第6回 会津発見塾~関柴町の寺宝と郷土史など~ - 2012.10.25 Thu
先週の亘理中学校の農業体験、週末の特産品交流事業と、書くことはたくさんあるのですが。。。。
まず、その前に10月11日に行われた会津発見塾について報告したいと思います。
第3回発見塾はこちらをクリック
第5回発見塾はこちらをクリック
今回は第3回のときのように私が講師を担当させていただて、私の集落周辺の寺や旧跡、清水や棚田などをご案内しました。

まずは喜多方市関柴町上勝(かみすぐれ)にある勝福寺観音堂へ。

勝福寺は廃寺となっていますが、寄せ棟造りで萱葺きの観音堂だけは残っていて、会津三十三観音第六札所となってます。
室町時代末ごろの手法が見られる和様・唐様折衷建築で、1558年葦名氏によって再建、国の重要文化財に指定されています。


勝福寺の前にはかつて熊倉街道が通ってました。

観音堂は昔、「勝(すぐれ)の前」という京から来た高貴な女性が松島への旅の途中この地で没し、勝前の父、中将政保がその冥福を願って建立したと伝え、古くから「勝の観音堂」と呼ばれてきました。それまでこの周辺の村は「原」という名前だったそうですが、それと関連して「勝(すぐれ)村」となったそうです。


観音堂のご本尊である観音菩薩は正月(1/17)、島八千日(7/10)、お盆(8/17)の年3回しか御開帳されず、内部の拝観も事前予約が必要です。


向かって左が、毘沙門天立像で、本尊の観音菩薩の脇侍として安置されています。福島県指定重要文化財です。

右が、不動明王立像。毘沙門天と同じく、県の重要文化財です。

観音堂のむかって右側の鐘楼にある「永禄七(1564)年」銘の銅鐘は、芦名盛氏・守興父子の寄進であり、会津の刀工として名高い古川兼定の作によるものとのことです。

観音堂の道をはさんだ反対側には堂ノ上古墳があり(遺構の時代、性格は不明)、その上に「勝の前の墓」があります。

「勝の前」の墓。
また、この地で病に伏し松島にいけなくなったことを嘆いた勝の前のために、村の人がここに松島の景勝を模したものをつくったという伝聞もあり、この墓の東側にはその名残と思われる堀に囲まれた宗像神社があります。


そして勝福寺観音堂をあとにし、知る人ぞ知る関柴の誇る秘仏がある中善寺へ。
中善寺は今年130周年を迎える「喜多方事件」の発端となった場所でして、まずはそのことから。
1882年(明治15年)、福島県令となった三島通庸は、着任早々会津三方道路に開削を計画しました。
しかしその内容は民意を無視し、工事費の過重な負担を住民に強いるものであったそうです。
これに反対する農民たちは、地元豪農層の自由民権家たちと力を合わせて、道路工事の不当性を法廷に提訴すると同時に、正夫服役と代夫賃上納の拒否などをもって抵抗しました。
県内外の自由党員たちの応援を得るなかで反対運動の指導者たちが次々と逮捕される状況下、近在の村人たちがこの中善寺に集まって、同盟の結束と訴訟の継続を話し合い、逮捕者の見舞いのため2日後の喜多方集合が決められました。
こうしてこの寺の会合は、喜多方事件の直接の発端となったのでした。
会合があったのが、まさに上の写真の本堂です。

開基の年月は不詳ですが、新編会津風土記によると、中善寺の開基はご本尊の修理木札に記された延慶3年(1310年)かもしれないとのことです。
もともとは曹洞宗の寺だったようですが、その後荒廃。慶長年間(1596~1615年)に会津若松より弥勒寺(真言宗)の僧が来て再興、それ以来弥勒寺の末寺となったとのこと。
境内には保科公入府の際植樹されたと伝えられる杉の老木7本のうち4本が健在。あと福島県緑の文化財に指定されている樹齢250年のカリンの大木2本があります。

本堂の奥、階段を登ったところに薬師堂。そのさらに奥に日光・月光両菩薩や12神将、ご本尊薬師如来像が安置されている新しい薬師堂があります。

中善寺薬師如来像の拝観も事前予約が必要で、私も今回はじめて拝観できる機会に恵まれました。

ご本尊の薬師如来坐像は平安時代後期、藤原文化の面影を伝える傑作で、京都でつくられて運ばれてきたと考えられており、国の重要文化財に指定されています。



とてもおだやかでやさしいお顔をされてました。


金箔の名残がみられ、かつては金色に輝いていたのだろうと想像できます。
(後背が輝いていますが、これは後世のもの)



そして、入柴にある舘跡へ。
上の写真の道路をまたいだ両側に「関柴館」があったといわれています。
戦国時代、葦名氏の家臣、松本備中がここ関柴町入柴に館をかまえていました。松本備中は関柴の領主ということで「関柴備中」とも呼ばれていました。
◎松本備中と北方合戦
天正13年(1585年)5月、松本備中は葦名氏を裏切り、伊達政宗に内応し、入田付の山道を切り開いて伊達勢を引き入れたため、関柴のあたりで戦いが繰りひろげられました。この戦いは「檜原軍物語」では「北方合戦」、「会津合戦記」では「関柴合戦」と記されています。
この時の激戦地には「打入」や「火付沢」などの地名が今も残っています。
この戦いで伊達勢は敗北し、松本備中は姥堂川のほとりで沼沢出雲に討ち取られ、備中の父長門は捕らえられ、若松の天寧寺河原で串刺しの刑に処されたと伝わります。

今は館の痕跡はありませんが、館があったといわれる場所の南西の端には当時松本備中の飲用に供したという清水が今も湧いていて、「御台所清水」と呼ばれています。

松本氏の勢力は姥堂川が形成する小扇状地に及んでいたようで、この関柴館が扇の要にあたり、扇央に高橋館、北畑館、赤坂館の3つの支城の跡が確認されています。

また、関柴館跡から見て姥堂川対岸約400mの山腹に「物見の松」と呼ばれる老木があって、さらにその山頂部には山城の遺構が確認されています(小松山城跡)。
関柴館の南、丘陵の端には「平石」という地名があり、現在は舗装されてしまっていますが、少し前までは道が石敷きになっていたそうで、地元の伝承では、万一敵方が騎馬で侵入すれば居館にあってもその音を聞き取ることができるようになっていた、とのことです。

龍泉寺。
開基は長徳4年(998)。天正13年(1585)の伊達政宗の会津侵攻の際、この一帯は戦場となり、この寺も炎に包まれましたが、龍が出てきて消し止めた、という伝説があります。


龍泉寺の境内にはオンバ様の像があります。

そしていよいよウチの集落へ。
途中、週末には水汲みの人で混み合う「大仏清水」に。
しかし、この夏の異常渇水で、完全に枯れてしまっていて、みなさんに味わっていただけませんでした。

さらに関柴ダムの脇を道沿いに登っていくと、姥堂川にかけられた橋に出ます。橋を渡るとすぐ分かれ道になっていて、右の急坂を行けば小楚々木、左は大楚々木へ行きます。
今の橋や新しい道のなかった昔は、旧道が姥堂川沿いにあったそうで、それをのぼってくるとこの分かれ道に出たそうです。
ここで村人は必ず一休みしてから家路へ急いだとのことですが、ここには「三匹猿」の石碑があり、この分かれの辺りを今でも楚々木の人は「ちょっこびろ」と呼んでいます。
これは「ちょっと見ろ」が訛った名前らしく、猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹です。
この分かれから小楚々木へ通じる道は険しい山道で、鬱蒼とした樹木が両側から覆っていました(今現在もそうですが(苦笑))。それだけに化け物が住み、通る人をかどわかすことがたびたびあったそうで、「ちょっこびろ」という地名も、化け物がいるかどうか見て確かめ、急いで通れということでついたとのこと。

ある日、村人は化け物を追い払ういい方法はないかと相談し、三匹猿を石に刻んで「ちょっこびろ」に安置しました。それからというもの、化け物は再び村人の前には姿を現さなくなったとのことです。


大楚々木にまわると、カモシカの歓迎。
このへんには数家族「常駐」していて、私は見慣れてるし、畑を荒らすやっかいな友でしかないのですが、山都のみなさんにとっては珍しいらしく、歓声があがってました。

私のウチの水道は、この「愛宕清水」。

前述の大仏清水と違って、この清水は全く枯れることなく安定しています。みなさん天然の岩清水でのどを潤していました。

そして棚田周辺をしばらく散策したのち。。

グリーンツーの稲刈りイベントでも活躍していただいた、長老・渡部翁にまたまたお願いして、いろいろお話していただきました。

楚々木の歴史から戦争に行った話まで、おじいちゃんの話はほんと面白くて、みなさん興味深く聞き入っていました。
意外と山を隔てると近くても交流がなかったりするので、こういう機会をどんどん設けていくのも活性化につながるかな、と思いました。
発見塾も次回11月7日が今年度最終回。
先週下見に行ってきたのですが、次回も興味深い内容となりそうです。
まず、その前に10月11日に行われた会津発見塾について報告したいと思います。
第3回発見塾はこちらをクリック
第5回発見塾はこちらをクリック
今回は第3回のときのように私が講師を担当させていただて、私の集落周辺の寺や旧跡、清水や棚田などをご案内しました。

まずは喜多方市関柴町上勝(かみすぐれ)にある勝福寺観音堂へ。

勝福寺は廃寺となっていますが、寄せ棟造りで萱葺きの観音堂だけは残っていて、会津三十三観音第六札所となってます。
室町時代末ごろの手法が見られる和様・唐様折衷建築で、1558年葦名氏によって再建、国の重要文化財に指定されています。


勝福寺の前にはかつて熊倉街道が通ってました。

観音堂は昔、「勝(すぐれ)の前」という京から来た高貴な女性が松島への旅の途中この地で没し、勝前の父、中将政保がその冥福を願って建立したと伝え、古くから「勝の観音堂」と呼ばれてきました。それまでこの周辺の村は「原」という名前だったそうですが、それと関連して「勝(すぐれ)村」となったそうです。


観音堂のご本尊である観音菩薩は正月(1/17)、島八千日(7/10)、お盆(8/17)の年3回しか御開帳されず、内部の拝観も事前予約が必要です。


向かって左が、毘沙門天立像で、本尊の観音菩薩の脇侍として安置されています。福島県指定重要文化財です。

右が、不動明王立像。毘沙門天と同じく、県の重要文化財です。

観音堂のむかって右側の鐘楼にある「永禄七(1564)年」銘の銅鐘は、芦名盛氏・守興父子の寄進であり、会津の刀工として名高い古川兼定の作によるものとのことです。

観音堂の道をはさんだ反対側には堂ノ上古墳があり(遺構の時代、性格は不明)、その上に「勝の前の墓」があります。

「勝の前」の墓。
また、この地で病に伏し松島にいけなくなったことを嘆いた勝の前のために、村の人がここに松島の景勝を模したものをつくったという伝聞もあり、この墓の東側にはその名残と思われる堀に囲まれた宗像神社があります。


そして勝福寺観音堂をあとにし、知る人ぞ知る関柴の誇る秘仏がある中善寺へ。
中善寺は今年130周年を迎える「喜多方事件」の発端となった場所でして、まずはそのことから。
1882年(明治15年)、福島県令となった三島通庸は、着任早々会津三方道路に開削を計画しました。
しかしその内容は民意を無視し、工事費の過重な負担を住民に強いるものであったそうです。
これに反対する農民たちは、地元豪農層の自由民権家たちと力を合わせて、道路工事の不当性を法廷に提訴すると同時に、正夫服役と代夫賃上納の拒否などをもって抵抗しました。
県内外の自由党員たちの応援を得るなかで反対運動の指導者たちが次々と逮捕される状況下、近在の村人たちがこの中善寺に集まって、同盟の結束と訴訟の継続を話し合い、逮捕者の見舞いのため2日後の喜多方集合が決められました。
こうしてこの寺の会合は、喜多方事件の直接の発端となったのでした。
会合があったのが、まさに上の写真の本堂です。

開基の年月は不詳ですが、新編会津風土記によると、中善寺の開基はご本尊の修理木札に記された延慶3年(1310年)かもしれないとのことです。
もともとは曹洞宗の寺だったようですが、その後荒廃。慶長年間(1596~1615年)に会津若松より弥勒寺(真言宗)の僧が来て再興、それ以来弥勒寺の末寺となったとのこと。
境内には保科公入府の際植樹されたと伝えられる杉の老木7本のうち4本が健在。あと福島県緑の文化財に指定されている樹齢250年のカリンの大木2本があります。

本堂の奥、階段を登ったところに薬師堂。そのさらに奥に日光・月光両菩薩や12神将、ご本尊薬師如来像が安置されている新しい薬師堂があります。

中善寺薬師如来像の拝観も事前予約が必要で、私も今回はじめて拝観できる機会に恵まれました。

ご本尊の薬師如来坐像は平安時代後期、藤原文化の面影を伝える傑作で、京都でつくられて運ばれてきたと考えられており、国の重要文化財に指定されています。



とてもおだやかでやさしいお顔をされてました。


金箔の名残がみられ、かつては金色に輝いていたのだろうと想像できます。
(後背が輝いていますが、これは後世のもの)



そして、入柴にある舘跡へ。
上の写真の道路をまたいだ両側に「関柴館」があったといわれています。
戦国時代、葦名氏の家臣、松本備中がここ関柴町入柴に館をかまえていました。松本備中は関柴の領主ということで「関柴備中」とも呼ばれていました。
◎松本備中と北方合戦
天正13年(1585年)5月、松本備中は葦名氏を裏切り、伊達政宗に内応し、入田付の山道を切り開いて伊達勢を引き入れたため、関柴のあたりで戦いが繰りひろげられました。この戦いは「檜原軍物語」では「北方合戦」、「会津合戦記」では「関柴合戦」と記されています。
この時の激戦地には「打入」や「火付沢」などの地名が今も残っています。
この戦いで伊達勢は敗北し、松本備中は姥堂川のほとりで沼沢出雲に討ち取られ、備中の父長門は捕らえられ、若松の天寧寺河原で串刺しの刑に処されたと伝わります。

今は館の痕跡はありませんが、館があったといわれる場所の南西の端には当時松本備中の飲用に供したという清水が今も湧いていて、「御台所清水」と呼ばれています。

松本氏の勢力は姥堂川が形成する小扇状地に及んでいたようで、この関柴館が扇の要にあたり、扇央に高橋館、北畑館、赤坂館の3つの支城の跡が確認されています。

また、関柴館跡から見て姥堂川対岸約400mの山腹に「物見の松」と呼ばれる老木があって、さらにその山頂部には山城の遺構が確認されています(小松山城跡)。
関柴館の南、丘陵の端には「平石」という地名があり、現在は舗装されてしまっていますが、少し前までは道が石敷きになっていたそうで、地元の伝承では、万一敵方が騎馬で侵入すれば居館にあってもその音を聞き取ることができるようになっていた、とのことです。

龍泉寺。
開基は長徳4年(998)。天正13年(1585)の伊達政宗の会津侵攻の際、この一帯は戦場となり、この寺も炎に包まれましたが、龍が出てきて消し止めた、という伝説があります。


龍泉寺の境内にはオンバ様の像があります。

そしていよいよウチの集落へ。
途中、週末には水汲みの人で混み合う「大仏清水」に。
しかし、この夏の異常渇水で、完全に枯れてしまっていて、みなさんに味わっていただけませんでした。

さらに関柴ダムの脇を道沿いに登っていくと、姥堂川にかけられた橋に出ます。橋を渡るとすぐ分かれ道になっていて、右の急坂を行けば小楚々木、左は大楚々木へ行きます。
今の橋や新しい道のなかった昔は、旧道が姥堂川沿いにあったそうで、それをのぼってくるとこの分かれ道に出たそうです。
ここで村人は必ず一休みしてから家路へ急いだとのことですが、ここには「三匹猿」の石碑があり、この分かれの辺りを今でも楚々木の人は「ちょっこびろ」と呼んでいます。
これは「ちょっと見ろ」が訛った名前らしく、猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」の3匹です。
この分かれから小楚々木へ通じる道は険しい山道で、鬱蒼とした樹木が両側から覆っていました(今現在もそうですが(苦笑))。それだけに化け物が住み、通る人をかどわかすことがたびたびあったそうで、「ちょっこびろ」という地名も、化け物がいるかどうか見て確かめ、急いで通れということでついたとのこと。

ある日、村人は化け物を追い払ういい方法はないかと相談し、三匹猿を石に刻んで「ちょっこびろ」に安置しました。それからというもの、化け物は再び村人の前には姿を現さなくなったとのことです。


大楚々木にまわると、カモシカの歓迎。
このへんには数家族「常駐」していて、私は見慣れてるし、畑を荒らすやっかいな友でしかないのですが、山都のみなさんにとっては珍しいらしく、歓声があがってました。

私のウチの水道は、この「愛宕清水」。

前述の大仏清水と違って、この清水は全く枯れることなく安定しています。みなさん天然の岩清水でのどを潤していました。

そして棚田周辺をしばらく散策したのち。。

グリーンツーの稲刈りイベントでも活躍していただいた、長老・渡部翁にまたまたお願いして、いろいろお話していただきました。

楚々木の歴史から戦争に行った話まで、おじいちゃんの話はほんと面白くて、みなさん興味深く聞き入っていました。
意外と山を隔てると近くても交流がなかったりするので、こういう機会をどんどん設けていくのも活性化につながるかな、と思いました。
発見塾も次回11月7日が今年度最終回。
先週下見に行ってきたのですが、次回も興味深い内容となりそうです。
- 関連記事