案内人、合流。
行地、新谷周辺のことならこの方の右にでる人はいないと言われる地元新谷の郷土史研究第一人者、吉澤氏。

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地域の歴史、そして私の初回下見だけでは見つけられなかった旧道などを吉澤さんにじっくり詳しくガイドしていただきました。

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実は行地から新谷の間の旧道は、吉澤さんのご尽力により草刈りがなされ、かなりの部分がわかるようになっています。本当に頭がさがる思いです。
しかしお一人ですべてというわけにはいかず、草刈無しの部分はすぐこんな感じになっちゃいます。
それでもルートを知ってる方に案内していただけば、はっきりと道形はわかります。
田んぼの区画整理や自動車道等をつくったために失われてしまっているところは仕方ありませんが、草刈りさえすれば見事に復活できる旧道は、簡単な標識をつけるのも含めてなんとか整備して観光資源につなげられたらいいな、なんて思います。

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そして、行地と新谷のちょうど中間地点あたりのこの場所は。。。。。

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このあたりにかつて胴回り7m以上もある「あねさ松」と呼ばれる巨木があったそうです。
伝説によると、街道を歩いていた娘がここで襲われ、殺され埋められた場所で、あとでその場に松が植えられたとか。
そのせいか、松のそばの田んぼをクワで耕していたら、髪の毛が巻き付いてきて恐ろしくなり、耕作をやめたとのこと。
「貞子」を地で行くような怖い話ですね(苦笑)。
実際この松が生えていたころには子供たちは大人から「その松を傷つけてはならん!血が出てくるぞ」と言われていたそうです。

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かつて阿賀町北東、旧鹿瀬町に、草倉鉱山という江戸時代会津藩随一といわれた銅山がありました。採掘は大正3年まで続き、一時は6000人もの人々が働いていたそうで、その富がのちに足尾銅山の開発につながったと言われています。
その草倉鉱山への道と越後街道の分岐がここになります。
写真左方向が草倉道、右が越後街道です。

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ここも最初自分で下見をしたときはわからず、先週最終下見で教えていただいた旧道入口。入ってみれば草刈されてしっかりした道が続いています。

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大きな岩が右手にあり、近くにはのどを潤す清水も湧いていて、かつては腰掛けて休み場所になっていたといわれる場所。

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新谷集落の入口にちょっとだけ石畳が残っているところがあります。
ただ、草で覆われてしまっていて、「足」で感触を確かめる感じです。

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新谷集落に入り、旧道の名残としてひとつ小さな祠が残っています。

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「えのき様」と呼ばれていて、かつてはそばに大きな榎の木があったのではないかといわれています。

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祠の側面には建てられた時代が書かれているのですが、文字は「暦」の字の上の文字が削れていて読めず、「明暦」か「宝暦」かわかりません。
でも、なんとなくうかんむりが読めるような気がするので、「宝暦」かもしれません。
ちなみに明暦だとすると1655~1657年、宝暦だとすると1751年~1763年です。

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新谷熊野神社の境内に樹齢350年以上といわれるケヤキの巨木があります。

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熊野神社からまっすぐ新谷川のほうへ向かうとかつて木橋が架けられていた場所に出ます。当時は水害の度に補修しなければならなかったそうです。

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欄干の長さが62間(約112m)もあった当時としては長い木橋だったとのこと。

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これが木橋当時の写真。

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現在の新谷橋へ回り込んで川を渡ると、集落入口にいたマムシ君。

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そしてこの日のラスト、新谷(しんこく)寺境内奥にある喜多方ゆかりの新宮氏がらみの史跡、「新宮氏首の宮跡」へ。

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南北朝の時代、会津の葦名氏とその家臣はふたつに分かれて争いました。
北朝方の葦名氏についた金上氏と、南朝側についた新宮氏は長い間争い続けましたが、永享5年(1433)、津川城の攻防で金上氏が勝利し、新宮氏は滅亡しました。
阿賀町には新宮氏の伝説が数多く残されていますが、そのひとつ、新谷(あらや)の新谷(しんこく)寺には新宮盛俊兄弟の首塚があると昔から言い伝えがありました。
それはずっと謎のままだったのですが、今回行地から新谷を案内してくださった吉澤さんにより、なんと昨年、津川城の戦いで敗れた新宮時兼父子ら4人の首級が祀られたとされる「首の宮」の跡と思われる遺構が発見されました。
それがここです。

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周囲は長方形に土塁が形成されていて、今後さらなる調査で新事実がわかってきそうです。

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旧本陣であった現在のここ安部家には、江戸時代、参勤交代の際に村上藩主が宿泊した記録が残されているそうです。

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そして、新谷集落のはずれにあるこの日のゴール、新谷一里塚跡へ。

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新しいふとんかごが設置されていることからわかるとおり、ここはしょっちゅう土砂崩れがある場所で、一里塚の痕跡は失われてしまっています。

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しかし、吉澤さんらのご尽力により、昨年一里塚跡を示す標柱が設置されました。文字は吉澤さんの筆です。

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標柱の後ろにはなにやら暗号のような数字が。意味を教えていただくと、なるほどと思いました。

ここで、峠越えあり、旧道探索あり、貴重な往時の品々の鑑賞あり、発見されたばかりの遺構巡りありの、濃密な初日が終わりました。津川から新谷までの約13㎞の峠歩きでした。
宿のお迎えバスに乗り、今宵の宿へ。

新三川温泉
YOU&湯 ホテルみかわ HPは→こちらをクリック

うちたてのそばは絶品。源泉かけ流しのお風呂も最高でした。

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いよいよ翌日は最終日、新発田城へ。
それぞれのこれまでを振り返った感想、そして明日への想い。
それらを聞きながら、なんとなく終わってしまう一抹の寂しさを感じていた私でした。

とういうわけで最終日の模様へ続きます~。



日立市 ふるさと山都町を語る会 - 2014.09.04 Thu

以前、茨城県日立市在住の方からお手紙をいただきました。
その方は山都町出身の北上さんという方で、なんと日立市在住の山都出身者で「ふるさと山都町を語る会」をつくっておられて、毎月ミニ情報誌も出しておられました。
そのバックナンバーも送ってくださって、お手紙には山都G.T.のブログをいつも楽しみにしている、と。

今は山都を離れていて、それでも郷土のことをいつも想ってくださってる方々がいらっしゃることを知り、とてもうれしく思いました。

その北上さんが先月お盆の時に山都に帰省されて、そのとき山都支所にも来てくださいました。
そして北上さんはそのときの模様を掲載した最新号を送ってくださって、今日届きました。

最近は何かと忙しくてブログ更新頻度が下がっている状態だったのですが(苦笑)、遠い地でいつも山都町のことを気にかけてくださってる方々へ、山都の風を届けられるよう、また頑張っていかなきゃな、と思った次第です。

ありがとうございました!
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「雑穀おむすびの結その5」の開催日程変更のお知らせ - 2014.09.03 Wed

「おむすびの結その4」の開催日程を当初の10月18-19日から一週あとの10月25-26日に変更させていただいたのは既報のとおりですが(こちらをクリック)、
その次の「おむすびの結その5」も当初の11月15-16日から一週あとの11月22-23日へ変更させていただきたいと思います。

長期計画で参加を検討してくださっている方、ご迷惑をおかけしますが、ご理解のほどよろしくお願いいたします。
なお正式なご案内は開催日の1か月前前後を予定しています。

9/27  第28回 会津と越後を語る会 - 2014.09.02 Tue

2年ほど前からいろんな方にお誘いいただき、本当に行きたかったのですが、日程合わず行けなかった「会津と越後を語る会」。
1年ごとに会津と越後で交互開催で、今年は新発田市で開催。
越後街道ウォークでつながった阿賀町や新発田市の方々からもお誘いいただいたので、参加させていただく予定です。(その翌日には山都G.T.イベントが控えてるのですが(苦笑))
内容は講演、研究発表とも山都G.T.イベントに関連してタイムリーだし、とても興味深いものばかり。
楽しみです。

新発田市図書館の方から、広くお知らせしてほしいとのお話がありました。個人参加も歓迎だそうです。
ご興味ある方、ぜひ。


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今年の山都新そばまつりは一味違います!「手作り屋台市」同時開催! - 2014.09.01 Mon


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