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2018-04

旧越後街道探索ウォークその1(若松~野沢編)  1日目鶴ヶ城から気多宮まで - 2014.06.04 Wed

報告が遅くなって申し訳ありません。
さる5月24日25日の二日間に渡り、今年度3回シリーズの第一回目、「旧越後街道探索ウォークその1若松~野沢編」を行いました。

会津若松・鶴ヶ城をスタート、全3回、6日にわけて新潟県の新発田城までの約100㎞を歩くイベントのスタートです。
初日は会津若松~気多宮までの約21㎞。

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スタートは、会津の名城、鶴ヶ城。
至徳元年(1384)に芦名直盛によって築かれた黒川城がはじまりで、その後伊達政宗、蒲生氏郷と入城し、蒲生の時に「鶴ヶ城」という名になりました。
その後も上杉景勝、加藤嘉明の居城となり、それぞれの時代に改修が続けられ、難攻不落の名城とうたわれました。
戊辰の役で新政府軍の猛攻にさらされても最後まで城は落ちませんでした。
明治7年に石垣だけ残して取り壊され、現在の天守が復元されたのは昭和40年9月のことです。来年は再建50周年。何かイベントが企画されているようです。乞うご期待。

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地元の方はのみならず、遠くは愛知県、東京都、宮城県などから街道歩きフリークの方々が参加してくださいました。

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鶴ヶ城の石垣には、魔除けの意味といわれる大きな石が使われている箇所があります。
これは「遊女石」と呼ばれているもので、メチャクチャ重くて運ぶのが大変だったことから、美しい遊女を石の上に乗せて男たちのヤル気を向上させて運んだと『新編会津風土記』に記述があります。

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昨年の大河「八重の桜」をご覧になった方はご記憶に新しいかと思いますが、ここがあの山本八重が銃を撃ちまくった北出丸。
一説には大山巌のふとももを撃ち抜いたのは八重だという話も。
この時、北出丸にいたのは精度の低い火縄銃などを装備した老人兵ばかりで、唯一最新の銃を持っていた八重が撃った可能性もかなりあると思います。

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運命の1868年9月22日、午前10時。
降参の旗は3か所に掲げられたそうですが、その1か所がこの石橋のたもとだと言われています。

「当日、御玄関先に降参と認めたる一旗の白旗あるを見、非憤に堪えず…悦之進一目之を見ると、ああ残念と泣きくづれてあった。実際遺憾なりし云々。」 平石弁蔵「会津戊辰戦争」

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裁判所の敷地内になぜか上品な庭園があります。
実はここ、旧会津藩家老内藤介右衛門の屋敷があった場所で、建物は一切なくなってしまったものの、庭園だけは当時の面影を今に伝えてくれています。

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旧内藤邸の庭園、「白露邸」。

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西郷頼母邸跡。
家老、西郷頼母の屋敷があった場所です。
1868年8月23日。西軍が城下へ侵入し、それを告げる早鐘が鳴らされると、会津藩士やその家族は籠城戦にそなえるため城へ急ぎました。
しかし西郷邸では、留守を預かる頼母の妻・千恵子は長男だけ城に行かせ、自分らは籠城戦に参加しても足手まといになる、しかし城外で敵の辱めを受けるわけにはいかない、と、ここで娘達と自刃しました。

なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節の ありとこそ聞け  西郷千恵子 辞世の句

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会津戦争終結の地。
1868年9月22日、10時に降参の白旗が掲げられ、正午には降伏式が行われました。その場所がこの交差点のあたりだったそうです。
その際、敷かれた緋毛氈を会津藩士たちは小さく切って分け、この無念を忘れないようにとそれぞれ懐に入れて持ち帰りました。後にそれは「泣血氈(きゅうけつせん)」と呼ばれ、今でも会津の人々の心に深く刻み込まれています。

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甲賀口門跡 石垣。
蒲生氏郷は城下町を武士の住む郭内と町人の住む郭外とに分け、郭内と郭外の間は深い濠と土塁、16の郭門によって仕切られました。
この甲賀口門はその外郭十六門のうちのひとつで、外郭の石垣としては唯一現存するものです。
戊辰の役では、この場所で激しい戦いが繰り広げられ、昨年の大河ドラマでもやっていましたが、ここを突破され、郭内へ西軍の侵入を許してしまった責任をとって、指揮にあたった田中土佐と神保内蔵助は自刃しました。

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竹藤(たけとう)民芸店。
寛永元年(1624)に竹問屋として創業したという老舗。この建物も築170年を越える貴重なものです。

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建物も竹細工も興味深いですが、ここの白眉はなんといっても「会津唐人凧」。竹藤さんが唯一の製作元なんです。
これも八重の桜のワンシーンにありましたが、籠城戦の最中、城内から揚がった凧を見た新政府軍の兵に、バカにされたと思わせ、さらにこっちは凧揚げをして楽しむくらい余裕があるんだと錯覚させました。

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五街道起点 大町札の辻 道路元標。
会津藩の時代からここは大町札の辻と呼ばれ、かつては高札場があり、今回私たちが辿る越後街道をはじめ、会津五街道の起点でした。
現在はもちろん高札場はなく、道路元標があるのみです。この元標は明治15年、福島県令、三浦通庸が山形、新潟、栃木へのびる三方道路の大工事を行う際、起点としたものです。

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清水屋旅館跡。
ここには吉田松陰、土方歳三、新島襄、八重など、多くの歴史的人物が宿泊した「清水屋」という旅館がありました。
残念ながら清水屋は昭和初年に取り壊され、今は銀行が建っています。

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金剛寺。
大治5年(1130)、開山の長い歴史を持つ真言宗のお寺です。蒲生氏郷公の町割で現在地へ移転。江戸時代には、金剛寺・観音寺・自在院・弥勒寺が会津真言四ヵ寺と称されました。

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常光寺 めぐりあい観音堂。
706年建立という古いお寺で、境内は古くから城下の人々に解放され、寛政3年(1791)には境内に劇場人形座が建設され、日新館の生徒もちょくちょく観にきていたとのこと。
また、境内には「めぐりあい観音堂」というものがあります。
その昔、京都・宇治の茶問屋の父が、行方がわからなくなった長男を探そうと日本中を巡り、ここ会津の常光寺で出されたお茶が家伝のお茶と同じ香りと味だったので、そのお茶を入れた修行僧が長男だとわかったそうです。
以来、人と人の巡り合いの観音様として信仰を集めています。

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阿弥陀寺 御三階。
阿弥陀寺の創建は慶長8年(1603)。戊辰の役で堂宇が焼失してしまい、明治3年には若松城の小天守にあたる「御三階」を移築し、仮本堂としました。
戊辰の役直後、新政府は会津藩の戦死者の埋葬を許さず、遺体はひどい状態になっていましたが、有志が何度も交渉して5ヶ月後にようやく許され、この阿弥陀寺には1,300名の遺骸が埋葬されました。

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かつて鶴ヶ城本丸内にあった建物、御三階(おさんがい・ごさんがい)は、外観上は三階ですが、内部が四層になっており2階と3階の間に天井の低い部屋があります。そこは密議の場所として使用されたといわれています。
また、玄関の立派な唐破風は城内本丸御殿の玄関の一部を移築したもので、鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。

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そして、同じく阿弥陀寺境内には、最後まで会津にとどまり戦った新選組最強剣士のひとり、斉藤一の墓があります。
斉藤一はその後、藤田五郎と改名。会津藩士の娘・時尾と結婚し、後半生を会津人として生きました。
東京で大往生を遂げた(一説には正座したまま逝ったとも)後、本人の希望により、ここ会津の地で時尾とともに眠っています。

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柿本稲荷神社境内 湯殿山道標。

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柿本稲荷神社の右側に湯殿山の道標があります。
元治二年(1865)建造。脇に「右日光街道」「左江戸街道」の文字がみてとれます。

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写真ではわかりづらいかもしれませんが、涙橋のちょっと上流で、鯉の「乗っ込み」(産卵活動)がみられました。

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キリシタン塚。
天正18年(1590)、洗礼名を「レオ」といったキリシタン大名である蒲生氏郷によって、会津にキリスト教が伝えられました。それにより、南会津や郡山、三春、二本松、福島など、会津若松や猪苗代以外でも少しずつキリスト教が広まりました。
しかし江戸時代になると、幕府からキリスト教禁止令が出て、藩主・加藤明成の時代には、会津でもキリシタンの取締りが激化し、寛永9年(1632)会津藩15人、白河藩13人、二本松藩14人,若松藩42人のキリシタンが処刑され、寛永12年(1635)には、薬師川原の刑場で60余名が処刑されたと伝えられています。
その後、この地から犠牲者のものと思われるたくさんの人骨が見つかったため、昭和37(1962)年に今のキリシタン塚が建てられました。
合掌。

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これは下見の時、みつけるのに非常に難儀したのですが(苦笑)、道を外れ農協の倉庫のウラに回り込むと。。。。↓

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ひっそりと念仏供養宝塔が建っています。

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ここはかつて会津藩の処刑場があった場所。
この倉庫建築の折、基礎工事中に大量の人骨が出土したそうです。
合掌。

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馬頭観世音供養塔群。
東城戸村への追分点に4基の馬頭観音があります。

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中野竹子殉節の地。

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中野竹子は藩邸生まれの江戸育ち。容姿端麗で頭も良く、武芸にも優れていたというスーパーウーマン。戊辰戦争が始まると会津に戻ります。
自分も戦に参加したいと申し出ると、家老に「婦女子まで戦争に出したと見られては会津武士の名折れ」と一度は断られますが、「ならばこの場で自刃します」と決死の覚悟で再度直訴。
脱籍浪人で組織された「衝鋒隊(しょうほうたい)」に参加を許され、薙刀で長州・大垣藩と戦い奮戦します。実際はもう少し東とのことですが、この周辺で1868年8月25日に竹子を含む会津藩兵と長州・大垣藩兵の激しい戦いが展開され、男達に混じって奮戦した中野竹子は敵の銃弾に倒れ、22歳の若すぎる命をここで散らしたのでした。

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高瀬新田 道標。
大正4年(1915)建造。「右荒井村」「左中四合ニ至」とかろうじて読めますが、まっぷたつに折れ、転がってしまっています。

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金毘羅大権現常夜燈籠。
高瀬新田集落の一番北にあります。天保五年(1834)建造。

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一里壇集落入口にある馬頭観世音供養塔。

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この日は飯豊連峰がよくみえました。

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田んぼの区画整理が行われたところは旧道は失われてしまってますが、ほぼこのへんという道を歩きます。
アスファルトいくよりもむしろ往時に近い!?

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高久宿 金毘羅大権現常夜燈籠。
若松から出て最初の宿場が高久(たかく)です。村内のカーブの外側に常夜燈籠があります。「宿中安全」の文字があり、駅所時代の名残を今に伝える貴重な燈籠です。

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旧街道は高久からこの写真左前方のほうへ阿賀川を渡り細工名(さいくな)に向かってました。
今はもちろん渡しがないので、我々は国道49号の宮古橋のほうへ迂回しました。

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巳待供養塔。
位置は多少ずれているかもしれませんが、当時の旧道の通っていたルートを特定できる貴重な石碑です。
この石碑の先の鶴沼川を渡ると、いよいよ坂下(ばんげ)宿。
普通に読めば「さかした」ですが、「ばんげ」と読みます。語源については2説あります。ひとつは昔一大勢力を誇った高寺山のお寺の坂の下だからという説。もうひとつはアイヌ語のバンケ(崖、川下の意)からきているという説。もしかしたら両方が混ざったのかもしれません。
また、坂下は交通の要衝に位置していて、鶴ヶ城へ三里、野沢へも三里、塩川へも三里とそれぞれ同じ距離なので、旅人に尋ねられてもとりあえず「三里」と答えとけば間違いないことから「坂下バカ三里」という言葉があります。

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御稷神社境内 千年ケヤキ。
御稷(ごしょく)神社は創建年不詳のようですが、境内にある台の宮公園は、明治41年(1909)の東宮殿下(後の大正天皇)会津行啓の際、公園として整備されたものだそうです。中央には、樹齢1000年は超えていると思われる「千年ケヤキ」があります。

坂下宿についてはイザベラ・バードの「日本奥地紀行」の中にも記述があります。
「坂下に着いたのは六時であった。ここは人口五千の商業の町である。…私たちは馬を下りて、干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚から出る臭いは強烈であった」
おそらくはこの「干魚」は会津の郷土料理「鰊の山椒漬け」用の「身欠鰊」だったのではないかと思われます。

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廣木酒造本店。
創業は江戸時代中期の文政年間(19世紀前半)の老舗。首都圏では県外向け「飛露喜」は有名でなかなか手に入りません。しかし地元では県内向けの「泉川」が親しまれています。
あいにくお店は休みでしたが、参加者の1人が今晩の懇親会用に近くの酒屋へ一升瓶を買いに走ってくれました(笑)。

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法界寺 中野竹子の墓。
法界寺は曹洞宗、永享10年(1438)、淳宗が創建、善恕が開山。
ここに前述の中野竹子の墓があります。
これも前述の西郷一族が自刃した1868年8月23日。
入城に遅れた中野竹子等は照姫が坂下にいるとの情報を聞き、照姫をお守りしようとこの法界寺に宿泊。(実際はガセネタで、照姫は鶴ヶ城内にいました)そこから出撃し、高久の先で戦死するのでした。

武士(もののふ)の 猛き心にくらぶれば 数に入らぬ わが身ながらも    中野竹子 辞世の句

竹子はこの句を詠んだ短冊を薙刀に結びつけ、敵と互角以上に斬り結んだそうです。
この句を読むたびに胸が熱くなります。
竹子は女子に生まれたわが身を呪ったかもしれませんが、「中野竹子」は間違いなく男子以上の「会津魂」を持った「もののふ」だったんですよね。

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光明寺 楼門。
楼門は会津坂下町指定重要文化財で、文化元年(1804)の再建。
江戸後期の典型的なつくりとなっているそうです。

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貴徳寺 堀部安兵衛の両親の墓。
これは賛否が分かれるところですが、坂下ではあの赤穂浪士、堀部安兵衛はここ貴徳寺で生まれた、と伝わっています。私は安兵衛は新発田で生まれたと記憶していたので、これを聞いたときはかなり意外でした。
坂下に伝わる話をそのままここに書くと、堀部安兵衛は本名を中山安之助といい、寛文10年(1670)にここで生まれ、母は安之助が5歳の時病死、父も13歳のときに強盗に斬られて亡くしています。安之助はこのとき、父の脇差で強盗を刺し殺し、その場で仇をとったといわれています。
その後新発田藩の祖父に引き取られ、そこからは忠臣蔵の話と同じです。真偽のほどはわかりませんが、貴徳寺には安兵衛の両親の墓がしっかりとあります。

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定林寺 栗村弾正の墓。
栗村の地頭、栗村氏はこの定林寺のあるあたりに笠松館を築いて、永仁4年(1296)から天正17年(1587)の300年近く、当地の地頭を務めました。

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百万遍供養塔。

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臼ケ森古墳 愛宕神社。
古墳時代前期の前方後円墳。1990年代の調査で全長約50m、後円部径約30m、前方部幅約14mの前方後円墳だったことが確認されています。ただ、現在は前方部は消滅し、後円部の墳頂に愛宕神社の社殿が建てられています。

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栗村堰。
坂下の水利の便が悪いことを嘆いた栗村の地頭栗村弾正盛俊が、永仁4年(1296)、長大な栗村堰を開削して豊かな稲作地帯に変えました。
現在は護岸された部分が多く、当時の面影はないものの、栗村堰は今も坂下の田を潤しています。

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今回の旧道探索ルートは、基本的に「歴史の道調査報告書」をベースして、明治時代の古い地図の道を参考にして決めているのですが、おそらくこの写真の道は旧道と思われます(笑)。

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恵隆寺。
恵隆寺の由緒は、様々な伝承があって、創建の正確な時期や経緯については不明と言わざるをえませんが、新編会津風土記には大同三年(808)、空海の意を受けて坂上田村麻呂が創建したもの、とあります。
現在かやの架け替え中で観音堂は覆われてしまっていますが、架け替え作業を見れるので逆に興味深かったです。

本尊「十一面千手観音菩薩」は、大同三年(808)に弘法大師が観音菩薩の霊感を受け、根が付いた状態(立ち木)で巨木の枝を切り、彫刻されたことから「立木観音」と伝えられています。

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立木観音。ポスターより。

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心清水神社。
天喜3年(1055)に、源頼義・義家親子が戦勝を祈願してこの地に八幡神社を勧請したことがはじまりと伝わります。
天保十一年(1840)に社殿は焼けてしまい、今の拝殿・本殿は文久3年(1863)に藩の費用で建立したものです。
義家公が社殿建立の時、心身を清めるため禊の神泉を夢のお告げによって求め、「心清々し」と発したことからこの神社の名がつけられたとのことです。

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吉田松陰遊歴の碑。
吉田松陰は脱藩後、東北を遊歴した際、この地も訪れています。この碑にはその時松陰の書いた「東北遊日記」の直筆本から影写されています。

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街道道標 追分石。
越後街道と沼田街道の分かれ道、いわゆる「追分」です。ここに「追分石」と呼ばれる道標があります。
「是より右越後道」「是より左柳津道」と読み取れます。鯨岡平右衛門の筆によるものと伝わります。

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また、一部の面に丸い穴が見て取れますが、これは戊辰戦争の際の弾痕だと言われています。
かつてこのあたりは三階建ての旅籠、茶屋などが軒を連ね、街道を行き交う人々で賑わっていたそうです。
昭和の初め頃までは、飯豊参りに行く子供は白装束を着て父親の引く馬に乗ってここまで来て歩き始めとのこと。
また、全国どこの追分もそうですが、ここもかつて人々の別れの場所でした。
「越後出るときゃみんなで出たが、泣いて別れる気多の宮」
越後の薬売りの歌が今に伝えられています。

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この日のゴールはJR只見線塔寺駅。
集落から外れ、国道を渡った山側のとってもヘンピな所にある駅です。2年ほど前には駅のホームにクマが出没し、騒ぎになったほどです。なぜこんな場所にあるのでしょうか。
大正13年(1924)にJR(当時は国鉄)只見線は坂下から柳津までのびました。
このころこの周辺には物資の輸送をする馬車引き、荷物を背負って運ぶ人など、まだまだ運搬を生業としている人が多くいて、その人たちが鉄道を引くことに猛反対したため、塔寺の駅は気多宮の集落から外れた今の位置につくらざるを得なかった、とのことです。

1日目終了。
二日目気多宮~野沢へ続きます。
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