院内御廟歴史散策会 - 2013.08.07 Wed
東山温泉の入り口近くにある会津藩主松平家墓所「院内御廟」にて行われた歴史散策会に参加してきました。


主催は会津若松市教育委員会文化課。
さすがですね、普段私のやっているこじんまりイベントとは桁違いの(笑)、ざっと数えた感じで70名以上もの多くの参加者が集いました。

申し込みを済ませるとまずもらったのは院内御廟のパンフとこの「巻物」。

巻物の中身は御廟のイラストマップとこの謎が書かれた「問題」の2枚でした。
問は7つ。
「なぜこの場所が御廟に選ばれたのでしょうか」
「二代藩主のお墓には「鳳翔院殿」という戒名が彫られています。それはなぜでしょう」
「巨大な石から成り立つ御廟。この石は、どこから、どんな方法で運ばれたのでしょうか」
などなど。
どれも非常に難問、恥ずかしながら私がわかったのはたったの1問で、今からはじまる散策会に期待が膨らみました。

そしていよいよ開会。

マップの説明。各ポイントに解説員がいて、問の答えの説明をしてくださるようになっています。

入り口の門に最初の問の答えが。
1657年、藩祖保科正之公の子保科正頼(本来なら二代藩主になるはずの人でしたが、江戸のいわゆる「振袖の大火」の犠牲になったそうです)が死去した際、正之公が南向きの山でよい水がでるという理由から、ここ院内山を墓所として定めたのでした。
私はこの墓所は何度も訪れていますが、いつもこの入り口の門をくぐるとなんだか厳かな気持ちになります。
それもそのはず、世が世なら庶民はこの先には入れない「聖域」だからです。

少し進み、左手に登ると、「中之御庭」。ここには前述の保科正頼の墓があります。

2問目の答えがここに。
この中之御庭の奥にあるのが、「西之御庭」。中之御庭と西之御庭には計22基の墓がありますが、これらは藩主の側室やその子供たちの墓です。

中之御庭から参道に戻り少し登ると二代藩主保科正経公の墓。
正経公は、亡くなった父正之公を弔うため土津神社を建立したり、領民を疫病から救うという目的であの御薬園を建設したり、学問の奨励などにも力を注ぎ、名君だったと伝えられています。
そして第3問、正経公の墓石に「鳳翔院殿」という戒名が彫られているのはなぜ?
それはこの二代藩主だけが「仏式」で葬られたからでした。
では藩祖正之公はじめ、他の藩主はすべて「神式」なのに、二代藩主だけがなぜ「仏式」?というあらたな疑問がわいてきます。
その答えを解説員に質問してみました。
「確たる答えはないのですが・・・」という前置きがあって、いくつかの説を教えていただきました。
それは「将軍家に配慮して神式を避けたのではないか」や「時の将軍はあの綱吉。神式だと碑石の下に亀石を置く形になるので、それが生類憐みの令に反すると思ったのでは」などの説です。

確かに正経公の碑石の下には亀石「亀趺(きふ)」がありません。

そしてどんどん登っていくと、開けた場所へ。
3代藩主から9代藩主までの墓がずらりと並んだ「入峰墓所」と呼ばれる所。

第4問
「三代藩主から九代藩主までは神式の墓のつくりとなっています。亀に似た石の名前、役割はなんでしょう」

石の名は「亀趺坐(きふざ)」。亀に似てますが中国の故事にちなんだ空想上の動物で、藩主の墓を守る役割があって、藩主の亡骸が眠る「鎮め石」の方向を向いています。
また亀趺坐の上に乗っている巨大な碑石には、その藩主の生い立ち・経歴・業績などが詳細に彫られています。

そして一番左の奥にあるのが、大河で綾野さんが熱演されている9代藩主容保公の墓。

その容保公の左隣に、十代以降の藩主はじめ現代の松平家の方々の墓があります。照姫さんもここに葬られています。


七代藩主容衆(かたひろ)公の墓の前に第5問。
この巨大な石は、今の河東町、八田野地区(大河では八重が小さいときに父に鳥をうちに連れて行ってもらったシーンを撮影したあたり)から、冬にソリを使ってここまで運ばれたそうです。

この小高い丘の上にある八角形の石が「鎮石(しずめいし)」と呼ばれるもので、この下に藩主の眠る石室があります。


その藩主の生い立ち・経歴・業績などが彫られている前述の「碑石」を前面に、その碑石より一段高い所に対の石灯籠(写真手前)を並べ、その奥に「表石」(「会津中将~」って彫られているもの)を建て、そのさらに奥の小高い所に前述の八角形の「鎮石」を置く方式になっています。
これほど壮大な規模で、荘厳な宗教的雰囲気の漂う御廟は全国でも類をみないとのことです。
御廟全体が昭和62(1987)年5月に国史跡の指定を受けています。

そして院内御廟をあとにし、おとなりの歴史感動ミュージアム・会津武家屋敷へ。ここは家老西郷頼母の屋敷を復元したものです。
通常は入場料850円かかるのですが、この日のイベント参加者は無料。とてもお得でした(笑)。さらに「什の掟」のポスターを参加記念品としていただきました。
第6問、7問は武家屋敷の問題。
この「会津武家屋敷」がつくられたきっかけと、西郷頼母の会津藩での役職は?というものでした。
院内御廟と武家屋敷。
参加者が思い思いのペースで歩きながら、要所要所でスタッフから解説を聞ける、この形式はとてもいいですね。
私自身知らなかったことが多く、とても有意義でした。
勉強になりました。
そして。。。実は武家屋敷へ来たのは久しぶりなのですが、今まで私が来たときは閉ざされていた?門がこの日はあいていました。その奥には。。。

京都見廻組、佐々木只三郎の墓があります。
あの坂本龍馬暗殺を指揮した人ということで結構有名ですね。
会津藩士の子ということが会津黒幕説にもつながっているようですが、旗本へ養子に行って幕府のもと働いていた佐々木が、寺田屋事件で幕府役人を射殺した「殺人犯」である龍馬を取り締まっただけだとも思えます。
龍馬暗殺のすぐ後、佐々木只三郎は鳥羽伏見の戦いで戦死しました。


久しぶりに武家屋敷を堪能した後、背あぶり山へ足をのばしました。
この背あぶり山といえば、奥州仕置の際に会津を訪れた秀吉が「絶景」と喜び、山頂でお茶会を開いたことが知られていますが、私にとっては。。。

アメリカ移民の日本女性第1号、「おけい」こと伊藤おけいさんの墓がある場所であることが重要です。


「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years 」
会津戦争の3年後、1871年に没。享年19歳。
ということは八重の7才下になりますね。

あれもこれもってわけにはいかないのでしょうが、八重の桜にぜひ登場してもらいたかったひとり、ヘンリースネル。
鶴ヶ城開城の翌年、カリフォルニアに「若松コロニー」という農場を拓き再起をはかろうとしたスネルと一緒に海を渡ったのがおけいでした。
しかし、その2年後、異国の地でおけいは病没します。
きっと帰りたかっただろうな。。。


おけいさんの墓のわきにはヤマユリが咲いていました。


主催は会津若松市教育委員会文化課。
さすがですね、普段私のやっているこじんまりイベントとは桁違いの(笑)、ざっと数えた感じで70名以上もの多くの参加者が集いました。

申し込みを済ませるとまずもらったのは院内御廟のパンフとこの「巻物」。

巻物の中身は御廟のイラストマップとこの謎が書かれた「問題」の2枚でした。
問は7つ。
「なぜこの場所が御廟に選ばれたのでしょうか」
「二代藩主のお墓には「鳳翔院殿」という戒名が彫られています。それはなぜでしょう」
「巨大な石から成り立つ御廟。この石は、どこから、どんな方法で運ばれたのでしょうか」
などなど。
どれも非常に難問、恥ずかしながら私がわかったのはたったの1問で、今からはじまる散策会に期待が膨らみました。

そしていよいよ開会。

マップの説明。各ポイントに解説員がいて、問の答えの説明をしてくださるようになっています。

入り口の門に最初の問の答えが。
1657年、藩祖保科正之公の子保科正頼(本来なら二代藩主になるはずの人でしたが、江戸のいわゆる「振袖の大火」の犠牲になったそうです)が死去した際、正之公が南向きの山でよい水がでるという理由から、ここ院内山を墓所として定めたのでした。
私はこの墓所は何度も訪れていますが、いつもこの入り口の門をくぐるとなんだか厳かな気持ちになります。
それもそのはず、世が世なら庶民はこの先には入れない「聖域」だからです。

少し進み、左手に登ると、「中之御庭」。ここには前述の保科正頼の墓があります。

2問目の答えがここに。
この中之御庭の奥にあるのが、「西之御庭」。中之御庭と西之御庭には計22基の墓がありますが、これらは藩主の側室やその子供たちの墓です。

中之御庭から参道に戻り少し登ると二代藩主保科正経公の墓。
正経公は、亡くなった父正之公を弔うため土津神社を建立したり、領民を疫病から救うという目的であの御薬園を建設したり、学問の奨励などにも力を注ぎ、名君だったと伝えられています。
そして第3問、正経公の墓石に「鳳翔院殿」という戒名が彫られているのはなぜ?
それはこの二代藩主だけが「仏式」で葬られたからでした。
では藩祖正之公はじめ、他の藩主はすべて「神式」なのに、二代藩主だけがなぜ「仏式」?というあらたな疑問がわいてきます。
その答えを解説員に質問してみました。
「確たる答えはないのですが・・・」という前置きがあって、いくつかの説を教えていただきました。
それは「将軍家に配慮して神式を避けたのではないか」や「時の将軍はあの綱吉。神式だと碑石の下に亀石を置く形になるので、それが生類憐みの令に反すると思ったのでは」などの説です。

確かに正経公の碑石の下には亀石「亀趺(きふ)」がありません。

そしてどんどん登っていくと、開けた場所へ。
3代藩主から9代藩主までの墓がずらりと並んだ「入峰墓所」と呼ばれる所。

第4問
「三代藩主から九代藩主までは神式の墓のつくりとなっています。亀に似た石の名前、役割はなんでしょう」

石の名は「亀趺坐(きふざ)」。亀に似てますが中国の故事にちなんだ空想上の動物で、藩主の墓を守る役割があって、藩主の亡骸が眠る「鎮め石」の方向を向いています。
また亀趺坐の上に乗っている巨大な碑石には、その藩主の生い立ち・経歴・業績などが詳細に彫られています。

そして一番左の奥にあるのが、大河で綾野さんが熱演されている9代藩主容保公の墓。

その容保公の左隣に、十代以降の藩主はじめ現代の松平家の方々の墓があります。照姫さんもここに葬られています。


七代藩主容衆(かたひろ)公の墓の前に第5問。
この巨大な石は、今の河東町、八田野地区(大河では八重が小さいときに父に鳥をうちに連れて行ってもらったシーンを撮影したあたり)から、冬にソリを使ってここまで運ばれたそうです。

この小高い丘の上にある八角形の石が「鎮石(しずめいし)」と呼ばれるもので、この下に藩主の眠る石室があります。


その藩主の生い立ち・経歴・業績などが彫られている前述の「碑石」を前面に、その碑石より一段高い所に対の石灯籠(写真手前)を並べ、その奥に「表石」(「会津中将~」って彫られているもの)を建て、そのさらに奥の小高い所に前述の八角形の「鎮石」を置く方式になっています。
これほど壮大な規模で、荘厳な宗教的雰囲気の漂う御廟は全国でも類をみないとのことです。
御廟全体が昭和62(1987)年5月に国史跡の指定を受けています。

そして院内御廟をあとにし、おとなりの歴史感動ミュージアム・会津武家屋敷へ。ここは家老西郷頼母の屋敷を復元したものです。
通常は入場料850円かかるのですが、この日のイベント参加者は無料。とてもお得でした(笑)。さらに「什の掟」のポスターを参加記念品としていただきました。
第6問、7問は武家屋敷の問題。
この「会津武家屋敷」がつくられたきっかけと、西郷頼母の会津藩での役職は?というものでした。
院内御廟と武家屋敷。
参加者が思い思いのペースで歩きながら、要所要所でスタッフから解説を聞ける、この形式はとてもいいですね。
私自身知らなかったことが多く、とても有意義でした。
勉強になりました。
そして。。。実は武家屋敷へ来たのは久しぶりなのですが、今まで私が来たときは閉ざされていた?門がこの日はあいていました。その奥には。。。

京都見廻組、佐々木只三郎の墓があります。
あの坂本龍馬暗殺を指揮した人ということで結構有名ですね。
会津藩士の子ということが会津黒幕説にもつながっているようですが、旗本へ養子に行って幕府のもと働いていた佐々木が、寺田屋事件で幕府役人を射殺した「殺人犯」である龍馬を取り締まっただけだとも思えます。
龍馬暗殺のすぐ後、佐々木只三郎は鳥羽伏見の戦いで戦死しました。


久しぶりに武家屋敷を堪能した後、背あぶり山へ足をのばしました。
この背あぶり山といえば、奥州仕置の際に会津を訪れた秀吉が「絶景」と喜び、山頂でお茶会を開いたことが知られていますが、私にとっては。。。

アメリカ移民の日本女性第1号、「おけい」こと伊藤おけいさんの墓がある場所であることが重要です。


「In Memory of OKEI Died 1871 Aged 19years 」
会津戦争の3年後、1871年に没。享年19歳。
ということは八重の7才下になりますね。

あれもこれもってわけにはいかないのでしょうが、八重の桜にぜひ登場してもらいたかったひとり、ヘンリースネル。
鶴ヶ城開城の翌年、カリフォルニアに「若松コロニー」という農場を拓き再起をはかろうとしたスネルと一緒に海を渡ったのがおけいでした。
しかし、その2年後、異国の地でおけいは病没します。
きっと帰りたかっただろうな。。。


おけいさんの墓のわきにはヤマユリが咲いていました。