topimage

2017-08

天海大僧正 歴史講演会&歴史見学会 - 2014.01.29 Wed

突然ですが、みなさん、天海大僧正って知ってますか?

戦国時代末期から江戸時代初期の天台宗の名僧で、特に家康から家光まで徳川三代の宗教的な支えとなったことでその名を残しています。 
信長に焼かれた比叡山の再興や、日光東照宮の造営に尽力しました。

しかし名僧としてのすごい功績とは裏腹に、その生い立ちなどはよくわかっていません。
明智光秀が山崎の戦いのあとも実は生き延びていて天海となった、という説もあるくらいです(笑)。

天海本人が「仏門に入れば過去の俗事は何事もないし知ってよいこともない」とほとんど自身のことを語らなかったことが大きいようですが、両親の墓があり、伝記等ではどれも会津郡高田の出身となっていることからも定説となっているのが旧会津高田町=現会津美里町だったりします。
会津美里町では天海を町おこしのメインにすえて、様々なイベントを開催しています。

その一環、昨年9月28日に行われた講演会と歴史見学会に参加してきました。
(もう4か月も前の話を今頃書いててスミマセン(苦笑))

IMG_2566_20131002225312051.jpg
午前の部は歴史講演会。
上野の寛永寺の住職、浦井正明先生による講演「天海大僧正の実像~信念に生きた人~」

IMG_2567.jpg
体育館に設けられた座席はほぼ埋まっていました。
講演の内容は、主に徳川三代に仕えたころの天海のエピソードの紹介で、天海のことをあまり知らなかった私にとってとても興味深いものでした。

浦井先生は天海のことを「そろばん勘定は一切無し、信念に生きた人」と。
1616年1月、駿府の家康が病気になり、川越の天海の元へ見舞いに来いとの手紙がきてもすぐに駆けつけず家康の怒りを買ったり、家康の葬式の際、幕府は唯一神道で執り行ったが、天海は家康公は天台宗で行えと言っていたと批判したり、寛永寺建立の際、金を出す幕府から幕府の人間のみの菩提寺にしろと言われたことに反発、庶民も分け隔てなく弔うと、自費で建立することにした、などなどリスクを承知の上で考えを通す、信念にはあわないものには従わない反骨の精神の持ち主だったエピソードが紹介されました。

今の時代、思ってることを保身や損得勘定のみで言わず(やらず)にいるだけでなく、言った(やった)者に対してさも自分が「大人」であるかのようにその行為を咎める人がなんと多いことか。
そんななか天海大僧正のエピソードはどれも痛快でした。

他にも天海大僧正がいかに家光はじめ当時の人たちに一目置かれる重要な人として扱われていたか、様々な貴重なお話を伺いました。


そして午後は第二部の歴史見学会。
実際に会津美里町内の天海ゆかりの寺社をまわりました。
IMG_2583.jpg
美里町公民館向かい、JAの前にある「慈眼大師御誕生地」の碑。慈眼大師はもちろん天海のことです。
天海は没年は1643年とはっきりしているものの、前述のとおり幼少時代の記録がほとんどないため生年については明確なものがなく、よって何歳まで生きたかは90歳から140歳!まで15の説があります。
いずれにしても当時の寿命としてはギネス的な長寿だったことは間違いなさそうです。
その中でも、二つのある文献、1632年に97歳、1615年に80歳の記載が根拠となって生年が1536年とされ、108歳で入寂というのが通説となっています。
現代でもすごいのに、当時は信じられない長寿だったでしょうね~。

IMG_2580_201310022253280e4.jpg
生誕地の碑のはす向かい、会津美里町公民館の前にある天海大僧正の石像。

IMG_2577.jpg
石像のとなりにあるのが「護法石」。
天海は両親が伊佐須美神社の近くの文殊堂にお祈りして授かったといわれ、無事生まれたことを記念して当時の屋敷内に置いた石がこれなんだそうです。

IMG_2573_20131002225316d2e.jpg
会津に残っている天海の逸話で有名なものは3つほどあるのですが、まずそのひとつ、「浮目の土仏」の話。
町の西寄りに「浮目」という場所があるのですが、天海が得度した10歳のころ、田んぼから光を発してるのを見つけ、掘ったら土仏の観音像が出てきたとのこと。
この観音像を模して新たに仏像をつくって、土仏を胎内におさめて観音堂を建てたのが公民館すぐ南の、この写真奥の桜の木のあたりだったそうです。
当初はその土仏が出てきた場所、「浮目」から「浮目観音」と呼ばれていたそうですが、いつの頃からか「浮身観音」と呼ばれるようになり、観音堂自体も平成になってから老朽化によって取り壊され、龍興寺境内に移っています。

ふたつめは「鯉の味噌汁」の話。
天海が赤ちゃんのとき、天海のお母さんは高齢出産で乳の出が悪く、人の勧めもあって鯉の味噌汁を飲んだところ、乳の出がよくなったとか。
しかし、今度はその乳を天海は吐き出してしまって全然飲まなかったそうです。
しかし、よく考えると鯉の味噌汁だけでなく、お母さんが鳥や魚を食べたときに乳を吐き出すことがわかり、その後肉を絶ち、穀物や野菜のみ食べていたら乳をよく飲んでくれたとか。
生まれながらにして、殺生を嫌う僧侶だったんですね(笑)。

そして3つめは「長い泣き声」の話。
天海が5歳になったころ、毎日朝と夕に長々と泣き続けて、親は参ったそうです。
ところがある日、いつものように泣いているところへある高僧がやってきて、幼子であった天海を見て礼拝し、「遠くからでもこの子が唱えるお経が聞こえた」と。
天海は泣いていたのではなく、実は5歳にしてお経を唱えていたのでした。



そして参加者はバスに乗り、雀林にある法用寺へ。
法用寺は養老4年(702年)に徳道上人が建てたと伝わる、会津では恵隆寺(養老3年)に次いで二番に古いお寺です。
IMG_2587.jpg
まずは仁王門。
両サイドに阿吽像のパネルがありますが、本物は国の重要文化財に指定されており、本堂の中に移動されています。
慧日寺でも思うのですが、パネルの展示は逆にちゃちいイメージを与えるような気がするのは私だけでしょうか。。

IMG_2589.jpg
仁王門の上にちょっと変わった注連縄があります。
実はこれ、「蛇」。
雀林集落では江戸期から続いている「蛇の御年始」という行事があり、毎年1月7日に子供たちがこの藁の蛇を担いで家々を回るそうです。
その間に大人たちが新しいものをつくり掲げ、古い蛇体は戻ってくると仁王門の横で焼くとか。
一度ナマで観てみたいですね。

IMG_2592.jpg
観音堂の右にあるのが、会津五桜のひとつ、「虎の尾桜」。

IMG_2594.jpg
虎の尾桜については以前に書いたものがあるので詳しくは→こちらをクリック

IMG_2595.jpg
観音堂内は普段は入れないのですが、たまに戸が開いていて薄暗い中をうかがえるときがあって、そのとき見た限り古い貴重なものがいっぱいありそうだったので、今回中に入れるのを楽しみにしていました。

IMG_2599.jpg

IMG_2601.jpg
会津美里町の教育委員会の方が解説してくださいました。

IMG_2602.jpg

IMG_2603.jpg
左が702年にこの法用寺を創建した得道上人坐像。福島県指定重要文化財。

IMG_2604_201310022255483ec.jpg
前述の仁王門から本堂へ移して安置されている「木造金剛力士像」。
平安時代に造られたケヤキの一木造で、2mを越す大きな像です。装飾が少なく控え目ですが、筋骨隆々で迫力満点です。
阿(あ)・吽(うん)の二体あり、国の重要文化財に指定されています。

IMG_2607.jpg
飯豊山信仰登山の際、ここもお籠りの場所だったそうで、柱には江戸末期あたりから明治、大正、昭和初期の「落書き」が多数残されています。

IMG_2608.jpg
厨子の中の観音様は秘仏で、1300年の間一度も御開帳されたことがないそうです。
厨子は会津最古のもので、鎌倉時代の正和三年(1314)作と刻まれていて、国の重要文化財に指定されています。

IMG_2597.jpg
安永9年(1780)に完成、会津で唯一の三重塔であるだけでなく、下と上の屋根の大きさの差が少なく、組み上げられている木の形など、近づくとその美しさに圧倒されます。
福島県の重要文化財に指定されています。


そして、法用寺をあとにし、龍興寺へ。
IMG_2614_201310022256078f7.jpg
天海さんは、1546年、11歳のときにここ龍興寺で得度、つまり仏門へ向けて修行に入りました。名は「隋風」といったそうです。

そしてここ龍興寺には、福島県に3つしかない国宝のひとつがあります。
IMG_2619_20131002225629dc0.jpg
国宝 一字蓮台法華経 開結共9巻。
今から800年以上前の平安後期に30名によって書写された経巻で、あの平清盛のつくった有名な平家納経、そして中尊寺経、久能寺経と並んで「藤原時代四大荘厳経」と称されています。
これはいつも観せていただけるわけでなく拝観するには事前予約が必要で、かつ風や湿気は禁物という性質上、当日晴れていないといくら予約していても拝観できないという代物です。

IMG_2622.jpg

IMG_2626_201310022256317bc.jpg
住職の丁寧な説明に、参加者一同聞き入ります。
残念ながら10巻のうち第6巻の一巻だけは失われてしまったとのことですが、破損しやすく、また逸散しやすいこういう経典が、ここまできれいに残されているのは奇跡ですよね。
実はこれほどのものが新編会津風土記にはまったく触れられていません。そのおかげで新政府軍の略奪に遭わずに済んだとも言えるそうですが。。。謎ですね。

IMG_2678.jpg
本物の色や質感を再現した一枚の「一字蓮台法華経」が販売されていたので購入しました。

IMG_2679.jpg
額に入れて飾っておくとご利益ありそうです。

IMG_2680.jpg
経文の一字一字が仏様であると考えて、ひとつひとつ美しい蓮の台の上に文字を乗せて書き写してあります。
驚異的なのが、書き損じがないのももちろんのこと、墨の色が一定なんですよね。
一字一字心をこめて。
その気持ちの入りようが伝わってくる気がします。

IMG_2681.jpg

IMG_2629_20131002225634cfd.jpg
また、龍興寺には、伊達政宗が天海に宛てて書いた書状も残されています。
何て書いてあるのかなと尋ねたところ、政宗が天海に会いにいったけど、先客がいてお疲れのようだったので、会わずに帰った、との内容だということ。
政宗にも一目置かれていた存在だったのいうのがうかがえますね。

IMG_2630.jpg
龍興寺境内には、大正4年に見つかった天海の父母の墓があります。この発見によって、天海大僧正の生誕地がここ会津美里町であることが決定的になったとのこと。

IMG_2633_20131002225701069.jpg
これが、この記事の最初の方でご紹介した、平成5年に龍興寺境内に移された「浮身観音八葉堂」。
浮身観音は会津三十三観音の番外札所です。
「浮目をも 助け給へや 観世音 導きたまへ 弥陀の浄土へ」

IMG_2636_20131002225707fe1.jpg
最後に法幢寺へ。
ここのご本尊は、銅造弥陀如来及び両脇侍立像で、阿弥陀如来の背面にしっかりと建治2年(1276年)造と刻まれているそうで、国の重要文化財に指定されています。
なるほど、とても素晴らしい仏像でした。
三躯が一つの光背の前に立つ「一光三尊仏」の形は善光寺式だそうで、ここは「会津の善光寺さん」といわれて地元で親しまれています。


そして公民館に戻り、歴史見学会終了。
国宝など、普段目にすることのできない貴重な品々を拝観できたことも有意義でしたが、天海大僧正について少し理解を深められたのがうれしかったです。

天海大僧正については今後も自分なりに調べていきたいと思っています。




関連記事

平成25年度山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会 通常総会 無事終了しました  «  | BLOG TOP |  » アニマルトラッキング雪原ハイク 下見行ってきました

プロフィール

山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会 

Author:山都地区グリーン・ツーリズム推進協議会 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〒969-4111
福島県喜多方市山都町
字蔵ノ後954-1 
喜多方市山都総合支所 産業課内
TEL 0241-38-3831
FAX 0241-38-3899
Eメールアドレス:
info@yamato-gt.whitesnow.jp
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

最新記事

カテゴリ

G.T.年間スケジュール (5)
G.T.イベント案内 (74)
G.T.イベント報告 (79)
G.T.イベント関連 (78)
会津発見塾 (11)
山都の店情報 (10)
山都情報 (190)
他イベントリポート (42)
その他 (79)
未分類 (10)
喜多方情報 (50)
会津情報 (18)

FC2カウンター

メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

月別アーカイブ

リンク1

リンク2

このブログをリンクに追加する

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR