越後街道探索ウォーク その2(二日目) - 2012.06.06 Wed
6月3日 野沢~縄沢~甲石~軽沢~束松峠~天屋~片門(洲走の湯) 約14km

二日目、西会津町役場からスタート。


六地蔵(俗称 化け地蔵 写真中央の石像)
遍照寺の境内にあるこの地蔵は6角に削り面ごとに地蔵1体を彫ってあります。
新編会津風土記によると、夜毎怪しい形になり人々をたぶらかしていたが、一丈夫に斬りつけられ疵を受け、それからはその変化がなくなったといい、今も竿石の中ほどにその太刀傷が見えるといいます。

諏方神社
永仁二年(1294年)に芦名宗盛が信州より諏訪大明神を勧請した時、その神輿が宿営した縁で、野沢地頭の荒井信濃守頼任が嘉元元年(1303年)に同社を祀ったとあります。
本来「諏訪」とするところを「諏方」にしているのは、信州諏訪本社に遠慮してのことだと伝えられてます。
また、あまり知られていませんが、元和5年(1619年)にここ諏方神社で「鉄火の裁き」が行われました。以下に詳しく書いてみます。
鉄火の裁き
松尾村と縄沢村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました。
すなわち、両村から代表者が出て、鉄火をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。
この勝負は負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄沢村の代表になる決意をした二郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門。
元和5年(1619年)8月21日。双方礼服を着用して手に熊野牛王の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。
果たして二郎右衛門は3度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました。
松尾村では村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです。

野沢一里塚
諏方神社の道路をはさんだ向かい側、杉木立の中に一里塚はあります。旧街道は現在水路となっている部分とその南、草むらとなっているところを通っていたようです。北側にもう一対一里塚があったそうですが、それは道路拡張の際削平でされてしまったとのことです。

野沢を後にし、次の縄沢(つなさわ)集落へ。

ここには下見のときに知り合った折笠氏のコレクションを公開している「日本一小さな美術館」がありました。

蔵を展示場にしていて、実は決して「日本一小さな」ではなく、中には地元の芸術家の作品や、刀や陶磁器などの骨董品、竹久夢二や斉藤清の作品等がところ狭しと飾られていました。

私が個人的に大好きな、斉藤清の版画、これは一度も見たことなかった作品でした。

折笠氏と美術館前で。

続いて、地元の人もあまり知らない、冑(かぶと)神社へ。

冑神社
天喜五年(1057年)、源義家が前九年の役の途、ここで休んで冑を石の上に置いたところ、石に変じたという伝説の神社です。このあたりの地名は「甲石」といいます。
実際に石材を採掘していた時代もありました。冑石観音岩だけは村民の厚い信仰により守られ、今も昔のまま残っています。





かつて越後街道の要衝であった軽沢集落でちょうど昼食タイム。鈴木様(写真右)宅にお世話になりました。
ここで、地元の高名な郷土史家、古川先生(写真左)と合流し、ここから一緒に歩いていただいて、様々なお話を伺いました。

鈴木氏が大切に保管されている、前述の斉藤清がここ軽沢を描いた「会津の冬(115) 西会津・軽沢」。
私が斉藤清の会津の冬シリーズが好きだと言ったら、奥から出してきてくださいました。
おそらくン十万、いや下手したらその上の桁くらいします(笑)。
本物の威力はすごいです。
私もいつかはひとつ、本物を手元に置きたいと思ってますが。。。。永遠の夢ですね(苦笑)。

軽沢を過ぎると、しばらくして束松峠へ向けて昔ながらの道の登りが始まります。

峠の茶屋があった場所はもうすぐで、写真右の谷に水がわいていて、かつてはそこから茶屋で使う水を汲んでいたそうです。

峠の茶屋跡
ここには昭和30年代まで2軒の茶屋がありました。江戸時代には越後街道の「間の宿」で、旅人の休息・一泊の宿泊は許されていました。
十返舎一九の「奥州道中金草蛙」にあるように、峠の名物は焼き鳥とあんこもちでした。
「甘口で
行かぬ世渡りなればとて
ここの汁粉の塩の辛さよ」

かつて、吉田松陰も、イザベラ・バードも、十返舎一九も越えた峠。
会津盆地が一望でき、かなたに磐梯山も望むことができるこの峠は、会津に向かう人にとってははじめて見る若松城下であり、去る者にとっては涙を流す別離の峠でした。

その会津盆地の景色を眺めながら、古川先生の臨時講義が始まりました。
戊辰戦争敗軍の将、秋月悌次郎が河井善順とともに猪苗代の謹慎所を脱走し、山川健次郎と小河亮を連れて越後に西軍参謀奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠からはるかに若松城下をのぞみ、
「行くに輿無く 帰るに家無し」
と、会津の行く末を憂い、
「いずれの地に君を置き、また親を置かん」
と、「北越潜行の詩」を詠じたのもこの峠でした。

これがその詩です。
古川先生の叙情的な解説によって、秋月悌次郎の深い深い「慟哭」が我々の胸に迫りました。

束松洞門
明治15年、福島県令となった三島通庸は会津三方道路を開きます。これは馬車が通行できることが条件でしたので、越後街道は束松峠の険を避けて藤峠経由(今の国道49号)となってしまいました。
夢よもう一度、付近の住民は独力で250mほどのトンネル(この束松洞門)を掘り道路を付け替え、車馬の通行を可能にしました。
しかし洞門の貫通が明治20年、新道開通がその5年後くらいでしたが、時は鉄道の時代になっており、夢ははかなく終わってしまいました。


洞門内部


天屋の一里塚
寛文7年(1667年)頃つくられた一里塚で、会津では一里壇とも呼ばれます。鉄塔があるのがちょっと残念ですが、一対がしっかり残ってる一里塚としては、会津領の越後街道では唯一のものです。
会津藩の役人は肝煎どもを集めて命じました。「一里ごとに壇をつくれ。一里壇へ木を植えよ」と。肝煎どもはあまりに緊張して聞いたものだから「一里壇榎を植えよ」と聞き間違え、そのため会津の一里塚の多くには榎が植えられているそうです。



石畳跡
束松峠の通行が盛んだった明治初年までは、石畳道が何kmも続いていましたが、炭焼き釜に使われたり、馬車の通行の邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまったそうです。↓



三本松
束松のひとつ三本松は、福島県緑の文化財に指定されている巨木だったのですが、今は枯れて主幹が切られた状態です。
三本松から少し下った右手に山王神社の鳥居、そして左手ちょっと登ったところに六地蔵があります。六地蔵の場所には明治初めまで地蔵の茶屋がありました。


彦束松(ひこたばねまつ)
この峠の名の由来である、枝がすべて上方に伸びて箒を立てたような「束松(たばねまつ)」は、今はもうない峠の赤松をはじめかつてはこのへんにはたくさんあったそうです。
松くい虫等でかなり減ってしまいましたが、この彦束松の樹勢は旺盛で、それらの姿を連想させてくれます。

彦束松の近くにはヒメサユリの群落があり、ちょうどこのとき見頃を迎えていました。

束松事件現場↑
戊辰戦争で敗れた会津には、その後西軍によって民生局が置かれ、その若松民生局の監察方頭取であった久保村文四郎は会津藩士の恨みを買っていました。
明治2年、民生局は廃止、若松県になると、久保文四郎は任おわって郷里の越前に帰ることになり、その帰路の途中、この地で2人の男に襲われ、斬られました。二人は会津藩士の伴百悦、高津仲三郎でした。伴はやがて新津藩士に追い詰められ大安寺村で割腹し、高津は思案橋事件※に連座して惨殺されたとのことです。
※思案橋事件・・・旧会津藩士の永岡久茂や竹村俊秀、高津仲三郎、井口慎次郎等が、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、に呼応して挙兵、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光を経て会津を扼し若松に大挙しようと計画。
明治9年10月29日に東堀留川が日本橋川に注ぎ落ちる口、小網町1丁目から2丁目に通じる小さな橋「思案橋」のたもとにて、14名の一向が、不審に思った船の船頭の通報によって駆けつけた警官4名と斬り合いになり、2人の警官(寺本警部補・河合巡査)が死亡、1人警官重傷(木村巡査)の犠牲を出し、 挙兵としては未遂として終わり、一向は数名を除いて捕縛され、関係者も国事犯として手配され捕縛され、首謀者とされた永岡久茂は獄中負傷が元で死亡、竹村・高津・井口は翌10年2月7日処刑されたという事件。

一応ゴールの洲走の湯にはゴールテープが。
古川先生ゴール。
この日は束松峠を往復され、今年米寿を迎えたとはだれも信じられないほどお元気な方です。


今回ゴールに使わせていただいた洲走の湯は創業150年。
源泉の温度が低いため加温はしていますが、掛け流し。かすかな硫黄臭と白濁の透明泉で、石鹸が入ってるのではないかと思うほどスベスベする美肌の湯で、アトピーなどの人が遠方から湯治に来るそうです。
なお飲泉も有効で、冷蔵庫で冷やしてあるものを風呂上りにいただきました。
洲走の湯
河沼郡会津坂下町片門鬼百苅47
0242-85-2658
日帰り入浴400円 宿泊もできます。

今回のイベント参加記念品は、「飯豊山麓花紀行」のときご好評いただいた田中氏の手作り第二弾。
これに熊除け代わりの鈴をつけました。

遠くは関東や愛知県から参加いただいた方々、そして古川利意先生はじめ沿道の様々な方々のご協力をいただき、「越後街道探索ウォーク」無事終了しました。
関係されたすべての方々に厚く御礼申し上げます。
誠にありがとうございました。
なお、越後街道ウォークの報告はその3番外編に続きます。

二日目、西会津町役場からスタート。


六地蔵(俗称 化け地蔵 写真中央の石像)
遍照寺の境内にあるこの地蔵は6角に削り面ごとに地蔵1体を彫ってあります。
新編会津風土記によると、夜毎怪しい形になり人々をたぶらかしていたが、一丈夫に斬りつけられ疵を受け、それからはその変化がなくなったといい、今も竿石の中ほどにその太刀傷が見えるといいます。

諏方神社
永仁二年(1294年)に芦名宗盛が信州より諏訪大明神を勧請した時、その神輿が宿営した縁で、野沢地頭の荒井信濃守頼任が嘉元元年(1303年)に同社を祀ったとあります。
本来「諏訪」とするところを「諏方」にしているのは、信州諏訪本社に遠慮してのことだと伝えられてます。
また、あまり知られていませんが、元和5年(1619年)にここ諏方神社で「鉄火の裁き」が行われました。以下に詳しく書いてみます。
鉄火の裁き
松尾村と縄沢村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました。
すなわち、両村から代表者が出て、鉄火をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。
この勝負は負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄沢村の代表になる決意をした二郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門。
元和5年(1619年)8月21日。双方礼服を着用して手に熊野牛王の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。
果たして二郎右衛門は3度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました。
松尾村では村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです。

野沢一里塚
諏方神社の道路をはさんだ向かい側、杉木立の中に一里塚はあります。旧街道は現在水路となっている部分とその南、草むらとなっているところを通っていたようです。北側にもう一対一里塚があったそうですが、それは道路拡張の際削平でされてしまったとのことです。

野沢を後にし、次の縄沢(つなさわ)集落へ。

ここには下見のときに知り合った折笠氏のコレクションを公開している「日本一小さな美術館」がありました。

蔵を展示場にしていて、実は決して「日本一小さな」ではなく、中には地元の芸術家の作品や、刀や陶磁器などの骨董品、竹久夢二や斉藤清の作品等がところ狭しと飾られていました。

私が個人的に大好きな、斉藤清の版画、これは一度も見たことなかった作品でした。

折笠氏と美術館前で。

続いて、地元の人もあまり知らない、冑(かぶと)神社へ。

冑神社
天喜五年(1057年)、源義家が前九年の役の途、ここで休んで冑を石の上に置いたところ、石に変じたという伝説の神社です。このあたりの地名は「甲石」といいます。
実際に石材を採掘していた時代もありました。冑石観音岩だけは村民の厚い信仰により守られ、今も昔のまま残っています。





かつて越後街道の要衝であった軽沢集落でちょうど昼食タイム。鈴木様(写真右)宅にお世話になりました。
ここで、地元の高名な郷土史家、古川先生(写真左)と合流し、ここから一緒に歩いていただいて、様々なお話を伺いました。

鈴木氏が大切に保管されている、前述の斉藤清がここ軽沢を描いた「会津の冬(115) 西会津・軽沢」。
私が斉藤清の会津の冬シリーズが好きだと言ったら、奥から出してきてくださいました。
おそらくン十万、いや下手したらその上の桁くらいします(笑)。
本物の威力はすごいです。
私もいつかはひとつ、本物を手元に置きたいと思ってますが。。。。永遠の夢ですね(苦笑)。

軽沢を過ぎると、しばらくして束松峠へ向けて昔ながらの道の登りが始まります。

峠の茶屋があった場所はもうすぐで、写真右の谷に水がわいていて、かつてはそこから茶屋で使う水を汲んでいたそうです。

峠の茶屋跡
ここには昭和30年代まで2軒の茶屋がありました。江戸時代には越後街道の「間の宿」で、旅人の休息・一泊の宿泊は許されていました。
十返舎一九の「奥州道中金草蛙」にあるように、峠の名物は焼き鳥とあんこもちでした。
「甘口で
行かぬ世渡りなればとて
ここの汁粉の塩の辛さよ」

かつて、吉田松陰も、イザベラ・バードも、十返舎一九も越えた峠。
会津盆地が一望でき、かなたに磐梯山も望むことができるこの峠は、会津に向かう人にとってははじめて見る若松城下であり、去る者にとっては涙を流す別離の峠でした。

その会津盆地の景色を眺めながら、古川先生の臨時講義が始まりました。
戊辰戦争敗軍の将、秋月悌次郎が河井善順とともに猪苗代の謹慎所を脱走し、山川健次郎と小河亮を連れて越後に西軍参謀奥平謙輔を尋ね、会津の行く末を託しての帰途、雪の束松峠からはるかに若松城下をのぞみ、
「行くに輿無く 帰るに家無し」
と、会津の行く末を憂い、
「いずれの地に君を置き、また親を置かん」
と、「北越潜行の詩」を詠じたのもこの峠でした。

これがその詩です。
古川先生の叙情的な解説によって、秋月悌次郎の深い深い「慟哭」が我々の胸に迫りました。

束松洞門
明治15年、福島県令となった三島通庸は会津三方道路を開きます。これは馬車が通行できることが条件でしたので、越後街道は束松峠の険を避けて藤峠経由(今の国道49号)となってしまいました。
夢よもう一度、付近の住民は独力で250mほどのトンネル(この束松洞門)を掘り道路を付け替え、車馬の通行を可能にしました。
しかし洞門の貫通が明治20年、新道開通がその5年後くらいでしたが、時は鉄道の時代になっており、夢ははかなく終わってしまいました。


洞門内部


天屋の一里塚
寛文7年(1667年)頃つくられた一里塚で、会津では一里壇とも呼ばれます。鉄塔があるのがちょっと残念ですが、一対がしっかり残ってる一里塚としては、会津領の越後街道では唯一のものです。
会津藩の役人は肝煎どもを集めて命じました。「一里ごとに壇をつくれ。一里壇へ木を植えよ」と。肝煎どもはあまりに緊張して聞いたものだから「一里壇榎を植えよ」と聞き間違え、そのため会津の一里塚の多くには榎が植えられているそうです。



石畳跡
束松峠の通行が盛んだった明治初年までは、石畳道が何kmも続いていましたが、炭焼き釜に使われたり、馬車の通行の邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまったそうです。↓



三本松
束松のひとつ三本松は、福島県緑の文化財に指定されている巨木だったのですが、今は枯れて主幹が切られた状態です。
三本松から少し下った右手に山王神社の鳥居、そして左手ちょっと登ったところに六地蔵があります。六地蔵の場所には明治初めまで地蔵の茶屋がありました。


彦束松(ひこたばねまつ)
この峠の名の由来である、枝がすべて上方に伸びて箒を立てたような「束松(たばねまつ)」は、今はもうない峠の赤松をはじめかつてはこのへんにはたくさんあったそうです。
松くい虫等でかなり減ってしまいましたが、この彦束松の樹勢は旺盛で、それらの姿を連想させてくれます。

彦束松の近くにはヒメサユリの群落があり、ちょうどこのとき見頃を迎えていました。

束松事件現場↑
戊辰戦争で敗れた会津には、その後西軍によって民生局が置かれ、その若松民生局の監察方頭取であった久保村文四郎は会津藩士の恨みを買っていました。
明治2年、民生局は廃止、若松県になると、久保文四郎は任おわって郷里の越前に帰ることになり、その帰路の途中、この地で2人の男に襲われ、斬られました。二人は会津藩士の伴百悦、高津仲三郎でした。伴はやがて新津藩士に追い詰められ大安寺村で割腹し、高津は思案橋事件※に連座して惨殺されたとのことです。
※思案橋事件・・・旧会津藩士の永岡久茂や竹村俊秀、高津仲三郎、井口慎次郎等が、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、に呼応して挙兵、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光を経て会津を扼し若松に大挙しようと計画。
明治9年10月29日に東堀留川が日本橋川に注ぎ落ちる口、小網町1丁目から2丁目に通じる小さな橋「思案橋」のたもとにて、14名の一向が、不審に思った船の船頭の通報によって駆けつけた警官4名と斬り合いになり、2人の警官(寺本警部補・河合巡査)が死亡、1人警官重傷(木村巡査)の犠牲を出し、 挙兵としては未遂として終わり、一向は数名を除いて捕縛され、関係者も国事犯として手配され捕縛され、首謀者とされた永岡久茂は獄中負傷が元で死亡、竹村・高津・井口は翌10年2月7日処刑されたという事件。

一応ゴールの洲走の湯にはゴールテープが。
古川先生ゴール。
この日は束松峠を往復され、今年米寿を迎えたとはだれも信じられないほどお元気な方です。


今回ゴールに使わせていただいた洲走の湯は創業150年。
源泉の温度が低いため加温はしていますが、掛け流し。かすかな硫黄臭と白濁の透明泉で、石鹸が入ってるのではないかと思うほどスベスベする美肌の湯で、アトピーなどの人が遠方から湯治に来るそうです。
なお飲泉も有効で、冷蔵庫で冷やしてあるものを風呂上りにいただきました。
洲走の湯
河沼郡会津坂下町片門鬼百苅47
0242-85-2658
日帰り入浴400円 宿泊もできます。

今回のイベント参加記念品は、「飯豊山麓花紀行」のときご好評いただいた田中氏の手作り第二弾。
これに熊除け代わりの鈴をつけました。

遠くは関東や愛知県から参加いただいた方々、そして古川利意先生はじめ沿道の様々な方々のご協力をいただき、「越後街道探索ウォーク」無事終了しました。
関係されたすべての方々に厚く御礼申し上げます。
誠にありがとうございました。
なお、越後街道ウォークの報告はその3番外編に続きます。
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