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2018-04

旧越後街道探索ウォークその1(若松~野沢編)  2日目気多宮から野沢まで - 2014.06.05 Thu

旧越後街道探索ウォーク、続きです。
二日目は前日のゴールだった塔寺駅からスタート、西会津町の野沢駅まで約16.5㎞の行程です。
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気多宮からすぐに鐘撞堂峠まで軽い登りが続きます。

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峠の頂上をやや下ったこの写真のてっぺん、東の山中に欽明天皇元年(540)、梁の青岩が開いたという高寺山の鐘撞堂があったと言われる場所があり、それらしい遺構も確認されています。

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その鐘撞堂跡を右手にみるあたりで、道路左に下っていくのが旧越後街道です。

イザべラ・バードの「日本奥地紀行」の第13信には以下の記述があります。
「…この不健康な沼沢地(坂下)を通り越し、そこからは山また山の旅である。道路はひどいもので、辷(すべ)りやすく、私の馬は数回も辷って倒れた。手荷物を載せた馬には伊藤が乗っていたが、まっ逆さまに転んで、彼のいろいろな荷物は散乱してしまう有様であった。」
おそらくこのあたりの坂がそのエピソードの場所と思われます。

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今は横に県道が走っているので人が通ることがなく、ヤブとなっていますが、道形ははっきりしているし、なんとか通れるので、今回はイザべラの通った頃を偲びながら旧道を突破してみました。

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坂ノ下地蔵堂。
もとは、今より50mほど東の山都町への県道との三叉路の角にありました。
ご本尊は「坂の下の地蔵様」と呼ばれ、団子をお供えしてお参りすると、子供の夜泣きが治ると伝わり、また、旅の女が急に産気づき、この地蔵様の場所に来て出産したそうですが、安産でしかも子供が丈夫に育ったので、「子安地蔵」とも呼ばれているそうです。
ちなみにこの近くで生まれたあの斉藤清画伯の版画にもこの地蔵堂は描かれています。

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舟渡の一里壇。
現在の越後街道では会津若松からここまで一里壇(塚)は残っておらず、ここで初めて登場します。この先は新発田までかなりの確率で一里塚が現存します。

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その一里壇の先に「旧越後街道」の柱が建っていて、わずかな距離ですが旧道が現存します。
多少倒木で歩きずらいですが、ここは正真正銘の殿様道ですので、もちろん突破(笑)。

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舟渡の集落に入り、チェックポイントは「バンモチ石」。
かつて舟渡集落の若者たちがこの石をかついで力くらべをしたとか。
石には「目方三十一貫メ」と刻まれています。三十一貫=約117㎏。
肩までクリヤーした人はおらず、胸まで持ち上げた人が落とした時に割れてしまい、その大きい方が今も残っているとのこと。

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現代の力自慢、参加者のひとりがチャレンジしてくれました(笑)。

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欠けていて117㎏は無いにしても、かなりの重量、そして持ちにくさ。。そんな中、見事リフトアップに成功!すごい怪力です(笑)。

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続いて殿様の腰掛け石。
昔、参勤交代のために新発田の殿様がこの地を通った際、この石の上で休息したと伝わります。
 近年、道路拡張の際、業者が拡張の邪魔になるこの石を川に捨てると、この地の人が工事監督を叱りつけ、元通りにするように言ったとのこと。
 実際はもう少し川より手前の屋号「加登屋」の前にあったそうですが、運ぶのが大変だったせいか、ずっと川寄りの今の位置に置いて済ませちゃったとか。

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そしてお約束の。。(笑) 殿様になった気持ちを堪能してくださったでしょうか。

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舟渡集落を進むと只見川に突き当たり、対岸には片門(かたかど)集落が見えます。舟渡はその名のとおり舟渡し場から、片門は川の流れに沿って道の南側だけ家が並んでいたことからそういう名になったと言われています。
新編会津風土記には、執権・北条時頼がこの渡しを越えたとき、その船頭が素早く渡したので、時頼から「早川」の姓をたまわった、とあります。早川家は今も片門に代々続いています。
延徳三年(1491)の「片門の渡しの定め」が現存し、中世の頃から重要な渡し場だったことが考えられ、永正三年(1506)には芦名盛高から渡し守次郎兵衛に安堵状が与えられたとのことです。

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そんな片門の渡しには、天保年間(1830~44)の絵図には吊り橋がかけられてるのがみてとれ、江戸時代末期の絵図には舟を並べその上に橋板を渡したいわゆる「舟橋」がかけられています。(上の写真は大正時代の片門の舟橋の写真)

イザべラ・バードもここを通ったときに立派な舟橋に驚いています。
「…私たちは大きな川にかけてある橋を渡ったが、こんなひどい道路にこんな立派な橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船からなる橋で、どの船も編んだ藤蔓の大きな綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が12フィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている。」(イザベラ・バード 日本奥地紀行)

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束松事件現場。
戊辰戦争で敗れた会津には、その後西軍によって民生局が置かれ、その若松民生局の監察方頭取であった久保村文四郎は会津藩士の恨みを買っていました。
明治2年、民生局は廃止、若松県になると、久保文四郎は任おわって郷里の越前に帰ることになり、その帰路の途中、この地で2人の男に襲われ、斬られました。二人は会津藩士の伴百悦、高津仲三郎でした。伴はやがて新津藩士に追い詰められ大安寺村で割腹し、高津は思案橋事件※に連座して惨殺されました。

※思案橋事件・・・旧会津藩士の永岡久茂や竹村俊秀、高津仲三郎、井口慎次郎等が、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、に呼応して挙兵、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光を経て会津を扼し若松に大挙しようと計画。
 明治9年10月29日に東堀留川が日本橋川に注ぎ落ちる口、小網町1丁目から2丁目に通じる小さな橋「思案橋」のたもとにて、14名の一向が、不審に思った船の船頭の通報によって駆けつけた警官4名と斬り合いになり、2人の警官(寺本警部補・河合巡査)が死亡、1人警官重傷(木村巡査)の犠牲を出し、 挙兵としては未遂として終わり、一向は数名を除いて捕縛され、関係者も国事犯として手配され捕縛され、首謀者とされた永岡久茂は獄中負傷が元で死亡、竹村・高津・井口は翌10年2月7日処刑されたという事件。

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束松事件現場からすぐ先の登りにも短いながら旧道が残ってます。
もちろん突破。

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束松峠入り口にある天屋の集落には往時の面影を感じさせる建物、空気があります。

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ここから峠越え、車は入れません。

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六地蔵(地蔵の茶屋跡)。
天屋から峠への登りが始まるこの六地蔵の場所には明治初めまで地蔵の茶屋がありました。
「陸奥の満つ田の里の束松 千代の齢を家つとにせん」
昔、ここを通った北条時頼は束松を愛でてこう詠んだといわれます。
その束松は、平安時代末期、八幡太郎義家公が、前九年の役の際にここを通ったときに、戦勝を祈願して数本の松を束ねて植えたものが根付いて今のようになった、という伝説があります。

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この束松のひとつ三本松は、福島県緑の文化財に指定されている巨木だったのですが、今は枯れて主幹が切られた状態です。
ちなみに昨年はこんな状態でした↓
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石畳跡。
束松峠の通行が盛んだった明治初年までは、石畳道が何kmも続いていましたが、炭焼き釜に使われたり、馬車の通行の邪魔になったりで、今ではほとんどなくなってしまったそうです。

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天屋の一里塚。
寛文7年(1667年)頃つくられた一里塚です。会津では一里壇とも呼ばれます。この一里塚は両側に一対が残っていて、会津領の越後街道では唯一のものです。
 会津藩の役人は肝煎どもを集めて命じました。「一里ごとに壇をつくれ。一里壇へ木を植えよ」と。肝煎どもはあまりに緊張して聞いたものだから「一里壇榎を植えよ」と聞き間違え、そのため一里塚には榎が植えられているそうです。

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束松洞門。
今は崩落して通行はできません。
明治15年、福島県令となった三島通庸は会津三方道路を開きます。これは馬車が通行できることが条件でしたので、越後街道は束松峠の険を避けて藤峠経由(今の国道49号)となってしまいました。
夢よもう一度、付近の住民は独力で250mほどのトンネルを掘り道路を付け替え、車馬の通行を可能にしました。それがこの束松洞門です。
しかし洞門の貫通が明治20年、新道開通がその5年後くらいでしたが、時は鉄道の時代になっており、夢ははかなく終わってしまいました。

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峠の茶屋跡。
昭和30年代まで2軒の茶屋がありました。江戸時代には越後街道の「間の宿」で、旅人の休息・一泊の宿泊は許されていました。
 十返舎一九の「奥州道中金草蛙」にあるように、峠の名物は焼き鳥とあんこもちでした。
「甘口で 行かぬ世渡りなればとて ここの汁粉の塩の辛さよ」

イザべラ・バードもおそらくはこの束松峠での景色と思われる詳細な記述を残しています。ちょっと長いのですが、とても抒情的で素晴らしい場面なので、その部分をすべて以下に転載します。
「こんどは山岳地帯にぶつかった。その連山は果てしなく続き、山を越えるたびに視界は壮大なものになってきた。今や会津山塊の高峰に近づいており、二つの峰を持つ磐梯山、険しくそそり立つ糸谷山、西南にそびえる明神岳の壮大な山塊が、広大な雪原と雪の積もっている峡谷をもつ姿を、一望のうちに見せている。これらの峰は、岩石を露出させているものもあり、白雪を輝かせているものもあり、緑色に覆われている低い山々の上に立って、美しい青色の大空の中にそびえている。これこそ、私の考えるところでは、ふつうの日本の自然風景の中に欠けている個性味を力強く出しているものであった。」
(イザベラ・バード 日本奥地紀行)

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また、この束松峠は、会津藩の外交交渉の公用方だった幕末の会津藩士、秋月悌次郎が戊辰戦争後、かつて親交のあった長州藩士の奥平謙輔に会うため越後にひそかに向かい、藩主松平容保公の罪の軽減と、会津藩の青少年(その一人があの山川健次郎)の教育を懇願した帰り、藩の行く末を思う詩「北越潜行の詩」を詠んだ場所と言われています。
大河ドラマ「八重の桜」でその存在を知られたこともあり、秋月の功績を伝えようと、昨年、顕彰会や愛好家が束松峠に詩碑を建立しました。

        北越潜行の詩 秋月悌次郎

        行くに輿なく帰るに家なし
        国破れて孤城雀鴉乱る
        治功を奏せず戦いに略なし
        微臣罪ありまた何をか嗟かん
        聞くならく天皇元より聖明
        我が公の貫日至誠より発す
        恩賜の赦書はまさに遠きに非ざるべし
        幾度か手に額をして京城を望む
        之を思い之を思えば夕晨に達す
        愁いは胸臆に満ちて涙は巾を沾す
        風は淅瀝として雲は惨憺たり
        何れの地に君を置き又親を置かん


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軽沢集落。

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冑神社。
天喜五年(1057年)、源義家が前九年の役の途、ここで休んで冑を石の上に置いたところ、石に変じたという伝説の神社です。
このあたりの地名は「冑石」といいます。実際に石材を採掘していた時代もありました。
冑石観音岩だけは村民の厚い信仰により守られ、今も昔のまま残っています。
橋には門がかかっていますが、横から人間だけは行けるようになってます。

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縄沢 馬頭観音。
今回の越後街道シリーズでは、一里塚の次に街道史跡として重視してチェックの馬頭観音。
近世以降は馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなり、これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていきました。
そんなわけで特に街道沿いには馬頭観音が多く見られます。

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野沢一里塚跡。
諏方神社の道路をはさんだ向かい側、杉木立の中に一里塚はあります。旧街道は現在水路となっている部分とその南、草むらとなっているところを通っていたようです。北側にもう一対一里塚があったそうですが、それは道路拡張の際削平でされてしまったとのことです。

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諏方神社。
永仁二年(1294年)に芦名宗盛が信州より諏訪大明神を勧請した時、その神輿が宿営した縁で、野沢地頭の荒井信濃守頼任が嘉元元年(1303年)に同社を祀ったとあります。
本来「諏訪」とするところを「諏方」にしているのは、信州諏訪本社に遠慮してのことだと伝えられてます。

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あまり知られていませんが、元和5年(1619年)にここ諏方神社で「鉄火の裁き」が行われました。

鉄火の裁き
松尾村と縄沢村の間で山の利用権をめぐって争いになり刃傷沙汰へ発展したため、藩庁が間に入って調停しようとしましたが、理・非の裁断ができず、両村もまったく引かなかったため、「鉄火」による決着を行うことになりました。
すなわち、両村から代表者が出て、鉄火をつかみ、先に落とした方が負けという勝負です。
この勝負は負ければ「御成敗」、勝っても重傷の火傷を負うという苛烈きわまりない裁判です。縄沢村の代表になる決意をした二郎右衛門は今後農耕不能になるため、自家の農事の補償を村に約束させました。一方、松尾村の代表は屈強な清左衛門。
元和5年(1619年)8月21日。双方礼服を着用して手に熊野牛王の護符をささげながら神前にすすみ、役人が炎火の中から取り出した鉄火を受け取りました。
果たして二郎右衛門は3度までおし戴いて傍らの三方の上に置いたのですが、清左衛門は受け取るとすぐに護符が燃え上がり、鉄火を投げ出して斃れてしまい、決着はつきました。
松尾村では村の犠牲となった清左衛門の塚に碑をたて、真福寺の境内に墓碑を建てて故人を厚く供養しているそうです。

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六地蔵(俗称 化け地蔵)。
遍照寺の境内にあるこの地蔵は6角に削り面ごとに地蔵1体を彫ってあります。
新編会津風土記によると、夜毎怪しい形になり人々をたぶらかしていたが、一丈夫に斬りつけられ疵を受け、それからはその変化がなくなったといい、今も竿石の中ほどにその太刀傷が見えるといいます。

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栄川(さかえがわ)酒造
西会津を代表する酒蔵です。
栄川酒造の初代は、大阪夏の陣の後に野澤へ移り住んだ三成の直系、大阪落人の石田興一左衛門重友という人だそうで、三代市十郎友治のときに会津松平家に遠慮して、石田の姓を石川に改め、会津藩より酒箒(さけぼうき:酒造免許の意)を得て、以降現在十五代続いているとのこと。
その子孫には、福沢諭吉の慶応義塾で学び、女性の洋髪化など、黎明期日本の教育と文化に大きな足跡を残し、なによりあのアダムスミスの「国富論」の翻訳者で知られる石川暎作がいます。

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みなさん、試飲し、ご主人と談笑後、美味しいお酒をいっぱい買われていました。

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野沢駅にゴールし、第1回の若松~野沢編終了。

次回第二回は7月5日6日、野沢~津川編です。来週には発表しますが、にしあいづ観光交流協会 グリーン・ツーリズム部会さんと連携して行うことがほぼ決定しています。
さらに第三回は津川~新発田編は阿賀町さん、新潟地域振興局さんとの連携の話もすすんでいて、私がこの越後街道ウォークを企画させていただいた理由のひとつ、「街道」を通じての市町村の垣根を越えた交流が実現しそうでとてもうれしく思います。

また、今回参加してくださった方が、今回のイベントの内容をしっかり記事にしてくださいました。
本人の許可を得て全文掲載させていただき、第1回の報告を終えたいと思います。



<旅人というライフスタイル(旧越後街道ウォーク)>

越後街道は会津五街道のひとつであり、会津の若松と越後の新発田を結んでいる。江戸時代には、会津の米と越後の海産物による交易、また、越後側の新発田藩や村上藩からの参勤交代の旅路にも用いられた。私が参加した5月24、25日(平成26年)の「旧越後街道ウォーク」では、できる限り忠実に江戸時代の旧道に沿うよう旅路がとられた。
15人を数えた参加者の参加動機は
「ロマンを求めて」
「旧街道好き」
「山好き」
「イザベラバードを追って」
「越後生まれだから」
「人生の出会いを求めて」
など、多様だった。参加者は、県内から9名、県外から6名、合計15名だった。遠くは愛知、石川からの参加もあり、県外参加者の地域内訳は、宮城県3名、石川県1名、愛知県1名、東京都1名であった。
出発地は会津若松の鶴ヶ城。会津藩家老の庭園跡では、戊辰戦争直後の会津の話を聞くことができた。甲賀口門跡では、背丈の2倍を超える巨大な石垣を前に、戊辰会津戦争での市街地攻防の様子を聞くことができた。江戸時代の初期から続く竹藤民芸店では、古くからそして今でも地域で使われ続けている竹製品の数々を鑑賞した。なお、私は今度、竹柄杓(たけひしゃく)を買いに行く予定だ。
会津五街道の起点、大町札辻を過ぎると、道々には、幕末から明治にかけて多くの要人が利用したという清水屋旅館跡地を始めとして、幕末戦没者の墓標、新撰組斉藤一の墓、平安時代より続く寺院、米沢街道との分岐点湯殿山道標には江戸時代からの石標、などが続く。道を歩きつつ、道中に残る一里塚や街道道標に出会っては、かつて人々がここを通ったことを確信させられる。
歩き始めてまだ時間は短いながらも、徒歩によるかつての旅人と同じく、史跡巡りながら過去に想いを馳せたり、神社仏閣での見聞きしながら文化に触れたり、民芸品を見てはその土地での生活を想像するなど、数多くの魅力に出会うことができている。個人的には、かつては湿地帯だった会津盆地西部を田園地帯に変えたという栗村堰を眺めつつ、広域排水設計や大規模土木工事を想像しながらニヤニヤしたのだが、それについてはここでは語らないことにする。
山歩きに慣れた人、歴史に詳しい人、地域の諸事を語ってくれる地元の人、食好き、酒好き、多様な参加者によって、多様に楽しむことができた。
ひとつひとつ挙げては切りが無いので一部を紹介するならば、容姿端麗・頭脳明晰・武芸錬達にして幕末には女子隊を率いて薩長軍と戦い白虎隊全員の憧れの標だったとも言われる中野竹子の殉節の地、外周 8 m を越える千年ケヤキ、松下村塾開塾の際には会津日新館を参考にしたと言われる吉田松陰の会津遊歴の碑、今や日本に名だたる名酒飛露喜を醸する広木酒造本店、などなど。
他にも多くの見聞を得ることができたのだが、ここにはほんの一部しか挙げきれないことが残念である。それにしても、これほどの史跡を調べに調べ上げた担当リーダーには頭が下がる。配布資料の巻末に記された参考文献には、会津風土記、各市町村史、などなどがずらりと並んでいた。
宿泊地は蕎麦で有名な山都町であった。山都町は、越後街道沿いではない。越後街道から外れた越後裏街道沿いである。しかし、江戸時代の当時も、余裕のある旅人は隣の山都へ片道2里(約8km)ほど寄り道し、名物の蕎麦などを楽しんだことだろう。私達は、1日目終着点のJR只見線塔寺駅からバスで移動した。
宿泊地の山都でも街道の魅力はあった。まず、名物の蕎麦は昔から美味であっただろうと想像しながら食したのはもちろんである。さらには、昔であれば、偶然居合わせた宿泊客との出会いが楽しまれたことだろう。今回は、これをも同様に楽しむことができた。参加者どうしで、街道を歩く理由から始まって、街道を歩く後姿が素敵、福島に住みたい、定年退職した後の余生暴走、キリマンジャロでの出会い、虚無僧のコスプレでフルマラソン走破、田畑もよいが山も良い、自分で食べるものは自分で、イザベラバードの三著書による日本・韓国・中国比較、旅のためなら訓告懲戒も辞さず、などなど盛り上がった。街道を楽しむ、旅を楽しむ人たちのスタイルの多様さに触れることができた。
2日目の朝には前日終着点JR只見線塔寺駅へ戻り、「日本奥地紀行」などで有名な1800年代の世界冒険家イザベラ・バードが通った険しい旧道、道路拡張工事の際に除去されながらも地元の老婆の激しい一喝によって一両日かけて元の位置に戻されたと言われる只見川渡船待ちのための殿様専用の大きな腰掛け石、峠の茶屋跡、遠くにそびえる飯豊山、石田三成の後裔による造り酒屋「榮川酒造」(酒銘は、石田三成、のほか、ちどりあし、はしござけ、からくち行財政改革、などユーモアあふれる)、などに寄りながら終着点の野沢へたどり着いた。
テーマは「街道」。それに関わるのは、史跡、名勝、民俗、風習、食、人、など。旅人というライフスタイルについて、ほんの少しですが理解が深まった気がします。次回は7月、会津野沢から越後津川。
最後に、主催の山都地区グリーンツーリズム推進協議会と、旧越後街道ウォーク担当の堀口様に深い感謝の意を示させていただきます。

ライフスタイル総合研究所   武樋孝幸
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