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2017-09

小栗上野介と、喜多方に散ったその家臣 - 2015.03.10 Tue

幕末の偉人に、小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)という方がいます。
沈みゆく幕府に最後まで忠義を尽くし、かつ国の行く末をしっかりみつめて動こうとした人です。

小栗公は鳥羽伏見の戦いののち、旧権田村の東善寺へひっこみ、農業や塾などをやって平穏な生活をしていたそうですが、そこへ、西軍がやってきて「罪なくして斬首」されました。

では生前の小栗公がどんなことをやった、またはやろうとしていたかというと。。。。

・開国以来不平等な為替レートで、日本の金がどんどん外国に流失していました。小栗公はアメリカに渡り、一歩も引かずに為替レートの改正に成功しました。

・世界を見てきた小栗公は海軍力を強めないと日本は滅びる、と、横須賀に造船所を建設。小栗公の死の37年後、日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷平八郎に「勝利することができたのは小栗のおかげ」と言わしめたのでした。

・倹約令はもちろん、仕事をしない幕臣の給料を大幅カットしたり、賄賂を禁止したり、幕府の内部改革を断行しました。

・小栗公は「鉄道建設計画」「郵便・電信事業の提案」「新聞発行計画」「ガス灯設置」「中央銀行の設立計画」など様々なことを進めようとしていました。これらはのちの明治政府が実現してますが、それは小栗公のアイデアだったので、まさに日本近代化の基礎を築いたのが小栗公といえます。その証拠にあの大隈重信も「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っています(出が薩長じゃないから本音を言えたんですかね?(笑))。
ちなみに作家司馬遼太郎も小栗公のことを「明治の父」と呼んでます。

ほかにも日本初の本格的ホテル建設とか、軍事面でフランスとの関係強化とかあげだすときりがないくらい素晴らしい施策を断行しています。

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小栗公が最晩年に過ごした群馬県の榛名湖の西、高崎から草津温泉への道の途中にある旧権田村「東善寺」。
その境内に小栗公は眠っています。

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境内に小栗上野介遺品館があります。

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館内はゆかりの品々、写真でいっぱい。

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小栗公が西軍に処刑される直前、河原まで運ばれるときに乗ったという駕篭。
斬首のあと、河原にそのまま捨て去られていたので、「捨て駕篭」と呼ばれているそうです。

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小栗公愛用の望遠鏡

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小栗上野介忠順胸像

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のちほど詳しく書きますが、喜多方で戦死した塚越富五郎(右)と佐藤銀十郎(左)の墓。

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階段を上っていくと小栗公の墓がありお参りさせていただきました。

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遺品館とは別に、本堂内にも小栗公関連の展示がいっぱい。

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アメリカの製鉄所を見学した小栗公が、その技術力の違いをまざまざと見せつけられ、それに追いつくために見本として持ち帰ったネジ。おおげさに言えばこのネジ一本から日本海海戦の勝利への道がはじまった、ということですね。


と、ここまでは以前私が群馬県高崎市にある小栗公の墓前へ参拝したときの写真ですが、ここからが本題。
小栗公の死後、小栗公の妻と子を護衛して群馬を発ち、会津まで脱出、その後会津軍に合流して西軍と戦い、喜多方で戦死した二人の若者についてです。

それは
塚越富五郎
佐藤銀十郎

の二人です。
(このとき塚越23歳、佐藤21歳。)

小栗公の妻と子は中島三左衛門や池田伝らが護衛、この塚越と佐藤らは、会津藩朱雀士中四番隊に合流し、町野源之助(主水)の指揮下・付属誠志隊(つまり会津藩士以外の「誠の志」ある隊士の部隊)に入って、主君の仇を討つため西軍と戦います。

以前このブログ、越後街道ウォークその2でも触れましたが、越後口で戦っていた会津軍は、東の母成峠、南の白河口が破られ、若松城下が危うくなったのを受け、越後口津川から撤退しました。
そして下野尻(西会津町)、坂下、そして高久まで戻ってきたものの、すでに城は西軍に囲まれていて入れず、反転して途中で戦うこととなります。
(余談ですが朱雀市中四番隊が高久に着くのが8月27日、これは中野竹子が同じく高久を発ち涙橋近くで戦死した2日後となっています。)

朱雀市中四番中隊、付属隊、結義隊、砲撃隊は、翌日坂下、そして舟渡から阿賀川を渡り、山都の舘ノ原へ。
29日、高郷の西海枝(さいかち)に隊の本部を置き、そして運命の8月31日。。。

付属隊は西海枝よりも阿賀川下流に位置する渡舟場、現在の喜多方市高郷町、一竿(ひとさお)の防備へ。
そこで塚越富五郎が対岸(左岸)に敵兵を発見。銃撃戦に。
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これは左岸側から付属隊がいた右岸方面を見た写真。
今は下流にダムができたため、川幅が広く見えますが、当時は急流で、竹竿一本で届くくらい川幅も狭かったため、「一竿」という地名がついているのだそうです。
そしてこの銃撃戦の末、塚越富五郎は胸に被弾、戦死。
享年23歳。

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この事実がはっきりしたのは昭和63年で、遺族や地元の方々のご尽力により、平成元年に慰霊碑が建てられました。

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この一竿の左岸側には、わかりずらいかもしれませんが、写真右手前の四角い穴、戊辰戦争時、西軍の侵攻を阻むために会津軍がつくった門の柱穴の名残が今もあり、「カンモン」と呼ばれています。

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そしてもう一人、小栗公の家臣
佐藤銀十郎

佐藤銀十郎は、前述の東善寺のある旧権田村出身、若くして江戸の小栗屋敷に呼ばれ、その間築地にある幕府のフランス式陸軍歩兵訓練所で鍛えられ、銃の名手とうたわれるほどの腕前となったそうです。
またフランス兵法にも精通し、戦闘においては町野源之助の信頼厚く、参謀役をつとめたとか。

山都で戦い徐々に後退、あの山都G.T.イベントでも歩いた雙座松峠を越えて喜多方・小荒井に入った朱雀市中四番隊、付属隊や朱雀寄合二番隊などは、さらに東の米沢街道の要衝、熊倉まで退き、旧豊芦村(現喜多方市関柴町中里)で、侵攻してくる西軍を待ち伏せしました。
必ず西軍は熊倉へ進んでくると予想し、この戦法を進言したのが佐藤銀十郎だったとのことです。

そして9月11日、油断して進んできた西軍に一斉射撃、大打撃を与えました。

そのとき戦死した西軍・松代藩士の墓が、戦場となった関柴町中里にあります。
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この熊倉の戦いが、戊辰の役唯一の会津軍の勝ち戦だったといわれています。
しかし、獅子奮迅の活躍をした佐藤銀十郎は、この戦いのさなか被弾、壮烈な戦死を遂げました。
享年21歳。
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佐藤銀十郎は、熊倉の光明寺杉ノ下墓地に眠っています。

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右の大きいお墓はこのあと触れますが、中根米七のもの。佐藤銀十郎の墓はそのとなり、写真中央のものです。

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本国上野
 佐藤銀十郎信一墓 

右側面には明治元戊辰年、左には九月十一日行年二十一の文字が。亡くなって10日後にすぐ建てられたんですね。
ちなみに、佐藤銀十郎に対し、その銃の腕そして優れた戦術家として厚い信頼を置いていた朱雀市中四番隊隊長町野源之助の手によって建てられたといわれています。

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中根米七
会津藩士で、太子流師範という剣客。

旧会津藩士の永岡久茂や高津仲三郎らとともに、萩の乱などに呼応して挙兵、千葉県庁を襲撃する計画をたてていたところ、明治9年10月29日、東京の「思案橋」のたもとにて、不審に思った船の船頭の通報によって駆けつけた警官4名と斬り合いになり、2人の警官が死亡、1人警官重傷の犠牲を出し、 挙兵としては未遂として終わった世に言う「思案橋事件」に関わりました。
関わったほとんどの者はつかまり、獄死または死刑や懲役刑となりましたが、中根米七だけは逃亡し、指名手配されてもつかまらず、密かに会津に戻りました(その間、西南の役では西郷隆盛側について戦ったとか)。
しかし、もはや逃れられない状況と、中根の捜索をしているのが旧友と知り、これ以上の逃亡を断念、かつてともに戦って戦死した佐藤銀十郎の墓前、つまりこの場所で自刃、壮烈な最期を遂げました。
割腹したのちにのどを突き、短刀の先が2寸(6㎝くらい)も突き出たまま果てた姿で発見されたそうです。
享年60歳。

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遠く上州(今の群馬県)から脱出し、罪なくして殺された主君・小栗上野介忠順公の仇を討つために会津藩とともに西軍と戦い、ここ喜多方の地に散った若者二人。
そしてその8年後、その戦友の墓前で自刃した会津藩士。

地元の人にすらあまり知られず、ひっそりとしていますが、戊辰の役の際、喜多方のこんな近い場所で激しい戦闘が行われ、多くの貴い命が散っていったんですよね。


明治17(1884)年、白虎隊の墓前祭の時に松平容保公が詠まれた弔歌。

幾人の 涙は石に そそぐとも
      その名は世々に 朽じとぞ思う


このお言葉はおそらく白虎隊のみならず、戊辰の役で散っていった全ての人たちに向けて発せられたものだと私は思います。

ガイドブックにはあまり載っていないかもしれませんが、ラーメン食べに喜多方へ来られた時、蔵めぐりとともによかったら郊外まで足をのばしてみてください。


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