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2018-04

旧越後街道探索ウォークその2(野沢~津川編)  1日目 野沢から鳥井まで - 2014.07.17 Thu

ひとつのイベントが終わるとすぐに次のイベントの準備に追われる今日この頃。。。
終了したイベントのご報告が遅くなってすみません。
さる7月5日~6日に、旧越後街道探索ウォークの2回目、野沢~津川編を行いました。

今回は既報のとおり、初日はにしあいづ観光交流協会さん、2日目は阿賀町観光ガイドさんの協力を得て、前回よりさらにパワーアップ。
天気にも恵まれ、とてもいいイベントになりました。
まずは初日の模様をご報告いたします。

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前回第1回の参加者+αが野沢に集結。

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雙座松峠「道者みち」ウォークに参加してくれた方が、そのときのワラジで今回も歩き始めました。


そして、街道を先へ進む前に、少し寄り道して、越後街道三大宿のひとつ野沢の街中をじっくり散策。
この日ガイドをしてくださったにしあいづ観光交流協会の田崎さんの奥深いレクチャーを受けました。

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郷倉跡。
郷倉とは主に年貢として領主に上納する米その他の生産物を村から送り出すまで、一時的に保管する目的で設置した蔵で、現在の野沢小学校のある場所にかつて郷倉がありました。

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代官清水 代官所跡。
鎌倉時代末期(1300年ごろ)この地ををおさめていた荒井信濃守頼任が、今の野沢小学校に館をつくり、わき水を「館の清水」と呼んでいました。それから約500年後、文化5年(1808)に、原町の常楽寺東にあった会津藩野沢代官所がこの館跡に移転してからは、「代官清水」とよばれ今に伝えられています。

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この写真の道路はさんだ向かい側、今は駐車場になっているあたりが本陣跡。
もとは「御茶屋」と呼ばれていたのですが、領主の領内巡検の際の宿になったり、会津藩の宿泊所として利用する頻度が多くなってきたため、享保7年(1722)6月から正式に「本陣」と呼ばれるようになりました。
また、会津戦争時は容保公が1868年の8月1日から13日の間ここに布陣して指揮をとりました。あの佐川官兵衛が家老に任命された場所でもあります。

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東北の松下村塾といわれた研幾堂(けんきどう)は、建物は残っていませんが、現在のここ「朱泥庵(しゅでいあん)」というラーメン屋&民宿のあるこのへんにありました。

「渡部思斎」
1832年、野沢生まれ。藩校日新館で医学を学び、やがて野澤で漢方医を開業しました。
その後、私塾「研幾堂」を開設し、法政、経済、文学、医学の4科目を近隣の子弟に教えました。
会津の初期民権運動の高揚推進に尽力した人、多くの素晴らしい門弟を育てた人として知られています。

そしてこの渡部思斎の息子こそ、若松に「会陽医院」を開業、野口英世の左手を手術したあの渡部鼎です。
実は野口英世は野沢に金策のため何度も訪れており、鼎が従軍して留守中時の会陽医院の維持と、英世のアメリカ留学の援助をしたのは野沢の人々だったのです。
英世が世界的な医師になったのちの大正4年の一時帰国時にも、英世は野沢を訪れ、停車場で記念撮影した写真がいまも残っています。

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化け桜。
読売新聞平成元年の「日本名木百選」で、全国7位にランクされた巨木。
木の空洞に白狐が住んでいたという言い伝えからそう呼ばれていますが、ほとんどの本には「下條の普賢象桜」という名で紹介されてます。
しかし八重桜の仲間の「普賢象」とはあきらかに違うし、看板にも「エドヒガン」と書かれています。
伝承では樹齢500年以上。旧越後街道の近くにはえていることからも、当時は旅人の目印にもなっていたと思われます。

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鬼子母神 鞘堂

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芝草・小屋田遺跡。
縄文中期(約5,500 - 4,500年前)の居住跡。

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かつての旧街道は安座川をまっすぐ行ってましたが、今は渡れないので、堀越橋を回り込んでかつての道を眺めてレクチャー。

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芹沼では下見のときにいろいろ伺った地元の方がこの日もいらしたので、みんなでお話を聴きました。

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芹沼不動尊。

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芹沼の一里塚。
半壊していますが、言われると確かに一里塚らしい形が残っています。

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イザベラ・バードの「日本奥地紀行」の野沢についての記述に
「下を流れる急流の向かい側には、素晴らしい灰色の断崖がそそり立ち、金色の夕陽の中に紫色に染まっている会津の巨峰の眺めは雄大であった。」
という美しい一文があります。
街道の地形を地図で見ると、野沢を出て阿賀川に近づくこのあたりの景色ではないかな、という推測ができます。

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西光寺。
浄土宗。ご本尊は阿弥陀如来で、東京芝増上寺の直末寺です。開基の時期は不明で、光源という僧が開基、永正中良然という僧が中興したと伝わります。

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入口左手前に馬頭観音があります。

◎野尻宿
野尻には上野尻と下野尻のふたつの村があって、どちらも越後街道の駅所でした。下野尻のほうが歴史は古く、戦国時代から阿賀川の舟運で物資を会津へ運ぶ基地でした。その需要の多さにより、すぐおとなりに上野尻ができるほどの賑わいで、野尻が重要な駅所だったのがわかります。ピーク時には上野尻99軒、下野尻80軒の家があったとの記録が残っています。
現在のJR上野尻駅の裏手に「中嶋」と呼ばれる荷物の発着所がありました。
当時、会津藩の廻米の量は年間10~13万俵で、そのうちの6割は下野街道から江戸へ、残りの4割が阿賀川舟運で日本海航路を通って京都・大阪に運ばれていました。
中嶋舟着場では、廻米を含めたすべての荷物がいったん陸揚げされて、役人の検査を受けた後、この後私たちが辿る車峠を越えて馬による陸路で運ばれるルートと、阿賀川沿いの道を徳沢舟着場へ運び、そこから鵜飼船に積んで舟運で搬送するルートに区分されて津川の湊に運ばれました。
野尻を通ったイザベラ・バードは「絵に見るような美しい村」と表現しています。

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根析神社。
「ねさくじんじゃ」と読みます。
永仁二年(1294)8月1日の鎮座と伝わり、明治までは大天大明神と言われていました。
寛永五年(1628)、安座村の肝煎・二瓶七左衛門が時の藩主加藤嘉明から鶴ヶ城改修の資材搬出の命を受け、車峠の開削を行いました。
その際にこの神社の祭神の根烈神が七左衛門の夢に現れて工事を成功に導いたとされ、それ以来下野尻の鎮守となったそうです。

ここから車峠の登りが始まります。

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峠の茶屋跡のすぐ手前に、かつて目印となっていた柿の古木があります。
その昔、ここの峠を越える地元の人が、ここで柿をとって、下の町で売っておこづかいにしていたとか。

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車峠 茶屋跡。
かつて車峠には3軒の茶屋があったそうです。ここの茶店の名物「力餅」は、若松一ノ堰の「棒鱈」と、河東強清水の「鰊の天ぷら」とともに会津三大茶店名物といわれていました。
この車峠の茶屋は参勤交代の際の大名の休息所としても使われたため、殿様の休息する上段の間が設けられ、床下には警護の者が潜む隠れ部屋、さらには緊急脱出用の抜け道もあったとのこと。
この茶屋が豪雪で倒壊したのは昭和55年(1980)。そんな最近まであったのなら是非この目で見てみたかったと残念に思うのは私だけでしょうか。。。
明治11年6月、車峠に2泊したイザベラ・バードは、著書「日本奥地紀行」の中で、会津の山々の雪景色が素晴らしく、「蚤さえいなければ私はもっと滞在したいと思うだろう」と書いています。
また、イザベラ・バードは「はしごで登るひと間だけの2階の部屋」に泊まったと書いているので、それが前述の殿様用の上段の間だったのではないかと推測できます。

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白坂の集落を過ぎてしばらく行くと、岩から吹き出すように美味しい水が出ています。
かつて街道を往来した旅人達もこの水でのどを潤したんじゃないかな、などと考えるとうれしくなります。

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このへんの地名、宝坂の由来、この川底からはいまでもオパールがとれるそうです。

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宝川一里塚跡。
一里塚は失われてしまっていますが、かつてあったと思われる場所に新しい標柱が建っています。

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宝川に入り、安養寺(曹洞宗、ご本尊は釈迦如来。明治29年火災により焼失、明治31年に再建)の道路の向かい側に馬頭観音があります。

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安養寺から川を渡り、すぐ左に折れるのが旧道で、わずかに往時の石畳が残っています。

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宝川村は明治10年、16年、29年と度重なる大火でほとんどが焼失してしまったそうですが、この赤岩屋、そして高砂屋のふたつの旅籠の屋号の字のみが残っていて、宿場だった名残を伝えてくれています。

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般若寺。
真言宗、かつては「勝善寺」という名で、あの徳一菩薩の創建と伝わります。ご本尊はお不動様。明治29年に火災で焼失、その後再建されました。

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宝川を過ぎるといよいよ鳥井峠への登り。

宝川と八ツ田の間にある鳥井峠は、かつては「鳥居峠」と表記されていたそうで、それは飯豊神社の一ノ鳥居がこの峠にあったからそう呼ばれた、と伝わります。
現在の鳥井峠に続く道は明治三方道路と並行して整備された道で、イザベラ・バードや十返舎一九が登った道とは異なります。

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十返舎一九は「諸国道中金の草鞋」の中で、この峠を
「苦しさに 口ばしばかりとがらせて 鳥居峠のなんじょこしたり」
と詠んでいて、イザベラ・バードは
「この道路はあらゆる合理的な近代思想を無視したもので山を真っすぐ登り、真っすぐ下る。その傾斜度ときたらあてずっぽうを云うのも怖いくらい」と書いています。
 両者に共通しているのは今の道とはイメージの違う鳥井峠の厳しい道。その当時の道は宝川宿からほぼ真っすぐに現在の峠の南を通っていたようですが、現在は道形も残っておらず、確認できません。
 また、吉田松陰がこの峠を越えたときは冬。松陰は「雪甚だ深く、行歩甚だ難し」と書いています。かんじきくらいは履いていたでしょうが、冬の峠越えは相当厳しかったことでしょう。
 ちなみに鳥井峠から先の阿賀町もかつては会津藩領であったので、現在の県境はかつての国境ではないのですが、会津側から行く旅人はここまでを「会津街道」、ここから先を「新発田街道」と呼んでいたようです。
(ちなみに越後から会津方面への旅人にとっては「会津街道」)

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鳥井峠、旧国道の標識の名残のある場所で記念撮影。
いよいよここで福島県から新潟県へ入ります。

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峠を下ってすぐの八ツ田駐車場がこの日のゴール。

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西会津に戻り、この日はロータスインのコテージに宿泊。
夜の懇親会はバーベキュー。

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2日目、鳥井~津川へ続きます。

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