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2017-08

旧越後街道探索ウォークその3(津川~新発田編)  2日目 赤谷から新発田まで - 2014.09.12 Fri

旧越後街道探索ウォークその3の2日目。
いよいよこの旅の終着地、新発田城へ。

実は、前日ゴールの新谷一里塚から赤谷一里塚までの2里8㎞ほどの区間は旧道があまり残っておらず、さらに歩道が狭く見通しの悪いカーブが多くて大型車の通行がある道が続くので、下見の段階で参加者の安全を考えてバスで通過することにしました。

よって2日目のスタートは新谷ではなく赤谷としました。
とはいえ、途中には吉田松陰も十返舎一九も宿泊した綱木宿があるので、そこの史跡もご紹介します。

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旅籠「山城屋の屋号石」。
かつて宿場として栄えていた綱木地区には旅籠が20軒ほどありました。そのなかで昭和初期まで営業していた旅籠が「山城屋」です。
嘉永5年(1852)2月8日、諏訪峠を越えてきた吉田松陰と宮部鼎蔵はこの山城屋に宿泊しています。
山城屋のかつての隆盛を誇るかのように今も石の看板が残っています。

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綱木一里塚跡
上綱木集落の北のはずれにかつて「綱木一里塚」があったと言われていますが、県道の改良や昭和42年の羽越水害によって塚は消滅してしまったそうです。今はこの写真のちょっとした岩が残っているあたりがそうだったとのことです。

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これはコースからかなり離れていて、本イベント中に寄るのを断念した滝谷地区の大慶寺。
開基は不明、慶長11年(1606)に再興されたとの記録があります。
平氏の落ち武者、佐久間勘解由らが、対岸の山中より鶏の鳴き声を聞いて住民の存在を知り、谷を渡ったとの伝説があり、山号は鶏谷山といいます。

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なぜ寄りたかったかというと、この大慶寺の境内には戊辰の役の際に敗走した会津藩士とその前哨戦などで戦死した滝谷村農猟兵を悼み、明治44年(1911)に地元の有志によって建立された戊辰役殉難者霊碑があるのでした。

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二日目、赤谷一里塚をスタート。

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そして二日目の朝から、また新たな強力案内人、合流。
ここ赤谷在住で、やはり赤谷周辺のことならなんでもござれの郷土史研究家、杉原氏。

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杉原さんの詳しくて丁寧な解説に、参加者みな聞き入っていました。

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一里塚からすぐ右へ入った旧道にはかつて6軒家があったから「六軒町」と呼ばれる場所があり、おいしい清水もありました。

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聿修碑
宝永7年(1710)、銘酒「飯豊川」を酒造していた赤谷の造り酒屋の片野氏が、赤谷開村などの歴史や、関東武将の太田資政との関係についてを刻んだ石碑です。新発田市内では一番古い石刻物とのことです。

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赤谷の街並み。
かつてはもっと細い道だったそうで、ずっと並木が続いていたそうですが、昭和39年の国体の際、登山競技が行われるということで、今のように広くきれいに変わってしまったそうです。

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景勝清水
上杉景勝が小田切氏を攻めるためここ赤谷に布陣した際、飲料用の水不足に陥り、この辺りを槍で突いたら水が湧き出したとの言い伝えがあります。

◎上杉景勝の赤谷攻め
天正15年(1587)、秀吉の越後平定の命により、上杉景勝は新発田重家と対峙します。しかし会津・葦名義広は新発田に味方したので、会津から新発田への支援路を断ち切るために小田切氏の守る赤谷城(関ヶ峰城)を攻めました。
景勝は直江兼続らを連れ、上赤谷地区の南の小山に3日間陣を引きました。赤谷城を巡る攻防は、数の上でも圧倒した(小田切1000に対して上杉は10000)上杉軍の勝利となり、1週間ほどで落城しました。

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江戸時代、いわゆる「関所」は幕府が設置するもので、藩独自の関所の設置は認められていなかったので、各藩は藩境や交通の要衝に「口留(くちどめ)番所」というものを設け、人および物資の出入りを取り締まりました。
会津藩の口留番所はここにあったそうです。

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會藩戦死碑
慶応4年(1868)7月から8月にかけて、赤谷周辺の角石原、入鳥越、猪ノ原などで、会津軍と西軍の激しい戦いがありました。
このとき戦死した20名近い会津藩士を悼み、赤谷の方々が明治17年にこの石碑を建てました。杉原さんをはじめ赤谷の方々が今もこの碑を大切に守ってくださっています。

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赤谷からさきは田んぼの間の道が旧道のあったルートに近く、それを通りました。

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今回は、前回みたいにヤブこぎがないなーとの声が参加者からきこえていましたが、、、それは甘い(笑)。

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そして。。。ついに会津藩領のはじっこへ。
今はなんの標識もありませんが、文字通り「境川」、「境橋」のこの場所が、かつての会津藩と新発田藩の境でした。新発田藩主が参勤交代を行う際には、郡奉行はここまで見送り、そしてまた出迎えたそうです。

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境川。

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かつての藩境に立って、レクチャーを受けました。

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会津藩と新発田藩の藩境に一列、EXILEバージョン(笑)。

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角石原戦跡の碑
慶応4年(1868)8月14日、会津領と新発田領の境、角石原で会津軍と西軍の激突がありました。
西軍は新発田、長州、薩摩、加賀の連合軍。
雷雨で見通しが悪く、近距離で不意に戦闘がはじまったため、銃火を交えることなく白兵戦となり、槍隊など白兵戦を得意とする会津軍が強く、西軍はいったん山内まで撤退しました。(戦死者は多く、白虎隊士佐々木新六郎もこの時戦死。享年16歳。)
しかし、立て直して今度は火力を用いて反撃に出た西軍が有利となり、会津軍は退却、行地まで退きました。

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まさに「つわものどもが 夢の跡」を感じる一枚ですね。

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ときおり猿よけの空砲が鳴り、至近距離でくらうとかなりびっくりしました。

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山内口留番所跡。
これは新発田藩側が置いた口留番所があったあたり。

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ここで杉原さんとはお別れ。丁寧な解説、ほんとうにありがとうございました。

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一本木原松並木
このあたり一帯にかつては新発田藩の御用林があり、街道沿いには見事な松並木が続いていたそうです。
藩もその景観を大事にし、伐採を禁じていたそうですが(有事の際には切り倒して敵を防ぐ狙いもあったとのこと)、時は流れ太平洋戦争の時代に、燃料等に使うためほとんど切られてしまったそうです。
今は米倉小学校周辺に往時をしのばせる松の巨木が少し残っているだけです。
 
「これより大まつばら一里ばかりゆきて、よねぐらの駅にいたる」  十返舎一九(金の草鞋)

1407081242a米倉神社
米倉の集落に入り、街道を少し右に入ると米倉神社。
創建は不明ですが、地域で祀られていた17社を合祀したと伝わります。

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米倉神社の境内の祠には疱瘡神が祀られていて、かつて米倉の人々は天然痘をもらたす神を丁寧にお祀りすることで軽くすむように祈ったそうです。

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普門院 
康治2年(1143)にある僧が京都から本尊となる十一面観音を背負ってこの地に持ってきたと伝わります。享保18年(1733)に本堂が再建されたことを記す棟札が残っています。

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この日は太平洋戦争の戦没者の供養をやっていて、十一面観音のお姿も拝見することができました。

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大庄屋・旧斎藤家
斉藤家は保元・平治の乱で活躍した武将斉藤実盛の末裔で、溝口氏の治世において新発田組大庄屋をつとめました。
現在の建物は藩主が休息等で立ち寄った際に利用した書院です。

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庭園はこのあと訪れる清水園や五十公野御茶屋庭園と同様、江戸中期の有名な庭師・茶人、縣宗知(あがたそうち)によってつくられたものと伝わります。

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庭の石燈籠は京都から運んできたものだそうです。

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庭には殿様がかごを降りた「かご置き場」とみられる長方形に埋め込まれた敷石があって、殿様はそのまま石づたいに建物へ入れるようになっています。

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この大庄屋・旧斎藤家は、平成18年にコミュニティ施設「有機の里交流センター」として整備されて憩いの場として一般開放されていたので、今回は事前にお願いして昼食をとる場所としてお借りしました。

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天原(てんのはら)のみちしるべ
だいぶ消えちゃってますが、かろうじて「右えどみち 左やまみち」の文字がみてとれます。
かつては街道沿い旧板山屋前にあったそうで、他の多くの道標と同じく、道路拡張以後ぞんざいに扱われていましたが、心ある方々の力により今の位置に保存されたとのことです。

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五十公野(いじみの)御茶屋庭園
国指定名勝。いちばん最初は初代藩主溝口秀勝が新発田へ入府した直後の仮の館があった場所で、その後3代宣直がここに別邸を構え、4代重雄が回遊式庭園をつくって茶屋として整備しました。以後、参勤交代の際には殿様はここで休憩し、衣服を整えてから城に入ったそうです。若松でいう滝沢本陣と同じですね。

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前述の縣宗知がつくった庭園。見事です。入場料無料、落ち着く場所です。

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越後街道と三国街道中通りの三叉路にあった道標。かつての位置とは違う場所にあります。「左奥州通 右三国通」の文字がみてとれます。
比較的新しい(明治以後)ものと思われます。

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足軽長屋
足軽や小人と呼ばれる下級武士が住んだ長屋で、国の重要文化財に指定されています。天保13年(1842)の棟札が残っています。敵襲に備え、街道脇のこの場所に集まって住んでいました。
また、となりにはかつての藩主の下屋敷、清水園があります。若松でいう御薬園と同じですね。ここは国の名勝に指定されていて、数寄屋建築の建物と回遊式庭園が現存しています。

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そしてついに「札の辻」に到着。
ここが街道の起点、つまり今回越後街道を若松から旅してきた我々にとっては終点となる場所です。
ここにはかつては高札場がありました。

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「義士堀部安兵衛誕生の處」の碑
あの忠臣蔵で有名な、赤穂四十七士の1人、中山安兵衛(のちの堀部安兵衛)は新発田で生まれました。越後国新発田藩士だった安兵衛の父が辰巳櫓の失火の責めを負って浪々の身となり(陰謀説もあります)、安兵衛は父の死後、江戸に出て、有名な高田馬場の決闘で名をあげ、赤穂藩士堀部弥兵衛の養子となりました。

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その安兵衛誕生の處のとなりにある祠をのぞくと。。。
 
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かわいらしい安兵衛がいました(笑)。

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そしてついに!
会津若松城をスタートして越後街道を辿ってきた我々のゴール、新発田城が見えてきました。

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ゴールの本丸表門。
新発田城は、初代藩主溝口秀勝によって慶長3年(1593)から築城が始まり、正保3年(1646)3代宣直の時にようやく完成しました。
その後2度の大火に見舞われ、現存する当時の遺構は享保17年(1732)に再建された表門と、昭和34年に今の場所に移築された旧二ノ丸隅櫓のみで、この二つは国の重要文化財に指定されています。また、実質的な天守であった三階櫓(幕府に遠慮して天守と呼ばなかった)と、堀部安兵衛のその後の人生を左右した曰くつきの辰巳櫓は平成16年に復元されたものです。

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新発田城本丸大手門の前にある堀部安兵衛の像。江戸へ旅立つ姿を表しているそうです。

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そしてついにゴール。
私は無事終了して肩の荷が下りたのと、達成できた充実感と、終わってしまった寂しさと、なんだかわけのわからない感情に包まれていました。
参加者のみなさんに楽しんでいただけたとしたら幸いです。

思えばいろんな方々のご協力で成立できたイベントでした。
自治体の方々のみならず、下見で知り合った街道沿いに今なお往時の想いを胸に住んでいらっしゃる方々。
そんなみなさんと接することができて、「道」ってモノが動くだけでなく、想いをつなぐものなんだなあ、と。
越後街道を通じて現代の会津と越後がつながったこの機会をこれで終わらせるのはもったいなさすぎると今思ってます。
なんらかの形で交流を保ちたいといろいろ検討中です。

福島県
会津坂下町 古川利意さん
喜多方市 小澤弘道さん
西会津町 田崎敬修さん
西会津町 蒲生庄平さん
新潟県
阿賀町 渡部通さん
阿賀町 渡部達也さん
阿賀町 佐藤修司さん
阿賀町 長谷川浩一さん
阿賀町 坂上三代司さん
阿賀町 川上健さん
阿賀町 渡部一郎さん
阿賀町 吉澤荘一さん
新発田市 杉原明則さん
新発田市 鈴木博さん
参加者のみなさん、サポートの山都支所産業課のみなさん、このイベントに関わったすべてのみなさん

本当にありがとうございました。 この場を借りて厚く御礼申し上げます。


最後に今回の越後街道ウォークシリーズで、私が参考にさせていただいた文献を列記します。
ご興味のある方ぜひご覧になってください。

「会津の街道」 会津史学会
「会津の宿場」 歴史春秋社
「歴史の道 越後街道」 福島県教育委員会
「新編会津風土記」
「会津旧事雑考」
「会津坂下町史Ⅰ民俗編」
「会津坂下町史Ⅱ文化編」
「会津坂下町史Ⅲ歴史編」
「会津戊辰戦争」 平石弁蔵
「会津若松市の文化財」 会津若松市教育委員会
「会津坂下町の文化財」 会津坂下町教育委員会
「みちのくの宿駅」  河北新報社
「諸国道中金の草鞋」 十返舎一九
「福島の古墳」 福島県立博物館
「郷土の歴史とロマンを訪ねて」  会津坂下町教育委員会
「束松峠案内」 高寺ふるさとを興す会
「高寺の誇り百選」 会津坂下町立片門小学校父母と教師の会
「会津石譜」
「西会津町史第1巻通史Ⅰ原始・古代・中世・近世」
「西会津町史第4巻(中)近世資料」
「西会津町史第6巻(上)民俗」
「西会津町史第6巻(下)旧町村沿革」
「会津の峠」 会津史学会
「日本奥地紀行」 イザベラ・バード
「吉田松陰・会津を行く」 滝沢洋之
「旧記書抄」
「容保公野沢駅出馬記録」
「西会津史談第5号 文献から見る会津の一里塚と諸問題」 角田十三男
「西会津町の指定文化財」 西会津町教育委員会
「図説・西会津歴史物語」  西会津町編
「江戸時代の流通 福島県を中心とした舟運と陸送」 福島県立博物館調査報告第十八集
「イザベラ・バードの会津紀行」 会津学研究会
「ふるさとの峠」 福島民友社
「ふくしまの峠」 ふくしま文庫
「イザベラ・バードの東北紀行(会津・置賜編)」 赤坂憲雄 平凡社
「図説・新潟県の街道」 郷土出版社
「阿賀の里 図説・東蒲原郡史」上・下
「阿賀町ものしりガイドブック」
「津川町の歴史と文化財」 津川町教育委員会
「阿賀の路」 歴史春秋社
「西郷四郎 目で見るその生涯とふるさと津川」 津川町
「山嵐 西郷四郎」 歴史春秋社
「歴史の道調査報告書 米沢街道 会津街道」 新潟県教育委員会
「東蒲原郡史 通史編1」
「東蒲原郡史 資料編5 近世四」
「東蒲原郡史 資料編9 文化財」
「会津街道~いにしえから続くみち~パンフレット」 新潟県阿賀町 新潟県新潟地域振興局
「会津街道発掘調査報告書~三川村綱木地内~」 三川村教育委員会
「新発田市史 上・下」 新発田市
「ふるさとしばた」 新発田市立学校教育研究協議会
「写真集 城下町新発田」 新発田古地図等刊行会
「よねくら散策まっぷ」 新発田市歩く旅のまちづくり推進協議会
「阿賀北・岩船ふるさと大百科」 郷土出版社
「ふるさと新発田」 郷土出版社
「図説 新発田・村上の歴史」 郷土出版社
「戊辰役戦史」 大山伯
「会津街道 赤谷歴史探訪パンフレット」 赤谷小学校区連携協議会



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